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怒る秦早穂子の「勝手にしやがれ」。 [気になるエトセトラ]

佐藤春夫旧居跡.JPG
 秦早穂子は怒っていた。1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲Click!で、目白の街並みが焼けるのを見ながら・・・、大人たちが同年8月15日を境に、みながみな「民主主義者」に豹変する姿を横目でにらみながら、秦早穂子は怒っていた。どいつもこいつも「勝手にしやがれ」、このフレーズが彼女の心に響きはじめたのは、このころからではないだろうか?
 2012年(平成24)1月、日本経済新聞に連載された「人間発見・秦早穂子」から引用してみよう。
  
 45年4月13日の空襲で目白の家が焼けました。焼夷(しょうい)弾による類焼はパシャパシャと不思議な音をたてます。私は下の妹をおぶって逃げました。明け方背中の妹がおしっこをした感覚が伝わったとき「ああ、生きてる。良かった」と思った。そして翌朝見たのは一面の焼け野原。/数万冊の蔵書が焼けて父の絶望は深かった。私は疎開先での「何もしないで働かない人たち」という地元の人たちの言葉が心に突き刺さりました。(中略) 人間、飢えてはいけない。飢えては、思想も理想もない。/自分の力で食べていこう。働きながら、勉強しよう。ちょうど新制高校への切り替えのころで、学校に1年残って大学に進む道もあったでしょう。でも、もう大人の言うことは聞くまい。「国のために死ね」と教え、今度は「生きよ」という。変わり身の早い大人たちはもう信じない。
  
 1945年(昭和20)4月13日の鉄道線路や駅、河川沿いの中小工場地帯をねらった第1次山手空襲で被災していることから、秦早穂子の自宅は目白駅のごく近く、あるいは山手線沿いに建っていたと思われるが、山手線や目白通りをはさんで下落合側なのか目白町側なのかはよくわからない。彼女の「早穂子」という名前は、関口台町(現・文京区関口で椿山荘の北東側)に住んでいた佐藤春夫に付けてもらっており、佐藤の自宅へは父親とともによく訪問していたようだ。
目白駅1947.jpg
 また、下落合623番地の曾宮一念Click!や同604番地の牧野虎雄Click!第一文化村Click!秋艸堂Click!へ転居したころの会津八一Click!などの家も訪ねているので、「目白」といっても下落合側に住んでいた可能性もある。父親は学究肌の人で、近所の芸術家たちと親密に交流していたらしい。
  
 関口台町(略)の佐藤春夫先生のお宅には、父によく連れていかれました。佐藤先生は私の名付け親。門弟3千人というだけあって、スペイン風の家にはたくさんの大人が出入りし、文学サロンとなっていました。/年賀客であふれる正月は千代夫人の手料理でもてなされ、子供の私にも1人前のお盆が出ました。奥の畳場の中央に佐藤先生が座り、左隣は堀口大学。畳には井上靖、舟橋聖一、檀一雄。なぜか父もそこにいた。戦後は板敷きの下座にデビューしたばかりの吉行淳之介や安岡章太郎がいました。/目白駅から落合(現・新宿区)方面には歌人で書家の会津八一、洋画家の牧野虎雄、曾宮一念といった先生方が住んでいました。怖い存在の大人たちで、お目にかかるときは緊張の連続でしたが、芸術家がもつ強い個性は、記憶に残ったものです。
  
 秦早穂子の“怒り”の堆積は、空襲で家が焼けた敗戦時からはじまり、戦後、映画の仕事でパリに住むようになってからもつづいていたようだ。フランス映画の新作から、日本でヒットしそうな作品を選んで買いつける仕事をまかされた彼女は、常に「映画」というジャンルに対する無理解な人々の差別にさらされ、フランスにおける外国人に対する排外的な生活上の差別も重なり、それらの重圧感からパリの自室で毎日嘔吐を繰り返す生活だった。
日本経済新聞201201.jpg
 1959年(昭和34)7月のそんなある日、映画プロデューサーから誘われて20分間の未編集のラッシュを観に出かけた。当時、フランスの映画界ではヌーベルバーグ(新しい波)の流れが顕著になりつつあり、彼女が観たラッシュもそのような映画の1作だった。ジャン=リュック・ゴダールClick!監督が制作し、いまだ未編集だった『A bout de souffle(息切れ)』という作品だった。
 彼女はプロデューサーに「(購入を)検討する」と答えたが、その映画をすぐにも購入して日本へ送ることに決めていた。日本の配給会社へ送るにあたり、邦題を決めなければならなくなった彼女は、相変らずつづいていた“怒り”を映画のタイトルにかぶせた。『勝手にしやがれ』----。
  
 「勝手にしやがれ」というタイトルは私自身の気持ちの吐露です。あのころの若者は怒っていたと思う。私も怒っていた。/若いくせにパリで映画の選択なんて、とやっかまれながらも、現状は屈辱にまみれていた。映画人の地位も低かった。若い私はかたくなに怒っていた。同時にそういう自分を冷静に見てもいた。いつ首を切られても、失う物は何もない。「勝手にしやがれ」と。
  
 ゴダールの『勝手にしやがれ』を完成前に買いつけたのは、日本の秦早穂子が最初だった。東京で『勝手にしやがれ』が封切られたのは、同作が完成した直後の1960年(昭和35)3月26日であり、パリでの封切りからわずか10日後、ほとんどパリと東京での同時上映だった。
勝手にしやがれ1959.jpg 太陽がいっぱい1960.jpg
「勝手にしやがれ」キャストと.jpg アラン・ドロンと.jpg
 ほぼ同時期に、秦早穂子はルネ・クレマン監督のラッシュを観て気に入り、さっそく買いつけようとするのだが、提示額が高すぎるという理由で会社がなかなかクビを縦にふらない。貧しい男がカネ持ちの男にあこがれ、贅沢な生活や恋人に嫉妬し、ついには殺して本人になりすますというストーリーが、当時の日本人の心情へ響くと彼女はどこかで確信していたようだ。ルネ・クレマンの『Plein soleil(照りつける太陽)』。邦題も彼女がつけたが、今度は“怒り”のタイトルではなかった。いまでも、邦題を聞くだけで南欧の光と潮風の匂いが漂う、『太陽がいっぱい』(1960年)----。

◆写真上:関口台町の佐藤春夫旧邸跡で、現在でも周辺には大正・昭和初期の家々が建つ。
◆写真中上:1947年(昭和22)の空中写真にみる、焼け野原が拡がる目白駅周辺。
◆写真中下:今年の1月に連載された、日本経済新聞の「人間発見・秦早穂子」。
◆写真下は、『勝手にしやがれ』()と『太陽がいっぱい』()のそれぞれワンシーン。下左は、『A bout de souffle』の出演者たちと秦早穂子で、背後の右端にはサングラスをかけたゴダール監督の姿が見える。下右は、『Plein soleil』に主演したアラン・ドロンと。


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コメント 53

Marigreen

「大人の変わり身の早さ」の「大人」とは誰のことを言うのでしょうか?軍部か政府か個々の大人か?「大人」も十分苦しんで変わったと思います。特に教える立場にある「大人」は。いつも思うのですが、戦争責任は誰にあるのでしょうか?
by Marigreen (2012-04-02 07:11) 

niki

邦題は時に原題を超えるセンスのものがあると思います。
(その逆のほうが多いですが^^;)
『勝手にしやがれ』は怒りから生まれたのですね。
でも絶妙ですよね。
by niki (2012-04-02 09:14) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、コメントをありがとうございました。
「大人」も「十分苦しんで変わっ」ているという視点は、そのまま裏返せば戦争を積極的に遂行した当時の為政者や軍部も、「十分苦しんで」選択し戦略を立案している・・・というような視点にもつながりかねない危うさを感じます。「人間」の感情や想いにいくら焦点を当てても、見えてこないテーマではないでしょうか? むしろ、秦早穂子の「怒り」こそが、人間(当時の子ども)として当然の反応だと、わたしなんかは感じてしまいます。
「戦争責任」がどこにあるかは、それを考える当人の思想性や哲学、社会観、政治観、あるいは階級観といった具体的な視座も含めていろいろでしょうが、当時の政治機構や暴力装置による具体的な抑圧体制、国民の言動を徹底して監視するあたかも今日の「北朝鮮」的な組織の実態を抜きにして、「十分苦しんで変わった」では済まないことは確かです。
余談ですが、「暴力装置」というバリバリ現役の政治学用語を、「昔の言葉」だといって怒った政治家がいたようですが、現代の政治学を一度もまともに勉強したことがないのをさらけ出している、近来にない恥ずかしい「政治屋」の言質だと思いますね。
by ChinchikoPapa (2012-04-02 10:43) 

ChinchikoPapa

フローラ・プリムのこのアルバム、いいですね。どことなく70年代JAZZの香りがして、ゲイル・モランの澄んだ歌声とともに印象深いサウンドです。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2012-04-02 10:50) 

ChinchikoPapa

大崎の岸壁、みごとですね。でも、最近こういう景観を見ると、サスペンス劇場のクライマックスを思いだしてしまうのは困ったものです。w nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2012-04-02 10:53) 

ChinchikoPapa

ISOのレベルが細かくていいですね。わたしのカメラは、800の次がすぐに1600で1250はありません。できるだけフラッシュを使わない撮影をしているのですが、質感とともにイマイチの感が強いです。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2012-04-02 10:59) 

ChinchikoPapa

今年のサクラは、咲いてるそばから散りはじめて、満開なのに葉が出てくる・・・というような、なぜか「生き急いでる」感覚をおぼえます。どこか不吉で、なにもなければいいのですが・・・。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2012-04-02 11:03) 

mwainfo

「勝手にしやがれ」、最後のセリフがよかった。「今夜は行けないよ」
by mwainfo (2012-04-02 11:08) 

ChinchikoPapa

nikiさん、コメントとnice!をありがとうございます。
60年代から70年代にかけて、原題を超える邦題の映画が続々と誕生しましたね。このあたり、sigさんの思い入れは並たいていでいらっしゃらないと思うのですが・・・。w
邦題のつけ方ひとつで、映画の制作国よりも大ヒットを飛ばした映画がたくさんあるんじゃないでしょうか。『太陽がいっぱい』も、本国をしのぐ興行成績だったようですね。
by ChinchikoPapa (2012-04-02 11:20) 

ChinchikoPapa

「磐井の乱」の地域伝承には、非常に惹かれます。少しあとに起きる「武蔵国造の乱」(関西史的な呼称のままですが)と、どこかで呼応(連携)していたのではないか?・・・と感じるからですが、ひとつ時代が下った将門と純友の繋がりにも通底するものを感じます。
これらの「事件」には、特定の個人の名が付けられてはいますけれど、その地域(クニ)全体の伝承や機運、史観などを背景にした、もっと広範で統合的な動向であるのはいうまでもありませんね。それら地域ならではの伝承や思想、史観は関東の場合ですと、将門のあとは鎌倉幕府、足利幕府、江戸幕府・・・へと連綿と受け継がれてきているのではないか?・・・と、わたしの視座(関東の史観)から見ると思えてしまいます。
nice!をありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
by ChinchikoPapa (2012-04-02 11:49) 

sig

こんにちは。
「勝手にしやがれ」「太陽がいっぱい」はまさに私の世代の映画なんですね。記事を読ませていただいて、明るい「太陽がいっぱい」のタイトルにも、まだ秦早穂子さんの逆説的な感情(何が太陽がいっぱいなもんか)が反映されているような気がしました。
それにしても最近の映画は原題・即・邦題ですね。中でもトールキンが、9つの指輪ということにこだわってつけた「ロード・オブ・ザ・リングス」の「ス」を取って邦題としたことは全く許せません。素直に「指輪物語」の方がまだ正解だと思います。数年前のことですが、sigは今でも怒っているのです。
by sig (2012-04-02 12:01) 

ChinchikoPapa

mwainfoさん、コメントとnice!をありがとうございます。
ベルモントがタバコを吸いながら、右手の親指でくちびるを撫でるポーズが、わたしにはとても印象的でした。最後に、ジーン・セバーグも同じ動作をするのですが、なぜかいつまでもひっかかる映像でしたね。
by ChinchikoPapa (2012-04-02 12:04) 

Marigreen

そうですね。あんな言い方をしたら、そうもとれますね。私の頭の中は、今まで教えてきた検定教科書に墨を塗らされる教師の苦悩のイメージで一杯だったので。それと一般国民には、あの当時、思想、言論、出版、その他一切の表現の自由は保障されていなかったから、「大人」だからといって、責めるのは酷だと思ったので。いくら大人でも特高に捕まって拷問されたり、殺されたりするのは耐えられない。だから落合氏が以前取り上げた小林多喜二さんなんか偉いですよね.
為政者や軍部を擁護するつもりはなかったんですが。
by Marigreen (2012-04-02 12:22) 

ChinchikoPapa

sigさん、お噂をすれば・・・。ww コメントをありがとうございます。
「映画はならずものの職業だ」と言われて、家族や周囲から猛反対を受けた秦早穂子さんのようですから、相当な怒りが溜まっていたんじゃないかと想像します。『太陽がいっぱい』のタイトル、確かにそう言われますと、どこか「斜」にかまえたような怒りのタイトルのような気がしてきます。
主人公自身が、カネ持ちの「ドラ息子」への強い怒りを抑えに抑え、ついには爆発させて殺してしまうというストーリーですので、秦さんの心情とどこかで大きく重なる部分があったものでしょうか。
わたしも、原題=邦題は好きではないんです。それぞれの国の文化や国民性によって、言葉は非常に微妙で多大な効果を及ぼすものだと思いますので、作品からより響くタイトルを(厳しく)抽出してこそ、さらに印象的な作品が「生まれる」・・・とさえ感じますね。制作国の感覚をそのまま反映した原題では、かえって作品の印象を薄めているような気もします。
sigさん、映画史における「邦題と原題」の関係性について、ぜひ記事にしていただけると勉強になるのですが・・・。^^
by ChinchikoPapa (2012-04-02 12:28) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、重ねてコメントをありがとうございます。
あ、いえ、わたしも少々言葉がきつすぎたと反省しているところです。^^;
「政治」の話になりますと、どんどん言葉が“鋭利”になっていくのを自分自身で感じているものですから、ここではあまりしないようにしているのですが。w ちょいと失礼しました。
こういう“反応”というのは、学生時代に学内を牛耳っていた某セクト相手に、延々とムダなコトバを投げつけていたころの感覚が呼び覚まされるのか、いまだときどきムクッと起きあがってくることがあります。
ただし、彼らの「ゲジゲジvsゾウリムシ論争」よりは、いまから思うとマトモなことを言ってたようには思うのですが・・・。(爆!)
by ChinchikoPapa (2012-04-02 13:50) 

kako

「責任」「大人」という言葉は、何によらず難しいですね。
その時代に起きたことは、その時代に生きる「大人」すべてに「責任」があるともいえるかもしれませんが、現実的には、個々の事象について、まず当事者責任ということを、それぞれが引き受けていくしかないのでしょうか…。
そして、新しい時代を作るのは、やはり「若者の怒り」ですね。最近は若者の方が成熟しているようですから、この際、世の中の常識は若者にお任せして、オバサンはガンガン怒ってみようかな。(ゲロ吐いてでも…)
だって、秦早穂子さん、最高にカッコイイですよね!
ちなみに、「勝手にしやがれ」のラストシーンにして、佐伯が描いたカンパーニュ・プルミエール通り。あの27番の扉の前を、秦さんもきっと、お洒落をして通られたのでしょうね。そんなことを考えると、ワクワクして、仕事をほっぽらかしてパリに行きたくなっちゃいます。
by kako (2012-04-02 16:13) 

ChinchikoPapa

kakoさん、コメントをありがとうございます。
おっしゃるとおりで、最近の若い子のほうが大人で「成熟」していて、わたしもときどきTVなどを見ていて怒りの言葉を口にすると、オスガキどもから「大人げない」とたしなめられることがあったりします。
先年の原発事故のとき、御用学者やお抱えジャーナリストがあまた登場し、経済(カネ)のためには原発を止められない・・・などと平然と口にするので、カネのために国土が「白地図」化しても平然としている、「こいつらこそ、今もっともわかりやすい形で立ち現われている、ホンモノの売国奴(土)で亡国論者だ。よく面(つら)ぁ憶えときなさい」といったら、「そういう右翼用語は、あんまし説得力がないんだな」と、逆にたしなめられてしまいました。w 「売国奴は、別に右翼用語じゃなくて、ベトナム戦争中に・・・」と言いかけて、「大人げない」とやめましたが。ww
秦さんも、下落合付近で育っていますので、ひょっとすると佐伯の作品を眺めていたかもしれませんね。朝日晃のように、ひそかに描画ポイントめぐりをしているのかもしれません。そして、27番地のドアの前で、「クルマが邪魔なのよ~!」と、カメラ片手に怒っていたかもしれません。w
by ChinchikoPapa (2012-04-02 18:43) 

ChinchikoPapa

わたしのオフィスには、きれいな大磯の「色砂利」があります。縞の入った青や緑の小石ですが、これらの玉砂利も富士山の副産物かもしれませんね。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2012-04-02 18:49) 

kako

「クルマが邪魔なのよ~!」は、リアルですね~。
もしかして、Papaさんご自身も、被写体の前で「チッ」と舌打ちされたご経験が?
そこにいた人たちの息遣いや表情が目に浮かぶようなのが、Papaさんの記事の楽しいところですね。
by kako (2012-04-02 22:01) 

ChinchikoPapa

給電タンクならぬ、リチウムイオン電池を装備した家庭用蓄電池が、昨年の夏から発売されています。太陽光発電や深夜の電気を蓄えて、昼間消費するというシステムで、EV車に搭載されている電池の3分の1ほどでまかなえるようです。蓄電満タンで、1日はしのげるといいますから、3~4時間のピークカットや停電は楽勝ですね。nice!をありがとうございました。>Lobyさん
by ChinchikoPapa (2012-04-02 22:29) 

ChinchikoPapa

子どもと大人の甲状腺ガンのみを例にとれば、チェルノブイリ・ケースですと1990年代に1回目のピークあり、つづいて2005年から次のピークがきつつあるといいますから、30年や50年は気が許せないですね。つまり、いまの二十歳以上の大人は、死ぬまで安心できないことになりそうです。nice!をありがとうございました。>銀鏡反応さん
by ChinchikoPapa (2012-04-02 22:34) 

ChinchikoPapa

どこからともなく漂う甘い香りは、沈丁花でしたね。先週末あたりから香っています。nice!をありがとうございました。>DouxSoleilさん
by ChinchikoPapa (2012-04-02 22:37) 

ChinchikoPapa

kakoさん、コメントをありがとうございます。
いえ、わたしは27番地のドアの前へ立ったことなどなく、このブログに掲載している写真は、パリへ行かれた方がわざわざ撮ってきてくださったのをお借りして掲載しています。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-10-09
気性の激しい秦さんのことですから、「チッ!」とクルマのタイヤを蹴ってるかもしれませんねえ。w
by ChinchikoPapa (2012-04-02 22:42) 

ChinchikoPapa

わたしが馴染みのJAZZバーやJAZZ喫茶はマスターばかりで、ママさんが少ないのが残念です。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2012-04-02 23:59) 

kako

そんな秦さんのおかげで、私たちは、当時はマイナーといわれた素敵な作品を観ることができているんですね~。
ちなみに、ウチのDKには、やはり新映外配給だった『女は女である』のB全判ポスターがあります(オリジナルではなく、リバイバル時の日本制作のものですが)。
今日は1日、PCに張り付いていたので、Papaさんの記事で息抜きさせていただきました。ベルモンドと並んだ秦さん、ホントに楽しそうですね~。
by kako (2012-04-03 00:44) 

fumiko

フランス領アルジェリア出身のアルベール・カミュの『異邦人』
「・・・太陽がまぶしかったから」の一節は強烈でした! 
アラン・ドロン主演の名画『太陽がいっぱい』は、
監督・脚本、音楽、役者等すべて完璧! 
リメイク版と言われた『リブリー』のマット・デイモンは・・・違和感ありでした。

by fumiko (2012-04-03 09:43) 

ChinchikoPapa

kakoさん、コメントをありがとうございます。
セーラー服姿のアンナ・カリーナが、両手で男たちを持ち上げてる黄色いポスターですね。残念ながら、わたしはゴダール作品のしゃれたポスターは持っていません。うちには、「ゴジラ」のポスターが何枚かあったでしょうか。(爆!)
あと、「ロシア・アヴァンギャルド展」で買ってきた、初期ソビエト映画の複製ポスターも、どこかに仕舞ってあったと思います。ときどき、東京近美のフィルムセンターでポスター展をやってますね。
by ChinchikoPapa (2012-04-03 13:11) 

ChinchikoPapa

fumikoさん、コメントとnice!をありがとうございます。
『リプリー』は、まったく別物の映画ですね。元の映画が存在して、それが米国でリメイクされると、たいがいつまらなくなるのはどうしてでしょう?
わたしは、当作に限らず「海が見える」映画にとことん弱いですね。それが、作品としてはつまらない内容でも、なぜかスクリーンや画面から「海」や「潮風」が感じられると、とたんに何度か観たくなります。
同じフランス映画で、カネ持ちの子どもたちのバカンスを描いた他愛ない『さらば夏の日』とかも、とても「いい映画」とは思えませんが、「好きな映画」になっています。
by ChinchikoPapa (2012-04-03 14:09) 

opal

秦早穂子さん、懐かしいお名前です。「さほこ」という響きにも惹かれてました。
フランス映画は、心の動きが分かりにくかったりしましたが、今も鮮明に覚えているような作品も多いです。俳優さんも。
多感な時代に、急激な価値観の変化、というよりも心の柱をいきなり入れ替えられるような経験をさせられた世代は、自分を立て直すのが大変だったでしょうね。
夫の、少し年の離れた兄二人も昨日までの教科書に墨を塗るという、それも自分の教科書に自分で墨を塗るという経験をしたそうです。酷い話です。
反抗心からつけられたタイトルだそうですが「太陽がいっぱい」と聴くだけであのメロディーがながれ、アラン・ドロンの青い瞳が目に浮かびます。
最近の大作といわれる映画は目が忙しくて疲れます。年の所為でしょうか?
by opal (2012-04-03 14:33) 

opal

すみません。サーバーエラーと出たので送信しなおしたら両方入ってしまいました(-_-;)
by opal (2012-04-03 14:40) 

kako

あ、あの有名な黄色いやつではないんですよ。
確か、十数年前くらいにリバイバル上映されたときのもので、現在、DVDのジャケットに使われているのと似た感じのものです。(文字がいっぱい入っていて、ちょっと佐伯チックなおしゃれなデザインなんですよ)
海が見える映画というと、私は同じアラン・ドロンの『冒険者たち』と、ハリウッド映画ですが、『おもいでの夏』を思い出します。どちらも音楽が忘れられない名曲で。特に、『おもいでの夏』は、オリジナル・サウンドトラックのほか、フィル・ウッズのThe Summer Knowsも好きで、LPが擦り切れるくらい聴きました。Papaさん、ほかに誰かよい演奏をしている人など、ご存じないですか?
(余談ですが、私が勝手に作っている「少年のひと夏の経験もの映画」のジャンルでも、『おもいでの夏』が1番です。でも、なぜ「少女のひと夏の経験もの映画」は少ないのでしょう…?)

by kako (2012-04-03 15:36) 

ChinchikoPapa

opalさん、コメントをありがとうございます。
最近、So-netブログはサーバエラーが多く、ご迷惑をおかけしました。1回目のコメントを、削除させていただきました。
フランスは、ラディゲやラクロなど「心理小説」が極端に発達した国なのに、なぜか映画では心の動きを「省略」して、観客の解釈や想像にまかせるタイプの作品が多いのは、ちょっと面白い現象ですね。
小説の楽しみ方と映像の愉しみ方とは、あるいは作り手の側からいえば、それぞれの描写の方法や技術とは、まったくちがうところを意識的にめざしたものでしょうか? 確かに、フランス映画に比べると、米国映画は解説や説明のしすぎ・・・という側面がありそうです。
フランスの作品は、基本的にフランス人のみを対象に制作しているのであり、米国作品は世界じゅうのマーケットを意識しているので、「わかりやすさ」や「できるだけシンプルな表現」、「しつこいぐらいの丁寧な描写」を最優先するという、大もとの制作視座のちがいもあるのかもしれませんが、あまり想像力を差し挟めない表現には、「くどい」と感じてしまうこともあります。
わたしも、最近の映画はめまぐるしく感じますね。もっとも、うちの子どもも目が疲れるといってますので、歳のせいばかりではないようです。w
小中学校で習った、たとえば歴史教科書の内容が、時代とともに新たな発掘や発見、解明などがあって書き直されると、それを頭へ定着させるのに、わたしでもしばらく時間がかかります。それだけ、強固なイメージが刷りこまれているのでしょうが、秦さんのような事情ですと、まさに青天の霹靂のような状況で、いままで習った知識や培われたイメージはいったいなんだったんだ?・・・と、呆然自失の状態になってしまうのではないかと思いますね。
そして、しばらくすると「学校やラジオから嘘ばかり教えて、いったいこの大人たちや社会はなんだったのだ?」と、腹の底から怒りがこみ上げてくるのではないかと想像します。
by ChinchikoPapa (2012-04-03 16:15) 

ChinchikoPapa

kakoさん、コメントをありがとうございます。
ネットで探して、リバイバル上映ポスターを見てきました。文字とアンナ・カリーナのポートレートとのコラージュで、確かに構成主義のニュアンスが入った佐伯作品みたいなデザインです。w
映画の『おもいでの夏』は未見ですが、サウンドはどこか「いそしぎ」に通じる曲想を含んでいて好きですね。フィル・ウッズの「Summer Knows」は、ジャッキー・バイヤード(p)のポロンポロン演奏から、突然アルトが起ち上がるのが魅力で印象深いです。リチャード・デイビス(b)は、Atlantic時代のコルトレーン・グループのころとは様変わりしていて、まるで別人のように聴こえる演奏です。
ほかには、すぐに思い浮かぶのがアート・ファーマーの演奏ですね。
http://www.youtube.com/watch?v=c8VZwiT0Lpk
トランペットではなく、フリューゲルホーンのところがしぶい音色です。
by ChinchikoPapa (2012-04-03 17:14) 

ChinchikoPapa

冬の洗車は、かなり身体が冷えてたいへんですね。
nice!をありがとうございました。>パブロンさん
by ChinchikoPapa (2012-04-03 17:17) 

ChinchikoPapa

花に嵐のたとえもあるぞ・・・のたとえどおり、きょうの嵐でサクラは相当なダメージを受けそうです。清元ではないですが、「小夜嵐」ぐらいなら風情があっていいのですが、台風並みですね。nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2012-04-03 17:20) 

ChinchikoPapa

あ、kakoさん、最後のコメントへリプライをし忘れました。
「少年のひと夏の経験もの映画」のジャンルは、もう確固たるカテゴリーを確立してますね。大林信彦監督あたりが(少年ではなく少女かな?)得意そうな分野でもありますが、小説でも国内外を問わず、特に青春文学あたりには多いテーマです。夏は解放的になり、いろいろと「事件」が起きやすい環境になるからでしょうか。
そう、台風がやってきて少しおかしくなってウキウキしたり、強い陽射しの中で庭いじりをするじいちゃんが急に気になりだしたりするのも、夏の日の少年少女たちでした。w
湯本香樹実の同作は、福武書店から出版されるのと同時に買いました。ほとんど同時期に、松谷みよ子『屋根裏部屋の秘密-直樹とゆう子の物語-』(1988年)も購入したのですが、夏休みをすごす少年少女と、仕舞われた(隠された)「戦争」の記憶が語られる・・・というシチュエーションで、両作はまるで双子のようだと感じたのを憶えています。
by ChinchikoPapa (2012-04-03 17:47) 

Marigreen

「太陽がいっぱい」は、私も自分の世代、と思っているのですが、皆さんはいくつぐらいにご覧になったのでしょうか?私は、中学1,2年です。(ちなみに私は落合氏と同期です)
by Marigreen (2012-04-03 18:15) 

ChinchikoPapa

いろいろなものが匂い立つ春は、コーヒーの香りもいつもより魅力的に感じられてたまりません。きょうも、仕事をしながら4杯飲んでしまいました。nice!をありがとうございました。>tree2さん
by ChinchikoPapa (2012-04-03 18:31) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
『太陽がいっぱい』は1960年制作ですから、わたしは幼稚園にも通っていません。^^; 確かに、初めてTVで放映されたのを観たのは、中学生ぐらいの年齢でしたけれど・・・。
コメントを寄せられているみなさんは、わたしより年上の方も年下の方もいらっしゃいます。w
by ChinchikoPapa (2012-04-03 18:36) 

tree2

1945年、私は国民学校2年生でした。
朝礼の時間、校長先生がおっしゃいました。「日本が負けたら私は切腹する」と。偉いなぁ。
7月に焼け出され、田舎の学校に転校しました。そこで迎えた夏休みに、敗戦。
私は、校長先生はみな、切腹するのだろうと思っていました。
「校長先生が切腹する、学校に集合せよ」というおふれが出るであろう。
切腹の場は、いつも校長先生が訓辞をたれる、校庭に築かれた壇の上にちがいない。それをみなで見物するのだ。
今か今かとおふれがくるのを待っていましたが、音沙汰がなく、だらだらと二学期がはじまりました。受け持ちの先生も、校長先生も、一言の釈明もなしに…
先生の人物の出来を秤にかけ、下らんと思った先生には、口にこそ出さないけれど態度で軽蔑をほのめかす。私がそんな可愛げのないガキになったのは、あの体験のおかげです。
by tree2 (2012-04-03 18:47) 

ChinchikoPapa

tree2さん、貴重なコメントをありがとうございます。
おそらく、わたしも同じような状況に置かれたら、きっと「大人不信」「教師不信」で、仮に怒りが湧かなくても軽蔑の対象となるでしょうね。
子どもは常に、大人の“姿勢”や“言動”をていねいに観察しながら育ちますから、常日ごろの姿とはまるで異なる、卑怯で「言行不一致」の最たるものを眼前で見せられれば、一気に信頼性を失くすだろうと思います。
もっとも、そのような大人は1945年8月15日までさかのぼらなくても、現在でも亜種がたくさんいそうな気がしますが・・・。
自身ではなにも手を下さないし、決して行動しないし、対象へ主体的に関わろうともしないのに、口先だけでいいたいことを言う、批評する、ないしは批判(対案を対置し得ていないので批判になってはおらず無責任な難癖の類でしょうか)をする、卑怯な「ヒョ~ロン家」ないしは「コメンテーター」的な存在は、ネット社会になってから増えているような気がします。
by ChinchikoPapa (2012-04-03 19:33) 

ChinchikoPapa

穂高はまだまだ、深い雪にとざされたままですね。晴れると、あまりの白さに目を傷めそうです。nice!をありがとうございました。>ponpocoponさん
by ChinchikoPapa (2012-04-03 23:27) 

kako

Papaさん、ご教示ありがとうございます。
アート・ファーマー、聴きました。ソフィスティケートされた大人の『おもいでの夏』ですね。フィル・ウッズのほうは、少年が大人になって「あの夏」を振り返っているような「感情」を感じて、惹かれます。
それで、あの…、私の「少年のひと夏の経験もの映画」ジャンルは、実は、Papaさんがイメージされたものとは、ちょっと違うんです。「ひと夏」は別に夏じゃなくてもよくて、まあ、比喩ということで…。つまり、年上の女性とのひと夏というか…。
『おもいでの夏』は、もう、とっても単純なストーリーで、表現も陳腐といえば限りなく陳腐なんですが、年上の女性を演じたジェニファー・オニールが、それはもう、男性だったら、誰でも惚れちゃうんじゃないかと思うくらい魅力的で…。なので、私のジャンルはたぶん、「少年の目に映った大人の女性が描かれている」という括りなのかもしれません。
なんだか、記事と全然違う話になってしまって、ごめんなさい。でも、恋と映画は、いつの時代も素敵ですよね。
by kako (2012-04-03 23:33) 

ChinchikoPapa

kakoさん、コメントをありがとうございます。
「Summer Knows」は、ホーン楽器の演奏もいいのですが、ギターやピアノの静謐な音色でもよく合いますね。リズムを変えても面白そうです。
・・・あ、「青い体験」とか「卒業」の路線ですか。もう少し、「少年」層を下に考えてしまいました。小学生の少年少女たちで、「おもいでの夏」は撮れそうにないですよねえ。^^;
「少年のひと夏の経験もの映画」ジャンルというと、わたしは「この作品っ!」・・・とは、にわかに思い当たらないのですが、イタリアやフランスあたりではけっこう多いような印象があります。日本映画で、なにかありましたっけ?
by ChinchikoPapa (2012-04-04 13:31) 

NO NAME

私の年代だと「勝手にしやがれ」はセックスピストルズのアルバム『Never Mind the Bollocks』(1977年)の邦題としての印象が強いですね。若者のやり場のない怒りを爆発させるパンクロックなので、この映画のタイトルをいただいたのでしょうけど。
by NO NAME (2012-04-04 15:14) 

ChinchikoPapa

NO NAMEさん、コメントをありがとうございます。
セックス・ピストルズの『勝手にしやがれ』は、学生時代に発売されたアルバムです。同バンドの正規アルバムは、これ1枚じゃなかったでしたっけ。本国で曲が放送禁止になったりと、いろいろと話題の多いアルバムでした。
by ChinchikoPapa (2012-04-04 16:36) 

ChinchikoPapa

1年で93万アクセスというのは、すごいですね!
nice!をありがとうございました。>マチャさん
by ChinchikoPapa (2012-04-04 22:32) 

kako

Papaさん、私のくだらない与太話にお付き合いくださいまして、ありがとうございます。
ええと、実は『卒業』もそのジャンルには入りません。だって、あれは「年上の女性の美しい思い出」じゃないし、少年という年齢でもないじゃないですか。
というわけで、考えてみると、結構狭いジャンルですね~。でも、条件としては、必ずしも肉体関係を伴わなくてもいい(と、私が勝手に決めている)ので、たとえば、イタリア映画なら、『マレーナ』とかです。
『おもいでの夏』と『マレーナ』は、設定が時代的にも状況的にもほぼ同じなのに、ご都合主義な美しい思い出だけの『おもいでの夏』と、リアルなその後の人生まで描いた『マレーナ』の違いが、アメリカ映画とイタリア映画の違いなのか、戦勝国と敗戦国(とは言わないのかもしれませんが)の違いなのか、単なる趣味の違いなのか、好対照で面白いです。
ちなみに、『マレーナ』のモニカ・ベルッチも私は大好きなんですが、ジュゼッペ・トルナトーレの語り口は苦手なので、個人的には、ちょっと微妙な作品です。
日本映画は…、残念ながら、ありません。(そのような設定の作品はあるのかもしれませんが、私のいい加減な記憶に残っているものがないので)
上記2作品は、どちらも「記憶」の映画ですが、私は、少年少女や、子供を描いた現在進行形の映画があまり好きではないのです。大人が作った子供の映画は、どこか、自分の意図を子供に肩代わりさせているようで…(この弊害を免れていると思われる映画作家は、トリュフォーと相米慎二くらいしか思い浮かびません)。それに、そもそも、子供は映画で大人の世界を垣間見たいものだし、そうやって世界を知っていくものではないかと思うので、「子供向け」または「子供の」映画なんていらないんじゃないの? と、これも勝手に思ったりしています。
「記憶」の映画の場合は、大人になって思う少年時代なので、登場人物の外形が子供であっても、それは「大人の映画」だと思うのですが…。
与太話ついでに、長々と勝手なことを書いてしまいました。今日、たまたま、「子供を利用した」映画を観てしまったので、ちょっとムカついてるんです。ごめんなさい。
by kako (2012-04-05 02:13) 

ChinchikoPapa

kakoさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
そうか、『卒業』は確かに「美しい」想い出ではなく、確かに消してしまいたい、なかったことにしたい想い出として描かれていました。ということは、かなり微妙でニッチな分野・・・ということになりそうです。イタリア作品の『マレーナ』も、いまだ観損なっています。
大人に都合のよい視線ではなく、子どもの視線(になりきって)で事象を描くというのは、小説の世界でも言えてますね。先に書きました松谷みよ子の『屋根裏部屋の秘密』などは、大人の「予定調和」を前提とした落としこみのお手本のような作品・・・ということもできそうです。トリュフォー監督は、上映する館が少なかったものかほとんどが未見ですが、相米慎二監督の作品はけっこうよく観ています。
「記憶」映画は、おっしゃるとおり過去の少年少女時代をふりかえって、印象的な情景が(大人の記憶の演繹過程や抽象化を経たうえで)描かれるわけでしょうから、モンタージュでいくら過去に飛んだとしても、現在(大人)からの視点は切り離せないのかもしれませんね。それに共感をおぼえるのも、実は自分が「大人」だからなのかもしれません。
少年少女時代の記憶は、大人になるとたいていは「美化」ないしはご都合主義的な解釈によって「整理」されると思いますので、子どもの視線から見ると「よくわからない」映画や物語になるんでしょうね。
ゴールディングの小説に有名な『蠅の王』がありますが、あれに拒絶反応を示す大人というのは、まさに「大人だから」のような気がします。
by ChinchikoPapa (2012-04-05 17:06) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2012-04-05 22:31) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2012-04-08 22:53) 

kei

たびたびすみません!
こちらを拝見していて、「野性の少年」がゴダールじゃなくてトリュフォーだ!ということに気がつきました
^^:
とんでもない記憶違い、大変失礼いたしました!
しかし「勝手にしやがれ」も「太陽がいっぱい」も、邦題のセンスが素晴らしいですね。
「太陽がいっぱい」と聞いただけで、あのテーマ曲が流れてきます。つくづく昔の映画音楽は凄かったなあ(溜息)。


by kei (2015-04-20 22:16) 

ChinchikoPapa

keiさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
ゴダールは代表的な作品しか観ていませんので、『野生の少年』という作品もあったのか……と思っていました。w
最近は、原題のままカタカナのタイトルが多いですが、昔の邦題は詩情があふれていたり、キャッチっぽい表現が作品の雰囲気にピッタリはまって、映画の内容はたいしたことなくてもタイトルで強烈な印象を残している作品も、少なからずありますね。
by ChinchikoPapa (2015-04-20 23:00) 

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