学生時代は落合・長崎地域をよく歩いた。 [気になるエトセトラ]
戦後、1960年(昭和35)に住宅協会が作成した旧・下落合全域の「全住宅案内帳」Click!は、これまで戦前の地図類とともに何度か記事Click!にも引用している。また、同様に1966年(昭和41)現在の地図も引用してきた。目白通りをはさんだ椎名町(現・南長崎)地域では、1955年(昭和30)現在の「戸別案内図」が残されている。きょうは、それらを使って当時の情景をご紹介するとともに、わたしが学生時代にすごした界隈をご紹介したい。もっとも、わたしが親元から独立し、南長崎にアパートを借りて暮らしたのは1970年代末ごろからなので、これらの地図に描かれた街並みとはずいぶん異なっている。そこは、1982年(昭和57)のゼンリン地図で補足したい。
わたしが、親元にいるとなかなか精神的にも経済的にも自立できないと考え、南長崎にアパートを借りて住んでいたのは1982年の春ぐらいまでだったろうか。このあと、下落合の聖母坂沿いに引っ越しているので、それ以降の南長崎の様子や変遷をよく知らない。1982年のゼンリン地図を見ると、わたしが借りていた南長崎4丁目の「柏荘」(すでに解体)とその周辺が収録されている。柏荘の前のアパートが、当時からおかしかったのだが「トキワ荘」ならぬ「トキワギ荘」だったので印象に残っている。このあたりの人たちは親切で、同じアパートの住人やトキワギ荘の方から“おすそ分け”をいただいた記憶がある。引っ越しのとき、下落合なら近いから遊びに寄ってよ・・・と言われたのだが、ついそのまま年月が流れてしまった。
柏荘の並びには、椎名町教会と仲の湯Click!(旧・久の湯)が並んでいて、銭湯までは徒歩30秒だった。現在、椎名町教会は建て替えられてコンクリート建築になり、迎撃戦闘機が落ちてきた仲の湯(旧・久の湯Click!)は廃業してしまった。仲の湯が定休日だと、小野田製油所Click!を右に折れて、下落合(現・中落合)の第一文化村Click!の外れにあった人生浴場(旧・伊乃湯/萩の湯Click!)へ出かけていた。こちらの銭湯は名前をまったく記憶しておらず、昔の地図から「萩の湯」だと思いこんでいたのだが、わたしが通った1980年前後は人生浴場という名称だったことを、つい最近知った。どちらの銭湯にもコインランドリーが併設されていて、休日には洗濯に通ったものだ。
このころ、富士美写真館Click!は「富士スタジオ」という名称で収録されている。富士美写真館(場)→富士スタジオ→東京写真工芸社という変遷だろうか? わたしはこの写真館の前を、何千回も往復しているはずだ。先のアパート柏荘を起点に、時間があると旧・下落合全域や長崎地域を歩きまわっていた。学校への行き帰りから、落合地域を歩くほうが圧倒的に多かっただろう。南長崎から高田馬場駅まで、またはそのまま歩いて学校まで通っていた。アルバイトのある日を除き、帰りは電車やバスの乗車賃がもったいないので、学校から南長崎まで歩いて帰ったこともしょっちゅうだった。もちろん、毎日歩く道筋を変えて帰宅しているせいで、70年代からの落合地域のいろいろな街並みや情景が、アタマの中に焼きついているのだろう。
1955年(昭和30)の北が下になる「戸別案内図」を見ると、柏荘は西牧邸と本領邸の跡に建っていたことがわかる。その北側には、椎名町教会と思われる建物につづき、仲の湯が掲載されているのだが、当時は「第一仲の湯」となっているので複数の銭湯を経営していたものだろうか。その先を北へと進んで長崎バス通り(目白バス通り)に出ると、右手に小出幹雄様Click!の「スエヒロ堂」時計店がある。その東隣りには、現在の南長崎花咲公園となる東京都交通局の「大和寮」が建っていた。もともと、この敷地は都バスの折り返し終点車庫があったもので、現在のトキワ荘記念碑あたりの地下には、バスの燃料補給のためにガソリンタンクが埋められていたそうだ。
都バスの終点が練馬車庫へと延長されるにともない、この区画は職員専用の寮として活用されていた。大和寮の向かいには、中沼伸一様Click!の「双葉洋服店」(テーラー双葉)も収録されている。また、大和寮の写真も何枚か残されているのが貴重だ。そこから、目白通りへと歩いていくバス通り沿いの左手には、「市場」と書かれた山政マーケットが記録されている。戦前、ここには寄席「目白亭」Click!が建っていた場所だ。山政マーケットの角を左(北東側)へ折れると、小川薫様Click!の実家である上原邸やヒカリビリヤードClick!、鶴の湯などがあった。わたしが学生時代、帰宅する途中でときどき寄っていたマーケットは、さらに進んだ目白通り近くのマーケットのほうで、山政マーケットではない。小川様との初期のやり取りで、多少の齟齬が生じていた点だ。
1980年前後の山政マーケットの記憶はほとんどないけれど、目白通りに近い位置にあったマーケットはよく憶えている。たくさんのテント地で簡易的に仕切られた広い空間は、まさに市場と表現するのがふさわしく、わたしは学校の帰りにここで夕食用の肉や魚、野菜などを買った。休日の買い出しには、長崎バス通りのマーケットは利用せず、中落合側の小さなスーパー丸正か、十三間通りを渡った先、西落合の生協スーパーで買い物をしていた。ときどき、西武池袋線沿いの友人を訪ねた帰りなどは、椎名町駅の西側にいまも開店しているサミットストアもよく利用している。
わたしは、いまでもヒマができれば落合地域や長崎地域をよく歩くけれど、当時に比べたら歩く距離がずいぶん短くなっている。学生時代は、平気で南長崎の柏荘から江古田にあったJAZZライブハウス「シャイニー・ストッキング」へ毎晩のように通ったり、高田馬場の「マイルストーン」Click!や「イントロ」Click!へ下落合の坂を苦もなく上り下りしながら往復したものだ。いまでも、目白崖線は頻繁に上り下りするけれど、聖母坂Click!の傾斜角がいちばんゆるい・・・とか、薬王院のバッケ階段Click!を一気に上がればあとがラクだ・・・とか、よけいなことを考えている自分にときどき腹が立つ。
◆写真上:1938年(昭和13)まで、南長崎の二又交番の位置にあった子育地蔵尊。下落合(現・中落合)側からの参詣者も多く、現在地に移転する際には世話人に落合住民も参加している。
◆写真中上:上は、1982年(昭和57)のゼンリン地図にみる、目白通り沿いの柏荘界隈。下左は、1960年(昭和35)の下落合の「住宅案内帳」にみる伊乃湯。下右は、1966年(昭和41)の同地図にみる人生浴場。銭湯名は、萩の湯(戦前)→伊乃湯(戦後)→人生浴場という変遷だろうか?
◆写真中下:上左は、1955年(昭和30)の「戸別案内図」にみる椎名町教会周辺。すでに教会はあったと思われるが、アパート柏荘はそろそろ建設されるころだろうか? 上右は、同地図にみる目白バス通り沿いにあった東京都交通局の大和寮(現・南長崎花咲公園Click!)の界隈。下は、田島米店の田島様が地図と同年の1955年(昭和30)6月26日12時15分に二眼レフカメラで撮影した、長崎バス通り(目白バス通り)沿いに立つ東京都交通局の大和寮。(小出幹雄様提供) 大和寮は、1階部分がコンクリート建築で上階が木造建築の独特な意匠をしていた。
◆写真下:上左は、やはり1955年(昭和30)ごろ撮影の大和寮を背景にした中沼伸一様(右)で、奥には斜向かいの双葉洋服店の看板が見える。上右は、もう少しあとの時代で大和寮が解体されてできた広場。(ともに中沼様提供) 下左は、やはり大和寮跡の広場で遊ぶ小出幹雄様(小出様提供) 下右は、1955年(昭和30)の「戸別案内図」にみる「目白亭」跡にできた山政マーケット周辺。
学生時代の落合氏の姿が彷彿とされる記事だ。このころ、落合氏は、学費を全部バイトでまかなっていると噂されていたけど、そうですか?私もバイトはやったけど、とても学費までは稼げなかった。
by Marigreen (2012-04-17 08:21)
記事の予約投稿は、システムに大きな負荷さえなければ指定の時間に、スムーズにアップできるようです。でも、このところシステムがずいぶん重たくなっているようですので、あとで確認できるアップされたタイムスタンプが予約しておいた投稿時間になっていても、実際には多少遅れて公開されるケースがままあるようですね。nice!をありがとうございました。>nikiさん
by ChinchikoPapa (2012-04-17 13:05)
写真を拝見しながら、学生のころ「朝ジャ」に連載されていた中上健次の『木の国・根の国物語』を思い出しました。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2012-04-17 13:10)
シェッブの『Mama Too Tight』は、以前にも何度か記事を拝見していますので、とてもお気に入りのアルバムなのですね。w nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2012-04-17 13:15)
大きなケヤキですね。クスノキとイチョウ、そしてケヤキは、とてつもなく大きなものに出会って、ときどき圧倒されることがあります。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2012-04-17 13:20)
都立家政は近いですので、いつか桜の園ガーデンスクエアには立ち寄りたいです。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2012-04-17 13:32)
塩キャラメル味のシフォンケーキはうまそうですね。残念、食べそこないました。nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2012-04-17 13:34)
個人戦では部員同士がライバル・・・という緊張感が、またひとりひとりの成績や能力の向上にはいいのでしょうね。nice!をありがとうございました。>イデケンさん(今造ROWINGTEAMさん)
by ChinchikoPapa (2012-04-17 13:39)
Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
学費を稼いだのは親から独立してからで、それまではスネをかじっていました。また、当時の学費はいまとちがって安く、途中で何度か学費値上げがあったので変動はしてますが、半期が15万~25万円、1年間で30万~50万円ほどだったと思います。
現在のように年間100万円とかになると、もう学生のアルバイトではまかない切れませんので、親から出してもらう以外になく、必然的にある程度おカネのある家庭でないと大学へ通えない・・・という時代に逆もどりしていそうですね。
by ChinchikoPapa (2012-04-17 13:45)
ピンク色が濃い、枝垂れザクラがあちこちで満開ですね。少し気温が低めなので、長持ちするでしょうか。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2012-04-17 13:49)
人生浴場とはいい名ですね。
神保町に人生劇場という映画館があったように思いますが。
大磯でも随分昔に、日の出湯という大磯最後の風呂屋が閉店しました。風呂屋の名前も粋でいいですねー。
by SILENT (2012-04-17 19:35)
インド人の青年SEのお話、興味深く拝見しました。日本のベンダーからインドのSI企業へ開発を発注するとき、かなり詳細な開発作業書や手順書などを作成して契約しないと、なかなか想定した性能のシステムプログラムが上がってこない・・・という話を聞きます。
つまり、「作業してあたりまえ」という部分まできっちり明文化しないと、「作業指示書」にないから実施してくれない・・・という、欧米文化に近い感触があるみたいですね。くだんのインド青年は、日本の仕事の進め方や慣習などに馴れるため、インドの企業から派遣されてきたものでしょうか。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2012-04-17 22:14)
SILENTさん、コメントをありがとうございます。
店主が考案したものでしょうか、「人生浴場」は面白いネーミングですね。「人生劇場」という神田の映画館は、知りませんでした。
落合地域は、何軒かの銭湯がいまだにがんばってまして、内風呂があるのに通われているファンの方も多そうです。ゆず湯やしょうぶ湯などの日は、かなりの混雑をするようです。
by ChinchikoPapa (2012-04-17 22:21)
プラシーボ効果を前提とした療法もまた、人間の複雑な精神構造を活用した、「治療」の大きな成果を占める部分なのかもしれませんね。nice!をありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
by ChinchikoPapa (2012-04-17 22:28)
ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>大嶋洋介候補事件被害者の会さん
by ChinchikoPapa (2012-04-17 22:30)
私も「マイルストーン」「イントロ」はよく行きました。
It’s Only Jazz、But Only Jazz だったですかね。
このフレーズが好きでした。
by NO14Ruggerman (2012-04-18 00:51)
何と懐かしい写真の数々。Chinchikoさんでなくても、この空気は十分に懐かしいです。
by sig (2012-04-18 00:59)
わたしも、仕事の打ち合わせなどで歩いてますと、つい楽な行き方を考えてしまいます。w 山の水墨画、ステキですね。冠雪した峰が雲にとけこんでいるところ、雪面に雲の影が映り、いまにも動き出しそうでリアルです。nice!をありがとうございました。>ponpocoponさん
by ChinchikoPapa (2012-04-18 09:54)
NO14Ruggermanさん、コメントとnice!をありがとうございます。
いまでも2点は健在ですが、「イントロ」は夜だけのライブハウスに、「マイルストーン」は模様がえをしましたが、従来どおりのJAZZ喫茶で営業しています。
転勤は、関東へもどられたんですね。^^
by ChinchikoPapa (2012-04-18 10:08)
sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
1960年代の椎名町はまったく知らないのですが、わたしの子ども時代の風情と同じで、なんとなく既視感があるのが不思議です。木製の電柱から、コールタールの臭いが漂ってきそうですね。
by ChinchikoPapa (2012-04-18 10:13)
小学生のころから、シリアルは嫌いで食べないです。米国人の味覚を疑いだしたのは、子どものころからかもしれません。w nice!をありがとうございました。>hetianソウソウさん
by ChinchikoPapa (2012-04-18 10:25)
神田の人生劇場は、パチンコ屋さんでした。岩波の裏手にあった映画館は、東洋キネマでした。勘違いしていました。南インドの青年のいるIT企業は、日本のビジネスを長期的に展開したいと考えているようです。医療ビジネスでもインドから人がやってくる時代になるのでしょうね。彼が日本語堪能な理由が判った要な気がします。
by SILENT (2012-04-18 11:22)
SILENTさん、重ねてコメントをありがとうございます。
映画館「人生劇場」だと、確かに映画は人生の勉強をいろいろできるな・・・と納得しますが、パチンコ屋さん「人生劇場」というとなんとなく人生の「運だめし」のような、どこか刹那的な響きに聞こえますね。^^;
インドは英語が通じやすいので、なにかとビジネスがしやすい・・・というのをIT業界ではよく耳にします。でも、細かくゆきとどいた(このあたりが「あ・うん」の呼吸で作業や手順を理解する部分だと思うのですが)システムの仕事というのは、やはり中国のほうがやりやすいとも聞きますね。このあたり、各国のビジネス風土や商慣習によって、いろいろなちがいがあるようです。
by ChinchikoPapa (2012-04-18 12:27)
NO14Ruggermanさん、すみません誤入力です。
「いまでも2点」→「いまでも2店」、失礼しました。
by ChinchikoPapa (2012-04-18 12:33)
懐かしい写真と地図をありがとうございます!
特に田島さんの二階から撮影された大和寮の写真では下の道を自転車で走る後姿の人など、もしかして父ではないかと見入ってしまいました。田島さんと「まっちゃん」さんと父がトラックに作った屋台でお囃子をやっていた姿を思い出します。またその道は中学校までの通学路だったことやお祭りというと大和寮の前に集まったことなどがよみがえってきました。1978年に私が南長崎の家をでたあと1981年秋には両親も他区へ転居したのでちょうどPapaさんが下宿していた頃ですね。近くに鶴ノ湯がありましたが久の湯や人生浴場へもよくいきました。久の湯へは1981年夏に母と行ったのが最後でした。Papaさんがよく買い物をされたのは「第一マーケット」だとおもいます。お地蔵様に向かって左側にありました。
by siina machiko (2012-04-18 17:19)
siina machikoさん、コメントをありがとうございます。
鈴木様(まっちゃん)と田島様、そして上原様はお祭りのトラック山車の上で、お囃子トリオをつとめるほど仲がおよろしかったんですね。^^
1978年に椎名町を離れられているということは、ちょうどわたしとsiina machikoさんは入れちがいだったことになります。でも、ご両親が81年までいらしたということですので、目白通りか長崎バス通りのどこかで、ご両親あるいはsiina machikoさんとすれちがっているのかもしれません。w
大和寮は知らないのですが、お祭りのときの集合場所だったりしますと、周辺の方々に強い印象を残しているのもわかります。いまもトキワ荘の碑が建つ公園になっていますから、なにかとご近所の方たちの集合場所として活用されているのでしょうね。
「久の湯」と「人生浴場」には行きましたが、残念ながら「鶴ノ湯」には行かずじまいでした。そのかわり、なぜか椎名町駅のすぐ北東にある「妙法湯」には、何度か出かけたことがあります。「妙法湯」は健在で、いまでは立派なビルになってしまってます。
買い物は、アパートへ帰る途中にあった「第一マーケット」(なんとなく思いだしましたw)を、ときどきのぞいてました。でも、当時は個人商店がしっかり営業していましたので、あちこちの店で買い物をした憶えがあります。
by ChinchikoPapa (2012-04-18 18:44)
南大門の仁王像を見ると、「右は運慶、左は快慶、併せて左甚五郎の作」と解説した昔の俥屋のエピソードを思い出します。w nice!をありがとうございました。>マチャさん
by ChinchikoPapa (2012-04-18 18:48)
こんばんは。
てんしんばしらのタールのにおい、ですか。よく覚えていますよ。
地図の下のすえひろ堂のある風景では、サザエさんが今にも飛び出してきそうですね。
by sig (2012-04-18 20:34)
sigさん、重ねてコメントをありがとうございます。
あと、夕方になると石炭を燃やす臭いもしましたね。その臭いがしはじめると、外で遊んでいても母親が呼びにきたものです。
サザエさんは、昔ながらの買い物かごを下げているんでしょうね。w
by ChinchikoPapa (2012-04-18 22:08)
わたしの子ども時代は、第1次シールブームでしょうか、鉄腕アトムやディズニーのシールが流行りにはやりました。nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
by ChinchikoPapa (2012-04-18 22:12)
5月の涼しい秋空に鯉のぼりというのは、南半球でしか見られない風情ですね。w nice!をありがとうございました。>Lobyさん
by ChinchikoPapa (2012-04-18 23:03)
東京地裁の判断は、タヌキの森の裁判でもそうでしたが、事実認定からして錯誤が生じている、クビを傾げるような判決が最近増えているように思います。nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2012-04-19 00:51)
カテゴリーに「パフェ」という分類があったので、つい全記事を拝見してしまいました。最近、パフェに凝ってます。nice!をありがとうございました。>yogawa55はやぶささん
by ChinchikoPapa (2012-04-19 23:41)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>ばんさん
by ChinchikoPapa (2012-04-20 13:48)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2012-04-22 16:37)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2012-04-22 16:53)
Papaさん、すみません!スエヒロ堂2代目です。
こちらの記事、本日になって気付きました!
4月17日といえば、トキワ荘記念碑3周年イベントの真っ最中で
トキワ荘の先生方のトークショー直前、一番テンパっていた時期でしたw
しかし、大和寮がはっきり写っている写真は我ながらホレボレしますね~
公園になってから現在も、お祭りの神酒所は今はここに作っています。
岩崎邸の神酒所が南長崎4丁目町会で、ここは3丁目(今年は9月8~9日が祭礼)。
昔は、大和寮と通りの間の板塀を基礎に、頭(かしら)が足場を組んで、奉納フダを貼り、その前で町会役員が何十人も整列した祭礼集合写真を
おそらく小川様も何枚もお持ちのはずです。
ですが、たくさんの奉納フダの影になって、大和寮がはっきり見える写真は、この田島さんの写真が見つかるまでは1枚も無かったのです!
この都バスの社宅(大和寮)の建物とスエヒロ堂の間には、相当大きな空地(大和寮敷地)があり、毎日のように社宅の子どもたちといっしょに、3角ベース草野球をしていました。
大和寮の1階は、戦前はバスのガレージ(鉄筋)を兼ねていたとのことで、屋根が高く、通り側に見える堂々たる外階段は、恰好の遊び場でした。
元ガレージ部分は、1階の社宅居住者たちの共同炊事場(土間)で、マキでご飯を炊いていような?薄暗く南北の縦断通路になっていて凄い雰囲気だったのを覚えています。
大和寮が解体されて児童遊園になったのは、1975年前後かと思います。
一番下の写真は、その10年ほど前、大和寮空地にあったなんだかわけのわからないコンクリートの上に立っている私(恥ずかしい、でも子どもはこういう所がみんな好きですよね!今の砂場のあたり)。
大和寮敷地に児童遊園完成後、2回の拡張工事を経て、今の花咲公園になり、2009年4月にトキワ荘記念碑ができました。
by しいなまちお・K (2012-05-30 19:04)
しいなまちお・Kさん、わざわざコメントをありがとうございます。
トキワ荘プロジェクトでのご活躍、新聞で拝見してますよ。きっとメチャクチャお忙しいのだろうと想像していましたら、やっぱり・・・。^^
『東京シャッターガール』も、さっそく入手しました。わたしの故郷である下町方面も紹介されていて、楽しく拝見しました。また、ときどき散歩に出かけるエリアも取り上げられており、続編が楽しみだったりします。先日、東京写真工芸社へ再びお邪魔したのですが、あいにくヒロシ様はいらっしゃらず、ご子息の仁様にごあいさつしました。
大和寮は、1975年まであったんですか・・・。前年から、すでに落合地域をウロウロ散歩しはじめていたころです。少し足をのばして、長崎地域も歩いておくんだったと、いまから思うと悔やまれますね。ほんとうに、貴重な写真をありがとうございました。
昔は、ほんとうに原っぱが多かったですね。わたしの子ども時代は、親父の仕事の関係から神奈川県の海っぺりですごしたのですが、藤子不二雄マンガの情景そのままに、原っぱのあちこちにはコンクリートの土管(宅地開発用の下水管)が積み上げられていました。
近所の子どもたちと、コンクリートの土台で遊んだのもまったく同様です。といいましても、湘南海岸のコンクリートは、米軍のオリンピック作戦に備えて造られたトーチカ跡や、空襲に備えた高射砲陣地の跡で、あちこちにいまだ戦争のキナ臭さが残っていました。大和寮に匹敵する大きな建物は、「塩工場」と呼ばれていた廃墟がありました。海水から塩を精製する工場だったようですが、そこで遊んではいけないと周囲から言われていたのに、入りこんでは遊んでいた記憶があります。
近所の子どもたちの目には、大和寮のような建物はものすごく大きく感じられて、ことさら惹きつけられたのではないでしょうか。わたしも、大きな建物(廃墟)があるというだけで、覗きに行きたくなったものです。きっと、ふつうの建築にはない巨大な空間が、魅力的に映るのかもしれませんね。w
近々、また小川さんのお店へ遊びにいこうと思っています。前回は、「おいてけ堀」と深川七不思議で盛り上がりましたが、さて今度はどんな楽しい時間をすごせるのでしょう。^^
by ChinchikoPapa (2012-05-30 20:20)
大事な宣伝を忘れていました!
今回のトキワ荘イベントで、「トキワ荘通り」の冊子2号が、デビューしました。
http://blog.goo.ne.jp/tokiwasou-street
Papaさんには遠く及びませんが、いいですよ~
寺田ヒロオ先生特集です。
そう、小川様の刑部医院周辺の昔の写真も掲載させていただいています。
まさに表紙の寺田先生の絵がそのモデルになったと思われるからです。
小川様に、まだ冊子をお届けしていませんでした(大汗)
東京写真工芸社は、お父さんが、「仁さん(みんなジンさんと呼んでいますが)」、私と同級の息子が「整(ひとし)」で、小さい頃から「トチ」のあだ名で彼のPネームは、「トチ・サトー」です。「東京シャッターガール」の続編にも登場してきます…今後もお楽しみに!
by しいなまちお・K (2012-05-30 22:44)
しいなまちお・Kさん、重ねてコメントと情報をありがとうございます。
「トキワ荘通り」2号、ほしいですねえ。w 今度の土曜、文化村方面に用事がありますので、ニコニコ商店街に寄って入手してきます。
最近、造形美術研究所(のちプロレタリア美術研究所)について調べているのですが、椎名町が舞台です。(おそらく、刑部医院の裏手のほうです) 小林多喜二の連れ合いさんも通ってきており、もちろん昭和初期に官憲によって弾圧されてしまうのですが、落合地域に「プロレタリア漫画家」が住んでいたことがわかってきました。記事にまとまるようでしたら、今度ぜひ書いてみたいと思います。
仁様と整様、わたしはとんだ勘ちがいをしてしまいました。「ひとし様、いらっしゃいますか?」とお訪ねしたら、「ひとしは、わたしですが」と整様が答えられたので、わたしはてっきりお父様のお名前をまちがって記事に書いてしまったのか?・・・と思ってました。お名前が判明ししだい訂正しようと思っていたのですが、「仁様」でよいのですね。ww ということは、仁様は「ひとし」様ではなく「ひろし」様とお読みするんですね。^^;
by ChinchikoPapa (2012-05-31 12:40)
生まれた時は大和寮でした。
両親に話を聞くばかりで記憶にはありません。
写真嬉しいです。
コメンに下の階はコンクリート上は木造建築とありましたが
元は消防署だったそうです。
共同炊事場には、消防士が下りる為の穴が板でふさがれてたらいしです。
by 大和寮生き残り (2017-05-31 08:01)
大和寮生き残りさん、貴重な情報をありがとうございます。
ご教示いただきました情報をもとに、古い地図類を調べていましたら、1940年(昭和15)の参謀本部が発行した1/10,000地形図に、「大和寮」の位置からやや岩崎邸のある北寄りに「消防」とおぼしきマークが採取されていました。昭和初期の呼称ですと、「消防ポンプ所」でしょうか。
長崎バス通りの西側は、戦争末期の建物疎開で沿道の家屋が解体され、また空襲を受けて焼けていますので、戦後すぐのころに南へやや場所を移して、消防署を再建しているのかもしれませんね。
そのあたりの事情は、記事中に登場しています地元の方々が、より詳しくご存じだと思います。
by ChinchikoPapa (2017-05-31 12:18)