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バラック装飾社と今和次郎の仕事。 [気になるエトセトラ]

食堂ノ茶碗ノカケ方192706.jpg
 下落合のアトリエで画塾「どんたくの会」Click!を開いていた曾宮一念Click!鶴田吾郎Click!は、関東大震災Click!の直後から塾生が集まらなくなり定期的な収入が途絶えた。ふたりは、震災の焼け跡に建ちはじめた店舗の、図案の仕事でもしようかと話し合っている。
 大震災後に、東京市街地で発生した洋画家にもできる店舗の仕事というのは、わたしは当然店内の室内装飾(画)だと考えていた。焼失してしまった店舗を、間に合わせのバラックで再建する際、殺風景な室内にイラストや絵画を描く仕事が発生していたからだ。ちょうど、昭和初期の銀座高級バー「コットンクラブ」の野田英夫Click!と寺田竹雄のように、店内の壁面に装飾をほどこす仕事のニーズが高まったのだと考えた。ところが、わたしの想像を超えて、洋画家やグラフィックデザイナー(図案家)の需要は、店内装飾ばかりではなかったのだ。
 それに気づいたのは、1923年(大正12)9月に早くも設立された、「バラック装飾社」の仕事を目にすることができたからだ。バラック装飾社は、豊多摩郡淀橋町柏木937番地に設立され、洋画家の中川紀元や榊原泰、横山潤之助らが参画する会社だった。同社の宣伝文から引用してみよう。
  
 今度の災害に際して、在来から特別な主張をもつてゐる私達は、因習からはなれた美しい建物の為めに、街頭に働く事を申し合せました。バラツク時代の東京、それが私達の芸術の試験を受けるいゝ機会だと信じます。/バラックを美しくする仕事一切----商店、工場、レストラン、カフェ、住宅、諸会社その他の建物内外の装飾/一九二三年九月
  
 同社メンバーの中に、東京美術学校を卒業したあと、早稲田大学で建築学を修めた同大教授の今和次郎の名前がみえている。ちなみに彼の教え子には、当サイトであまた作品をご紹介してきた「あめりか屋」Click!山本拙郎Click!たちがいる。今和次郎は、建築家や図案家、住まいの研究家、服飾研究家、古民家研究家、民俗学者などの側面よりも、「考現学」のパイオニアとしてのほうが圧倒的に有名だ。東京の街角や郊外で、実にさまざまな観察をして風俗の統計調査や街並みの記録などを行なっている。女性のスカートの長さや、勤め人のカラー(襟)のかたち、通行人の職業、髪型、履き物、帽子、靴下の種類、男のヒゲの形状、果ては某食堂の欠けた茶碗のヒビの入り方、ある区画の野良イヌたちの身体の模様まで、ありとあらゆる事象の統計調査を実施した学者だ。
バラック装飾社仕事1.jpg バラック装飾社仕事2.jpg
バラック装飾社仕事3.jpg 今和次郎採集講義2011.jpg
バラック装飾社チラシ.jpg
 今和次郎が設立した、バラック装飾社の仕事を実際に目にしたのは、今春開催された「今和次郎展」と図録『今和次郎 採集講義』(青幻舎/2011年)においてだった。展示されていた写真を見ると、バラック建築の内部ばかりでなく外部のいたるところ、建物全体に前衛的なイラストやデザインがほどこされているのがわかる。バラック装飾社の仕事を、同図録の解説から引用してみよう。
  
 彼のユニークな点は、その様な建築事業の傍ら、震災バラックの調査をおこない人々の巧まざる創意に注目するとともに、バラック装飾社を設立して被災都市の風景が人々に与える心理効果を考慮したアバンギャルドなデザインをおこなったことである。その他帝大セツルメントハウスの設計、消費経済で変貌する都市の生活を記述した考現学調査をおこない、その成果を雑誌に投稿すると同時に展覧会で発表、『新版大東京案内』(1929年)をまとめた。
  
 曾宮一念と鶴田吾郎が、震災後の新しい仕事として注目したのは、このバラック装飾社の成功を目の当たりにしたからにちがいない。でも、ふたりは第1次「どんたくの会」の解散から、思いきって仕事を変えることをせず、鶴田は下落合804番地へ新たにアトリエClick!を建設して、そのままふたりともタブローの仕事をつづけている。
 今和次郎は、(城)下町Click!銀座や上野、本所などにつづき東京郊外へ調査範囲を拡げ、地域ごとの調査統計を比較研究するという方法論をとっている。彼はこれら考現学の実践成果を、急速に発展しはじめていた新宿駅の近く、新宿紀伊国屋書店の2階展示室で1927年(昭和2)10月15日から21日まで「しらべもの[考現学]」展覧会を開いて発表している。展示内容を見ると、それまで誰も目を向けなかったユニークなテーマが並んでいる。当時のアカデミックな学者からは、冷笑されこそすれ一顧だにされなかったと思われる風俗調査の統計資料だ。
蟻ノ歩キ方1925.jpg 東京場末女人ノ結髪1926.jpg
しらべもの[考現学]展覧会パンフ.jpg
 しかし、これら考現学の方法や成果物は、のちに多種多様な分野の学問へ大きな影響を与えることになる。おそらく、当時の学者はアリさんの歩く順路から井の頭公園の自殺者分布まで、ありとあらゆる調査を行なっていた彼の仕事を、せせら笑っていたのではないか?
 紀伊国屋書店の2階で展覧会を開いたのは、同書店の田辺茂一と知己を得ていたからだと思われるが、「しらべもの[考現学]」展のスケジュールにご留意いただきたい。佐伯祐三Click!石井柏亭Click!の紹介により、同書店の2階で個展Click!(同年4月16日~23日)を開いてから、ちょうど半年後の開催だったことがわかる。今和次郎の展覧会をとらえた写真を見ると、佐伯が写る個展写真との共通点が見えて面白い。佐伯が腰かけているイスやテーブルと同じものが写っており、わずか6か月前、佐伯は大きな灰皿が置かれたすぐ左側のイスに腰かけていたはずだ。目を細めてタバコをふかす佐伯は、この灰皿に吸い殻を落としていたのだろう。
 紀伊国屋書店の展覧会場は想像していたよりも狭く、10~20号の作品を額に入れて展示したとすれば、おそらく20~30点ほどで壁面はいっぱいになっただろうか? この小さな展覧会場で、『下落合風景』Click!がどれだけ売れたのかに興味が引かれる。未知の『下落合風景』Click!のテーマも、いまだ不明のままだ。藤川栄子Click!の証言によれば、東京でも同作品を扱う画商がいたとのことなので、個展で売れた作品が市場に出まわっていた可能性がありそうだ。
 1927年(昭和2)の今和次郎「しらべもの[考現学]」展覧会は、調査結果を描いた画用紙や模造紙が壁にビッシリと貼られ、たいへんな人気を呼んでいた様子が写真からも伝わってくる。
  
 いったい考現学の何がこの熱中をさそったのだろう。しかも、それから80年以上も経た現在でも、考現学への関心は、うすれるどころか、ますます着目されているのは、なぜなのだろうか。日常のあたりまえのできごとが、時、場所、職業等々の要因によって、特殊性を帯び始めることに気がついたのは、今和次郎であった。その着眼点のユニークさと、採集結果を図や絵であらわせる描写力の巧みさを合わせ持つ、今の特性が最も発揮されたのが、モデルノロヂオであった。
  
しらべもの[考現学]展覧会1927.jpg
佐伯祐三個展192704.jpg 今和次郎.jpg
 日常生活であたりまえだと思われることを、ちょっとちがった角度や切り口からとらえ直してみると、非常に興味深い研究テーマや問題意識が形成されること、そして時代を重ねて継続的に観察しつづけることが、とても貴重でかけがえのない記録を産みだすことを、今和次郎は教えてくれている。今和次郎は、洋画家・松本竣介Click!が下落合のアトリエで編集していた『雑記帳』Click!へも寄稿しているので、機会があれば、改めてご紹介してみたい。

◆写真上:1927年(昭和2)6月に行なわれた、極秘扱いの「某食堂ノ茶碗ノカケ方」調査報告。
◆写真中上:バラック装飾社による1923年(大正12)の仕事で、開新食堂(上左)と「堀商店」(上右)、東條書店(中左)。中右は、2012年に開催された「今和次郎 採集講義」展図録。は、1923年(大正12)9月に発行されたバラック装飾社のチラシ。いずれも、同展図録より。
◆写真中下上左は、50cmの平地をアリが横切る時間を測った「蟻ノ歩キ方」(1925年)。上右は、新宿通りで女性の髪形を調査した「東京場末女人ノ結髪」(1926年)。は、1927年(昭和2)10月15日~21日に開催された「しらべもの[考現学]」展覧会の目録。
◆写真下は、紀伊国屋書店の2階で開かれた「しらべもの[考現学]」展の会場風景。下左は、6か月前に同会場で開かれた佐伯祐三の個展風景。下右は、早大教授時代の今和次郎。
参謀本部地形図1887.jpg


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コメント 49

ChinchikoPapa

アビー・リンカーンを聴くのは24時以降が多く、最近は宵のうちに聴くことがなくなりました。たいがい、アルコールが入ってますが・・・。w nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2012-08-12 01:13) 

アヨアン・イゴカー

>今和次郎は、建築家や図案家、住まいの研究家、服飾研究家、古民家研究家、民俗学者などの側面よりも、「考現学」のパイオニア
面白い人物ですね。一貫性のなさ、興味のあるものをなんでも統計を取ってみる、資料を集めてみる、その姿勢が、学者と言うよりは芸術家に思われます。ダダやシュールレアリスムの同時代に進行していた見事なパフォーマンス芸術の一つに思われます。
by アヨアン・イゴカー (2012-08-12 10:00) 

ChinchikoPapa

五角形鳥居は、ちょっと面白いですね。「合格」と「五角」のシャレではないかと・・・。w nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2012-08-12 11:05) 

ChinchikoPapa

風鈴列車は、地域によっていろいろな音色を響かせそうですね。撮られた写真には、ギヤマンの「江戸風鈴」が多そうですが・・・。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2012-08-12 11:09) 

ChinchikoPapa

記事に掲載されたいちばん上の女神像、すぐにも軸画のモチーフとして描かれる不動明王立像をイメージしてしまいました。作者はこの構図を、どこかで目にしているのかもしれないですね。nice!をありがとうございました。>nikiさん
by ChinchikoPapa (2012-08-12 11:20) 

ChinchikoPapa

カットモデルをやると、しばらくは美容院の料金が無料になるようですね。うちの子どもも声をかけられ、幕張で開催された美容師たちの全国大会へ出場したのですが、その後、数年間は整髪代がタダだったようです。ただし、大会でのヘアスタイルはかなりアヴァンギャルドで、帰宅したときはギョッとしましたが。ww nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2012-08-12 11:27) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントとnice!をありがとうございます。
一度、今和次郎の講義を聞いてみたかったですね。今和次郎展の会場では、おそらく紀伊国屋書店2Fの展示会場を意識したものか、ほぼ同じスペースの部屋に観察の成果が、ところ狭しと貼られていました。どこか、夏休みの自由研究発表会のようで、とても楽しい展覧会でした。w
by ChinchikoPapa (2012-08-12 11:36) 

ChinchikoPapa

岩波写真文庫は、かなりの冊数が親父の本棚に揃っていて、わたしもよく見ていました。神奈川県から東京へもどるとき、すでに処分してしまったのか見当たらなくなっていたのが、いまでも残念です。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2012-08-12 12:05) 

tree2

私も今和二郎の講義を聞きたかった!!! 
我が母校なんですが、継承者はいなかったみたい。しようがない大学だ。
茶碗のひび割れまで記録するとは…日常を見る自分の目が曇っている、いや、ほとんどふさがっていると自覚させられます。

さて、話は別ですが「四谷怪談」の四谷は、じつは、雑司ヶ谷ではなかったか、といっている方がいます。れっきとした歌舞伎関係者です。
いわゆる四谷と考えると、殺したお岩さんを川に捨てにいきにくいんだとか。ヨツヤという地名がほかにもあったはず…
実際、「四家」の地名が、雑司ヶ谷児童遊園なるちっぽけな公園に残っています。伊右衛門は、死骸をずるずる引きずって、雑司ヶ谷から神田川に向かう坂道を下っていった。なるほどイメージ湧きます。
ChinchikoPapaさん、どう思われますか?
by tree2 (2012-08-12 13:18) 

ChinchikoPapa

福神漬けの缶詰「日本橋漬」は、一度も食べてみたことがないです。どこかで、佐伯祐三が食べていた(山田新一によれば福神漬けといわれる)缶詰「はなよめ」に通じるものを感じます。nice!をありがとうございました。>tree2さん
by ChinchikoPapa (2012-08-12 13:20) 

ChinchikoPapa

tree2さん、コメントをありがとうございます。
いま、考現学講座やゼミを設置したら、けっこう学生たちが集まりそうですよね。大学の大きなアピールポイントになるかもしれず、卒業生に延々と寄付金の振込用紙を送りつけてくるのも止むかもしれません。^^;
おっしゃるとおり、鶴屋南北の「東海道四谷怪談(あづまかいどう・よつやかいだん)」は、雑司谷四谷が舞台ですね。ずいぶん以前に、「目白に住んでたお岩さん」という記事を書いてました。w
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-07-14

この「よつや」という発音の地名に、「四谷」あるいは「四家」の文字が半々ぐらいずつ使われたのは、おそらく大正時代ぐらいまでつづいていたと思われます。大正期の住宅明細図には双方が併記されていて、全体の地域表現では「四谷」、具体的な大字では「四家」が採用されていますね。
明治以降、四谷(四家)の範囲はかなり拡がり、字になったころから目白通り(旧・四家通り)に面しているエリアまでが、「四家(四谷)」と呼ばれていたようです。大正期の四谷(家)写真は、少し前の『高田村誌』のご紹介記事にも登場していて、上から4段目の青い写真が「四家通り」です。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-08-06

by ChinchikoPapa (2012-08-12 14:09) 

yutakami

私は所属組織としては、学生時代も今も社会学なので、考現学の魅力には長年参っています。
by yutakami (2012-08-12 18:43) 

sig

目録の写真を見て、すぐに目に留まったのは、37の「鼻のたらし方」という項目でした。当時の小学生までの児童はたいてい洟を垂らしていたものですが、最近は全く見かけませんね。笑
by sig (2012-08-12 19:18) 

ChinchikoPapa

yutakamiさん、コメントとnice!をありがとうございます。
わたしも、考現学を一度でも学びはじめたら最後、一生足抜けができなくなりそうな気がしています。こちらにも、それに似た記事がいくつかあるのですが、ときどき無性に考現学的アプローチの記事を書きたくなりますね。w
by ChinchikoPapa (2012-08-12 20:37) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
最近、洟をたらした子は確かに少ないですね。ちなみに、うちのオスガキ下は幼稚園時代までときどきたらしていましたが・・・。
この研究は、左右どちらの鼻からどのような洟がどこまでたれていたのか・・・ということだと思いますが、東京の地域によってもずいぶん差異が認められた研究ではないかと思います。w
by ChinchikoPapa (2012-08-12 20:43) 

ChinchikoPapa

オホーツクの海は、天国ですね。いまが旬のウニが、実に美味しそうです。nice!をありがとうございました。>da-kuraさん
by ChinchikoPapa (2012-08-12 20:48) 

ChinchikoPapa

クルマのCMでときどき登場する、海上の長い橋は角島大橋なのですね。上を走ると、きっとお尻がムズムズしそうですが・・・。w nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2012-08-12 23:10) 

ChinchikoPapa

ポケモンの作画は、練馬の虫プロで行われているんですね。高田馬場の手塚プロダクションとは、作品制作のすみ分けをしているのでしょうか。nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2012-08-12 23:17) 

Marigreen

Papaさんの記事を見ないでいるとどうなるか?という実験をしてみたら、不幸感がしてきたので、やはり見ることにした。個々の記事の感想は、また書かせてもらうけど、もはやPapaさんの記事を見ることは、私の生存に不可欠になってしまったようだ。
by Marigreen (2012-08-13 07:29) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
わたしの記事に、健康サプリメントのような「効果」がおありだとすれば、うれしいですね。そろそろブログの容量が気になりだしましたけれど、病気になるか仕事が超多忙になるか、飽きるかしない限り書きつづけたいと思っています。いちばん可能性が高そうなのは、「飽きる」でしょうか。^^;
by ChinchikoPapa (2012-08-13 10:00) 

tree2

お岩さんは雑司ヶ谷に住んでいた。やはり!
この説を私に話してくれた方は、「歌舞伎ソムリエ」の奥田健太郎さんです。目白にお住まいで、ルプティニのカウンターで原稿を書いておられました。原稿を手書きする年代でもないのに、パソコン不可。今も?
私は、伊右衛門が通ったルートを想定してみました。目白不動尊のあたり、夕方に散歩すると人気がなくて陰気。ここがぴったりだ。「目白ホラー通り」と名づけました。


by tree2 (2012-08-13 12:51) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>大嶋洋介候補事件被害者の会さん
by ChinchikoPapa (2012-08-13 14:09) 

ChinchikoPapa

tree2さん、重ねてコメントをありがとうございます。
「目白ホラー通り」、いいですね。ww もともと目白台にも、幽霊坂とかオバケ坂(ともにバッケ坂の転化だと思いますが)と呼ばれる坂がありますので、緑が多くお屋敷街の斜面にはピッタリです。^^;
ただし、遺体を戸板の表裏に打ちつけて、神田上水へざんぶと投げこんだとたんに、水番屋の役人にさっそく「御用」になるでしょうし、もし見つからなかったとしても、戸板は関口のダム(大堰)にひっかかって下流の江戸川まではいけませんから、大川向うの砂町・隠亡堀までたどり着かせるためには、やっぱり伊右衛門さんがかついでいかないと具合が悪そうです。w
カフェ「ルプティニ」は、懐かしいですね。何年か前に軽井沢へ移転し、いまは居抜きで別の喫茶店になっていますので、PC不可ということはないんじゃないかと思います。今度、立ち寄って試してみますね。
by ChinchikoPapa (2012-08-13 14:20) 

ChinchikoPapa

もうひとつ、異性を異常に憎むというコンプレックス、あるいは異性関係がうまく築けないという子も増えていますね。学校の環境というより、家庭環境のように思いますが・・・。nice!をありがとうございました。>銀鏡反応さん
by ChinchikoPapa (2012-08-13 19:55) 

ChinchikoPapa

いずれのチャーシュー麺も、チャーシューが大きくて立派ですね。最近、うまいチャーシュー麺に出会っていません。nice!をありがとうございました。>suzuran6さん
by ChinchikoPapa (2012-08-14 22:11) 

ChinchikoPapa

兜町から江戸橋あたり、ときどき散歩をするのですが、高速道路とビルとにはさまれて日陰になってしまった兜神社がちょっと哀れですね。nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2012-08-14 23:53) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>たいせいさん
by ChinchikoPapa (2012-08-15 23:16) 

CLS


すみません、”雑司ヶ谷四屋”が一人歩きしてしまいそうなので、横やりを入れさせていただきます。
"お岩の住んでいた四屋”は、雑司ヶ谷四屋では無く、高田四屋だと思うのですが??、

当時の目白通りの北側のこの地域の大部分は、過去数百年間高田で
雑司ヶ谷との境界は、現目白通りと不忍通りの交差点の西側20M程の所から、北西に向かう路地が高田(村,地域)と雑司ヶ谷(村,地域)の境界だったようです。(目白通りが境界と成ったのは、昭和の住居標示変更以降)

問題の”雑司ヶ谷四屋"ですが、私が調べた範囲では、”町”としては見つけられません、単に"雑司ヶ谷四屋”だとすれば、現不忍通りと目白通り、境界路地に挟まれた、狭い場所が当てはまるかと思います。

余談ですが、"雑司ヶ谷四屋”から不忍通りを挟んだ、向かい側が小石川四屋”だった様です。

余談続きで申し訳ありませんが、"雑司ヶ谷2丁目四屋児童遊園”この場所は、箱根土地や武蔵野鉄道と、関係の深かった"高田農商銀行”の跡地です
閉店した時期が、高田本町1丁目から雑司ヶ谷2丁目に、住居標示変更前か後かは、記憶にありません、何となく閉店後も別法人が、有ってその後児童遊園に成った様な気もしますが、記憶が薄れてます。



by CLS (2012-08-17 01:38) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
現在の雑司ヶ谷2丁目のイメージに引きずられ、大字を雑司ヶ谷、小字を四ッ家(四家)と思いこんでいたようです。ちゃんと、正確な流れを確認しないといけませんね。おっしゃるとおりで、ご指摘ありがとうございました。
●1878年(明治11)の大区小区制が廃止され、郡区町村編成法の施行と同時に「高田村字四ッ家」
●1889年(明治22)の市町村制の施行で「高田村大字高田字四ッ家」
●1920年(大正9)の町制施行で「高田町大字高田字四ッ家」
●1932年(昭和7)の豊島区成立で「高田本町1丁目」(四ッ家の一部が高田南町1丁目→高田1丁目?)
●1964年(昭和39)の住居表示施行により「雑司ヶ谷2丁目」
・・・という経緯で、「大字雑司ヶ谷字四ッ家」という時代は存在しません。
小石川区の「四ッ家」についても、どのような住居表示の変遷をたどったものか、文京区の資料を確認してみたくなりました。
by ChinchikoPapa (2012-08-17 16:22) 

ChinchikoPapa

CLSさん、1点リプライ漏れです。
「四家町」の表記ですが、嘉永4年の近吾堂版「江戸切絵図」、嘉永5年の「御府内場末往還其外沿革図書附図」、安政4年の尾張屋清七版の切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」、制作年代が特定できない「御府内備考附図」などでは、「四家町」と採取されていますね。ご参照ください。
by ChinchikoPapa (2012-08-17 16:41) 

CLS


ChinchikoPapaさん、確認していただき幸いです”雑司ヶ谷"と"四ツ屋"を
冠した、公園まで有るので地元の方でも、混同しますね

小石川四ツ屋も同じように、書いてみました
●1869年(明治5)に周辺の旧武家屋敷、本住寺を併せ高田豊川町成立
●1878年(明治11)の小石川区成立に伴い小石川区に編入
●1947年(昭和22)の小石川区、本郷区が合併し文京区成立に伴い文京区高田豊川町に
●1966年(昭和41)の住居表示施行により、旧小石川四ツ屋地区は”目白台2-8に

東隣の高田老松町も、ほぼ同じ時期に成立し現在の、目白台1丁目、3丁目と成ったようですが、母体と成った町家が"高田四ツ屋”(現目白台3丁目交差点付近に有った"四ツ屋"です、旧高田村が分散した"四ツ屋をどのように区分してたか?、不思議です)でやはり周辺の旧武家屋敷を組み入れ成立したようですが、この"母体"部分の影響を、色濃く残してるが来月の周辺各神社の例大祭でして

旧高田豊川町地区 = 腰掛け稲荷
旧高田老松町地区 = 高田氷川神社
旧高田村地区 = 高田氷川神社
旧雑司ヶ谷村地区 = 大鳥神社
旧文京区雑司ヶ谷町地区の不忍通り北側 = 大鳥神社
旧文京区雑司ヶ谷町地区の不忍通り南側 = 腰掛け稲荷

この旧文京区雑司ヶ谷町地区の不忍通り北側は、元々雑司ヶ谷なのですが、南側は、大部分が旧武家屋敷で間に細々と、小石川村の百姓地だった様で、中心となる町家が無く、雑司ヶ谷に編入されたようです。

この江戸期からの、氏神が今でも伝わってるのですね、高田老松町は母体と成った、"高田四ツ屋"の流れで、今でも高田氷川神社、高田豊川町は母体と成った小石川四ツ屋の関係で腰掛け稲荷
旧文京区雑司ヶ谷町地区の不忍通り南側は、旧小石川村の関係で、腰掛け稲荷の氏子が未だに継続されてます。

おかげで、旧文京区雑司ヶ谷町会は、昭和30年代に分裂してしまいました、恐るべし氏神様...

by CLS (2012-08-17 22:47) 

ChinchikoPapa

CLSさん、重ねてコメントをありがとうございます。
おおっ、さっそく「小石川四家」の解説、ありがとうございます。w 文京区のほうの資料は手薄ですので、たいへん勉強になります。小石川の四家は、いまの不忍通りと目白通りにはさまれた、ちょうど日本女子大学あたりに相当するでしょうか。
大正末の「高田町住宅明細図」を見ますと、高田町の「字四ッ谷(家)」のエリアが目白通りをはさんで、東西にかなり大きなエリアを占めていますね。東は小さなエリアの「字豊川」、西は学習院のほうまでつづく「字稲荷」と、大正期には江戸期とはすでにかなり異なる、字の拡がり方をしているものでしょうか。
神社の祭礼エリアで見ますと、高田氷川明神のエリアが高田町(村)の総鎮守ということもあり、いちばん広いでしょうか。江戸期の氏子エリアを現在の住居表示に重ねてみると、案外、昔の地域割りや町割りが透けて見えて、思わぬ発見がありそうです。
by ChinchikoPapa (2012-08-17 23:38) 

NO NAME

ChinchikoPapaさん、即答ありがとうございます

"ヨツヤ"の標記ですが"四ツ屋","四屋"が混在してますね、1716年の村絵図に至っては、単に"屋町"の標記...

実は昨日は四ツ屋児童遊園に行き標記を見ると、”四ツ屋"だったのでこの標記としました、児童遊園に行ったり理由は、最後に記します

小石川四ツ屋の現住所ですが、目白台2-9でした、済みません我が家の住所から引き算したのですが、一カ所勘違いして引きすぎました(;-_-メ;)
目白通り、不忍通り、幽霊坂に囲われた三角地域です。

四ツ屋の範囲ですが大正期にはかなり広い範囲ですね、江戸期には大名屋敷だった地域に,人家建ち始め"四ツ屋"の範囲が幌がったのでしょうか?、"関東大震災後に移住する人が多く、人口が急激に増えた"に合致しますね

字稲荷ですが、この名前はどこから来たのですかね?、稲荷坂の坂上の稲荷は有名ですが、此所は字四ツ屋だし?、字稲荷の周辺を歩いても稲荷社は見つかっておりません

字豊川は、一時豊川町に編入されたが、小石川区と北豊島郡線引きにより、高田側に取り残された地域と考えられます

旧地域と氏神の関係は調べると面白そうですね、以前は御神酒所に行っても,氏神の確認はしにくかったのですが、ここ数年は御神酒所以外の自町会の縄張りに、神社の幟を立てる様になったので、分かりやすくなりました。

尚、各神社のエリアですが、大鳥神社も結構広いですよ、大字雑司ヶ谷中現南池袋の2,3,4は含まれてるし東池袋も全域?、南池袋1丁目も多分含まれるでしょう

尚、例の高田と雑司ヶ谷の境界路地ですが、一部は現在も文京区と豊島区の区界になっており、”何故こんなに細い路地が、そのような重要な役目を??”と気になり、境界部分をただって見ました。
境界路地 → 旧鎌倉街道 → 鬼子母神西側の路地 → 明治通りを渡り更に進むと、なんと今は無き長崎踏切跡地に..、長崎道の末端だったのですね

長くなり申し訳ありません、最後に"四ツ屋児童遊園"行った理由ですが、高田農商銀行で昭和10年に発生した、銀行強盗未遂事件で「拳銃と短刀を持った二人組が、おそった際に、辻行員が裏口に逃れ電話を<以下略>」を読み、"裏口を出ても、他に抜ける様な路地は無かったはず?”とのことで、裏に抜ける路地の有無確認に出かけた次第です、やはり路地はありません(裏口に電話があったとの意味か?)

この事件に関しては↓のURLに詳細が書かれてます(豊島区郷土資料館発行"かたりべ"No62、4ページ)
http://www.city.toshima.lg.jp/dbps_data/_material_/localhost/050bunkashoko/040gakushu_sports/kyodoshiryokan/kataribe/kataribe62.pdf

この事件犯人が、日本無政府共産党の構成員で、運動資金の確保が目的とわかり、全国の無政府主義者400人以上が、検挙される事態になったそうです。
又、犯人が神戸より笠置丸にて、上海に逃亡を企てたが、出航前に逮捕されたと、小説やドラマの様な結末だったようです、古い事なので断片的西か調べられてません後もう少し調べてみます

by NO NAME (2012-08-18 18:27) 

CLS

済みません、↑ NO NAMEで東京してしまいました
by CLS (2012-08-18 18:51) 

ChinchikoPapa

CLSさん、ごていねいなコメントをありがとうございます。
わたしの手元にある地図や絵図では、「四ッ家」あるいは「四家」の表記が多いですね。「四ッ谷」と表記されているのは、大正期の住宅案内のものに多いようです。
江戸期の絵図には、「四家町」の周囲は「町屋」と書かれていることが多いのですが、「屋町」となっている表現もありましたか。もっとも、当時の絵図は向きによって右から書いたり左から書いたりと、表記が統一されていないケースもあって、ときどき武家の苗字表記などで迷うことがあります。つい先年も、御徒町の切絵図で「橋本」なのか「本橋」なのか、エンエンと調べつづけた経験がありました。
目白台2-9の件、了解です。日本女子大学の西側に当たりますね。こういうことがわかってくると、またその場所を歩きたくなるのが因果な性格ですね。^^; 西側の樹木が伐られ、あまり怖くなくなってしまった幽霊坂も、久しぶりに散歩してみたいです。
それから、「字四ッ家」の南への拡がりによって東西に分断されたように見えます「字稲荷」ですが、東端に豊川町がありますので、大岡屋敷の豊川稲荷の可能性はあるでしょうか。赤坂の豊川稲荷とは姉妹社ですが、字がふられた当時、周囲から手厚い信仰でも受けていたものでしょうか。
それから、高田農商銀行の強盗未遂事件、非常に興味深いですね。「日本無政府共産党」というのも、なかなか歴史の舞台には出てこなくてめずらしいです。これは、当時の日本共産党の「強盗」事件を模倣したものでしょうか。例の戦後に判明した、当時の共産党の資金調達部門では実質トップだった松村昇(スパイM=飯塚盈延)と、特高警察とが相談・企画して自作自演で起こした、全国各地の「強盗」事件に刺激されたんでしょうか。
これを契機に、地下へもぐった多くの共産党員の一斉検挙と、同党の評判おとしの一石二鳥を狙った、特高の謀略の中では最大のものだったようですが、「日本無政府共産党」にも特高のスパイがいて、壊滅の手引きをしたものでしょうかね。
by ChinchikoPapa (2012-08-18 20:36) 

CLS

ChinchikoPapaさん昨日の投稿では、ミスが多々有り申し訳ありませんでした

"ヨツヤ"標記が、地図により異なり、困惑してますが、やはり正式には"四ツ屋"なのでしょうね

”ぞうしがや"の"が"は"["ケ"標記だ!」とこだわってた私ですが現住居標示では"雑司が谷"だし、メトロの駅名も"雑司が谷"に対し、墓地地名と電停名は"雑司ヶ谷"なので、使い分けが必要で、困惑してます。

> 西側の樹木が伐られ
幽霊坂の西側には現在マンションが2棟建ってますが、それ以前は,目白通り沿いには、チョコレート菓子工場、中間部分には一般家屋と小規模な印刷工場、不忍通り沿いは商店並んでました、従って樹木が有ったとの記憶はありません。
目白台一丁目の幽霊坂と混同されてるのでは?

2丁目の幽霊坂が木々で覆われてた、幕末期の御鳥見役(鷹匠の下役)一家を描いた、時代小説があります(諸田玲子女史著、"御鳥見女房シリーズ"、新潮文庫版)、幽霊坂に若い女性の幽霊を出現させたり(幽霊坂のお岩さん?)、鬼子母神にお百度参りに行くとか、"四ツ屋の親分"(岡っ引き)を頻繁に出演させたりと結構読める内容です。

> 「字稲荷」ですが、東端に豊川町がありますので、大岡屋敷の豊川稲荷の可能性はあるでしょうか。
旧豊川町の豊川稲荷は町域の南東端にあり、字稲荷からは結構距離があり名前の元に成ったかは疑問です。
ただし旧豊川町の豊川稲荷とは別の豊川稲荷が手前にあります、現高田1-13で豊橋の西側、神田川の近くです

此所まで書いたところで気がついたのですが、大正5年と10年の地形図を見ると、字稲荷は学習院の南に有るのに、大正14年の高田、戸塚全図、昭和7年の地形図では、東側に移動してます
字の範囲が広がるならまだ分かるけど(これも例は少ないでしょうが)、全く別の場所に移動するのは、不思議です

> 赤坂の豊川稲荷とは姉妹社ですが
どちらかというと"親子社"の方が近いのでは?、赤坂は豊川稲荷の東京別院ですが、旧豊川町の豊川稲荷は、東京別院が直接管理してるようです

日本無政府共産党の銀行強盗未遂事件は、おそらく共産党の事件を、模倣した物と思われますが、この事件の捜査過程でスパイと目された党員を殺害してた事が、発覚(2重スパイ以前の問題ですね)、連合赤軍の先を行ってた様です

400人検挙して、起訴されたのは17人、しかし強盗未遂では無く、治安維持法違反で起訴された様なので、17人の量刑が気になるところです
それにしても400人の検挙、特高の事だから、逮捕状も無しで「おいちょっと来い」引っ張って、さんざん叩いて吐かせ様としたのでしょうね。

起訴されず、釈放されても職場復帰は出来たのだろうか?、職だけでは無く、家族まで失った人もういそうですね。
中には宴席で「今の政府なんかいらない」と発言しただけで、"無政府主義者"のレッテルを張られた人もいそうで、恐ろしいですね

この事件に関しては時間をかけ、じっくりと調べてみます

by CLS (2012-08-19 17:14) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
雑司ヶ谷の表記も、面白いですね。四谷や市ヶ谷も、「四ッ谷」と「四谷」、「市ヶ谷」と「市谷」が混在してますし、落合地域の葛ヶ谷(現・西落合)も、「葛ヶ谷」「葛が谷」「葛ガ谷」といろいろな表記があって一定していません。
そのときどきで作成された資料や地図により、表記がバラバラですね。その中のひとつが、のちに行政によって規定されると、その表記が正式でメジャーのようになりますけれど、地元ではいろいろな表記が継承されて表現されつづけるような気がします。
あっ、幽霊坂はちがうほうの幽霊坂です。w 文京区の広域避難場所として整備されたほうの、幽霊坂のお話でした。こちらのほうが、昔から強いインパクトをおぼえていたもので、目白の幽霊坂というと条件反射のように胸突坂の西側坂をイメージしてしまいました。
会社から歩いての帰り道、街灯が10mおきぐらいにこれでもかと設置された、「真っ暗」な幽霊坂を経由して目白通りへと抜け、下落合まで歩いて帰宅していました。だから、あそこの西側樹木がほとんど伐られたとき、幽霊坂の風情が台無しになって心底ガッカリしました。
「字稲荷」の件、ちょっと惹かれますね。どこかに由来を記した資料が残ってないか、ちょっと気にとめておきます。
by ChinchikoPapa (2012-08-19 21:59) 

ChinchikoPapa

CLSさん、「字稲荷」の件ですが少し調べてみました。
記述が一定ではなく、所在地もバラバラなのですが、『高田村誌』では高田村大字高田410番地(1410番地の誤記?)に、コノハナサクヤヒメを主柱とする「無格稲荷社」の八兵衛稲荷が採取されています。稲荷不二浅間が合祀され、別名「さくら姫の宮」と称したことが記録されています。
ところが、『高田町史』になるとこの稲荷社は、高田町大字高田1326番地の学習院キャンパス内にあったものを、同高田1134番地へ遷座したとあり、八兵衛稲荷は別名「豊阪稲荷大明神」「せいげん社」とも呼ばれていることが記載されています。「字稲荷」のベースとなった社は、目白崖線を東西に移転しているらしい、おそらくこの社ではないかと思います。
by ChinchikoPapa (2012-08-20 14:46) 

CLS

ChinchikoPapaさん

"ッ"や"ヶ"の様に、漢字と漢字の間に入る文字の標記は、省略したり平仮名に成ったり色ありますね、探せば他にも多々有りそうです。

幽霊坂の件、やはり一丁目の幽霊坂でしたか、幽霊坂の東側も上部の和経塾が坂沿いに新たに寮を建設したので樹木は無くなり、明るくなってます、"肝試し"が出来る環境は失われてしまいました。

稲荷の件、調べていただきありがとうございます
私の方でも調べてみました,目白駅西の豊坂稲荷の縁起に”学習院の移転に伴いこの場所に移動”と書かれてたので、これかなと調べた結果です↓

"字稲荷"の稲荷の正体が分かりました、高田村の村地図を見ると金乗院の西側に稲荷の文字が有りました、村地図では距離関係が分からないので、新編若葉の梢を見ると"八兵衛稲荷"の項が有り、「この稲荷の西隣に富士見茶屋珍々亭が有る」と書かれてます。
最近お題に成った所ですね。

学習院の移転に伴い、目白駅西側に移転した...、今の豊坂稲荷ですね

"字稲荷"の位置が地図の作成年代により異なる件ですが、実際に"字"位置が移動するとは考えられないので、参謀本部陸地測量部のミス?

"字"の使用頻度が、低ければ地図が間違えてても、日常生活上は支障無いので、当時の広告に書かれてる、住所を調べたら高田千登世町、高田若葉町以外は"高田○○○番地"の標記が多く小字の使用頻度は低かったと考えられます。
番地(地番)は千登世町、若葉町に関しては1~、他の地区は、番地(地番)が重複しない様、振り分けてあるので、"高田"のみで機能したようですね

他の小字地区の地番で、大正5年と大正10年版の地形図を見ると"四ツ屋"と書かれてる部分は、若葉町の地番、"宿"と書かれた部分は、実は四ツ屋、宿はその南の砂利場と書かれた部分、"字砂利場"は消滅してます。
"字若葉町"の地番が振られた地域に"四ツ屋"書かれてところからすると、やはり地形図の間違えのようです

「陸軍のだから間違え無し!」では無かったですね(簡単に信用してはいけない教訓に成ります)

by CLS (2012-08-20 18:13) 

ChinchikoPapa

CLSさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
わたしも、参謀本部の地図を1910年(明治43)から1930年(昭和5)まで、年代を追って見てみたのですが、困ったことに「字稲荷」は移動してますね。w 1925年(大正14)までは、「字稲荷」は学習院の南側崖下に採取されていますが、昭和期に入ると、突然、金乗院の北西位置に移動しています。
ただし、より古い最初期の1887年(明治20)の参謀本部地図では、金乗院の北東側は「字四家耕地」、北西側は「字稲荷耕地」の名称が記載されていて、大正期の地図とは矛盾していますね。むしろ、昭和初期の地図のほうが、明治期の「字稲荷耕地」の位置に一致しており、学習院の南側にあった「字稲荷」の位置には、新たに「字後田」の名称が挿入されています。最初期の参謀本部地図では、「字後田耕地」となっていたところで、こちらの字も明治期の地図に“回帰”しているといえるかもしれません。
つまり、大正期を通じて「字稲荷」の位置が一貫してまちがっていた・・・ということなのかもしれませんね。w
記事末に、最初期の1887年(明治20)に作成された1/5,000地形図の、当該箇所をアップしてみました。ご参照ください。
by ChinchikoPapa (2012-08-20 20:13) 

CLS

ChinchikoPapaさん、地図の貼り付けありがとうございます。

明治中期の旧東京15区の地図は見た事が有るのですが、この部分は初めてです
斜面の描き方がおもしろいですね、等高線による標示に対し、標高、高度差は分からないけど、等高線が読めない人でも簡単に地形をイメージできそうです、精度から見ると等高線の有る普通の地形図から。書き起こしたと思われますが、当時は等高線による地図を読めない将校が多かったのかな?

この時点で、江戸末期には4カ所有った高田四ツ屋町中3カ所は、各々高田千登世町、高田若葉町、高田老松町と改名してるのですね、後の字名の後ろに付いた"耕地"は、”農耕地を含む"とか"農耕地で有る"との意味でしょうか?

"字四ツ屋耕地"の南半分は、根性院が移転してくる前の田安家の旧下屋敷ですね、"広大な敷地"との事でしたが、確かの広大ですね(根性院が移転してくるのは明治36年です)明治20年当時は、何処が管理してたのか気になります
戦災で焼けたのが、原因か今では根性院の敷地は狭々として寂しい限りです、池も無くなってしまいました

不思議な事に,小石川区との境界が、その後の地形図と異なってますね、この後で再調整されたのか?、雑司ヶ谷町の"町"の字の北側に有る438番地の更に北の墓地先を東西に走る路地が現在の境界です
余談ですが、438番地の北に有る小さな墓地は、雑司ヶ谷村の庄屋だった柳下家の"個人墓地です(柳下邸は238番地)、東京23区内で個人(一族?)墓地は此所だけと聞いた事が有ります

おかげさまで"字稲荷"の、名前と成った稲荷の正体も分かりましたし、"字"が移動する謎も解けました、ありがとうございました

by CLS (2012-08-21 18:21) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
わたしも、参謀本部の陸地測量部の地図というと、いつも1/10,000地形図ばかり参照していて、最初期の1/5,000地形図を参照することはめったにありませんでした。おっしゃるとおり、土地の凹凸を等高線ではなく、のちの地形図では「堤」や「崖」を表す記号のような表現で描いているのが、直感的に地面の起伏を把握できて面白いですね。
字稲荷が大正期の1/10,000地形図を通じて、初期の1/5,000地形図にも描かれた「字後田耕地」の位置へズレてしまい、昭和期に入ると1/10,000地形図ではなぜ再び元の位置へ復帰しているのか、その経緯はわかりませんけれども、その元となった稲荷が「八兵衛稲荷」ですので、参謀本部に字位置をまちがえて描いた「うっかり八兵衛」さんがいたとすると、俄然、ここの記事に取りあげたくなる物語の匂いがしてきます。ww
落合地域にも、同様に途中から位置が大きくズレていく地名があって悩ましいのですが、ある程度ピンポイントで付けられていた地名が、字として採用されるととたんにフラフラ動きはじめているような気がしないでもないですね。下落合では、「不動谷」と「丸山」、「前谷戸」などの地名を元にした字が、時代によってフラフラさまよっています。
1887年(明治20)の1/5,000地形図に採取された「〇〇耕地」は、地名と言うよりは「字稲荷の農地」「字四家の農地」というほどの意味合いではないかと思いますが、一度地図にこのような名称が記載されると、それがあたかも地名のようにひとり歩きをしはじめることもありますね。
落合地域の例でいいますと、「字東」「字南」という地名があったのですが、地図でその下に「耕地」と付けられて以来、それがもともとの地名のように使われはじめてしまいました。その「〇〇耕地」と付けたのも、陸軍の1/10,000地形図が最初だったりします。w
by ChinchikoPapa (2012-08-21 19:35) 

ChinchikoPapa

わざわざごていねいに、nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2012-08-22 13:14) 

CLS

ChinchikoPapaさん、レスポンスありがとうございます(いつも速いですね)

八兵衛稲荷と陸軍参謀本部のうっかり八兵衛ですか良いですね、何時か発表されるのを期待を込めて待ちします。

「うっかり八兵衛だと水戸黄門?]、と思ったら八兵衛稲荷は水戸光圀と関係が有りますね、いつもの新編若葉の梢には、"八兵衛稲荷と合祀されてる富士浅間神社の祭神は此花咲耶姫で、水戸光圀卿公御真筆の此花咲耶姫の額が有り、7/26日の祭礼にはこの額の写しを、飾った"と有ります

最も、八兵衛稲荷の別当寺だった、金乗院にも同じ話が伝わってるので、両方に額が有ったのか、通常は金乗院で保管してたのでしょう。

字の"耕地"の件ですがたまたま新編若葉の梢の、溜坂の項に"高田村砂利場耕地”なる文字が有りました、新編に成ってから追加?、とも思われる原文(付則で付けられてる、活字かした原文)を見ると"砂利場耕地"の文字すら有りません

ただ他の項に”砂利場耕地"の文字が有り、少なくとも"砂利場"は"耕地"がついてた様です

上記、額の件も確認どちらも、"水戸光圀卿御真筆の額が納められてる"と書かれてるのでやはり2枚有ったようです。

by CLS (2012-08-22 17:17) 

ChinchikoPapa

CLSさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
「わたしがうっかり間違えました」という、陸地測量部の担当者「八兵衛さん」が記録を残している可能性は低そうですね。ww
わたしも、『高田村誌』と『高田町史』の八兵衛稲荷の項目を参照していましたら、徳川光圀の「中納言手植えの桜あり」とか、それが「コノハナ桜」と呼ばれていたとか、枯死しそうなため金乗院の境内に挿し木されたとか、光圀が「木花開耶姫」の五字額を稲荷へ寄進し、現在(大正8年)は別当職だった金乗院に収蔵されている・・・とか、やたら水戸光圀の事績が書かれていましたので、さすがうっかり八兵衛稲荷だと思いついたしだいでした。^^;
これらの経緯の出典は、もともと「武蔵風土記」のようですが、この額は残念なことに空襲で焼けてしまっているようですね。「写し」のほうも、同時に燃えてしまったのかもしれません。
by ChinchikoPapa (2012-08-22 20:19) 

CLS

ChinchikoPapaさん

陸地測量部のうっかり八兵衛さん、複数居そうですね、間違えを指摘されると、「私では無くあっちの八兵衛だ!」言いそうで.。

八兵衛稲荷の件、水戸光圀の方が先でしたか、失礼いたしました。(考えてみると当然ですね)
額は、金乗院に移された後焼失したのですね、書かれた内容からすると、明らかに八兵衛稲荷向けに書かれた物ですね(黄門様は、後の時代に"うっかり八兵衛"と関わる事を予測して、書いたのでしょうか?w)
若葉の梢(原書)の金乗院の項にも額の件が書かれてるので、八兵衛稲荷と金乗院の間を頻繁に行き来した様な気もします、明治末に目白駅の先に八兵衛稲荷が移動し、金乗院からの距離が離れた事により、管理不足による、盗難、失火の恐れから金乗院に、移したと考える後が普通でしょうか?

金乗院の額(本物)は「昭和20年4月の空襲により焼失」と門前の案内板に書かれてます、八兵衛稲荷の額(写し?)は、新編若葉の梢によると「今は焼失してないと、新倉留吉氏はいってる」とのみで、焼失時期、原因については触れてません(この新倉留吉氏の名前は、八兵衛稲荷の玉垣に残ってます)

上記の様な記載なので、新編若葉の梢の編者海老澤良之介氏は、額を見た事が無いようですね。
by CLS (2012-08-23 17:22) 

ChinchikoPapa

CLSさん、コメントをありがとうございます。
やはり陸軍は、地名の正確さよりも地形表現を優先するものでしょうか、ときどきおかしな現象を見かけます。政府の発行物だからと、つい標準的にとらえがちなのですけれど、考えてみれば地元に近い地図のほうが地名や地域の呼称、家屋などについては几帳面にこだわって描かれていると思いますので、やはり複数の資料を同時に参照する必要がありそうですね。
金久保澤の豊坂稲荷のある位置は、高田村の西外れでもともとは下落合村との入会地だったところですので、きっと高田村の安心できる場所へ保管したかったんでしょうね。また、同稲荷の社殿は小さいですから、おっしゃるとおり、盗難の心配が多分にあったのではないかと思います。
額は1945年(昭和20)4月13日の、神田川沿いの第1次山手空襲で焼けてしまったのですね。どこかに、写真が残っていそうな気がします。
by ChinchikoPapa (2012-08-23 20:12) 

CLS

ChinchikoPapaさん

陸軍の立場からすると、見せたくない場所は地図から、消去とか別な物に置き換える可能性は有りますから、より信用できないですね。
まあ字の位置を数百メートル動かしても、意味が無いのでこれは単なるミスでしょうね。
額の写真、"写しを飾った"とのことなので、本物が非公開だったとしても、写しの写真は有りそうですね

尚、先のコメントで新編若葉の梢の編者の名前が間違えておりました
良之介氏 × → 了之介氏 ○  最後の高田町長でも有ります。
by CLS (2012-08-24 17:18) 

ChinchikoPapa

CLSさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
そうですね、ちゃんとした記載は1940年(昭和15)の修正図までで、翌1941年(昭和16)の地形図はもちろん区分図や市街図にいたるまで、淀橋区戸山の陸軍施設と淀橋浄水場は、なにも描かれていない「白地図」化していきます。もっとも、いくら地図上で軍の施設を隠そうとしても、高々度のB29による高精細な空中写真でバレバレになってしまうわけですが・・・。
戦時中に撮影された、米軍と陸軍の空中写真を比較すると、そのカメラ技術(解像度/精細度など)の落差に愕然としてしまいます。戦後は、日米でカメラ技術がまったく逆転してしまうわけですが、空中写真を参照するたびにこれほど技術が異なる相手と戦争してたのかと、改めて愕然としますね。
五文字額の写真、わたしも気をつけておきます。w
by ChinchikoPapa (2012-08-24 17:40) 

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