夏子が語る下落合2丁目801番地。 [気になる下落合]
さまざまな絵画や小説、映像などには下落合が登場してくるのだが、そこでは山手線のもよりの駅名「目白」や「高田馬場」ではなく、大正初期から地域の独特なアイデンティティを形成していた「下落合」という地名が意識的に使われることが多い。それは、山手線の駅に近いにもかかわらず、「代官山町」のことを誰も「渋谷」や「恵比寿」と呼ばないのと同じような感覚だろうか。
これまでにも、下落合が登場する中井英夫Click!や久生十蘭Click!の小説作品をご紹介してきたけれど、それらはごく一部にすぎない。下落合風景を描いた絵画作品を多くご紹介している関係から、文学の中に登場する下落合風景を取り上げる機会が少ないだけだ。旧・下落合4丁目2107番地(現・中井2丁目)に住んだ船山馨Click!の作品にも、ときどき下落合が姿を見せる。1961年(昭和36)に河出書房新社から出版された、船山馨の現代小説『夜の傾斜』から引用してみよう
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康子はしのび笑いをして、ハンドルをまわした。/車は下落合を目白の通りへ折れた。矢代のアパートは、目白駅にちかい商店街の、細い露地裏にあった。/康子は自動車を、表通りにパークさせた。/「寄って行かないか。お茶をいれるよ」/「そうね。しばらく藻の匂いを嗅がないから・・・」/車の鍵をハンドバッグにほうり込みながら、康子は矢代とならんで、狭い露地を入っていった。
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船山のすべての作品を読んだわけではないので不明だが、おそらくいくつかの現代小説作品には下落合や目白通り界隈が登場していると思われる。
物語の中に、下落合の具体的な住所が登場する作品もある。1973~1974年(昭和48~49)に放映されたドラマ『さよなら・今日は』Click!(日本テレビ)だ。子どもを棄てた母親が、吉良家のアトリエを訪れて去った日、過去のいろいろなものをあれこれ背負いすぎている自分に気がつき、それらを“清算”するために新しい「何か」を探しはじめようと決意する、吉良夏子(浅丘ルリ子)の台詞だ。1974年3月9日に放映された、同ドラマの第23話「子供は誰のもの」から引用してみよう。
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下落合2丁目801番地は、1971年(昭和46)まで下落合にあった実在の地番だが、ドラマが放映された当時はすでに地番変更で存在していない。現在の地番になおせば、下落合4丁目7番地に相当するエリアだ。きょうは、旧・下落合2丁目801番地周辺に住んだ芸術家には、どのような人たちがいたのか・・・というのがテーマだ。実は、下落合(2丁目)800番地周辺は下落合でも有数のアトリエ密集地であり、大正期から画家たちが住みつく“アトリエ村”の様相をていしていた。
吉良家の大きな西洋館に付属するアトリエは、画家ではなく彫刻家だった“祖父”が建てたという設定になっているので、時代は大正末から昭和初期のころだろう。このサイトでは、落合地域の画家は数多く取り上げているけれど、やはり下落合を往来してゆかりの深い多くの彫刻家たちまでは、まったく手がまわっていない。記事に登場しているのは、せいぜい夏目貞良Click!や北村西望Click!、片山義郎Click!、中原悌二郎Click!、荻島安二Click!、保田龍門Click!、そして少し外れた上戸塚の藤川勇造Click!ぐらいだろうか。だから、画家ではなく彫刻家のアトリエが下落合(2丁目)800番台の地番にあっても、なんら不自然ではない。
大正期に下落合800番地へ、雑司ヶ谷から引っ越してきた画家には鈴木良三Click!がいる。薬王院の森(戦時中に伐採され、現在の新墓地エリア)に隣接する、制作にはもってこいの静かな環境だったろう。ちょうど関東大震災Click!が起きる直前に転居してきており、震災直後にはアトリエの壁面が崩れた中村彝Click!が避難してきて、短期間だが鈴木家で暮らしてClick!いる。画家志望で佐渡からやってきた河野輝彦Click!が、彝アトリエのあと片づけや修復に手をつけはじめるまで、中村彝は下落合800番地ですごしていた。
大震災後に家が傾き、やはり下落合804番地にアトリエと自宅を新築して引っ越してきた画家がいた。目白通りも近い下落合645番地に住んでいた、中村彝の親友である鶴田吾郎Click!だ。鶴田吾郎は、下落合804番地のアトリエに2年と少し住んでいたが、長男を疫痢で喪い中村彝を見送ったのがこたえたものか、大正末には新築の自宅兼アトリエを放棄して、長崎の地蔵堂Click!近くに見つけた家(長崎町字地蔵堂971番地)へ転居してしまう。
同じく、下落合800番地界隈には、中村彝アトリエへ通いつづけた画家の鈴木金平Click!も住んでいる。具体的な地番はいまだ不明だけれど、鈴木良三がいた下落合800番地に近接していたらしいことは、証言類を掲載した資料からもうかがい知れる。また、大正末から昭和初期にかけ、下落合804番地には洋画家の服部不二彦Click!が住んでいた。これは、おそらく鶴田吾郎が長崎町地蔵堂へ転居したあと、鶴田が建てたばかりのアトリエ付き住居へ、服部が代わりに入居しているのではないかと想定できる。
そして、画家たちのアトリエが集中していたのを、おそらくよく知っていた画家が1926年(大正15)9月22日に、薬王院の墓地沿いにつづくコンクリート塀を左手に、下落合800番台エリアの敷地を右手に入れて描いている。佐伯祐三『下落合風景』シリーズClick!の1作、「墓のある風景」Click!だ。この薬王院に隣接する一帯は、戦後も画家たちが住みつづけアトリエ建築が見られた。
吉良邸(桜の洋館)の建築時期は、おそらく関東大震災の直後あたりではないかと想定することができる。邸内には、大正時代のオルガンや柱時計、西洋鎧などの骨董品が見られるので、震災後に東京の市街地から郊外の下落合へと転居してきた芸術家のひとりだったのだろう。だとすれば、下落合(2丁目)801番地の吉良邸+アトリエは、鈴木良三と鶴田吾郎のアトリエに隣接している敷地なので、彫刻家の祖父と両画家とはご近所同士のつきあいだったのかもしれない。w
◆写真上:『さよなら・今日は』のロケシーンで、もっとも多く撮影された下落合の相馬坂。
◆写真中上:左は、丘上から南を眺めたタイトルバックで毎回登場した富士女子短期大学(当時)の時計塔。右は、秋から冬にかけてのドラマなので雪がちらつくシーンもあった。
◆写真中下:上は、薬王院側から眺めた下落合(2丁目)801番地界隈。下は、久七坂筋から眺めた下落合800番台の敷地あたり。この敷地の北側にもアトリエ集合区画があり、半径50m以内に曾宮一念Click!、鈴木誠Click!(一時)、牧野虎雄Click!、片多徳郎Click!、村山知義Click!(一時)、蕗谷虹児Click!らがほとんど軒を並べるようにして住んでいた。
◆写真下:上左は、1971年(昭和46)発行の「住居表示新旧対照案内図」。上右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合2丁目801番地。下左は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる同番地。下落合804番地には、洋画家・服部不二彦のアトリエが収録されている。下右は、下落合のアビラ村Click!(芸術村)に現存する島津一郎Click!の彫刻アトリエ。
★記事に引用した第23話「子供は誰のもの」は、子どもを棄てた母親(緑魔子)と吉良邸のアトリエ(喫茶店「鉄の馬」)が解体される直前という、重たくてせつないテーマが展開される回なので、きょうは吉良家のアトリエに“異民族”が進入してきた、第2話(タイトルなし)の「予告編」をおとどけします。劇中で使われた歌は、当時に大ヒットしていた夏木マリの「絹の靴下」で、唄っているのは山村聰、緒形拳、原田芳雄、林隆三の4人です。第1話Click!の「予告編」つづきとしてどうぞ。
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最近、指先が冷たくてかじかむことが多いので、昼に熱い麺類を食べることが多いです。指先が温まると、キーボードの入力能率がちがいますね。nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2013-02-21 10:37)
「金時計」は、言われれば欲しいと思う景品ですが(どこかへ売り飛ばしそうですがw)、言われなければ思いつきもしないモノですね。nice!をありがとうございました。>yutakamiさん
by ChinchikoPapa (2013-02-21 10:47)
トロンボーンのリードがあまり好きでないわたしとしては、もちろん未聴のアルバムです。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2013-02-21 10:49)
アーチには、蔓バラを這わせるのでしょうか。なんだか、東西の両洋を感じさせる不思議な庭園です。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2013-02-21 10:51)
赤穂というと、瀬戸内海の海水から造る「天塩」でしょうか。伊豆大島の「天塩」とともに、風呂場に袋ごと置いてあります。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2013-02-21 10:54)
先日、小学校時代に三宝池へ遠足に行ったお年寄りから、「石神井池は昭和にできた」と聞きましたので調べたところ、1933年(昭和8)に石神井池(ボート池)が造られたのを知りました。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2013-02-21 11:02)
松屋デパートが、子どものころの意匠にもどってるんですよね。今度、出かけてみたいと思っています。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2013-02-21 11:06)
グランドピアノは夢のまた夢で、うちにあるのは音量を抑えられるアップライトです。連れ合いが、ときどき思い出したように弾いてますね。nice!をありがとうございました。>マチャさん
by ChinchikoPapa (2013-02-21 20:09)
神奈川の海辺がよく登場しますが、なじみ深い風景ですね。
nice!をありがとうございました。>タッチおじさんさん
by ChinchikoPapa (2013-02-21 22:53)
録音を聴いてると、当時の落合第四小学校のチャイムがあちこちに挿入されてますね。やたらに懐かしいです。
by ChinchikoPapa (2013-02-22 10:58)
先日、TVのCMでバリィさんを見かけました。全国区で活躍してますねえ。
nice!をありがとうございました。>シノさん(今造ROWINGTEAMさん)
by ChinchikoPapa (2013-02-22 18:35)
わたしの子どものころの印象で、江ノ島のサザエの壺焼きが年々小さくなっていったのを寂しく思い出します。nice!をありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
by ChinchikoPapa (2013-02-22 19:59)
うちも魚をよくガスコンロで焼きますが、やはり匂いがいつまでも残りますね。同じコンロで餅を焼くときは、ずいぶん洗うのですがなんとなく魚の匂いが抜けません。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2013-02-23 11:05)
インフルにかかってから、どうも調子がよくありません。花粉の季節にかかっているせいもありそうですね。nice!をありがとうございました。>銀鏡反応さん
by ChinchikoPapa (2013-02-23 12:33)
渋谷駅のホッとする変わらない板張り階段、いつまでも残ってほしいですね。nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2013-02-23 12:35)
自分は感情的な人間だという反省(というより恐怖)から、感動的なドラマや映画等を全く遠ざけてきた。そろそろ自分に解禁してやってもいいかなと思ってる。Papaさんたちが大いに感動的なドラマ等を楽しんでるのを見て、羨ましくなった。
by Marigreen (2013-02-23 14:14)
パソコン技術の初歩をお聞きします。上のように二重投稿してしまった場合一つを削除するのはどうすればいいのですか?
by Marigreen (2013-02-23 14:21)
Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
わたしも、このところ映像にしろ本にしろフィクションをあまり観たり読んだりしていないので、そろそろまとめて鑑賞したいと思っています。
あと、コメントがダブッていましたので、ひとつ削除させていただきました。「削除」は、コメントを書き込む方からはできず、管理者であるわたしが操作できる機能です。ただし、So-netブログを開設している方は、自身のコメントを削除できたと思います。
by ChinchikoPapa (2013-02-23 19:35)
15匹の仔ネコを育てるのは、たいへんですね。
nice!をありがとうございました。>マンチ軍団さん
by ChinchikoPapa (2013-02-23 21:59)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2013-02-25 10:10)
吉良家がこんなに複雑な人間関係だったとは。
中学生で見ていたときは、山口崇の立ち位置は、たぶん理解できてなかったのではないかと思いました。(今聞いても、かなり………)
by kako (2013-02-26 23:43)
kakoさん、コメントをありがとうございます。
わたしは、どなたかも別記事のコメント欄で書かれてましたけれど、山村聰の演技の裏側が、当時はイマイチ見えていなかったと気づきますね。
敗戦を境に、価値観が180度、正反対に変わった世代ですから、そういう前提で「吉良友次郎」のセリフを聞くと、いまから思い当たる言動がいくつかあります。
by ChinchikoPapa (2013-02-27 01:01)
以前の記事にまで、ごていねいにnice!をありがとうございました。>suzuran6さん
by ChinchikoPapa (2013-02-27 19:32)
底流としての尾崎翠と「映画」との深い関係、とても面白いテーマですね。
nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
by ChinchikoPapa (2013-03-01 13:36)
山村聰の長台詞は今のドラマではあり得ないと思いますが、とてもリアリティがありますね。特に大きな事件や複雑な謎解きなどがなくても、昔のドラマは名優の重みのある語りや、細やかに描かれた人と人との機微などを、じっくりと味わうことができました。
70年代前半は、なぜか甘い痛みとともに思い出される時代です。
by kako (2013-03-02 15:13)
kakoさん、コメントをありがとうございます。
この作品の中で、山村聰はずいぶんプライベートな部分も語っていますね。そもそも、造船会社に勤めているというのも、なんとなく山村が要望したようにさえ感じます。ご本人は、自分で大型ヨットの設計をしてしまうほどの船好きですが、ドラマの中でもアトリエで外洋クルーザーの設計をしていたことになってたりします。
また、娘に語って聞かせる、三浦半島の小網代湾から伊豆の神子元島をまわってくるディンギー(ヨット)レースも、実際に山村聰は出場している(おそらく戦後すぐのころでしょうか)と思われますね。いろいろなところに、本人の趣味が顔を出すドラマですが、同じヨット好きな森繁久彌とは、どのような話をしたのでしょうね。
by ChinchikoPapa (2013-03-02 21:58)
ごていねいに、こちらにもnice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2013-03-02 22:11)
ごていねいに、こちらへもnice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2013-03-17 18:08)
相馬坂でロケがあったのですね。知らなかったです。私が初めてロケを見掛けたのは昭和25年頃に目白町の“徳川さん”での夜間撮影で、今は住宅に変わってしまった見事な椿の並木道を女優角梨枝子が男と連れだって歩くシーンでした。短時間のショットを何度も繰り返してリハするのに感心しました。映画のタイトルは忘れてしまったのですが。
次は30年頃目白通りで行われた『目白三平物語』のロケで、主役笠智衆が来てたと思います。そばで見物していた近所の子が一緒に撮影され“出演”してたとかが話題になりました。別の時には、美空ひばりと鶴田浩二がロケに来たのを見かけた、とクラスメイトが語っていましたが、時期や題名などは定かではありません。
そんなことで、先週神保町シネマへ『目白三平物語―うちの女房』を見に行きました。シリーズの内一本だけ佐野周二が主役を演じた昭和32年の東宝映画でした。昭和30年代初めには、まだ家庭にはテレビがなくてラジオの時代、家族は茶の間でちゃぶ台を囲んで一緒に食事をし、食事がすむとそのちゃぶ台で兄弟が宿題をやり、夜はふたりが蒲団を並べて寝る。まだまだ貧しかった時代の雰囲気が画面に現れてました。住まいも商店街もセットでなくてロケらしかったのですが、目白駅周辺ではなかったようです。唯一判ったのは主人公が勤務する丸の内の旧国鉄本社前のシーンだけ。
作者の中村武志さんは旧下落合1丁目在住(旧郵便局裏手)でしたが、映画では目白氏は通りの反対側の目白4丁目に住んでいることになってました。原作の小説ではどうなっているか調べていますが、区営の図書館にはこの小説本は置いてないようですね。
by 古田 宙 (2013-07-07 08:18)
古田さん、コメントをありがとうございます。
下落合の坂は、ロケに使われることが多いですね。つい最近も、クロネコヤマトのCMロケに七曲坂が使われていました。相馬坂は、このドラマ以外でロケに使われたのを知らないです。
佐野周二が活躍していたころと同時代の作品に、小津安二郎の『お茶漬けの味』がありますが、ここで出てくる落合地域のイメージは大きな樹木とウォータータンクのシーンで、街並み自体は出てきませんでした。電報を打つとき、「落合長崎局」へ電話をしている佐分利信の状景と、東郷青児の作品が架かる、いかにも目白文化村のような和洋折衷の家で小暮三千代が暮らしている・・・ということで、“落合”を象徴させていたみたいですね。
戦前の映画で、いまでも探していますのは、目白文化村の第一文化村・中村邸でロケーションされた、夏川静江主演のホームドラマ作品と、御留山の相馬邸黒門前で撮影されたチャンバラ時代劇です。
双方ともタイトルは不明ですが、前者には戦前の目白文化村の街並みが随所に写っている可能性がありますので、8年前から「動く目白文化村の映像」として“指名手配”しているのですが、いまだに見つかりません。ひょっとすると、戦災でフィルムが焼けてしまった可能性もありますね。
そのほか、まだ気がついてない作品でも、目白・落合地域がロケの舞台として使われていると思いますので、古い映画で風景シーンが出てきますと、すかさず「一時停止」ボタンを押して確認するようにしています。
いまのところ、もっとも古い「動く下落合映像」は、こちらでも記事でご紹介していますが、大正14年に大黒葡萄酒が撮影したプロモーション用の商用映画ですね。目白貨物駅から、学習院横の椿坂をワイン樽を積んだ馬車が下ってきて、現在の日立目白クラブの崖下にあった大黒葡萄酒瓶詰工場へと搬入されるシーンがとらえられていました。
by ChinchikoPapa (2013-07-08 00:54)
貴重な情報ありがとうございます。
『お茶漬けの味』には後楽園球場の巨人阪神戦のシーンが印象に残ってます。「目白の・・さん」とアナウンスされるシーンもありました。小津監督は野球好きだったようですね。
大黒葡萄酒の工場は昭和30年ころまであったでしょうか。オーシャンウィスキーもつくっていて、南風が吹くと落中の教室にまでアルコール醸造の香が漂ってきました。
by 古田 宙 (2013-07-08 12:51)
古田宙さん、こちらこそいつも貴重な情報をありがとうございます。
小津安二郎の作品には、ときどき長い長いスポーツ観戦シーンとか舞台観賞シーンが登場して、強く印象に残りますね。『お茶漬けの味』の野球場シーンは、「なんて長尺なんだろう」・・・と感じた憶えがあります。『浮草』だったでしょうか、こちらも長い長い競輪場シーンがありました。
大黒葡萄酒の販促映画ですが、編集前のフィルムに馬車が椿坂から大黒葡萄酒へとやってくるシーンの途中で、佐伯が描いた山手線ガードが映っている可能性があり、新宿区から甲州市へ映像(電子データ)のコピーを依頼しているのですが、いまだ届かないようですね。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-06-16
by ChinchikoPapa (2013-07-08 13:20)