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下落合の旗行列と提灯行列コース。 [気になる下落合]

洗い場2008.JPG
 1939年(昭和14)に出版された、下落合2丁目を中心とする『同志会誌』Click!(下落合同志会・編)を読んでいると、結成当初の同志会Click!は地域の互助と親睦とを目的とする、純粋な自治組織としてスタートしており、大正期から昭和初期を通じて地域の互助や福利厚生に力を入れていたものが、日中戦争が本格化するころから自治組織というよりも、政府いいなりの出先機関ないしは末端組織としての役割りが濃厚になっていく。
 ナチス・ドイツは、その政策や思想を末端にまで浸透させるため、各地域へ党の出先機関であるさまざまな「地区委員会」を新設し、ファシズム的な政治的ないしは社会的な基盤を新たに形成しなければならなかったが、日本では各地の自治団体をそのまま「利用」するだけで、組織化がきわめて「円滑」かつ「迅速」に進んだことがわかる。昭和10年代になると、各地の自治団体は次々に解散して町会へと併合されるが、国民精神総動員体制さらには国家総動員体制のもと自由な言論や表現、行動が急速に圧殺され、防空・防諜の防護団や連帯責任と相互監視の「隣組」Click!の形成が容易だったのも、このような自治団体が率先して行政当局へ組みこまれていったことに起因している。今日のように、区や市と地元の町会とが地域への施策をめぐり、ときに対立するような図式は、当時はありえない姿だった。自治団体を名のりながら、徐々に軍国主義体制の出先機関へとなり果てていく同志会を見るのはつらい。
 1931年(昭和6)の「満州事変」以降、町内へ召集令状(赤紙Click!)がとどいて入営する住民が徐々に増えていくが、盧溝橋事件が起きた1937年(昭和12)を境に日中戦争が本格化すると、同志会による入営歓送会は急増する。「満州事変」ののち、初めて下落合住民の戦死者が記録されるのは、1935年(昭和10)2月19日のことだ。このときは、戦死者を小滝橋まで出迎えている。
  
 二月十九日 名誉の戦死者故高橋三大二氏が無言の凱旋をされたので役員外会員多数小瀧橋まで迎へた。/二月二十六日 故高橋三大二氏の区民葬が第一小学校に於て執行せられ本会からも会長外多数参列した。
  
 この記述を皮切りに、町内の戦死・戦傷者は激増していくことになる。同時に、同志会ではその出迎え行事が頻繁になり、会長以下の現役役員たちがそのつど全員出席することが困難になったものだろうか、各地区の幹事や元役員たちが戦死者の「無言凱旋」や、葬儀出席を代行するようなケースも見られるようになる。1937年(昭和12)度の同志会記録から、少し引用してみよう。
  
 十一月十九日 宇田川三郎君の遺骨無言凱旋をなし役員及会員多数出迎ふ。/十二月三日 宇田川四郎君無言の凱旋せられたので役員多数出迎へた。/十二月六日 九一六地久会員(ママ)加藤利一君の無言凱旋を役員多数出迎へた。戦傷者、西田定次郎氏を同志会役員、及国防婦人会員は夜中東京駅へ迎へた。/十二月十一日 第一小学校に於て故藤井少尉他三上等兵の聯合区民葬挙行せらる、本会より会長以下役員及び会員多数参列す。/一月十日 潗日出夫氏の無言凱旋を迎ふ同志会より会長外十六名参列す。/一月二十六日 故歩兵伍長田村新樹氏の無言の凱旋を迎ふ。/二月一日 小泉寿太郎氏令息無言の凱旋を役員多数出迎ふ。/二月二十七日 名誉の戦死者故渡邊二郎氏無言凱旋を出迎ふ。/三月二十二日 下落合四丁目無言凱旋勇士太田倉吉氏 及羽場精一氏の英霊を出迎ふ。/三月二十六日 野萩会長、木村、和田両副会長は出征軍人家族二十七軒を見舞ふ。
  
 下落合2丁目の界隈だけで、毎月、数名の戦死者を迎える凄まじい状況だが、その事務的で淡々とした記述のせいだろうか、よけいに無惨さや残酷さ、虚しさが伝わってくるようだ。もちろん、太平洋戦争の開始とともに、こんな死傷者の数では済まなくなっていくのだが・・・。たとえば、同年に下落合2丁目界隈から出征・応召した住民数(もちろん若い男子)は実に37名、翌1938年(昭和13)は31名にものぼっている。街から、若い男たちがどんどん消えていく時代だった。
旗行列ルート.jpg
提灯行列ルート.jpg
 さて、政治的な祝いごとや中国戦線で日本軍の勝利が伝えられると、「旗行列」や「提灯行列」が下落合の自治団体によって都度企画された。旧・下落合2丁目界隈で、初めて同志会による旗行列および提灯行列が行なわれたのは、1932年(昭和7)10月1日のことと思われる。このときは「市郡併合記念会」、つまり豊多摩郡が廃止され新たに淀橋区が成立して、落合町が東京市内へ編入された記念の祝賀だった。ちなみに、この祝賀行列が計画されたのは同年9月10日の評議員会であり、このとき落合町議会も淀橋区議会Click!へと移行するために解散している。
  
 一、旗行列
 午後一時菊池邸裏空地に青少年集合し、落合長崎郵便局前、氷川神社、四十五号線、浅川邸を経て最初の集合地に帰つた。菓子を配與して散会
 二、提灯行列
 午後六時前、落合長崎郵便局前に集合一丁目相馬邸から氷川神社に至り、更に徳川邸、福室邸、落合長崎郵便局、星邸、高橋五山邸を経て解散、尚当夜氷川神社境内に於て野萩健吉、石原彌五郎、川村東陽前町会議員へ感謝状を贈呈した。/野萩町会議員より百円也木村土木委員より弐拾円也を町会基本金に寄贈があつた
  
 この中で、旗行列の「菊地邸」とあるのは、下落合2丁目476番地のオリエンタル写真工業Click!社長兼技師長だった菊池学治(東陽)邸のことだろう。また、「四十五号線」とあるのは補助45号線=聖母坂のことで、「浅川邸」は佐伯祐三Click!の制作メモ「浅川ヘイ」Click!にある、諏訪谷に面した下落合2丁目604番地の浅川秀次邸のことだ。
 また、提灯行列の「徳川邸」は、目白町の徳川邸ではなく西坂の徳川義恕邸Click!であり、福室邸は徳川邸から八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)をまっすぐ北上した、目白通り沿いにある福室醤油製造所の大きな工場兼自宅のことだろう。そして、提灯行列は再び下落合2丁目507番地の落合長崎郵便局へ立ち寄ったあと、七曲坂Click!筋を南へ入り満谷国四郎アトリエClick!の東隣りである「星邸」、すなわち下落合2丁目753番地の三井生命の支店長だった星孝治邸前を通過している。そして、最終的には「高橋五山」邸、つまり下落合2丁目735番地の高橋五三郎邸まで歩いて、おそらくその先の諏訪谷Click!あたりで解散していると思われる。
落合第一小学校.JPG 落合第四小学校.JPG
 時代をへるにしたがって、だんだん戦時色が強まっていく記録の中で、面白い記載も見かける。下落合に増えつづける住宅や、整備が進む道路などを意識してのことだろう、1931年(昭和6)にフランスのメートル法を浸透させる運動が町内で起きている。同志会では同年2月3日に、「メートル法宣伝パンフレツト」400冊を会費で購入して、町内の希望者に配布している。最新の建築学を修めた建築家がメートル法で設計図をつくると、肝心の施工をする大工がまったく理解できないというエピソードは、こちらでも何度かご紹介Click!している。
 同志会でも、・・・「落四小の50m西ぐらいにある森に、タヌキが出たてえ話だよ」、「50mてえのは、いったい何間ぐらいだい?」、「そうさな、26、7間ぐらいかね」、「んじゃ、権兵衛山か七曲坂あたりかい」、「いや、もうちっと先さね、60mぐらいかな」、「んじゃ、60mてえのは何間だい?」・・・というような不便さを解消するために導入したものだろう。
 ほかの自治団体から、同志会への加入を希望する家庭もあったようだ。1931年(昭和6)6月には、下落合1丁目の「一睦会」から21名(21戸)の会員がまとめて脱会し、同志会への加入を希望している。おそらく、一睦会の中でなにかが気に入らなかったか、なんらかの紛争があったのだろう、21戸が示し合わせての集団脱会だったと思われるのだが、同志会では一睦会との関係から対応に苦慮している様子が記述から伝わってくる。結局、「和協親睦の趣旨に背く」ことがないようにと念押しして、21名の加入を認めている。
 同志会は、「〇〇デー」と名づけた催事も行なっている。「はへ取デー」は、町民があちこちでハエを捕る日で、ハエ捕り紙やハエたたきで殺したハエを交番に持ちより、同志会衛生係と警官とで何匹捕れたかを勘定する「蠅調べ」が行なわれた。「視力保存デー」は、近眼防止のキャンペーンで眼科医による目の無料検診が落合第二小学校Click!で実施されている。また、1934年(昭和9)の夏から、小学校の校庭でラジオ体操がはじまっているようだ。同年7月21日の項目に、「第一及第四小学校に於て毎朝ラヂオ体操の会を実施してゐることを掲示」と記録されている。
戦前のラヂオ.jpg 罹災証明書19450417.jpg
 だが、同志会などの自治団体が催す行事は、「非常時」となるにつれ強制の傾向がきわめて濃くなっていく。これらの行事に意識的に参加したくない住民はもちろん、消極的な家庭や人物たちは「アカ」や「危険思想」、「主義者」を疑われ、やがては「非国民」呼ばわりをされるようになっていく。三岸節子Click!は、服装が派手だとモンペ姿の国防婦人会に駅頭で捕まり、彼女たちから「非国民」と公衆の面前でののしられている。三岸節子は戦後、さっそく怒りを爆発させた文章を発表しているが、おそらく「非国民」呼ばわりした女たちを探しだし、日本を破滅の淵へと追いこんだ「亡国思想」の走狗である彼女たちを、その加担責任とともにきっちり追及したかっただろう。わたしの親父は、日本橋の交番勤務だった巡査Click!を実際に探しだして謝罪させている。

◆写真上:洗い場防火貯水池があった、諏訪谷あたりの現状。(工事中の2008年撮影)
◆写真中上:同志会による、1932年(昭和7)現在の「旗行列」()と「提灯行列」()のルート。
◆写真中下:1934年(昭和9)7月の夏休みより、同志会も協賛して校庭で「ラヂオ体操」が行なわれていた落合第一小学校()と落合第四小学校()の校門。
◆写真下は、昭和に入り急速に普及した茶の間のラジオ。は、下落合の空襲被害者に出された衣料品(衣料切符)の優先配給のための罹災証明書。(ともに新宿歴史博物館蔵)


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コメント 43

ChinchikoPapa

「キタラ」は、アイヌ語のkittarark(にぎわい/繁盛)からきてるのでしょうか? nice!をありがとうございました。>はせおさん
by ChinchikoPapa (2013-12-30 14:03) 

ChinchikoPapa

「有名人」あるいは「芸能」関連のプライバシー暴露報道に興味はないのですが、それにしても大きなお世話で「ほっといてやれ」のテーマが多いですね。nice!をありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2013-12-30 14:08) 

ChinchikoPapa

1964年の東京オリンピックでは、下町にわずかに残った公園や防災の緑地帯を根こそぎにしましたが、今度は外苑のイチョウ並木を伐採する「新国立競技場」計画は、山手もついでに破壊してやろうという土建国家の性根丸出しのように見えて、恥ずかしいですね。nice!をありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2013-12-30 14:14) 

ChinchikoPapa

近所の真っ赤に色づいたモミジの葉が、ようやく色褪せはじめました。同じ都内でも、各地で微妙な気温差があるようですね。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2013-12-30 14:19) 

ChinchikoPapa

居住地や距離もいっさい関係なく、Gbit-Etherとftpサーバのみで完結できるような仕事をしている人が増えてくると、「いったい何の仕事をしているのだろう?」という感慨が、都市や町村を問わず、ますます増えてきそうですね。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2013-12-30 14:29) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>やってみよう♪さん
by ChinchikoPapa (2013-12-30 14:31) 

ChinchikoPapa

絵に描いたような“ミンガス節”ですが、なぜかミンガス・サウンドで1960年代に多作された日活アクション映画のBGMを、想起してしまうわたしです。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2013-12-30 14:36) 

ChinchikoPapa

さて、また年越しの蕎麦に迷う明日の大晦日です。10年以上、変わらずに出前を頼んでいた蕎麦屋が早稲田へ引っ越して以来、この季節になるといつも「どーしようか?」と迷うのが、やや苦痛ですね。nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
by ChinchikoPapa (2013-12-30 14:41) 

ChinchikoPapa

小学生のとき、親父が圓通寺の住職と叡山の借景について30分ぐらい話していて、退屈したのを憶えているのですが、ちゃんと聞いておけばよかったといまさらながら悔やまれます。nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2013-12-30 14:45) 

ChinchikoPapa

日暮里の崖は、西日暮里駅の諏方社や大平洋画研究所のある丘が、いちばん眺めがいいでしょうか。諏方(諏訪)社の境内には崖淵があって、根岸一帯を見晴らすことができます。入谷の坂本小学校は、内部の意匠もいいですよ。地域のサークルや、催しが開かれることの多い土曜日に出かけると、自由に内部まで見学させていただけます。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2013-12-30 14:55) 

ChinchikoPapa

小学生のころ、ヒッチコックの短編作品で「生きたままの埋葬」(こんなタイトルでしたでしょうか)を観て怖かったのを憶えています。nice!をありがとうございました。>makimakiさん
by ChinchikoPapa (2013-12-30 14:58) 

ChinchikoPapa

こちらの雪は、地上に降るころにはたいがい溶けてビショビショしていますので、きれいな結晶を見ることができないのが残念です。nice!をありがとうございました。>teftefさん
by ChinchikoPapa (2013-12-30 15:03) 

ChinchikoPapa

学生時代にJazzピアノをいたずらしていたころ、手のサイズにはなんら不足はないのに指が思うように動いてくれない・・・これが致命的でした。なんの楽器でもそうですが、やはり小さいころからの技術的な反復訓練は必要ですね。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2013-12-30 15:06) 

ChinchikoPapa

詠われている「人生」もそうですが、近所の坂道をはてしなく上下しても、物語のタネが尽きないこの作業にも同じような感慨をおぼえます。nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2013-12-30 17:56) 

ChinchikoPapa

わたしも昨日は、居間のPCのリカバリーをやっていました。ドライバ類がエラーを起こす厄介な不具合で、久しぶりに全面リカバリとなりました。nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2013-12-30 17:58) 

ChinchikoPapa

わたしも、きょうが仕事納めになりました。来年もよろしくお願いいたします。nice!をありがとうございました。>redroseさん
by ChinchikoPapa (2013-12-30 20:31) 

ChinchikoPapa

負傷者の中には、鼓膜を傷めた人もいそうですね。
nice!をありがとうございました。>翡翠さん
by ChinchikoPapa (2013-12-30 21:23) 

kiyo

落合道人 さん、
今年は、大変お世話になりました。
来年も、よろしくお願いします。

良いお年をお迎えください。
by kiyo (2013-12-30 22:44) 

ChinchikoPapa

kiyoさん、わざわざコメントをありがとうございます。
こちらこそ、美しいフォト記事をたくさん楽しませていただきました。
ありがとうございました。
来年も、どうぞよろしくお願いいたします。^^

by ChinchikoPapa (2013-12-30 23:50) 

ChinchikoPapa

最近のこの国は、確かにレクイエム(それもかなり暗めで破局的なモーツァルトとか)のほうが似合うような気がします。nice!をありがとうございました。>tamanossimoさん
by ChinchikoPapa (2013-12-31 00:55) 

sig

生誕地で幼少時、夜のちょうちん行列を見た記憶があります。一つ年下以降は記憶にないはず。私が最後の戦争目撃者です。
LaVie Xを買いました。正月は練習で明け暮れそうです。
今年1年、また原稿の束がかなり増えましたね。勉強させていただきました。来年もどうぞよろしく。楽しいお正月をお迎えください。
by sig (2013-12-31 11:40) 

Marigreen

sigさんて最後の戦争目撃者だったんですか?とても貴重な存在です。人間の最初の記憶というと、2,3歳だから終戦の年がそのくらいでしたか。戦争を知らない世代が私も含め増えつつある今、知らないからだからか、戦争に向かいそうな気配を見せている現政府、現世相、止められるのは戦争体験者、目撃者だけかも。今、私は90歳になる長崎原爆被害者で語り部の人と文通してますが、凄いリアリティです。sigさんも思い出す限り書いてください。
by Marigreen (2013-12-31 15:29) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>げいなうさん
by ChinchikoPapa (2013-12-31 16:43) 

ChinchikoPapa

「うちのキノコ」シリーズは、けっこう好きですね。w よいお年を。
nice!をありがとうございました。>bee-15さん
by ChinchikoPapa (2013-12-31 16:46) 

ChinchikoPapa

今年は最後まで忙しく、30日まで仕事をしていました。忘年会をやりそこなっており、新年会をやろうと計画しています。どうぞ、よいお年を。
nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2013-12-31 16:50) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントとnice!をありがとうございます。
Marigreenさんも書いていますが、戦争の空気感みたいなものをまったく知らない世代には、ほんの少しでもご存じの方の話をうかがうのは、たいへん貴重です。ぜひ、当時の情景を記事にしていただければ幸いです。
LaVie Xは、ものすごくスリムなPCですね。1.5kgほどありますが、携帯できない重さではなく、いろいろな場所へ持っていかれて大活躍しそうです。わたしは、サポートが悪くて呆れたDynabookをやめて、LaVie Zをねらっているのですが、その後、なかなか壊れてくれません。次の不具合でさっそく廃棄処分に・・・思っているのですが、そういうときに限って壊れてくれないんですよね。w
どうぞ、よいお年をお迎えください。
by ChinchikoPapa (2013-12-31 16:59) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
実は、来年早々に宇都宮の疎開先から東京へもどる途中、荒川鉄橋の手前で米戦闘機の機銃掃射を受け、そのまま列車が運行不能になってしまった、当時は女学校に通われていた方の経験を記事にしようと思っています。下の川面までかなりの高さのある、荒川鉄橋を徒歩で渡って東京の下落合までもどられたのですが、列車の天井から機銃弾が貫通して飛び込んでくるのですから、相当な恐怖だったと思いますね。
うちの親たちもそうですが、このような戦争体験者がどんどん少なくなっていく時代になってしまいました。
by ChinchikoPapa (2013-12-31 17:08) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>こーちゃんさん
by ChinchikoPapa (2013-12-31 18:30) 

ChinchikoPapa

健康であれば、働いておカネはなんとかなりますね。
nice!をありがとうございました。>あんぱんち〜さん
by ChinchikoPapa (2013-12-31 18:36) 

ChinchikoPapa

今年もいろいろな方々にお会いしましたけれど、ほんとうに言われるとおりですね。nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2013-12-31 18:49) 

opas10

今年もさまざまな話題をありがとうございました、よいお年をお迎えください。
by opas10 (2013-12-31 20:50) 

ChinchikoPapa

opas10さん、わざわざコメントをありがとうございます。
こちらこそ、貴重な近代建築の情報をありがとうございました。
来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

by ChinchikoPapa (2013-12-31 21:03) 

siina machiko

大変ご無沙汰しています。今年は店がテレビや雑誌などで紹介され特にPapaさんブログでも掲載していただいたあの「かっぱハイ」が話題になりました。お蔭様で例年より忙しい年になりました。来年春から消費税があがると再び落ち込むかもしれません。いろいろな意味で大変な年になりそうですがpapaさんブログを楽しみにがんばります。来年もよろしくお願いいたします。良いお年をお迎えください。
by siina machiko (2013-12-31 21:51) 

ChinchikoPapa

siina machikoさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
はい、実は12月に入ってから暮れの定休日を確認しようと、「鳥の小川」さんサイトへアクセスしましたら、もうサイト自体も移されたのか変わっていて、コンテンツが充実しているのにビックリしました。w
暮れに一度、おうかがいしようと思っていたのですが、30日まで仕事が途切れずにつづき、親しい仲間との忘年会もできないありさまでした。来年は、ぜひうかがいたいと思っていますので、東京大空襲をくぐり抜けた戦前からの伝統だれで焼いた、美味しいやき鳥を楽しみにしています。^^
それから、昭和初期の長崎界隈の写真をまた使わせていただければと存じます。実は、ダット乗合自動車のバスガールたちもモデルをつとめていた、造形美術研究所(プロレタリア美術研究所)で講師をしてた、洋画家で世界的に有名な絵本作家でもある八島太郎が注目されていまして、先ごろ展覧会が開かれたばかりです。
下落合のすぐ南に住んで、長崎へ通っていたこともあり、これからも記事に取り上げる機会があるかと思います。その際、八島太郎と同時代の長崎町大和田界隈の写真を掲載させていただければ幸いです。ひょっとすると、バスガールの同僚の方々の中には、同美術研究所の写真をお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんね。
また、1930年協会で佐伯の盟友だった前田寛治がどうやら一時期、長崎町大和田に住んでいたのが郵便物からわかり、その記事でも写真を引用させていただくことがあるかもしれません。どうぞ、よろしくお願いいたします。
by ChinchikoPapa (2013-12-31 22:16) 

SILENT

どうぞよいお年をお迎え下さい!
来年の記事も楽しみに読ませていただきます。
by SILENT (2013-12-31 22:52) 

ChinchikoPapa

SILENTさん、わざわざコメントとnice!をありがとうございます。
大磯からの、美しくて近い富士山の画像をありがとうございました。
どうぞ、よいお年をお迎えください。

by ChinchikoPapa (2013-12-31 23:37) 

ChinchikoPapa

シャンパンの乾杯で、新年を迎えられているでしょうか。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。nice!をありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2014-01-01 16:02) 

ChinchikoPapa

昨夜は暖かかったせいか、近くの除夜の鐘もぬるんで聞こえました。
nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-01-01 23:19) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2014-01-02 11:16) 

アヨアン・イゴカー

>親父は、日本橋の交番勤務だった巡査Click!を実際に探しだして謝罪させている。
これは快哉!
政府化からの、上官からの命令であったにせよ、けじめはつけて頂きたいものです。
by アヨアン・イゴカー (2014-01-02 18:29) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカー さん、こちらにもコメントとnice!をありがとうございます。
おっしゃるとおり、戦時中にさんざん軍国主義体制に加担しておきながら、まったく「けじめ」をつけないところに戦後の大きくて深い課題が横たわっていると思います。「少国民」たちを戦争へかり立てる授業をしていた教師が、一夜明けたら口をぬぐい、民主化教師のような面をして平然と教科書に墨を塗っている「けじめ」のなさ、主体性のいい加減さがこの国をダメにしているのだと思います。
少し前に、「日本が戦争に負けたら切腹する」といっていた校長の話をtree2さんがされてましたが、実際に実践させるか否かは別にして、残酷なようでも「なぜ切腹しないのか?」と迫る責任追及が、戦後、何年たっても大人の手でなされてしかるべきだと思います。このいい加減さが、子どもたちに見透かされていることこそ不幸だと思いますね。
by ChinchikoPapa (2014-01-02 21:49) 

siina machiko

こちらからコメントいたします。大晦日の年明けギリギリにコメントしてしまい大変失礼いたしました。その直後に十年使ったパソコン(前半は息子が使っていたものを後半は私が東都生協のネット注文などに使っているうちにPapaさんブログに出会いました)がとうとう故障してしまいパソコン本体だけ購入しなんとかつかえるようになりました。なかなか使いこなせないですが(><)
長崎界隈の写真、どうぞお使いください。楽しみにしています(^^)

by siina machiko (2014-02-07 01:11) 

ChinchikoPapa

siina machikoさん、コメントをありがとうございます。
長崎の写真の件、ありがとうございます。鹿児島より、八島太郎展実行委員長の山田様から資料もいただき、近々、記事を書きたいと思っています。その際は、再びアルバム写真を使わせていただくかもしれません。よろしくお願いいたします。
実は、わたしも暮れから正月にかけてPCの入れ替え作業に追われてました。唯一、片隅に残っていたWindowsXPマシンをWindows8.1マシンに入れ替えまして、データの移行とアプリケーションの設定で追われていました。早くネット上に大量のデータを手軽に蓄えられて、手元に置いているのと同じような感覚でサクサク使える時代がくると嬉しいのですが…。^^;
by ChinchikoPapa (2014-02-07 10:28) 

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