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目白文化村の二度にわたる空襲。 [気になる下落合]

空襲被害19450517目白駅.jpg
 以前から、目白文化村Click!の第一文化村と第二文化村は、1945年(昭和20)4月13日(金)夜半に来襲したB29による第1次山手空襲で焼失Click!したと記述してきた。その根拠は、こちらでもご紹介している第二文化村に住んでいた星野剛男による戦時中の克明な「星野日記」Click!と、1991年(平成3)に日本経済評論社から出版された野田正穂Click!/中島明子・編『目白文化村』に書かれた記述からだ。しかし、4月13日夜半の空襲で星野邸が焼けたのは事実だが、少なくとも第一文化村の家々は焼けてはいない。
 この事実が判明したのは、米国防総省が公開したB29偵察機による戦時中の空中写真が、日本でも精細なデータで入手できるようになったからだ。米軍は、4月13日夜半の第1次山手空襲Click!を実施するにあたり、4月2日(月)に爆撃予定域へ2機のB29を飛ばして事前に偵察飛行Click!を行なっている。落合地域の上空に限ると、空撮の標定図によれば西落合の自性院Click!上空で1枚めのシャッターを切り、つづいて“敵性外国人”が強制収容されていた下落合の聖母病院Click!上空で2枚めのシャッターを切っている。
 4月13日夜半の空襲後、その爆撃効果の測定と5月25日(金)夜半の第2次山手空襲への準備として、5月17日(木)に二度目の偵察飛行を実施している。5月17日の偵察飛行は、落合地域からだいぶ外れていて、板橋区の板橋第五小学校の上空で1枚めのシャッターを切り、つづいて目白台の日本女子大学の上空あたりで2枚めのシャッターを切っている。4月2日とは異なり、落合地域を真上から撮影したものではないが、1枚めでは下落合が画面の下部に、2枚めでは下落合が画面の左下にとらえられている。この2回にわたる偵察写真を比較すれば、4月13日夜半の第1次山手空襲で焼失した部分と、延焼をまぬがれた部分とが一目瞭然で判明する。
 さらに、1945年(昭和20)5月17日に撮影された空中写真と、戦後の1947年(昭和22)7月9日(水)に米軍が爆撃効果測定用として、低空で詳細に撮影している空中写真とを比較すれば、5月25日夜半の第2次山手空襲で焼失した部分と、敗戦までなんとか焼け残っていた部分もほぼ規定することができる。つまり、従来は曖昧だった空襲による被害を、米軍の二度にわたる爆撃準備のための偵察写真によって、明確に規定できるというわけだ。
 では、目白文化村への空襲について、前掲書『目白文化村』から引用してみよう。
  
 目白文化村一帯の空襲は一九四五年四月一三日夜から一四日明け方にかけてであった。この時の様子を第二文化村に住んでいた安倍能成は「始めは火災を防ぎ、そのかひなきを見て、我々夫妻と共に御霊神社下の洞穴に避難した」と書いている。また、會津八一は、枕元の鞄をとっさにつかみ、洋傘を杖として、養女の手をとって逃げたという。そしてこの時のことを「ひともとの かさ つゑつきて あかき ひ に もえ たつ やど を のがれける かも」という歌を残している。(中略:空襲の証言引用)/焼夷弾が落ちた第一文化村では、五十何軒かのうち焼け残ったのはたった四軒であった。そのうちの一軒の家は焼夷弾が落ちたものの、不発弾で助かったという。/こうして文化村では半数以上の家屋が焼失し、大勢の人が焼け出されることになった。自分の育った家、生活の場であった家、家財や思い出の品が跡形もなく消えてしまった人びとの胸中はどのようであっただろう。
  
 この記述は、おそらく4月13日夜半の第1次山手空襲と、5月25日夜半の第2次山手空襲の証言とが混同されていると思われる。確かに、第二文化村にあった安倍能成邸Click!や星野邸は、4月13日夜半の空襲で焼失しているのだろう。しかし、第一文化村の会津八一邸Click!(文化村秋艸堂)が焼失したのは5月25日夜半の空襲だったのではないか。なぜなら、5月17日にB29偵察機が写した空中写真には、第一文化村の前谷戸Click!周辺の家々が焼けずに残っているのを確認することができるからだ。第一文化村は、4月13日夜半の空襲で焦土になってはいない。会津八一は、4月13日夜の空襲時にも当然避難していると思われるが、5月25日夜の空襲で文化村秋艸堂が罹災し、焼け出されていると思われる。
偵察写真19450402.jpg
偵察写真19450517A.jpg
偵察写真19450517B.jpg
 また、空襲後は目白文化村から目白駅のほうまで、一面が焼け野原で見わたせたという証言も、4月13日の空襲後のことではないだろう。4月13日の空襲は、鉄道駅や河川沿い、幹線道路沿いなどを爆撃したもので、3月10日の東京大空襲Click!のように、住宅街全体を無差別に絨毯爆撃したものではない。無差別の絨毯爆撃により、下落合や北側の目白町、長崎地域が焼け野原になるのは5月25日夜半の第2次山手空襲だ。
 つまり、山手線に近い旧・下落合東部の住宅街は、4月13日の空襲では目白駅付近(金久保沢Click!近衛町Click!の北部)を除いては被害らしい被害を受けてはおらず、目白文化村から目白駅方面まで見わたすことは不可能だったろう。目白文化村から目白駅方面までが見とおせるほど、下落合東部の街並みが大きなダメージを受けるのは5月25日の第2次山手空襲だ。そして、同空襲により焼け残った第一文化村の家々も、「四軒」を残して炎上しているものと思われる。
 目白文化村に限らず、1945年(昭和20)5月17日の空中写真から、4月13日夜半の第1次山手空襲の被害を見てみよう。まず、山手線の高田馬場駅Click!や目白駅、池袋駅といった鉄道沿いが爆撃目標になっているのは明らかだ。下落合を例にとれば、目白駅周辺に爆撃が集中しており、金久保沢から近衛町の住宅街北部のほぼ3分の1を焼失している。また、目白通りをはさんだ北側の目白町3丁目も線路沿いが罹災している。そして、旧・神田上水沿いの家並みも爆撃された様子が確認できる。偵察写真では、画面の枠外に切れていて見えないが、妙正寺川沿いの中小工場と第二文化村も罹災していると思われる。
 目白通り沿いでは、江戸期より街並みが形成されていた旧・椎名町Click!(目白通りと山手通りの交差点界隈)が、集中して爆撃を受けている様子がわかる。おそらく、米軍は既存の地図類を参照して情報を得ており、この界隈が住宅密集地であり繁華街であったのを知っていたのだろう。爆撃は、目白福音教会Click!の西側から、小野田製油所Click!の手前にかけて行われており(焼失しており)、これにより第三文化村の北部、第一・第二府営住宅が罹災している。第三文化村に近接した佐伯アトリエClick!が、延焼の脅威にさらされたのは4月13日夜半の空襲時だ。
空襲被害19450517第一文化村.jpg
爆撃測定写真19470709.jpg
 だが、第二府営住宅の南側にある第一文化村と、第二府営住宅の西側にある第三府営住宅は、爆撃の被害をほとんど受けてはいない。目白文化村に限ってみると、第一文化村に切れこんだ谷戸である前谷戸の北側、すなわち第二府営住宅とは二間道路を隔てて接しており、延焼の舌先が二間道路にまで達している北端の永井邸や伊藤邸、穂積邸などは、建物は焼失していないものの被害を受けているのかもしれないが、谷戸の南側にあたる石田邸や藤崎邸、名井邸、古部邸などは罹災していない。また、三間道路をへだてたさらに南側の神谷邸や高島邸、笠松邸などの家々も健在だ。高島邸の南隣りにある会津八一邸(文化村秋艸堂)もまた、焼失しているとは思えない。つまり、『目白文化村』に掲載されている証言のうち、焼け跡の地面から収集品の破片を探している会津八一の目撃談は、5月25日夜の第2次山手空襲直後のことだろう。
 同年3月10日の東京大空襲では、その翌日あるいは翌々日に爆撃効果を測定する偵察飛行が行われている。大川沿いの下町Click!はいまだ炎上中であり、偵察写真が撮られたあとも焼失した街角が少なからずあっただろう。だが、第1次山手空襲後の偵察写真は、4月13日から1ヶ月以上も経過した5月17日に撮影されている。したがって、撮影後の延焼で第一文化村が焼けたとは考えられない。つまり、第一文化村の家々は5月17日の時点でも焼失することなく建っており、以前こちらでもご紹介している会津邸の斜向かいに建っていた中村邸Click!に保存されている、中村様が空襲直後に撮影した第一文化村が一面焼け野原の写真Click!もまた、5月25日の第2次山手空襲の直後に撮影していると思われるのだ。また、目白文化村より西側のアビラ村(芸術村)Click!地域は、戦後の1947年(昭和22)7月に撮影された空中写真を見ても明らかだが、二度にわたる山手空襲の被害をほとんど受けてはいない。
 目白通りをはさんだ長崎町側の被害は、建設中の改正道路(山手通り)に沿って爆撃が行われている。当時の住所表記でいえば、椎名町2丁目から3丁目の山手通り沿いの家々が狙われている。ただし、椎名町3丁目側は目白通りと山手通りの交差点から、武蔵野鉄道の椎名町駅の南側までの被害で止まっているが、目白町寄りの椎名町2丁目は武蔵野鉄道を越えてさらに北側まで延焼しているのがわかる。
空襲被害19450517第三文化村.jpg
空襲被害19450517高田馬場駅.jpg
 さて、1945年(昭和20)5月17日の偵察写真では、ようやく目白通り沿い南側の幅20mにわたって実施された、建物疎開Click!の様子を子細に観察することができるのだが、その実施時期が同年4月2日から5月17日までの間だったことが判明している。この45日間、いずれかの時期に行われた建物疎開のテーマについては、またもうひとつ、次の物語……。

◆写真上:これらの写真は、B29偵察機の搭乗員が眼下に見た光景そのままであり、70年後に目にするのは不思議な感覚にとらわれる。1945年(昭和20)5月17日に撮影された、爆撃目標で破壊された目白駅と金久保沢から下落合は近衛町北部にかけての被害。
◆写真中上は、第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された下落合。は、第2次山手空襲直前の同年5月17日に撮影された下落合の東・中部。は、同日に撮影された別角度の写真で神田川沿いはもともと建物疎開(防火帯36号線)で工場や住宅は取払われていたが、さらに爆撃で落合、戸塚、高田地区は破壊しつくされている。
◆写真中下は、5月17日撮影の焦土になった第二府営住宅だが、第一文化村の家々は焼けていないのが見える。は、戦後の1947年(昭和22)7月9日に撮影された下落合。
◆写真下は、爆撃で被災した聖母病院の周辺。第三文化村の北側エリアには、いまだ罹災していない住宅がいくつかありそうだ。また、佐伯アトリエが焼けずに残っているのがとらえられている。は、徹底的に破壊された高田馬場駅と諏訪町・戸塚地域。


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コメント 48

ChinchikoPapa

「Back to XP for 8」が、けっこう評判ですね。MSは、次のVer.でStartボタンを復活されるとはいってますが…。nice!をありがとうございました。>treさん
by ChinchikoPapa (2014-05-23 11:39) 

ChinchikoPapa

白楽には母方の祖父が住んでいたので、子どものころときどき出かけました。山の上に造られた、水道タンクが強く印象に残っています。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2014-05-23 11:44) 

ChinchikoPapa

仕事にとって、目は非常に重要ですので参考になりました。
nice!をありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2014-05-23 11:57) 

ChinchikoPapa

いろいろな余興があり、オフミは楽しそうですね。
nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2014-05-23 11:59) 

ChinchikoPapa

ハバードの『Body & Soul 』、「いろいろな表現ができるよ」なのか「さて、どっちへ行こうか?」なのか、探りを入れているような感触の1枚です。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2014-05-23 12:07) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>やってみよう♪さん
by ChinchikoPapa (2014-05-23 12:09) 

ChinchikoPapa

なんだか車体がキラキラして、チョコレートのように美味しそうな列車ですね。nice!をありがとうございました。>hanamuraさん
by ChinchikoPapa (2014-05-23 12:20) 

ChinchikoPapa

わたしの知人に「たいら」さんがいるのですが、ずっと「平」さん、つまり平氏の子孫かと思っていたら「平良」さんでした。きっと、昔は宮古島周辺の出身なのでしょうね。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2014-05-23 12:25) 

ChinchikoPapa

レースにオフミに、充実したご滞在だったようですね。
nice!をありがとうございました。>ねねさん(今造ROWINGTEAMさん)
by ChinchikoPapa (2014-05-23 12:26) 

ChinchikoPapa

告白します、スカイツリーにも東京ソラマチにも、いまだ出かけたことがありません。やはり、いつでも行けると思ってしまうと、かえって無精になるようです。(実は高いところが苦手なせいもありますが) nice!をありがとうございました。>nikiさん
by ChinchikoPapa (2014-05-23 12:29) 

ChinchikoPapa

「主人公を怒らせると皆殺し」は、洋の東西を問わず人気のある映画のプロットのようですね。たいがい、弾が尽きず刀も斬れつづけ、撃たれても斬られてもなぜか死なないパターンが多いですが。w nice!をありがとうございました。>makimakiさん
by ChinchikoPapa (2014-05-23 12:35) 

ChinchikoPapa

北上駅は、その北にある花巻とともに懐かしい風景です。蕎麦がうまかったのを憶えていますね。nice!をありがとうございました。>ぼんさんさん
by ChinchikoPapa (2014-05-23 12:41) 

ChinchikoPapa

B&W+アキュフェーズは、マジメで繊細できらきらしたサウンドではないかと想像します。いい音が聴けるカフェがあるのはいいですね。nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2014-05-23 14:23) 

ChinchikoPapa

いまや、懐かしささえ感じるマリオフィギュアですね。
nice!をありがとうございました。>tonomaru521さん
by ChinchikoPapa (2014-05-23 16:08) 

ChinchikoPapa

初夏とはいえ、まだ陽がかげるととたんに冷っとする風が吹き抜けます。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-05-23 20:54) 

ChinchikoPapa

子どもの教育は、親の姿を見て成長する家庭が基盤だと思うのですが、それが脆弱化している……ということでしょうか? nice!をありがとうございました。>ハマコウさん
by ChinchikoPapa (2014-05-23 21:21) 

ChinchikoPapa

河原でのバーベキューにはいい季節ですね。先日、わたしは風に吹かれながら山上で弁当を食べてきました。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2014-05-23 22:16) 

suzuran6

戦災の記憶・・・それがアメリカにはこんな写真で残っているんですよね。
とても生々しいのですが、小学校の授業あたりでも活用してくれれば良いのではと感じております。
by suzuran6 (2014-05-24 11:12) 

オジロ

初めてコメントさせていただきます。いつも大変興味深く拝読させていただいております。聖母病院に外国人抑留所がおかれたのは、1945年5月25日の空襲の後です。東京第二抑留所となっていてた当時の東京神学校(文京区関口)が全焼し、女性が聖母病院に移りました。なお、メーヤー牧師のいう孤児院は、おそらく玉川田園調布の菫女学院(現田園調布雙葉学園)と思われます。
by オジロ (2014-05-24 12:50) 

ChinchikoPapa

いつも、ご訪問とnice!をありがとうございます。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2014-05-24 13:27) 

ChinchikoPapa

アルコール持ち込み自由の花見どころが、なんだかめずらしく感じるようになりました。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2014-05-24 13:28) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>ミュゼさん
by ChinchikoPapa (2014-05-24 13:30) 

ChinchikoPapa

こう少しするとバラも終わりで、アジサイが咲きはじめますね。
nice!をありがとうございました。>redroseさん
by ChinchikoPapa (2014-05-24 13:31) 

ChinchikoPapa

大名が江戸へ勘定した社は多いですが、金毘羅さんもそうですね。江戸市民には、水天宮とともに人気が高かったようです。nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2014-05-24 13:37) 

ChinchikoPapa

suzuran6さん、コメントとnice!をありがとうございます。
米国は公文書や資料を確実に保存していて廃棄せず、法期限が切れると必ず公開してくれるので、中にはもはや日本では資料が処分され不明になってしまった事象について、改めて判明することも少なくないですね。また、記憶が曖昧になってしまった歴史や事件についてもハッキリすることがあり、次に予定している「建物疎開」のテーマもそのひとつです。
この空中写真など、小学生の地域教育の教材には最適ですね。地元の現場を歩きながら、空襲の様子と現状とを直接比較することができます。
by ChinchikoPapa (2014-05-24 13:50) 

ChinchikoPapa

オジロさん、コメントをありがとうございます。
新宿区教育委員会(当時)が1996年に実施した調査に、落合地域の台地上へ展開したキリスト教会の詳細な聞き取り取材があります。その中で、目白福音教会とマリアの宣教者フランシスコ聖道会(聖母病院)についても調査が行われているのですが、ちょうどメーヤー夫妻が日米開戦直後から宣教師館(メーヤー館)に軟禁され、1943年(昭和18)に捕虜交換船で送還されるまで、1942年(昭和17)よりまず2ヶ所(軽井沢と田園調布のすみれ幼稚園)が設置され、さらに東京神学校および関口教会、国際聖母病院に分散収容された経緯が書かれています。したがって、当初より聖母病院(の一部施設)にも収容された「敵性外国人」がおり(事実、クレイマー牧師は同病院に隠れ住んだようですが)、その後、敗戦間近に空襲で焼けた施設の収容者も同病院へ集められた…という経緯ではないでしょうか。当時、日本にいた欧米人の数は、1か所の収容施設で間に合うほど少なかったとは思えませんし、また監視・管理を徹底するには大人数の収容では都合が悪かったのではないかとも考えます。
ただし、孤児院についてはおっしゃるとおり、同調査には掲載されておらず曖昧で、わたしは敗戦間際に下落合一帯に投下されたドラム缶(抑留者用の救援物資)の中に、子どもたち向けの菓子類が多数含まれていることから、聖母病院内の敷地にあった孤児院と想定しているにすぎません。もし玉川浄水場近くのすみれ幼稚園が、メーヤー夫妻のいう「孤児院」だったとすれば、とても貴重な情報ですね。
by ChinchikoPapa (2014-05-24 14:36) 

オジロ

外国人抑留所については、お茶の水大の学術誌「お茶の水史学」に掲載されている「太平洋戦争下の「敵国人」抑留 : 日本国内に在住した英
米系外国人の抑留について」に詳細な研究があります。web上で閲覧できます。これによると開戦当時全国に34か所の抑留所が設置されました。菫女学院は幼きイエス会(当時はサンモール修道会)が開設していた孤児対象の寄宿制の尋常小学校(1933年開校)で、修道会がすべての費用を負担していました。1941年12月8日にその地に雙葉第二初等学校が開校予定でしたが、太平洋戦争勃発当日と重なり、校舎は警視庁に接収され、外国人抑留所となりました。
聖母病院に外国人(とくに聖職者)が隠れていたことは確かです。また、戦災孤児も慈善病棟で数名お世話をしていていたようですが、孤児院ではありません。これらの孤児は1946年5月には横浜一般病院に移り、9月におもに戦災孤児を収容する聖母愛児園(横浜市中区)が新設されました。
by オジロ (2014-05-24 17:12) 

ChinchikoPapa

重ねて、ご訪問とnice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-05-25 11:18) 

ChinchikoPapa

地球の裏側まで戦争しに出かけられる「自衛」って、いったいなんなのでしょうね。nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2014-05-25 11:25) 

ChinchikoPapa

あれっ、sonicさんはスピノサウルスとかも描かれるのですか? わたしはマプサウルスが好きなのですが…。w nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2014-05-25 11:29) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>どがさん
by ChinchikoPapa (2014-05-25 11:30) 

ChinchikoPapa

先日、里山を歩いていたら、アジサイがずいぶん大きくなって蕾をつけているのに出会いました。nice!をありがとうございました。>沈丁花さん
by ChinchikoPapa (2014-05-25 11:42) 

ChinchikoPapa

わたしも、イルカと泳いでみたいですね。以前、イシダイの群れとは、泳いだ(追いかけられて足の毛をむしられた)ことがあります。^^; nice!をありがとうございました。>mahimahiさん
by ChinchikoPapa (2014-05-25 11:45) 

ChinchikoPapa

オジロさん、コメントをありがとうございます。
また、貴重な論文をご紹介いただき重ねてお礼申し上げます。今朝ほど、さっそく『太平洋戦争下の「敵国人」抑留』を読ませていただきました。おそらく、1943年に帝亜丸へ東京抑留所から移送された「全員が女性」32人の米国人の中に、メーヤー牧師の夫人と3人の娘たちの計4人も含まれているのでしょうね。いままで、収容当初の抑留生活など曖昧だった部分もハッキリして、とても貴重な論文を拝読しました。
ただし、本研究論文を拝読しても、聖母病院が収容所として使用されたのは1945年5月25日夜半の空襲後とは思えないんですね。それは、メーヤー氏の家族たちが目白福音教会の自宅(メーヤー館)のすぐ「近く」の施設に連れて行かれた…という証言もあるのですが、「近い」という主観概念は個人差もあり、クルマで田園調布に向かえば「近い」といえば近い感覚もありますので、あまりこだわっても意味がなさそうではあります。また、「近く」といえば聖母病院のみならず、関口教会や東京神学校も「近い」ことになりますね。
それよりも、先の聖母病院関係者に対する新宿区の聞き取り調査もそうですが、地元に当時からお住いの方々の目撃証言あるいは伝承を、わたしはどちらかといえば「公式記録」と対等に重視する視座にいます。(それは従来、ここでも繰り返し書いてきたテーマであり指針もありますが……) 官公庁や公文書館などに残されている「公式記録」は、かなり恣意的な記録操作が行われている(ましてや戦時であればなおさら)、あるいは混乱により事実の遺漏が多々ありそうだ……というのが、このサイトをやっていて常々感じていることでもあります。それは、陸軍鉄道連隊による西武線と貨物輸送の関係や、当の聖母病院への救援物資の投下(これは結果論的な把握の表現であり、投下先は実は聖母病院だけではなく下落合の3ヶ所に渡ります)など、多々見てきているせいもあるのでしょうね。
落合地域では、開戦と同時に上落合472番地の広大な旧・野々村邸(現・落合第二小学校の敷地です)を接収して、比較的規模の大きいと思われる憲兵隊の駐屯所が設営されています。それは、上落合に住んでいた転向後の元・プロレタリア作家や画家、演劇家などの芸術家たちと、おもに下落合に住んでいた「敵性外国人」たちを監視(後者の場合は当初の自宅監禁)する目的だったと想定しています。そして、聖母病院の周辺に憲兵隊が配置されているのは、空襲が頻繁になった敗戦間近ではなく、地元の証言では1943年ごろからです。これは、上記論文で規定するところのおもに英国・米国人などを中心とした記録に残る「敵性外国人」(1941年12月当時の対ABCDライン中心の宣戦布告先の国々=抑留第一期)ではなく、それに準じる「敵性外国人」も含めた収容所の可能性はどうなのだろう?……というのが、はたして当該論文を読ませていただいても、いまだ生じつづけているわたしの感触であり問題意識です。
上記論文では、「抑留第三期」に分類されていますが(私見ですが、これほどハッキリと期は分類できないのではないかと感じます)、同盟国だったはずのイタリア人への1943年にスタートする抑留事例が紹介されていますが、その他の欧州人たち(特に聖母病院の建設を肝いりで支援したのはフランス政府ですが)、同病院にも多かった(ペダン政権以前からの)フランス人たち、同論文でも言及されているように、同盟国や中立国だった外国人(ドイツ系ユダヤ人、ポーランド人、ロシア人)など日本人から見て「白人」と見られる滞在者に対しても、開戦直後から警察や憲兵隊の監視の目が光り、戦争が進むにつれて「保護」や「隔離」の名目で、大きな地域差はあるにせよ事実上の強制収容が次々と行なわれています。
憲兵隊の動きから、少なくとも1943年ごろから聖母病院のある施設へ収容されていたと思われる人々が、いずれの国の欧(米)州人だったのかは不明ですが、単に同病院に勤務する(あるいは奉仕する)フランス人たちの監視のためだけとは、包囲していたのが警官ではなく憲兵隊である状況からして、ちょっと考えにくいのです。
また、監視の憲兵隊は地元の証言によれば、1945年5月25日の第2次山手空襲後(4月13日の第1次山手空襲の可能性もあります)から姿を消し、同病院を監視するのは警官隊に入れ替わっているようですが、それはおそらく上落合472番地の憲兵駐屯所(旧・野々宮邸)が空襲で焼失しているからだと、直接的には考えられます。しかし換言すれば、一方でオジロさんにご教示いただいた関口教会から女性の「敵性外国人」が、まとめて聖母病院へ移送されたにも関わらず、なぜ厳重な憲兵隊ではなく、少なくともそれよりは武装も軽い警官隊へスイッチしているのか?……という疑問が改めて生じてきます。
単純に考えれば、憲兵隊は駐屯所も焼け兵員に余裕もなくなったので、警察に監視・監禁の任務を委任したとも考えられますが、一方でそのとき聖母病院に集められたのは同病院のシスターたちも含めて女性がかなり多く(この時期、7月にスイス公使館が同病院収容者の待遇改善を求めていますね)、それ以前の着剣小銃で武装した憲兵隊が厳重に包囲しなければならない収容者とは、内実からしてちがっていたのではないか?……とも受け取れる対応の変化だと捉えます。
わたしは別に、上記論文を否定するつもりは更々ありませんが、国立公文書館の『外事月報』など「公式記録」には掲載されてはいないが、地元あるいは関連施設に目撃証言や伝承が色濃く残り、なんらかの理由から「公式記録」には収録されなかった、あるいは漏れている事実がそこにはあったのではないか?……という姿勢で、当初から一貫してこのサイトの記事を書いていますので、やはり多分にひっかかってしまうんですよ。また、そのようにして調べや取材をつづけ、そのとおりのもうひとつ別の事実が浮かび上がることも、こちらで再三経験・ご報告しているとおりですので、「公式記録」がそうだからといって地元の証言や伝承を否定するのには、なおさら幾重にも慎重になってしまうのです。
最後になってしまいましたが、「孤児院」についての貴重な情報もありがとうございます。聖母病院の施設は、戦前からの孤児院ではなく、慈善院で戦災孤児を何人か収容していたのですね。そうだとしますと、以前こちらでご紹介しました、キリスト教関連と思われる施設で子どもたちが20人余写る幼稚園のような記念写真は、当初は聖母病院内の「孤児院」を疑ったのですが、聖母の施設ではない……というのがハッキリしたように思います。

by ChinchikoPapa (2014-05-25 12:04) 

ChinchikoPapa

わたしも2~3ヶ月に一度、メンテナンスをしに歯医者へ出かけるのですが、長い間通っていると体調の善し悪しから生活状況まで、先生から見透かされるようになります。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2014-05-25 15:52) 

ChinchikoPapa

休日は10時まではおろか、昼間で寝ていることがあります。まあ、宵っぱりもしているのですが……。nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-05-25 15:54) 

ChinchikoPapa

いつも、ご訪問とnice!をありがとうございます。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2014-05-25 15:56) 

オジロ

CinchikoPapaさま、詳細な分析に感服いたします。公式記録に恣意的な操作が入るという意見は同感です。聖母病院の抑留所についての記録は、新宿区編纂『新宿 女たちの十字路』(ドメス出版)、志村辰弥著『教会秘話─太平洋戦争をめぐって』(聖母文庫)、『ミス・ローラ・J・モーク その信仰と生涯』(月曜会)などにもあります。なお、当時の聖母病院院長エレナ・ハースは英国人であったため、戸塚警察署に連行されたのち、菫女学院に抑留されました。その後、東京神学校に移り、1945年2月に軽井沢に強制疎開させられています。聖母病院内の抑留所は修道院の建物(本館の南隣の建物)が使われました。外国人抑留所の監視にあたったのは特高警察で、軍は関与していなかったようです。
なお、孤児たちをお世話していた慈善病棟は正式にはベネディクト病棟といいます。この病棟は田中峰女史(元文部大臣、最高裁判所長官の田中耕太郎氏の夫人)らが属する婦人会の「あけの星会」の寄付による病棟です。なお、あけの星会3代目会長は麻生和子女史(元首相吉田茂氏の娘、麻生太郎氏の母)です。
当時、聖母病院と軍との関係は良好であったと思われます。初代病院長戸塚文卿の祖父戸塚環海は元海軍軍医総監ですし、聖母病院創立には昭和天皇側近の海軍少尉山本信次郎氏が資金集めに尽力しています。聖職者やカトリック信者の中には、憲兵らから「聖母病院に避難するように」と言われて、避難してきたとの証言もあります。
by オジロ (2014-05-25 18:55) 

ChinchikoPapa

オジロさん、またまた貴重な情報をありがとうございます。
『教会秘話─太平洋戦争をめぐって』(聖母文庫)と『ミス・ローラ・J・モーク その信仰と生涯』(月曜会)、こちらの書籍はまったく存じ上げませんでした。ぜひ、機会がありましたら参照してみたいと思います。
また、聖母病院内の監視は特高警察が担当したとのこと、この部分は地元の目撃情報とは異なりますね。なぜ、「憲兵隊」という話が出てきたのか、ちょっとひっかかります。思想取締りの特高警察であれば私服ですので、住民の方々には「兵」とは認識できないはずなのですが……。ただ、戦時中、南方へ派遣された従軍作家(女性)へ、“マネージャー”のようにピタリとくっついていたのは私服の憲兵だったという例も聞きますけれど、なぜことさら、銃を持ち軍服に腕章をした憲兵の記憶が登場してくるのか、もう少し突っこんで調べてみたいところです。
空襲後の敗戦間際になると憲兵の姿は消えているようで、米軍機からあるときはパラシュート付き、またときにパラシュートなしでそのままのドラム缶が、「救援物資」として学習院の西側から第一文化村にかけての下落合に投下されますが、その中身を拾いに駆けつけた人々を追いかけまわしていたのは、憲兵ではなくすでに白い夏服の警官の姿として記憶されています。
実は、次の記事に掲載予定なのですが、目白通りの建物疎開(防火帯33号建設)にからみ、その実施時期について地元の方々の証言が多種多様で、いくつも存在していた……という事実があります。具体的には、建物疎開は1943年からすでに開始されていたという方もいれば、敗戦の年の1945年になってからと証言される方まで、実に2年ほどのタイムラグが生じていました。でも、この記事に掲載しました偵察写真の発見で、かなり厳密に実施時期を絞りこむことができました。
換言しますと、それだけ戦時の明日をも知れぬ切迫した状況の中では、住民の方々の記憶もさまざまな時系列の齟齬や思いちがいから、混乱している様子がありありとわかります。つまり、聖母病院の「憲兵」の証言も、実は来院した兵士の見まちがえとか、一時的に憲兵が来院したのは事実だが実際に常駐していたわけではない……とか、いろいろな可能性も考えられますね。ただ、それをすぐ一概に「思いちがい」として捨象してしまうのをためらうう、わたしの姿勢は前回書いたとおりです。
また、慈善病院(棟)=ベネディクト病棟の件、憲兵からの避難勧告のエピソード、婦人会「あけの星会」の存在(田中耕太郎氏は目白にいますね)など、みな貴重なお話ばかりです。いろいろと、これからもご教示いただければ幸いです。
最後に、ちょっと横道にそれてしまいますが、お許しください。敗戦直後のこの聖母病院で、1946年に76歳で亡くなったエリザベス・サンダース(英国のワイト島生まれ)について、いま追いかけている最中なのですが、この女性も戦時中に英国へは帰らず、ずっと日本に滞在しつづけた女性ですね。彼女が亡くなったあと、その遺産が大磯のエリザベス・サンダース・ホーム(澤田美喜の洗礼名もエリザベスですが)へと活かされるわけですが、彼女の生涯を知る資料として『エリザベス・サンダース物語』(ノーベル書房)のほかに、なにかお心当たりのものがありましたら、ご教示いただければ幸いです。
コメントへのお返事ついでで失礼かとは思ったのですが、聖母病院関連あるいは戦時の女性史にお詳しそうですので、あえてお訊ねするしだいです。どうぞ、ご容赦ください。

by ChinchikoPapa (2014-05-25 20:52) 

sig

こんばんは。
記事1本分のコメント、読ませていただきました。何やらきな臭い昨今の為政者の動向を思う時、心して見つめていなければ、と思います。
by sig (2014-05-25 21:38) 

オジロ

ChinchikoPapa様
エリザベス・サンダース女史についての資料は他に存じ上げません。彼女については、聖公会の聖路加国際病院が米軍に接収されていたため、聖母病院に入院し亡くなったこととか、横浜外国人墓地の21区に埋葬されていて、毎年5月にエリザベスサンダースホームの子どもたちが墓参りに訪れていることぐらいしか知りません。大磯の澤田美樹記念館にもなかったように思いますが、今年3月に資料を追加してリニューアルオープンしているので、もしかしたらそちらにあるかもしれません。
なお、『いわさきちひろの若き日の日記「草穂」』(講談社)に戦時中に三井高精の麹町の自宅ギャラリーで「三井コレクション」を鑑賞したことが書かれていますが、もしかしたらそこで三井高精家に仕えていたエリザベス・サンダース女史と出会っているかもしれません。(全くの想像です)
by オジロ (2014-05-25 22:25) 

ChinchikoPapa

わたしも先週の金曜から風邪ひきで、なかなか37度以下にならないで困っています。お身体には、くれぐれもお気をつけください。nice!をありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
by ChinchikoPapa (2014-05-25 22:58) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントをありがとうございます。
わたしも、ちょっとあってはならない事態が進行中だと思いますので、このところ70年前のひどい状況の記事を、連続して書いていきたい衝動にかられています。次回も、そしてその次も、戦争がテーマの記事の予定です。
by ChinchikoPapa (2014-05-25 23:05) 

ChinchikoPapa

オジロさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
大磯側の資料は、わたしも澤田美喜関連ばかりでなく大磯町も含めて当たってはみたのですが、彼女についての詳細なものは残念ながら見つかりませんでした。
やはり、三井家の側からの資料のどこかに、含まれていそうですね。三井高清の父親・三井高保に関する記録、あるいは帰国時の新聞・雑誌などに取り上げられていないかどうか、一度調べてみたいと思います。GHQ関連ですと、澤田美喜のホーム設立に関連してポール・ラッシュ立教大学教授の資料があるようですが、エリザベス・サンダースが死去したあとのことですので、おそらく彼女の詳細は残されていないと想定していました。
わざわざありがとうございました。重ねて、お礼申し上げます。
by ChinchikoPapa (2014-05-25 23:21) 

ChinchikoPapa

そろそろ、富士山の山麓が白から青へと変わりつつあるころでしょうか。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2014-05-26 13:59) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2014-05-27 11:10) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>nikoponさん
by ChinchikoPapa (2014-05-27 11:19) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>くらいふさん
by ChinchikoPapa (2014-06-05 10:44) 

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