落合の妙見山を登攀する。 [気になる下落合]
1979年(昭和54)7月1日、西落合(旧・葛ヶ谷Click!)に住んでいた瀧口修造が死去したとき、大岡信は同年の『現代詩手帖』8月号に「タキグチさん。/宇宙青ですか、/そこは。」ではじまる、追悼詩『西落合迷宮―瀧口修造氏に―』を寄稿した。その一部を、同誌から引用してみよう。
▼
西落合。
書斎は迷宮。
ですね。
隣りの部屋から、
おくさんが、
お茶をはるばる
運んで渡つていきました。
ぼくはそれを、
目白通りで、見てゐます。
▲
瀧口修造の死後、瀧口の存在を慕う人たちの“西落合参り”は、いまもつづいている。きょうの記事は、その“西落合参り”ではなく大岡信が追悼詩を詠む700~800年ほど前、まだ一帯は鎌倉街道が整備されたばかりで、おそらく葛ヶ谷(当初は「くずがや」ではなく「かつらがたに」とも)と名づけられたばかりのころの、“葛ヶ谷参り”について書いてみたい。以前にも記事Click!で触れているけれど、北斗七星(または北極星)あるいは妙見神(または妙見菩薩)への信仰にともなう、葛ヶ谷に設置された妙見山の探訪だ。
日本の北斗七星信仰は、別に外来宗教である仏教が朝鮮半島からもたらされるはるか以前、縄文時代から存在している「日本」の始源的な信仰のひとつだ。それが妙見神信仰Click!と広く結びついたのは、おそらく平安期末から鎌倉期にかけてだと思われる。同時期からの伝承と思われる「葛ヶ谷の起りと鎮守の事」が収録された、1932年(昭和7)7月発行の大澤永潤『自性院縁起と葵陰夜話』(非売品)から、当該箇所を引用してみよう。
▼
尚古へから鎮守境内に牛頭天王と村内の谷戸といふ地に妙見山といふことに就いて伝説があります。牛頭天王には或る書にこの神は具には和魂の神、牛頭大神と申しまして、往古より悉く大地を宰り、人々の貧富病快を任じて諸の疫病神の主であると申されてゐます。この神を信ずるものは疫病を除き、禍を転じて福をお授け下さる神様として信仰されてゐます。又妙見山は妙見菩薩即ち「北斗七星又一説にはこの北斗の一星とありますが、又或書には妙見の功徳を説いて七星とし、総じて北極星をいふとあります」 この菩薩を祀りし地といひ伝へられます。
▲
この中で、御霊社がらみで語られる妙見神への信仰が「妙見菩薩」とされているのは、記録者が自性院=仏教者であるゆえんだろう。「鎮守境内」とあるのは西落合の葛ヶ谷御霊社の境内のことであり、北斗七星(妙見神)信仰とともに「牛頭天王」の伝承がセットになって存在しているのが、なによりも興味深い。「牛頭天王」は、出雲神であるスサノオの別称であり、ちょうど「大黒」が出雲神であるオオクニヌシの別名ととらえられるのと同じような位置づけだ。
つまり、平安末か鎌倉期にかけ葛ヶ谷(西落合)界隈では、妙見信仰と出雲神がどこかで連携して意識されており、明治期に下落合へ転居を考えていた将門相馬家Click!(1915年に転居)が、おそらく妙見神と神田明神Click!のオオクニヌシや氷川明神のスサノオ・クシナダヒメなど、出雲神との結びつきClick!(結界)を強く意識していたらしい気配と同様、非常に類似した信仰心(換言すれば世界観)を、700~800年前の葛ヶ谷でかいま見ることができるのだ。
さて、ここに記述された「妙見山」とはどこにあるのだろうか? 葛ヶ谷(西落合)地域で「谷戸」と表現される谷間は、以前に落合分水Click!(千川上水の分水)でご紹介した谷間しか存在しない。その谷戸に沿った丘陵で、明らかに頂上のある“山”状の場所は、これもたった1ヶ所しか存在していない。まさに、『自性院縁起と葵陰夜話』の巻末に添えられた、おおざっぱな絵図に記載されているあたり、耕地整理が行われる前の明治期に作成された地籍図の地番でいうところの落合村(大字)葛ヶ谷(字)北耕地202番地界隈、耕地整理後は旧・西落合1丁目176番地あたり、すなわち現在の西落合3丁目7・9・10・11番地に囲まれた交差点あたりが、妙見山のピークだと思われる。この交差点から、東南北いずれの道路を向いても急な下り坂であり、西側はゆるやかな傾斜だがほぼ平坦で、このような山らしい形状は葛ヶ谷の谷戸地域ではここにしか存在していない。
旧・西落合1丁目149番地の瀧口修造邸や、同1丁目338番地にあった東京国立近代美術館の初代館長であり美術史家の富永惣一邸にもほど近い。松下春雄アトリエClick!または鬼頭鍋三郎アトリエClick!から、南南東に400mほど下がった位置にあたる。
おそらく、大正末あたりからスタートした耕地整理の前は、街道筋あるいは付近の村々から眺めれば、明らかに左右へ裾野を拡げる山嶺、ないしはところどころに集落のある△状の段々畑のように見えていただろう。鎌倉期から時代が下って、室町後期あるいは江戸期に入るころからだろうか、妙見信仰の事蹟は妙見山の存在とともにすっかり忘れ去られ、妙見山の山麓も次々と田畑へ開墾されて、由来の古い葛ヶ谷御霊社あるいは自性院に残る伝説としてのみしか、語られなくなってしまったのだ。
もうひとつ、葛ヶ谷にあった妙見山の位置関係がとても面白い。周囲を、出雲神の氷川明神社に囲まれているのだ。しかも、妙見山に近い位置の氷川社4社は、主柱がスサノオである点にも留意したい。すなわち、妙見山の真南には上高田氷川社Click!(スサノオ)、南西には沼袋氷川社Click!(スサノオ)、北西には江古田氷川社(スサノオ)と豊玉氷川社(スサノオ)、さらに南東にはやや離れて下落合氷川社Click!(クシナダヒメ)と高田氷川社Click!(スサノオ)、北東にもやや離れて長崎氷川社Click!(現・長崎神社:クシナダヒメ)と、出雲神だらけのほぼ中心点に妙見山が位置していたことになる。そして、周囲の氷川社はスサノオ5社とクシナダヒメ2社とで、偶然にも計7社を数える。
さて、いまから700~800年ほど前の人々は、牛頭天王や妙見神(習合して妙見菩薩)への信心から、その信仰を深めるために葛ヶ谷に展開していた社や寺、ときには妙見山へも参詣したのだろう。その時代の妙見山は、はたして北斗七星(または北極星)からの“気”が降りそそぐ聖なる山(ご神体)として立入禁止だったものか、あるいは今日のパワースポットのように山頂へ上って瞑想する、一種の修験・修行の場であったものだろうか。
昭和初期に耕地整理が完了し、住宅街として開発された西落合の街並みからは、星降る神聖な妙見山の姿を想像するのは、もはや困難だ。それとも、星空がきれいに見える「宇宙青」の宵、この交差点から北斗七星や北極星を眺めていると、なにか特別いいことでも起きるのだろうか。それとも、東南北いずれの道路からも坂上のピークにあたる交差点なので、勢いをつけて上ってきたクルマにはねられ、目から星でも出るのだろうか。
◆写真上:葛ヶ谷の妙見山へと上る、新青梅街道側からの絶壁のある登山口。w
◆写真中上:上左は、落合分水が流れていた谷戸の現状。上右は、妙見山の東側からの登山口で山裾の商店街や地下鉄に出られるせいかもっとも登山者が多い。w 下は、1932年(昭和7)7月発行の大澤永潤『自性院縁起と葵陰夜話』に掲載された周辺伝説マップ。
◆写真中下:上左は、妙見山の東側斜面から谷戸方向の谷間を眺めたところ。登攀にはいちばん苦しいあたりだが、やたら軽装な高齢者の登山者が多い。w 上右は、1880年(明治13)ごろに作成された妙見山あたりの地籍図。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる妙見山。下は、耕地整理後の旧・西落合1丁目あたりの様子。
◆写真下:上は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる妙見山とその周辺。中は、山頂からの四方の眺望で東南北が急激に落ちこんだ坂道になっている。下は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる妙見山の地域的な位置関係。★はスサノオ、★はクシナダヒメが主柱の氷川社。
ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>goさん
by ChinchikoPapa (2014-07-01 10:21)
子どものころからクジ運が悪く、わたしはなにか大きな景品に当選したことがありません。ブルーベリーは、目を酷使するので食べていますが、ジュースのほうが効率よく栄養を摂れそうですね。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2014-07-01 10:27)
昔の瞑想音楽のようなサウンドですが、嫌いではありません。w
nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2014-07-01 10:35)
うーん、「水俣病は風土病」以来、文春は現地へ出かけて当事者への取材もせず、ウラ取りした記事など書かない雑誌社だと思っていましたが…。nice!をありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2014-07-01 10:39)
海岸に鯉のぼりというのは、ありそうでないシチュエーションですね。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2014-07-01 10:48)
わたしもワイド・テンプレートにしていませんが、コンパクトな窓にまとめておき、別窓を開いて他の作業をしたい……という、自分の都合によります。w nice!をありがとうございました。>Ujiki.oOさん
by ChinchikoPapa (2014-07-01 10:54)
ご訪問と、nice!をありがとうございました。>やってみよう♪さん
by ChinchikoPapa (2014-07-01 10:55)
これまで、いろいろな風景画を見てきましたが、画家によって目が広角気味、望遠気味、標準レンズといろいろ特色があって興味深いです。nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2014-07-01 11:00)
中野長者伝説は、明治以降までつづく枝葉伝説まで含めると、おそらく100は下らないんじゃないかと思います。落合地域にもつながりそうですね。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2014-07-01 11:07)
しばらま教育園の森を歩いてないので、久しぶりに目黒へ出かけたくなりました。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2014-07-01 11:12)
HOYA本社前の情宣活動は、下落合の聖母坂でしょうか。
nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2014-07-01 16:45)
「犬あたま」というと、どうしてもすぐに「犬のお巡りさん」を想像してしまいます。子どものころに見た絵本が、トラウマになっているものでしょうか。w nice!をありがとうございました。>nikiさん
by ChinchikoPapa (2014-07-01 16:48)
水木しげるの妖怪ブームのころ、いろいろなオリジナル妖怪を考えては描いてました。nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2014-07-01 16:53)
栗好きなわたしとしては、「焼き栗きんとん」は惹かれますね。
nice!をありがとうございました。>沈丁花さん
by ChinchikoPapa (2014-07-01 16:55)
どなたかのブログを見て、なにかをしたくなる、またはなにかを食べたくなるというのは、わたしもよくあります。w nice!をありがとうございました。>makimakiさん
by ChinchikoPapa (2014-07-01 16:57)
太陽が少し顔をのぞかせると、とたんにグッと気温が上がって外出がおっくうになります。nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-07-01 21:28)
御影堂が「貸し切り」……というようなことがあるんですね、初めて聞きました。nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2014-07-01 23:17)
ときどき、お弁当のおかずで見かけるから揚げですね。
nice!をありがとうございました。>tomuyamu9nさん
by ChinchikoPapa (2014-07-02 00:26)
神戸の街は、わたしもほとんど馴染みがないですね。
nice!をありがとうございました。>(。・_・。)2kさん
by ChinchikoPapa (2014-07-02 01:00)
アオバトが湘南海岸ではなく、井の頭公園で見られるのは嬉しいですね。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2014-07-02 10:34)
ご訪問と、nice!をありがとうございました。>げいなうさん
by ChinchikoPapa (2014-07-02 10:34)
うちの3階のベランダに、夏らしく娘がヒマワリを植えました。
nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-07-02 16:02)
証明写真にも、“撮られ方”があるのですね。勉強になりました。
nice!をありがとうございました。>hinaさん
by ChinchikoPapa (2014-07-02 17:47)
わたしはトルソでもボディでもなく、どうしてもマネキンと呼んでしまいます。w nice!をありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2014-07-02 18:40)
夜間の新幹線でない限り、景色を見ながら音楽を聴いたりPCをいじったりする可能性は大ですが、映像は見ないかもしれません。nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2014-07-02 22:28)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2014-07-03 00:25)
わたしは子どものころ、「まごころ天女」よりもその周囲の大理石にたくさん表れた化石に夢中で、「天女」さんの印象が薄かったですね。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2014-07-03 00:27)
ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>einsさん
by ChinchikoPapa (2014-07-03 10:05)
JAZZが流れる喫茶「IZA」がバーになってしまいましたので、鎌倉駅が正面に見えるあたりの喫茶店で休むことが多いです。nice!をありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2014-07-03 10:10)
うちは代々曹洞宗なのですが、墓はともかく寺はご無沙汰ですねえ。nice!をありがとうございました。>yamさん
by ChinchikoPapa (2014-07-03 10:14)
憲法も議会も超越して、国家の指針や方向性が人依存でたやすく決定できるというのは、北朝鮮と同質の国家であり、政治学的な解釈でいえば近代国家が成立する以前の問題です。nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-07-03 20:46)
東京の地形はいつの頃から、浸食などによる「谷」などが顕著にあらわれだしたのでしょう?
そんな事を考えながら、太古の「妙見山」をイメージしてしまいました。
by suzuran6 (2014-07-04 10:58)
suzuran6さん、こちらにもコメントとnice!をありがとうございます。
おそらく、縄文海進(有楽町海進)による波打ち際が、後退をつづけた前後からではないかと思いますので、1万年~9千年ほど前からになるのでしょうか。丘陵の谷間は、当初は入江で波の浸食で削られ、海が後退したあとは湧水による川の浸食で深く削られて、現在の武蔵野台地を形成しているのでしょうね。あと、地殻変動もずいぶんあったのではないかと……。
by ChinchikoPapa (2014-07-04 15:29)
Papaさんの家は曹洞宗だったんですか?私の家には色々な宗派のお経があるけど、曹洞宗ってそもそもお経なんてあるんですか?禅宗というのは、座禅させておいて、雑念を抱くと、背中を棒でばしっと叩くというイメージがあるんですけど。今度、「我が家の曹洞宗」というテーマで書いてくれませんか?
by Marigreen (2014-07-05 17:12)
Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
うちは、親の世代から「寺」があまり好きではありませんので、曹洞宗について記事に書く……ということはないと思います。以前にもここで書きましたが、親の世代は1945年3月10日の東京大空襲を体験していますので、寺や墓地を守ることなく爆撃が近いことを知るや、「本山(永平寺)へもどる」と称して故郷へ逃げ帰った坊主たちのために、空襲で死んだ近隣の人たちの弔いさえ出せなかった……という苦い経験があるからです。
同じ外来宗教でも、空襲下のキリスト教の宣教師や牧師たちは、どれほど危機的な状況を迎えようが自身が派遣された教会から逃げたりはせず、「死守」しているのとはまさに対照的ですね。
だから、わたしは仏教や寺をいっさい信用していないし、むしろいい加減な宗教だと規定しており、墓参りはしますが先祖代々の「寺」とはいっさい関わりません。親の代から、山手に墓を分墓した背景には、ほかにも理由はあるのですが、上記のような大きな背景があるからでした。
by ChinchikoPapa (2014-07-05 22:14)
こちらにも、nice!をありがとうございました。>mustitemさん
by ChinchikoPapa (2014-07-06 21:19)
わざわざ、こちらにもnice!をありがとうございました。>タッチおじさんさん
by ChinchikoPapa (2014-07-13 21:20)
こちらにも失礼いたします。三河です。
妙見山の存在・・・またまた驚きました。
縄文時代の北辰・星辰信仰まではさすがに追えないとして、正直、都内には妙見信仰が形としてはないものだと思っていました。
(足立区に武蔵千葉氏がいた時代に妙見神が祀られていた時代はありましたが)
もしかすると失われてしまっただけで、もっと各所にあったのでしょうか。
すごく気になるところです(・・;)
by 三河 (2018-01-30 21:52)
三河さん、コメントをありがとうございます。
おそらく、江戸期までは「妙見」の事蹟が伝わっていたものの、明治期以降に意図的に消されてしまったか、あるいは地名・字名が規定される過程で消滅してしまったか、さまざまなケースが考えられますが、都内にはけっこう多いのではないかと想像しています。
かつて葛ヶ谷(西落合)にあった「妙見山」は、たまたま自性院の資料に記録されて今日まで伝わったケースですが、地域の資料を細かく調べれば、「神田明神」分社と同様に、ひょっとすると他でも見つかるかもしれないですね。
by ChinchikoPapa (2018-01-30 22:32)
いつもお世話になっております。
なるほど、自性院の記録に残っていたからたまたま伝わった稀なケースなのですね。
そして存じ上げませんでしたが、自性院は空海創建とも謂われ、道灌公とも縁のある由緒あるお寺さんなんですね。
https://tesshow.jp/shinjuku/temple_wochiai_jishoin.html
機会があったら出かけてみようと思います。
あと都内の妙見山伝説、こちらも難しそうですが調べてみます(^^;)
by 三河 (2018-02-01 22:37)
三河さん、重ねてコメントをありがとうございます。
江戸期はお寺の人別帳や過去帳に、周辺の住民や故事の詳細な記録が残されていることがあって、たいへん貴重な一級資料のひとつですね。
自性院では、その記録を庫裏の奥に仕舞いこまず、小冊子にしてまとめ出版したところが、当時の住職が「後代へ残すべき」という、先見の明のある優れた方だったのだと思います。
通常ですと消えてしまう、あるいは忘れ去られてしまうような事象が、それらの資料から当時の人々の考え方や思想、宗教観、風俗・文化、口承伝承などとともにクッキリと浮かび上がってきますね。
by ChinchikoPapa (2018-02-01 23:35)