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美術研究所に架けられた黒澤明の300号。 [気になるエトセトラ]

長崎町大和田界隈.JPG
 八島太郎展実行委員長の山田みほ子様Click!より、再び貴重な資料類をお送りいただいた。その中には、2010年にテレビ東京で放映されたドキュメンタリー『世界を変える100人の日本人』の八島太郎Click!編も含まれている。また、戦後の絵本関係の資料や作品画像、貴重な書簡類のコピー、八島太郎(岩松淳Click!)について書かれた椋鳩十による自筆の複写原稿もある。これらの資料については、またいつか改めて記事を書いてみたい。
 また、もし貴重な資料類の保存が地元の鹿児島で困難なようであれば、東京ではすでに絵本『あまがさ』の一部原画が保存されている上井草の「ちひろ美術館」Click!(練馬区)か、反戦の拠点として特高Click!と憲兵隊につぶされた長崎町大和田のプロレタリア美術研究所Click!があった豊島区での保存が妥当だろうか。あるいは、八島太郎(岩松淳)も含めて同美術研究所へ通った画家たちが多く住み、また新宿紀伊国屋Click!の2階展示場で開かれた同研究所の卒業制作展をしばしば訪れていた、林芙美子Click!や平林たい子など落合地域の作家たちが大勢住む新宿区のほうだろうか。いずれにしても、山田様の保存へ向けたご懸念が、1日も早く解決されることを望みたい。
 さて、長崎町大和田1983番地にあった、プロレタリア美術研究所(元・造形美術研究所Click!のち東京プロレタリア美術学校Click!)の建物内部の間取りや授業の様子が、さまざまな資料から明らかになってきた。入り口に面した大教室(画室)には、黒澤明制作の水彩300号が展示されていたことも判明している。広い教室(画室)は2部屋あり、また泊りこみの事務局員用に小さな畳部屋が付属していた。所長の矢部友衛から依頼され、その畳部屋に住みこんで研究所の事務をこなしていた美術家・小野沢亘の証言を、1994年(平成6)出版の『1930年代-青春の画家たち』(創風社)に収録された「プロレタリア美術運動と私」から引用してみよう。
  
 プロレタリア美術研究所は、東京市外長崎町にあった。現在の東京都豊島区長崎町である。私は悲壮な覚悟を胸に秘めて研究所を訪れた。少し大げさと思う人がいるかもしれないが、この私の悲壮感は嘘ではなかった。プロレタリア美術運動をやるからには、警察に捕まって拷問されることは覚悟しなければならない。それに、私は肋膜炎をやったことがある。下手に拷問されたら生命にかかわると思ってそれが非常に不安だったからである。/しかし研究所について、事務所から事務の乃木さんという人が出てきたときにはホッとした。たくましいというより、おとなしそうな、やさ男といった感じの人だった。/その時には乃木さん以外には誰もいなかった。大きな板の間の部屋が二つ、小さな畳部屋が一つあった。私は入所してから一年もたたないうちに乃木君にかわって、この部屋に住むことになるのであった。入口に面して大きな部屋には、黒沢明(映画監督)の三百号位の大きな水彩画が掛けてあった。
  
 この情景は、小野沢が川端画学校を出てから初めてプロレタリア美術研究所を訪れた、1929年(昭和4)秋のことだ。広い画室のひとつに架けられた300号の黒澤作品とは、いったいどのような画面だったのだろうか。前年(1928年)の暮れ、上野の東京府美術館で開催された第1回プロレタリア美術展に黒澤明は出品していない。小野沢が事務局へ勤務しはじめた直後、1929年(昭和4)12月に第2回プロレタリア美術展が上野の同美術館で開催されるが、同展に黒澤は水彩による『建築場に於ける集会』を出品している。ひょっとすると小野沢が目にした300号サイズの画面は、出品直前の同作だったのかもしれない。
八島太郎「SUMMER ROAD」1940.jpg
八島太郎絵葉書1940.jpg
 小野沢亘は、同研究所の事務所に住みこんで多様な雑事をこなすかたわら、川端画学校時代の実力をかわれてデッサンの講師もしていた。また、学生たちのデッサンにモデルを雇うときは、谷中にあった宮崎モデル紹介所Click!に出かけ、モデルの選定もしている。以前、こちらでご紹介したダット乗合自動車Click!バスガールClick!に頼みこんで人物モデルClick!を依頼したのも、また小野沢亘の仕事ではなかっただろうか。小川薫様Click!のお母様・上原とし様Click!は、モデルを雇う資金がなくなったとき、ときどきモデルの依頼に乗務員組合を訪れる小野沢亘の顔を、よく知っていた可能性が高い。小野沢が書いた「研究所の留守番役」から、研究所での仕事の様子を引用してみよう。
  
 住み込みの事務員としての私の仕事は、ときどき研究費を集めたり、モデルを雇えるだけの金がある時には、上野にあったモデル紹介所に出向いてモデルを頼んできたりするぐらいであった。その外のことは、私が講習生だった時と同じように、講習生たちでつくっていた自治会が、なんでもやってくれていたのでこれというほどの仕事はなかった。/私の毎日の仕事は、美術家同盟員になってから与えられた実技指導者としての仕事だけだった。/金がなく、絵具などもろくに買えず、デッサンばかりやっていたので、デッサンは比較的上手だった。そこを見込まれたというわけである。/私は川端画学校時代に、モデルさんに、「黒いキューピー」とあだ名をつけられたりするような童顔で、年よりは三つくらいも若く見えたから、新しく入所してきた講習生などは、これが実技指導者かと怪げんな顔をする人もいた。/研究所に住み込んでの、わずらわしいことといえば、週に一、二回、所轄の特高がやってくることだった。特高は、美術家同盟が出しているプリント刷りの内部資料や、講習生が出している自治会ニュースを、来るたびごとに要求した。
  
小野沢亘「詩人」1936.jpg
日ノ出湯煙突.jpg
 同証言には、特高と憲兵隊とが仕事(思想・信条弾圧)の「成果」を競い合っていた様子も記録されている。登場する特高は、高田警察署Click!(現・目白警察署)に勤務していた刑事たちだ。プロレタリア美術研究所には、特高のほかにときどき憲兵たちも姿を見せていた。憲兵も内部資料を要求したようだが、特高の刑事から「憲兵に内部資料をわたす義務はない」との“助言”を受け、小野沢亘はうるさい憲兵たちを追い払いつづけた。
 その後、小野沢は1930年(昭和5)に『市電従業員のデモ』Click!を描いたあと特高に検挙されたのを皮切りに、都合6回逮捕され拷問を受けている。プロレタリア美術研究所では講師仲間だった八島太郎(岩松淳)からは、「特高はしょせんサラリーマンなのだから、逃げようと思えば逃げられる」とアドバイスを受けている。だが、同研究所(当時は東京プロレタリア美術学校)を物理的に破壊しに襲ってきたのは、特高ではなく陸軍憲兵隊だった。
 では、当時の同研究所へ通っていた学生側からの証言を、1987年(昭和62)発行の『美術運動』第117号に掲載された、松尾隆夫「プロレタリア美術研究所と共同制作の頃」から引用してみよう。
  
 私は一九三一年五月長崎町大和田にあったプロレタリア美術研究所(後にプロレタリア美術学校といった)にいた。その研究所は進歩的な同じ考えを持った若さに輝き熱気溢れる集りであった。農村漁村からの出身者、金属労働者、又は男子学生、女子学生達の面々であった。自治会を持って自主的に運営されて指導はプロレタリア美術家同盟の人で毎晩一人か二人きて指導を受けた。毎週土曜日には作品の合評会があり活発な討論があった。学課は唯物史観、プロレタリア美術論、唯物弁証法的創作方法其の他がなされた。そこには外部の在来の美術学校や、営利主義のブルジョア美術研究所とは全く違った新鮮さがあった。私が初めて入所して出席した夜は自治会の一ヶ月毎の総会で委員長の奥田武君の報告に多少質問と異見をのべた事から次の委員長に選出され後二~三回やった様に思う。やがて五期生の卒業制作展は新宿の紀国屋(ママ)の階上でした。その時の入場者の中に作家の林芙美子と平林たい子の二人が揃って熱心に見て行った。
  
 ちなみに、五期生だった松尾隆夫の同窓には、戦後に砂川裁判の伊達判決で注目された裁判官夫人の伊達孝子や、山代巴、松尾ミネ子などの女性画家たちがいる。
黒澤明「建築現場に於ける集会」1929.jpg 松尾隆夫「版画家飯野農夫也氏像」1960.jpg
小野沢亘.jpg 松尾隆夫.jpg
 1932年(昭和7)12月に、プロレタリア美術研究所は東京プロレタリア美術学校と改称しているが、男子学生ばかりでなく八島太郎(岩松淳)夫人となる新井光子をはじめ、女子学生たちも次々と入学してくるようになる。その多くは、女子美術学校Click!在学中か卒業したての画家の卵たちなのだが、それはまた、別の物語……。

先日、飯野農夫也Click!のご子息である飯野道郎様Click!よりご連絡をいただき、岡本唐貴が1927年(昭和2)に制作した森の絵が、黒澤明の『蜘蛛巣城』(1957年)のシーンに酷似していることをご教示いただいた。おそらく、撮影用の黒澤絵コンテもよく似ていたのではないかと想定できる。

◆写真上:造形美術研究所→プロレタリア美術研究所→東京プロレタリア美術学校の跡地へ向かう途中に残る、長崎町大和田時代からのいまや希少な住宅。
◆写真中上:米国のフィリップス・コレクションとしてワシントンのPhillips Memorial Art Galleryに収蔵されている1940年(昭和15)制作の八島太郎『SUMMER ROAD(夏の道)』。同館では、過去に『SUMMER ROAD』を記念絵はがきにしている。
◆写真中下は、1936年(昭和11)制作の小野沢亘マンガ『詩人』の冒頭。は、小川薫様のアルバムより上原宅2階から見える昭和初期の富士ノ湯(のち鶴の湯)と日ノ出湯の煙突。日ノ出湯のほぼ真下、西隣りにプロレタリア美術研究所があった。
◆写真下上左は、プロレタリア美術研究所の壁に展示されていた可能性が高い1929年(昭和4)制作の黒澤明『建築現場に於ける集会』(水彩)。上右は、1960年(昭和35)制作の松尾隆夫『版画家飯野農夫也氏像』。下は、小野沢亘()と松尾隆夫()。


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ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>てるせさん
by ChinchikoPapa (2014-09-02 17:34) 

ChinchikoPapa

スタンダードの「Together Alone」を、Jarmanがどのように料理してるのか聴いてみたいですね。未聴のアルバムです。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2014-09-02 17:43) 

ChinchikoPapa

わたしも「あしたのジョー」はリアルタイムではありませんので、通しで読んだ記憶がありません。nice!をありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2014-09-02 17:46) 

ChinchikoPapa

顔色の悪さを隠すために、植木等の顔が真っ白なんですね。初めて知りました。nice!をありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2014-09-02 17:49) 

ChinchikoPapa

汐留ミュージアムがありますので、旧・新橋駅界隈はときどき出かけるのですが、踏み切りの記念碑があるのは気づきませんでした。nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2014-09-02 17:53) 

ChinchikoPapa

いつも、ご訪問とnice!をありがとうございます。>やってみよう♪さん
by ChinchikoPapa (2014-09-02 17:55) 

ChinchikoPapa

セミ時雨は相変わらずにぎやかですが、街はすっかり秋の気配ですね。nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2014-09-02 17:57) 

ChinchikoPapa

こちらでは、見たことのない銘柄がたくさん並んでいますね。みんな、ひと口ずつ味見をしてみたいです。nice!をありがとうございました。>沈丁花さん
by ChinchikoPapa (2014-09-02 17:58) 

ChinchikoPapa

「ムーブマン」は、日本語にしますと「動的な気配」……でしょうか。nice!をありがとうございました。>sonicさん
by ChinchikoPapa (2014-09-02 18:03) 

ChinchikoPapa

いまから10数年前の早朝、銀座で棒手振(ぼてふり)の魚屋さんが走りまわっているのを見かけました。いまでも、健在なんでしょうね。nice!をありがとうございました。>nikiさん
by ChinchikoPapa (2014-09-02 18:05) 

ChinchikoPapa

街角の写真を撮ることが多いので、いつも電線の存在が気になります。願ってもない写真加工ツールですね。nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2014-09-02 18:14) 

ChinchikoPapa

「サラ」という名前がキーワードですね。いい映画です。
nice!をありがとうございました。>makimakiさん
by ChinchikoPapa (2014-09-02 18:19) 

ChinchikoPapa

夕方になると、虫の大合唱がはじまってますね。そろそろ風鈴を仕舞わないと……。nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-09-02 18:20) 

ChinchikoPapa

その昔、大覚寺の大沢池で屋形に乗り、花見をしたことがありました。いまのように混んでなくて、けっこう空いていたのを憶えています。nice!をありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2014-09-02 20:20) 

ChinchikoPapa

ラグビーの本題からは外れてしまうのですが、数年前からオフィスの複写機が消えプリンタだけになりました。仕事でもクライアントとの会議時は除き、いまや電子データオンリーになっています。nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2014-09-02 20:24) 

ChinchikoPapa

相変わらず、ドラえもん人気は根強いですね。
nice!をありがとうございました。>げいなうさん
by ChinchikoPapa (2014-09-03 00:02) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>kaminews100さん
by ChinchikoPapa (2014-09-03 10:41) 

ChinchikoPapa

子どものころ2本立てで観た、アニメ『安寿と厨子王』と『白蛇伝』は強烈な印象でした。nice!をありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2014-09-03 10:49) 

ChinchikoPapa

条例違反のみならず、顔を撮れば民事では肖像権侵害(公表すれば+公表権・プライバシーの侵害)になるのでしょうから、損害賠償請求も発生しかねませんね。nice!をありがとうございました。>栗さん
by ChinchikoPapa (2014-09-03 10:55) 

ChinchikoPapa

近ごろは、北海道の米「ゆめぴりか」があっさりした風味で気に入っています。nice!をありがとうございました。>redroseさん
by ChinchikoPapa (2014-09-03 10:57) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>Ujiki.oOさん
by ChinchikoPapa (2014-09-03 16:39) 

ChinchikoPapa

わたしはサウンドデータの編集にはフリーウェアの「Sound Engine Free」、データ変換には「THOMSON mp3PRO Audio Player」というのを使っています。nice!をありがとうございました。>suzuran6さん
by ChinchikoPapa (2014-09-03 16:42) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>あんぱんち〜さん
by ChinchikoPapa (2014-09-03 16:49) 

ChinchikoPapa

「短かったけど暑かったね、夏…」という言葉がピッタリな夏でした。nice!をありがとうございました。>茶の間おやぢさん
by ChinchikoPapa (2014-09-03 20:10) 

ChinchikoPapa

こちらも坂道ばかりなので、ふわっと風に吹かれることがあります。追い風ならいいのですが、坂おろしの風だと冬はつらいですね。nice!をありがとうございました。>ligiaさん
by ChinchikoPapa (2014-09-03 20:13) 

ChinchikoPapa

最近、「筋論」を大声で語ることは若いころに比べて減りましたけれど、でも自分なりの筋は通していきたいですね。nice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-09-03 22:32) 

ChinchikoPapa

類似のPassを使っている場合は、そのひとつが破られると他もすべて危ないですね。nice!をありがとうございました。>treさん
by ChinchikoPapa (2014-09-04 10:24) 

ChinchikoPapa

セーヌの遊覧船デザインが、昔の舟神輿みたいで面白いですね。
nice!をありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2014-09-04 10:29) 

ChinchikoPapa

確かに60年代末から70年代にかけての、日産の勢いはどこかへ失せてしまいました。nice!をありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2014-09-04 12:59) 

siina machiko

暫くです。その母と叔母(父の妹で健在、先日椎名町のその家があった辺りを数十年ぶりに歩いてみたそうです。お地蔵様だけはわかったそうですが元の家があった場所は同行した娘に導かれわかったそうです)の写る写真に日の出湯もある事には気が付きませんでした。昭和20年4月か5月の空襲でそれまで住んでいた家のすぐ裏の家に爆弾投下されとても住める状態ではなくなりこの家に父の両親ときょうだい達とで転居してきたそうです。父の弟2人と妹3人もいてこの写真の頃は母は食料を買出しにいくそばからなくなってしまい大変だったそうです。紺の制服に身をつつまれていたバスガール時代がなつかしくも毎日食べるのに必死で近所で芋をほってもいたそうです。そのバスガール時代の話といえば決まってデモ行進中にすぐ前をあるいていた仲間が検挙されたような事ばかりでモデルの話は残念ながらきいたことがなかったのですがもしかしてしっていたかもしれませんね。Papaさんが私の母のアルバムを掲載してくださった事をきっかけに椎名町の小出さんと知り合い(お互いのお祭りの写真に小出さんとわたしの父、小出さんのお母様と私の祖母がいっしょにうつったものがありました)「トキワ荘写真集」や「めじろ新聞」やつい最近では「豊島区の百年」にも写真が掲載されました。その後いただいたそれらをみかけた人(店内で)が実は親が椎名町に住んでいたとか自分が子供の頃すんでいたなどの反響があり驚いています。
by siina machiko (2014-09-04 16:43) 

ChinchikoPapa

東京湾観音はウワサに聞きますが、高いところが苦手なわたしは、まだ一度も出かけたことがありません。重ねてnice!をありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2014-09-04 18:28) 

ChinchikoPapa

siina machikoさん、コメントをありがとうございます。
こちらこそ、ご無沙汰しています。すごい偶然というか、実は明日にでもメールを差し上げて、来週の8日(月)にでもうかがおうと、友人と話していたところでした。今年は夏休みがほとんど取れなくて、美味しいものを食べてウサを晴らそうとたくらんでいます。w 午後5時すぎぐらいにお店へうかがいますので、よろしくお願いいたします。
わたしも、アルバム写真を見直していて、日の出湯の煙突に「あれっ?」と気がついたしだいでした。上原とし様たちがここへ移られたのは、4月13日以降かもしれません。5月17日に撮影された写真を拡大して見ますと、元のお宅の周辺はかなり被害を受けているように見えます。上原としアルバムがたいへん貴重なのは、家族写真ばかりでなく昭和初期の当時、あちこちに展開する周囲の風景がとらえられている点ですね。史的な資料価値は、きわめて高いと思います。また、いつかこちらでもご紹介しています、撮影場所の不明な写真類も、いまだ当時の他の写真と突き合わせて調べつづけています。判明したものがありましたら、またこちらでご紹介しますね。
小出さんをはじめ、椎名町の旧・町民の同窓会のようになってらっしゃるようで、楽しいですね。『写真集・トキワ荘通り』は、同通りの「お休み処」で先日拝見しました。これらをきっかけに、いろいろな当時のつながりが判明して、楽しい(戦時中も含まりますから、ときにはたいへんな)物語が集まると、また新しい街の物語が発掘できそうです。

by ChinchikoPapa (2014-09-04 19:10) 

siina machiko

撮影場所の不明な写真類の判明、たのしみにしています。
なお8日(月)午後5時過ぎ頃の御来店お待ちしています。ありがとうございます。


by siina machiko (2014-09-05 17:52) 

ChinchikoPapa

siina machikoさん、わざわざコメントをありがとうございます。
もしお店に、写真集『豊島区の百年』がありましたら、見せていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

by ChinchikoPapa (2014-09-05 17:59) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2014-09-06 00:06) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2014-09-07 11:43) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
by ChinchikoPapa (2014-09-07 18:42) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2014-09-08 00:43) 

山田みほ子

多岐に渡る、プロレタリア美術研究所の歴史や風景が検証され、往時が甦り~八島太郎先生も、マコ岩松氏も感無量の事でしょう![るんるん]幾多の示唆も頂き、本当にありがとう御座います~花子とアンも丁度、社会主義者の検挙~戦争反対の非国民扱い~今一度時代を歴史を見つめる大事なテーマの様に、実感致します。
by 山田みほ子 (2014-09-10 21:06) 

ChinchikoPapa

山田みほ子さん、わざわざコメントをありがとうございます。
また、過分なお言葉、たいへん恐縮です。あしたアップ予定の記事は、書かれているTVドラマにも関連のある人物が登場します。
落合・高田・長崎地域(現在の落合・目白・椎名町地域です)は、プロレタリア芸術家や左翼運動家と、当時の政治家あるいは華族たちとが、ほとんど隣り合わせに住んでいた、東京でもめずらしい地域です。下落合の九条武子と、彼女の家から北東へ800mほど離れた高田町上屋敷に住んでいた、親友で歌人仲間の宮崎白蓮のエピソードです。

by ChinchikoPapa (2014-09-10 22:21) 

Marigreen

まあPapaさんの広いというかよく気がつくこと!プロレタリア美術研究所の五期生に砂川事件で有名な伊達裁判官の夫人の伊達孝子さんがいたなんてことまで気付いてるなんて。どうも私より脳みその容量がはるかに大きいようだ。
by Marigreen (2014-09-12 17:31) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
いいえ、わたしが気づいたのではなく、みなさんがお送りくださる資料類を、ていねいに拝読して記述を発見しているだけです。わたしの脳味噌は、おそらくMarigreenさんよりも容量が小さく、すぐにエラーログが蓄積されて不具合を起こして停止します。
by ChinchikoPapa (2014-09-12 18:50) 

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