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小島善太郎は巨大古墳の上に立った。 [気になる神田川]

戸山ヶ原風景1911.jpg
 小島善太郎Click!は、淀橋町に住み淀橋小学校へと通っていたころから、高いところへ登って風景を眺望するのが好きだったようだ。この性格は、小島が画家をめざすようになってからも、風景画にその特徴を多く見い出すことができる。高台や丘の上から、坂下や麓を見下ろして描いている画面が数多い。幼年時代から、彼は近くの丘や高所に登っては四辺を見わたしている。
 小島の父親は、もともと下落合にあった小島家本家の跡取りであり、隣りの中野村から嫁してきた妻、すなわち小島善太郎の母親を迎えてからは、沢庵漬けClick!の製造とダイコンなど近郊野菜の仲買い販売を商いとする仕事を淀橋ではじめている。だが、酒グセの悪い父親が事業に失敗し、やがては故郷である下落合にもどってくるのだけれど、本家の土地や屋敷はとうに人手にわたっていて、小島一家はバッケ堰の下流にある使われなくなった旧・バッケ水車小屋Click!で小さな風呂屋を営業し、その日の食事にも困窮して飢えに苦しめられる極貧生活を送ることになった。
 きょうのエピソードは、小島善太郎がいまだ淀橋小学校に通い、成子天神社Click!の祭礼には友だちと夜店に出かけられていた時代、つまり小島家にいまだ破滅的な危機が訪れる前の、淀橋町時代の物語だ。小島善太郎は、小学校の友だちなどとともに現在の新宿駅西口、つまり明治期の淀橋町角筈から五十人町、成子町あたりを走りまわって遊んでいた。淀橋浄水場Click!は小島が6歳のときに竣工しているが、甲州街道の旧・宿場町である内藤新宿Click!に近く、早くから拓けていた新宿停車場Click!の東口とは異なり、西口はいまだ昔の面影を色濃く残しているエリアだった。
 余談だけれど、成子天神の東側には1880年(明治13)に設置された三角点Click!があるのだが、おそらく地面からなんらかの盛り上がりがあり、四方を測量できる小高い地形になっていたと思われる。小島の著作を注意深く読んだのだが、成子天神東側の地形については特に触れられていない。崩されかけた成子天神山古墳(仮)の残土か、あるいは同主墳の陪墳のひとつが明治期まで残されていたのかもしれない。今後とも、明治以前の成子天神界隈の地形については注意したい。
 淀橋浄水場ができて間もない、明治末の新宿停車場西口の様子を、1968年(昭和43)に雪華社から出版された小島善太郎『若き日の自画像』から引用してみよう。
  
 (新宿)駅の西隣り、煙草専売局の跡の所(ママ)は、ツノカミ山といって浄水場に隣り合い甲州街道新町に続いた深い藪で、奥まった小山の麓で狐の穴を見たりした。北側が五十人町。今日、街道は曲折して駅前に出るようになったが、当時は魔の踏み切りと云って毎年犠牲者が出たものである。街道は手車の糞尿車が連がるので肥桶街道と呼ばれていた。/浄水場もこの年代に出来たもので、僕は浄水場・五十人町・柏木町との四っ角で生まれた。当時浄水揚工事は騒ぎだったらしく、牛が荷車を付けたのの家に入って来て、僕を仰天させ、その時のおののいた記憶が残っている。(カッコ内引用者註)
  
地形図1909.jpg
淀橋浄水場正門.jpg 淀橋浄水場淀橋工場機関室.jpg
 この記述から、小島善太郎の家は淀橋町柏木成子北88~101番地(旧・柏木成子町88~101番地)あたりに建っていたのがわかる。ちょうど淀橋浄水場の工場機関室と、常園寺とにはさまれたあたりの街角だ。文中に「肥桶街道」とあるのは、小島宅の家前に面していた今日の青梅街道のことだ。
 「ツノカミ山」は、以前の記事にも書いたように、幕末に美濃高須藩の松平摂津守義比(よしちか)が下屋敷をかまえ、もともと屋敷内の庭に存在していた“山”なので、地元では昔から通称「津ノ守山」と呼ばれていた。「煙草専売局の跡の所」と書いているのは、小島善太郎がこの文章を書いた1960年代の時点で、すでに専売局の建物が解体されたからだと思われるが、津ノ守山は専売局の敷地内ではなく、その南西外れに位置しており「日本中学校の跡」と書くのが正確だ。
 近所の友だちと、徒党を組んで遊びまわっていた小島は、山麓に棲んでいたキツネの巣穴も記憶しており、当然、津ノ守山の山頂へも登って遊んでいるのだろう。後円部にあったと思われる山頂だが、1909年(明治42)と翌1910年(明治43)に参謀本部が作成した1/10,000地形図および同修正図では、後円部の上半分がスッポリ削られていた可能性がうかがえる。淀橋浄水場が操業をはじめた当初、写真にとらえられた新宿角筈古墳(仮)Click!もまた、後円部の高度がかなり足りない様子で記録されている。
 ひょっとすると上野の摺鉢山古墳Click!と同様に、後円部の上部を削って平坦な山頂にし、早くから庭園の見晴らし台、あるいは公園のような風情になっていたのかもしれない。それは、松平摂津守の時代にほどこされた造園時のこしらえか、あるいは明治維新以降に新宿停車場ができたころの造作かはハッキリしない。
淀橋浄水場濾過池.jpg
淀橋柏木地形図1910.jpg
 また、小島善太郎は新宿角筈古墳(仮)の北側にあった、女子学院高等科(現・東京女子大学)のキャンパスに入りこみ、陪墳Click!とみられる小丘の上にも登っている。その様子を、小島善太郎の前掲書からつづけて引用してみよう。
  
 ツノカミ山の西端れ【ママ】元の精華女学校【ママ】の裏奥に丘があった。そこから見下ろすと、屋根の尖った基督教会堂があって(その付近に、壮年時代の内村鑑三が住まっていたことをのちに知った)、此の会堂で女の宣教師に讃美歌を唱わされ、天井いっぱいに美しく飾られた中で皆の者と凧を貰って帰ったことがよほど嬉しかったものとみえ、これも今【ママ:未】だに忘れないでいる。(【 】内引用者註)
  
 文中で、「精華女学校」と書いているのは小島の記憶ちがいで、1906年(明治39)まで米国伝道派ミッションによる衛生園および看護婦養成所の敷地であり、そのあと女子学院高等科(現・東京女子大学)が本館や校舎、女子寮などを居抜きで譲り受けて開校している。新宿中村屋Click!相馬俊子Click!が、家からわずか400mほどしか離れていないのに、入寮して講義を受けていたのはすでに記したとおりだ。
 さて、小島善太郎は新宿角筈古墳(仮)の陪墳とみられる、女子学院高等科の敷地内にあった丘を、「ツノカミ山の西端れ」と書いているが、正確には同古墳の後円部から見て北北西外れに当たる。換言すれば、津ノ守山という呼称は同古墳の前方部の丘ではなく、前方部に比べより高度があったと思われる後円部に付けられていた名称だということがわかる。墳丘長だけで120~130mはあったと思われる新宿角筈古墳(仮)だが、この丘陵全体を津ノ守山と呼称していたとすれば、女子学院キャンパス内の陪墳は真北に位置しているからだ。それを「西」と認識していることは、古墳の丘陵全体から見てのことではなく、後円部の丘上から眺めて「西」寄りの方角として印象に残っていたからだろう。
 女子学院高等科の敷地にあった丘(陪墳)も、かなりの高度があったことが文中からうかがえる。丘上から見えているのは、北側の大久保から柏木にかけての風景であり、尖がり屋根の「基督教会堂」とは、陪墳とみられる丘から800mほど北の蜀江山に設置されていた、淀橋町柏木392番地の東京聖書学院の教会堂のことだ。淀橋町柏木436番地の内村鑑三邸は、聖書学院のすぐ北側に建っており、下落合に住んでいた南原繁Click!は、内村が主催する聖書研究会に参加し、学生組織の「白雨会」を学生仲間とともに結成している。
蜀江山坂道.JPG 内村鑑三邸跡.JPG
内村鑑三1909.jpg
 小島善太郎の『若き日の自画像』には、高田馬場駅の南東側にあった丘上から風景を描いている場面が登場してくる。まるで、画家がキャンパスに向かって風景描写の“実況中継”をしているような文章なのだが、そのとき描かれていたのが戸山ヶ原Click!から目白崖線にかけての情景で、1915年(大正4)制作の『晩秋』だ。この作品は現存しているので、いつか小島の文章とともにご紹介したい。

◆写真上:小島善太郎の初期作で、1911年(明治44)制作の『戸山ヶ原風景』。
◆写真中上は、1909年(明治42)の1/10,000地形図にみる小島家とその周辺。は、竣工から間もない淀橋浄水場の正門()と同浄水場の淀橋工場機関室()。正門前に写る右手の道路が、明治期に「肥桶街道」と呼ばれていた青梅街道。
◆写真中下は、淀橋浄水場の濾過池から東の淀橋工場機関室を撮影した写真。画面右手に専売局敷地内にあった地面の盛り上がりと、右端には女子学院高等科のキャンパスにあった陪墳とみられる丘がとらえられている。は、1910年(明治43)の地形図にみる女子学院の陪墳から柏木の蜀江山方面の様子。
◆写真下上左は、蜀江山へ上る急坂。上右は、淀橋町柏木436番地にあった内村鑑三邸跡の現状。は、同邸の書斎で1909年(明治42)に撮影された内村鑑三。


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コメント 28

ChinchikoPapa

醤油ベースの焼き団子類には、目がないですね。海苔が巻いてあるのも好きです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2015-05-15 17:50) 

ChinchikoPapa

このリンカーンの歌声が流れていたころ、ゼミ論を書いていた憶えがあります。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2015-05-15 17:52) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>tai-zouさん
by ChinchikoPapa (2015-05-15 17:53) 

ChinchikoPapa

小学6年生のメンバーだと、活動時間もかなり限られるのでは……。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>やってみよう♪さん
by ChinchikoPapa (2015-05-15 17:54) 

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>tweet_2さん
by ChinchikoPapa (2015-05-15 17:55) 

ChinchikoPapa

きょうの朝は晴れて、街を歩いていても気持ちがよかったのですが、午後からはハッキリしない空模様ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>okin-02さん
by ChinchikoPapa (2015-05-15 17:56) 

ChinchikoPapa

昭和の匂いがしていた近所の床屋さんが1軒、店仕舞いしてしまったのがちょっと残念です。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2015-05-15 17:58) 

ChinchikoPapa

子どものころ、豆本に惹かれマネして作ったことがありました。でも出来が悪く、マネ本はすぐに棄てられてしまいましたが。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>simousayama-unamiさん
by ChinchikoPapa (2015-05-15 18:00) 

ChinchikoPapa

ちなみに、HDDがクラッシュしたBDプレーヤーは、中小企業になってしまったシャープ製でした。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2015-05-15 18:02) 

ChinchikoPapa

うろ憶えなのですが、わたしが幼稚園に通っていたころ、横浜駅西口の駅と高島屋との間に、同じような「異空間」があって、さまざまな店舗があったように思うのですが、なにかの勘ちがいでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2015-05-15 18:06) 

ChinchikoPapa

Yui Stephanieさんは、ちょっと惹かれますね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>シルフさん
by ChinchikoPapa (2015-05-15 23:02) 

ChinchikoPapa

おふくろが作る、相模湾で獲れたキスの天ぷらは絶品でした。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2015-05-15 23:03) 

ChinchikoPapa

原発が3基もメルトダウンを起こしている国の施策とは、とても思えない政治ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2015-05-16 00:32) 

sig

こんにちは。
当時の新宿西口周辺の描写には驚きました。すると、浄水場の濾過池の写真が田んぼのように見えてしまいました。笑
by sig (2015-05-16 11:38) 

ChinchikoPapa

カテキン飲料の有害性は、先日子どもにも指摘されました。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2015-05-16 12:15) 

ChinchikoPapa

始発駅や、急行待ち合わせのわずかな時間を利用して、手際よく広告を交換している情景はよく見かけますが、走行中の車内で交換というのはいまだ見たことがないです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2015-05-16 12:26) 

ChinchikoPapa

デンデン墓の由来に惹かれますね。どんな物語があったのでしょう。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2015-05-16 13:00) 

ChinchikoPapa

虫の中でもトンボが大好きですので、ぜひ出かけてみたい公園ですね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>yamさん
by ChinchikoPapa (2015-05-16 13:02) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
浄水場のかたちが、確かに田畑の畔や畝に見えます。w この一帯は玉川上水に近接していますので、浄水場が建設される前には灌漑用水があちこちに見られる情景だったのでしょうね。
by ChinchikoPapa (2015-05-16 13:08) 

Marigreen

小島善太郎もいいけど、内村鑑三を書いてくれないかなあ。あんまり下落合と関連ないか。
次の小島善太郎の絵楽しみにしてます。
by Marigreen (2015-05-17 15:32) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
柏木蜀江山の内村鑑三とつながる下落合の人物には、記事中の南原繁のほかに田中耕太郎がいますが、内村自身が落合地域に直接残した足跡は、いまのところ発見できていません。
by ChinchikoPapa (2015-05-17 20:51) 

ChinchikoPapa

「リサとガスパール」が一瞬、アペリティフ・イベント用に作られた“ゆるキャラ”に見えてしまいました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2015-05-17 21:07) 

ChinchikoPapa

港には、「無事を祈る」の信号旗が掲げられているのですね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>くらいふさん
by ChinchikoPapa (2015-05-17 21:16) 

ChinchikoPapa

1980~90年代にかけて『昭和史』の全集本が流行りましたが、その中に昭和初期を表現するコンテンツとして、「忍び寄る軍靴の音(響き)」というような表現がよく用いられていました。それが歴史の中の出来事ではなく、現実として「忍び寄」っているのを感じます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2015-05-17 23:25) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>lequicheさん
by ChinchikoPapa (2015-05-20 10:17) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2015-05-20 19:08) 

ChinchikoPapa

また来年の春まで、華やかなサクラはおあずけですね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2015-05-24 22:11) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>suzuran6さん
by ChinchikoPapa (2015-06-06 15:52) 

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