下落合の近衛文麿邸を拝見する。 [気になる下落合]
1924年(大正13)9月、近衛文麿Click!は麹町の敷地に建て坪のべ250坪の新たな邸を建設している。1922年(大正11)より、東京土地住宅(株)Click!による「近衛町」開発Click!がスタートする以前、近衛旧邸が解体された直後から計画されていたものだろう。しかし、麹町のこの邸はわずか数年でイヤになり、近衛文麿は再び下落合へもどってくる。
麹町の近衛邸は、木造2階建てで赤または褐色の瓦屋根、外壁はフランス風の下見板張りにモルタル造りで、内装は漆喰壁と壁紙貼り、芝生を敷き詰めた広い前庭と回廊に囲まれたパティオのある、(合)清水組が手がけた大きな西洋館だった。室内を見ると、装飾華美ではないものの膨大な費用をかけた様子がうかがい知れる。おそらく、計画段階から清水組の設計部と近衛文麿との間で、綿密な打ち合わせが行なわれた末に、竣工を楽しみに待つ新たな本邸のつもりだったのだろう。
だが、住みはじめてからわずか数年で近衛文麿は後悔し、この邸からの引っ越しを考えはじめ、下落合の近衛町北側に残っていた近衛家敷地、すなわち目白中学校Click!が練馬へと移転した跡地(この近衛家敷地も東京土地住宅の販売計画Click!には含まれていたと思われる)の東側、当時はいまだ舟橋邸Click!の北側には借地として貸していた住宅がチラホラと、樹木の生えた空地が目立つ風情だったと思われる敷地に、再び清水組に相談して新たな邸を計画しはじめている。
ではなぜ、できたばかりの麹町邸をすぐに離れることになったのか、その事情を藤田孝様Click!が故・近衛通隆様Click!へ確認されている。それによれば、麹町という交通が至便な立地では誰でもすぐに立ち寄れるため、朝から晩まで訪問客が引きも切らず、その接客のために家族全員がくたびれはててしまったらしい。おそらく、下落合の新邸計画は昭和に入って間もなく進められていると思われるので、麹町邸に落ちついていたのは1924年(大正13)の暮れから1928年(昭和3)の、わずか3~4年の間だったと思われる。下落合436番地の新邸(のちに「荻外荘」Click!に対し「別邸」とも呼ばれるようになる)は、1929年(昭和4)11月に竣工している。(冒頭写真)
北陸産の泰山瓦が葺かれた屋根に、外壁はリシン塗り腰タイル貼り、内装は土壁と漆喰壁に壁紙仕様で、建て坪が麹町邸よりは100坪ほど少ない約140坪の2階建て西洋館だった。この邸については、下落合でも記憶されている方が多い。また、よく新聞Click!や雑誌Click!の記事でも取りあげられた邸でもある。広大な御留山Click!に建てられた、黒門や長大な塀の内側にある相馬邸Click!は、下落合氷川明神社Click!あるいは邸内の妙見社Click!の祭礼日以外はなかなかうかがい知れなかっただろうが、近衛邸は周囲に通う三間道路からも、あるいは1935年(昭和10)すぎまで空き地のままだった目白中学校の跡地からも、樹間に垣間見えていたと思われる。
邸内の写真を見ると、麹町の邸よりはいくぶん質素な感じを受ける。おそらく、書家であり政治家だった鄭孝胥(てい・こうしょ)の揮毫だろうか、詩篇「西涯一角真冷地 澤畔行吟暫閒適」の一部である、麹町邸と同じ扁額「西涯一角」が、応接室とみられる室内に架けられている。鄭孝胥はのちに、日本の植民地である「満州国」の首相となり、政治を牛耳る関東軍を批判して解任された人物だ。邸の玄関は南側にあり、この扁額が架けられた応接室は東に向いて玄関横に張りだしていた。また、応接室の北側には、同じく東に向いて半円柱状に大きく突きでた広い食堂が配置されている。
この近衛新邸は、1935年(昭和10)前後に増改築され、西に向けてウィングが伸びているのが確認できる。その形状を観察すると、庭から直接2階のバルコニーへ上がれる階段を取り去り、北側にあった女中室のひとつをつぶして、台所の西側に女中室を増やし、また玄関横にあった執務室を大きく拡げているように見える。バルコニーへの階段を撤去したことは、なんらかのセキュリティ上で問題が発生したためだろうか? 西へ伸びたウィングの先には、離れ屋とみられる別棟も建設されている。
下落合436番地の敷地は広く、北側にはもうひとつの近衛邸が建設されている。これが、おそらく弟で音楽家だった近衛秀麿邸Click!だろう。また、敷地内には使用人の家々が並び、東側に接した近衛町から目白通りへと抜ける三間道路側の正門近くには、門番小屋と門番の詰め所が設置されていた。また、おそらく自家用車の運転手の住宅だろう、門番詰め所から10mほど西に離れた(奥に進んだ)場所に、住宅がひとつ見えている。さらに、近衛邸の南側、すなわち舟橋邸へと入る路地の北側には、近衛家の家令住宅が7~8軒ズラリと東西の方向に並んでいた。
さて、ここまで読まれてきた方、あるいは近衛町の形成などここの記事に目を通してこられた方には、ひとつの疑問が残っているだろう。下落合417番地に建っていた近衛旧邸(近衛篤麿邸Click!)が解体され、麹町に新たな本邸が完成するまでの間、近衛家はどこに仮住まいをしていたのか?……というテーマだ。近衛旧邸は、少なくとも1920年(大正9)以前には解体されているとみられ、1924年(大正13)に麹町邸が竣工するまでの少なくとも4年余の間が、近衛邸の“空白期間”ということになる。
1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」には、のちに近衛新邸が建てられる敷地の北側に、「近衛家和家」という屋敷が採取されている。また、5年ほどさかのぼった1921年(大正10)の1/10,000地形図にも、“」”字型をした家屋が南北に2棟採取されている。このうち、北側の1棟がそれに相当する住宅だろうか。この記録を前提にすれば、近衛家が1924年(大正13)に麹町邸が完成して転居する前、仮住まいとして目白中学校の東側に住んでいた可能性が高い。1926年(大正25)の「下落合事情明細図」は、リアルタイム情報とは思えない記載も多々あるので、数年前の情報がそのまま更新されずに掲載されている可能性がある。または、近衛家の兄弟姉妹が暮らしていた可能性も否定できない。
ただし、目白中学校(東京同文書院Click!)の校庭に接した南側、すなわち舟橋邸の西側にも近衛家の敷地があった。1927年(昭和2)に作成された1/8,000「落合町地形図」では、練馬へ移転した目白中学校跡地の南、従来とは異なる位置に近衛邸が採取されている。これは、近衛文麿がとうに麹町邸へ転居したあとにもかかわらず、昭和に入って新たな位置に近衛邸が採取されていることになる。この邸もまた、麹町邸を出たあとの近衛文麿一家の仮住まいではなかったか。
つまり、新たに麹町邸が1924年(大正13)に竣工するまでの仮住まい(1920?~1924年)が、目白中学校東側の近衛邸であり、また1929年(昭和4)に下落合の近衛新邸が竣工するまでの仮住まい(1927?~1929年)が、目白中学校南側の下落合456番地へ新たに建てられ、1/8,000地形図に採取された近衛邸ではないか……と想定することができる。これを前提とするなら、近衛文麿は日々の接客にくたびれ、家族一同がウンザリしてしまった麹町邸を早々に引きあげ、下落合436番地に新邸が竣工するまでの間、その南西に当たる下落合456番地で仮住まいしていたのではないかということになる。つまり、麹町邸にはわずか2年余しか住んでいなかったということだろうか?
おそらく、昭和初期の段階では麹町にあった大きな屋敷を、近衛文麿は周囲に「本邸」と位置づけしていたのだろうから、下落合の旧邸近くに建設中の邸は、計画当初から「別邸」として語られていたのかもしれない。だが、麹町邸にはその後もどっていないので、下落合の近衛新邸が実質の「本邸」となっていた。ただし、1937年(昭和12)に荻窪の「荻外荘」を別邸として入手し住むようになると、周囲からは下落合の新邸が「本邸」ではなく、再び「別邸」として周囲から見られるようになったのだろうか。
近衛文麿は、親しい人間以外の人物と接することをあまり好まなかったようで、ことに来客や積極的に自分へ近づく人物に対しては、なかなか警戒心を解かなかったように見える。それが、公家政権が崩壊して以来800年間に身につけた、生き残るための伝統的な「家訓」であり、「処世術」のひとつだったのかもしれないのだが、繁華な市街地の麹町に家を建ててはみたものの、次々と押し寄せる来訪者に神経をすり減らし、昭和10年代に市街地化が一気に進んだ下落合も、ストレスがたまって暮らしにくくなったと感じるや、さらに郊外へ郊外へと静かで寂しい風情を求めて転居していくその姿に、とても政治家などには向かない、文人的な気質を感じるのはわたしだけだろうか。
政治家にはまったく不向きな、文人気質の近衛文麿と鄭孝胥がことのほか御しやすいと見透かされ、軍部にかつがれて大日本帝国と「満州国」の首相に就任するというのは、なんとも皮肉な構図であり、めぐりあわせだ。彼らがあえて選択して立った足もとは、まさに漢詩どおりの「真冷地」だったと思われるのだが、ふたりともそれに気づくのが、あまりにも遅すぎたのだ。
◆写真上:1929年(昭和4)11月に竣工した、下落合436番地の近衛新邸(別邸)。
◆写真中上:1924年(大正13)9月に清水組の設計で竣工した麹町の近衛邸(上)と食堂?(中)。右壁面に、「西涯一角」の扁額が見えている。下は、同邸の1階平面図。
◆写真中下:上は、下落合の近衛新邸に設置された応接室。麹町邸にあった「西涯一角」の扁額が、下落合では客間に架けられていた。冒頭写真の、手前の張り出した一画が客間に当たる。下は、近衛新邸の1階・2階平面図。
◆写真下:上は、近衛邸の正門跡から近衛新邸跡を望む。中は、1927年(昭和2)の地図に近衛邸の記載がある目白中学校跡の南側(画面右手)。下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる近衛新邸(別邸)。→印は、上記2枚の撮影ポイント。
エクスクラメーションマークだらけのアルバムジャケットは、LPサイズで見るとおかしいですね。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 11:26)
商品券や図書券を上げたあとの使い道は、関知しないようにしています。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>bee-15さん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 11:28)
鳩居堂の絵はがきを、何度かいただいたことがあります。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>simousayama-unamiさん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 11:33)
東京湾や相模湾の海鳥は、カモメやユリカモメ、アオバトはよく目にしましたが、ウミネコは馴染みが少なかったですね。三浦半島や伊豆半島に近づけば、たくさんいたのかもしれませんが。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 11:49)
「アサガオの観察」は、まだ小学校の夏休みでやってるんですね。わたしは、「アオカビの観察」をして教師から顰蹙をかいました。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>やってみよう♪さん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 11:52)
小学生のとき、見てましたサンダーバード。でも当時からブレインひとりで、あれだけの機械を修理するのは大変だな……とは思っていましたが。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 11:55)
子どものころ、日本丸のプラモを買ってもらったのですが、難しくてそのままになってしまった記憶があります。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 11:58)
そろそろ、ブドウが美味しくなってくる季節ですね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>yamさん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 12:00)
ネコはしばらく会わないと警戒しますが、イヌはどこまでも憶えていますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>azu-riさん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 12:03)
そろそろ秋空の気配ですね。セミも、ツクツクボウシの声が多くなってきました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 12:05)
わたしも、今年は夏休みがゼロで仕事をしていました。銀聯カードの決済は、関空を中心に関西で多く見かけますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>うたぞーさん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 12:08)
夕立が降ると涼しいのですが、なかなか都合よく降ってはくれないですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>させまわしさん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 14:38)
わたしたちの世代と若い世代とでは、タトゥーンに対するとらえ方がずいぶん異なるようですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 14:42)
こちらも今年は豊作のようで、青柿がたくさんなってますね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>okin-02さん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 15:43)
主演の女優が、もう少しG.ケリーに似ていたらよかったですね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>makimakiさん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 15:53)
いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>tweet_2さん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 15:57)
バカリャウというポルトガル料理は、まだ一度も食べたことがないです。その昔、なにかお祝いがあるとマテウス・ロゼをくれる知人がいました。よく、藁のボトルバスケットに入ってましたね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 17:34)
緑色のボトルに入っている日本酒は、なぜかうまそうに見えますね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 21:08)
星ひとつでしたね。w
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>シルフさん
by ChinchikoPapa (2015-08-22 21:36)
ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>モグラたたきさん
by ChinchikoPapa (2015-08-23 19:57)
そういえば今年の夏は、まだ怪談記事を書いてなかったですね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>月夜のうずのしゅげさん
by ChinchikoPapa (2015-08-23 20:02)
ネコは、ときどき想定外の面白い動きをしますね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>shingekiさん
by ChinchikoPapa (2015-08-23 20:06)
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ゆきママさん
by ChinchikoPapa (2015-08-23 20:16)
>建て坪のべ250坪
近衛邸は、随分広くて立派な建物だったのですね。
by アヨアン・イゴカー (2015-08-23 20:25)
アヨアン・イゴカーさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
麹町の邸は、とてつもなく大きいですね。引っ越しから、わずか数年しか住まなかったのがもったいない。w でも、当時は建ててすぐの家でさえ、気に入らなければわずか数年で建て替える例も少なくはないので、それほど特異なケースではなかったようにも思います。
by ChinchikoPapa (2015-08-23 20:32)
ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>U3さん
by ChinchikoPapa (2015-08-23 22:26)
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>mangaharaさん
by ChinchikoPapa (2015-08-23 22:55)
いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>Ujiki.oOさん
by ChinchikoPapa (2015-08-23 23:04)
小さい子にネコはよく寄り添うのですが、だんだん子どもが大きくなると“同輩”だと思っているので、いろいろライバル心をいだくようですね。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>dougakunenさん
by ChinchikoPapa (2015-08-24 13:12)
ハウツー本やビジネス本はほとんど読まないのですが、たまには面白いかもしれませんね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2015-08-24 13:19)
この夏、ミストシャワーの涼しい歩道は増えましたが、さすがに床暖房歩道はないですね。暖かそうで、日本のアーケードにもよさそうです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>nikiさん
by ChinchikoPapa (2015-08-24 13:23)
亀戸天神は、その周辺の懐かしい商店街ともども楽しめますね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>大和さん
by ChinchikoPapa (2015-08-24 13:25)
本人はまっすぐ歩いているつもりですが、あちこち寄り道したり紆余曲折をしていたりと、なかなか思いどおりには歩けませんね。重ねて、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>さらまわしさん
by ChinchikoPapa (2015-08-24 13:27)
重ねて、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>Ujiki.oOさん
by ChinchikoPapa (2015-08-24 20:56)
戦争の記憶が一段落すると、次は大震災の記憶がめぐってきますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2015-08-24 20:59)
こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>opas10さん
by ChinchikoPapa (2015-08-26 11:15)
以前の記事にまで、わざわざ「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>lequicheさん
by ChinchikoPapa (2015-08-28 19:54)
この記事を見て、何故近衛文麿が軍国主義になった大日本帝国の首相になったのか?わかるような気がした。
それからサンダーバードは私も見ていました。
by Marigreen (2015-08-29 12:58)
Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
新しいCGのサンダーバードは、人やマシンの動きがスムーズですね。あの、ぎこちなく動く人形の人物たちが、どことなくユーモラスで面白かったのですが……。
by ChinchikoPapa (2015-08-30 17:37)
以前の記事にまで、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2015-09-03 17:50)
こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>suzuran6さん
by ChinchikoPapa (2015-09-05 18:05)
写真も設計図が残っているなんてすごいですね。なんだかうれしくなります。
高山鉄太郎という元士族が、震災直後に近衛家で書生に入り、ちょうど目白を壊して、新築工事中で原宿に家を借りていたそうです。隣が久我男爵邸で、団琢磨男爵の家からも近かったそうです。
2.26事件の朝は麹町の自邸にいて、首相官邸に近すぎるので、目白邸に避難したそうです。その後、荻外荘を好み、戦争中はほとんど軽井沢、京都、荻外荘で過ごし、麹町の家は空襲で焼けてしまいました。
by YOKO (2015-09-18 02:50)
YOKOさん、コメントをありがとうございます。
下落合の近衛旧邸(篤麿邸)が解体されたのは、おそらく1920年(大正9)より以前ですので、その直後から原宿の借家へ移ったものでしょうか。1926年(大正15)の「下落合事情明細図」には、のちに新邸(別邸)が建てられる近衛家の敷地内に、近衛邸が採取されていますので、この「仮住まい邸」wが竣工するのを待って原宿からもどっているのかもしれませんね。ここも非常に短い間で、1924年(大正13)には麹町へ……という経緯でしょうか。
二二六事件のときの“反応”が、公家らしいですね。家族一同や本人の重要な物品・家具類は近衛新邸に移っていたはずですが、いまだ麹町邸へ立ち寄ることもあったのですね。
by ChinchikoPapa (2015-09-18 10:35)
私はたまたま杉村久英著「近衛文麿」を読んだだけなのですが、目白は全部をこわしたのではなく、敷地内の別邸を貞子未亡人(近衛文麿の母は産後の肥立ちが悪くて亡くなり、父の篤麿は実の母の妹と再婚)の住居として残し、そこには書生や女中見習いが数えきれないほどいたそうです。婦人公論の取材もそこで受けたそうでうし、犬養毅の息子夫婦や孫(犬養道子)が遊びに行ったのは学習院の近くとあるから、目白邸なのでしょう。体調を崩すと湯河原の別荘で療養し、鎌倉や京都にも別邸があり、季節ごとに移り住んでいたという記述があります。
2.26事件の朝はわけがわからず、兵隊たちにおにぎりを食べさせたそうです。ともかく首相官邸から近かったので、宮崎龍介を密使に指名したり、麹町は政治用だったのかも。東条英機内閣になってからは終戦まで、ゾルゲ事件もあって、近衛は天皇に上奏したり、和平&終戦工作しないか、憲兵隊から見張られている状態だったので、居場所を変えたかったのかもしれません。麹町の家が焼けたときは軽井沢にいて、家族は無事でした。
by YOKO (2015-09-18 13:32)
YOKOさん、重ねてコメントをありがとうございます。
杉村久英さんは、なにか大きな勘違いをされているのだと思います。近衛旧邸=近衛篤麿邸は、1920年(大正9)以前にすべて解体され、その邸跡を含めた土地台帳の「地籍番号304~419」の地番が付与された土地は、1922年(大正11)の「近衛町」販売へ向けて、東京土地住宅株式会社が取得し、開発計画を立てています。
なぜ、1920年(大正9)に近衛旧邸が存在しないのかといえば、旧邸の「寝室」上には、すでに岡田虎二郎邸が建設(1919年の建設かもしれません)されており、また追いかけて鈴木邸(のち藤田邸)も建てられているからです。
杉村さんは、おそらく近衛町にあった巨大な近衛篤麿邸(旧邸=近衛町)と、その北側50mほどの目白通りに近いところにあり、目白中学校(東京同文書院)東側の広めなスペースにあった貞子夫人邸とを、混同しているのではないかと思われます。近衛旧邸を全的に解体しなければ、近衛町の区画割り第1号~第44号の宅地販売はできません。
上記の記事中で、目白中学校の東側にある近衛家敷地を意識しているのは、「近衛和館」(おそらく貞子夫人邸)と、もうひとつ同じ意匠の邸宅が大正の後半、すぐ近くに建てられているからです。
また、近衛旧邸(近衛篤麿邸)が解体されたあと、近衛文麿名義の土地が「近衛町」内に2ヶ所残されていますが、住所でいいますと下落合404番地(地籍簿414-9)の約150坪の宅地(近衛旧邸の寝室近くです)、および下落合304番地(地籍簿406-5)の崖地のみで、近衛旧邸が解体されて以降、近衛家の「近衛町」内における所有地は、この2ヶ所のみとなっています。
したがいまして、近衛旧邸の一部が残されて貞子未亡人の住居として残された……という記述があるとすれば、明らかに誤りですね。
by ChinchikoPapa (2015-09-18 18:16)
そうかもしれません!近衛和館のことのような気がします。たまたま古本屋で目にした本で、杉村久英氏のは読んだことがなかったのですが、立野信之氏のも機会あったら読んでみたいと思います。近衛文麿の戦争責任も大切なことなのでしょうが、私も個人的な趣味で、あの時代の建築物や住宅や雑誌や文化にはすごく惹かれるものがあるのです。陽明文庫には近衛の日記も残されているそうですが、さすがに見る機会はなさそうですw
by YOKO (2015-09-18 20:49)
もしかして、ひょっすると麹町の家は陸軍省や麻布連隊にも近すぎて、うるさかったのかもしれませんね。最初は陸軍に妙に人気があって、2.26のときも朝ごはんを兵が食べて行ったそうですし(これは隣の来栖邸でもあったことのようです。アメリカ人の奥さんが演習だと勘違いしてしまったそうです)陸軍は外務書のことを「害無省」と呼んで、近衛が外務省の吉田茂たちと親しく付き合うのをとても嫌がっていたそうです。
by YOKO (2015-09-18 20:52)
YOKOさん、重ねてコメントをありがとうございます。
きょうの新聞にも、吉川弘文館から『近衛文麿』(古川隆久・著)が発売されていますね。なぜか、このところ「近衛」本が目につきます。
わたしは、住んでいるのが近衛町や目白文化村、アビラ村(芸術村)に近いせいか、学生時代から大正期~戦前にかけての住宅群を見つづけてきました。おそらく、そのせいでしょうか当時の人々の生活や住環境が、やはりとても気になります。
下落合時代、右翼が玄関に押しかけてきて、当時、河上肇の「弟子」らしい発言が多かった近衛はかなり閉口していたようですが、大正末から昭和初期の麹町でも通常の訪問客以外に、再び同じようなことが起きているのかもしれませんね。軍人たちが立ち寄るころには、すでにまったく異なる思想に豹変していたのでしょうが……。
by ChinchikoPapa (2015-09-18 22:41)
近衛篤麿の代から大陸浪人が書生として住んでいて、頭山実が借金とりに玄関で対応していたそうですし。秀麿も小さかった頃、陸軍大将がよくうちにきて、軍靴を高い木の枝の先にひっかけてしまう、といういたずらをよくやったそうなのです。私の実家は東京でも藁ぶき屋根の農家ばかりだったので、目白の文化村の建築とはまったく違います。金に糸目をつけず、という貴族文化が感じられます。あの後、また古川本を読んでいたら、プライベートがない生活がいやで、荻外荘を買ったのに客が減るということはなく、泊まり感覚で長居するようになり、困ってしまったらしいのです。
by YOKO (2015-09-19 09:38)
YOKOさん、重ねてコメントをありがとうございます。
「頭山満」ですね。この人物は新宿中村屋とも関連していて、汎アジア的な思想からでしょうか、孫文やボースなどアジア諸国の独立革命家を支援してたりしますので、ときどきこの地域のエピソードにも登場します。
目白文化村は、当時のサラリーマンの中でも管理職クラスの人々や、学者・文化人たちが大正モダニズムのデザインを体現したような住宅を建てていった街ですので、「貴族文化」とはまったく無縁で繋がりがありません。近衛町も、敷地こそ元・近衛家の土地が基盤ですが、その上に建てられた家々は、当時の最先端をいく新しい趣味の住宅ばかりです。その合理性や効率性は、むしろ「貴族趣味」的なものを排除する、実質・実際主義的な生活思想が出発点となっていますね。
「貴族趣味」が感じられる一画としては、近衛町の学習院昭和寮がありますけれど、こちらで何度かご紹介している寮誌「昭和」に描かれた寮内の学生生活はともかく、建築は南欧風の文化住宅(米国経由のスパニッシュ風デザイン)を巨大化したような造りで、米国の「西海岸趣味」的な感じがします。
by ChinchikoPapa (2015-09-19 10:30)
中村屋でカレーを食べたとき、ボーズさんの生い立ちみたいなパンフレットをもらい、その後で本を読んだことがあります。頭山満は広田弘毅を読んでも、犬養道子を読んでも、何にでも出てくるんで、これはこれですごいですね。手元に「東京10000歩ウォーキング新宿区落合文士村・目白文化村コース」があり、”この通称「近衛町」は今でも生活と静謐に満ち、高級住宅街の雰囲気を保っている」とありますよ。私が小さい頃はまだ農家が多く、台所は土間も珍しくなかったので、対象モダニズムの建築は、たしかに美しいだけではなく、合理性、効率性でバランスとれていますね。この土地開放とか、近衛文麿はもっと違う評価を得てもいい人物だと思うのですが。当時の人気は大変なものだったようですね。
by YOKO (2015-09-19 20:21)
YOKOさん、重ねてコメントをありがとうございます。
こちらでもご紹介していますが、「東京10000歩ウォーキング新宿区落合文士村・目白文化村コース」が出たころの近衛町と、現在の近衛町とではこの6年間で、ちょっと雰囲気が変わってしまいました。低層マンションが、ドッと増えています。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-03-13
新宿中村屋のカレーは、わたしが子どものころに食べた味と、いまの味とではかなりちがいます。おそらく、時代に合わせて風味を変えてきていると思うのですが、わたしが子どものころ食べたのはかなり辛くて、当時の「インドカレー」概念そのものでした。
でも、わたしの子ども時代のカレーも、その前の世代である中村彝の弟子だった鈴木良三にいわせれば、「ぜんぜんちがう」といってますので、昔はさらに尖がった辛さをもっていたんだと思います。
あっ、そういえば10月に、新宿中村屋を舞台にした民藝の舞台「大正の肖像画」が上演されます。詳細は、次の記事でお知らせしますね。
by ChinchikoPapa (2015-09-19 21:20)
そうでした!前のこの記事を読んで、「宴の後」をアマゾンで取り寄せたのでした。
新宿三丁目で(へんな店ではありません)昔、少しだけOLしていたことがあります。
つか劇団は行ったことありますが、民藝はないんです。えーと宇野重吉や壇一雄の愛人さまが在籍されていたのは読んだことありますけど。
その「大正の肖像画」はちょっと見に行ってみたいような気がします。
by YOKO (2015-09-20 10:50)
YOKOさん、コメントをありがとうございます。
「大正の肖像画」は、人気が高いようですので前売りチケットを早めにゲットしないと、売り切れてしまうかもしれません。この9月、劇団四季を辞めた浅利慶太演出の「ミュージカル李香蘭2015」が、かなり前に売り切れたそうですので、なんだか大正から昭和初期をテーマにした舞台が、このところ大人気のようですね。
現在の民藝は、大滝秀治が亡くなりましたので、奈良岡朋子や樫山文枝、日色ともゑたち女優陣が、相当頑張ってますね。
by ChinchikoPapa (2015-09-20 18:52)
あらー、李香蘭、しりませんでした。
これも行きたかったです。母が阿佐ヶ谷で育ち、戦後はときどき李香蘭が車に乗っているところを見かけたそうです。
大正から昭和初期はNHKの連ドラの影響でしょうか?見たくてNHKオンデマンドに入っているのに、なかなか見れません。
「大正の肖像画」はホント、予約いれたほうがよさそうですね。
by YOKO (2015-09-20 19:54)
YOKOさん、重ねてコメントをありがとうございます。
昨日も、近くの下落合の喫茶店で“奥様”たちが民藝の『大正の肖像画』を、「宇野重吉は死んじゃったわねえ。ナントカいう息子ががんばってるけど」、「あら、中村彝は誰がやるの?」、「相馬愛蔵の伊藤孝雄って、よく見るわよねえ」……と話題にしていましたので、たぶんあの奥様3人組はきょうあたり、前売りを予約したんじゃないかと思います。
売り切れないうち、お早めに……と劇団民藝の営業のようなことを。w
『ミュージカル李香蘭2015』については、明日の記事で。
by ChinchikoPapa (2015-09-20 20:50)
わかりましたありがとうございます
by 佐藤 隆 (2015-10-13 20:00)
今日、目白界隈を歩いていたらこちらの新邸の門跡を見つけました。
どこかで見たことがある景色だなあと、考えていたところ
この記事を思い出した次第です。ありがとうございました。
by 日本科技大野球部員 (2015-10-13 22:51)
日本科技大野球部員さん、わざわざコメントをありがとうございます。
実は、この門の中にも一度お邪魔をしたことがあるのですが、さすがに私道と私有地の中なので、今回は写真の掲載を遠慮させていただきました。門から入ってその突き当りまで、かなりの距離があるのですが、当時もエントランスから玄関先までの間は、少し道が斜めに北西へカーブしつつも、そのぐらいの距離感があったのでしょうね。
by ChinchikoPapa (2015-10-13 23:20)