佐伯祐三は守山珈琲牛乳を飲んだか。 [気になる下落合]
1927年(昭和2)の夏、佐伯祐三Click!は家族を連れて神奈川県中郡大磯町山王町418番地の借家Click!へ避暑に出かけている。直接の目的は、百日咳が治ったばかりの彌智子を、潮風が吹く気温が低めな海辺でゆっくり静養させるためだった。当時、結核や百日咳など肺の病気には、海岸地帯で療養するのが効果的だと信じられてい時代だ。
佐伯一家が、なぜ避暑地に大磯Click!を選んだかは、佐伯自身が大阪との往来には東海道線沿いの地域が便利だったのと、おそらく米子夫人Click!が千代田城の御殿医だった松本良順(のち松本順Click!)が拓き、明治初期からの江戸東京市民にはお馴染みの、避暑・避寒地で別荘地Click!だった大磯にこだわったせいだろう。(城)下町Click!の尾張町(銀座)地付きの米子夫人にしてみれば、新興でにわか造りの避暑地・軽井沢よりは、昔ながらの伝統的な避暑・避寒地の大磯に、より魅力を感じたからにちがいない。
このとき、佐伯一家は東海道線の駅に設置されたミルクスタンドで、「守山珈琲牛乳」Click!を飲んだだろうか? 新しもの好きな佐伯のことだから、どこかの駅で飲んでいるような気がするのだ。この時期、日本で初めてコーヒー牛乳を開発した東京府中野町(のち神奈川県大船)の日本均質牛乳は、関東大震災Click!の痛手から立ち直れず、省線での駅売りをはじめ市場のシェアを次々と守山商会に奪われている最中だった。日本均質牛乳が守山商会に合併・吸収されるのは、わずか3年後の1930年(昭和5)のことだ。以来、首都圏の駅売り牛乳は、守山商会が大きなシェアを占めることになった。
大正末になり、駅売りを中心とした守山珈琲牛乳の人気が高まるとともに、乳製品が腐敗しやすい夏季の販売が問題化している。いまだ日本均質牛乳と守山商会が、駅売りのコーヒー牛乳でしのぎを削っていたころ、ホウ酸が混入された製品が発見され、警視庁衛生部に摘発されたようだ。ホウ酸混入のコーヒー牛乳は、警視庁の検査で両社ともに確認されている。事件の様子を、1925年(大正14)6月12日(土)の東京朝日新聞から引用してみよう。
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危険な牛乳を省線各駅で売る/板橋駅でも発見し発売元厳罰に処せられん
警視庁衛生部では気候の変り目には兎角腐敗した牛乳を販売する向があるので十九日管内一斉に資量の検査を行つた結果、鉄道省各駅で売つてゐるコーヒー牛乳に多量のほう酸が混入されてゐるのを発見したのでその発売元である東海道平塚駅前守山商会主守山賢(ママ:守山謙の誤り)を警視庁に呼寄せ詰問したところ防腐剤として多量のほう酸を混入してゐた(こ)と申立てた/守山氏はほう酸は無害であるといふてゐるが警視庁衛生部ではほう酸は人体に有害で殊に胃腸を害することは確かであるところから即時鉄道省に通達して東京其他近県各駅で販売してゐた同コーヒー牛乳は全部捨てさせ尚府下板橋駅で販売してゐたコーヒー牛乳の中にも同様ほう酸が混入してあつた、これは東海道線大船駅前日本均質牛乳会社製造にかかるもので同線及び同町内へ売つてあつた四十箱をことごとく捨てさせ両者とも厳重な処罰をされるさうである(カッコ内引用者註)
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ただし、この記事は前月19日の調査結果が発表された「ホウ酸混入事件」の第一報であり、記事中では専務の守山謙が「ほう酸は無害である」といったことになっているが、事情はそれほど単純でわかりやすい経緯ではなかったようだ。なぜなら、駅売りで人気のある日本均質牛乳と守山商会のコーヒー牛乳には、壜の意匠までそっくりそのまま模倣したニセモノが、数多く出まわっていたからだ。
それらニセモノのまがい品の中には、腐敗するまでの時間かせぎにホウ酸が混入されていた可能性が高そうなのだ。守山のコメントは、「ホウ酸は無害なのか?」という記者の一般的な質問に対し、「少量なら無害だろう」と答えたものが、そのまま混入事件にからむ文脈上で報じられているのかもしれない。事実、守山商会も日本均質牛乳も、夏季に製品へホウ酸を添加している製造過程は存在しなかったようで、警視庁衛生部に呼ばれたのは製品管理の徹底化、あるいは安全管理の念押し確認、そして悪質なニセモノ製品を駆逐するための施策の企画・実施要請だったように思われる。
ホウ酸混入事件の1週間後、守山商会はさっそく製造過程におけるホウ酸添加の否定と、夏季でも腐敗しにくい科学的な製造法を解説した詳細な広告を、同じ東京朝日新聞に出稿している。また、「御注意」としてホウ酸混入事件への関与否定と、自社製品の類似品や模造品に注意するよう消費者へ呼びかけている。1925年(大正14)6月18日(木)に同紙へ掲載された、守山商会の記事広告から引用してみよう。
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御注意
一、最近「硼酸」を混ずる危険飲料との中傷説を宣伝して得々たるものがあります、勿論自己のためにせんとする奸策ではありますが、牛乳に等量の防腐剤を入れても、保存の不可能なることは、御実験なされても直ぐ判ります。
一、内務省東京衛生試験所の、定量分析表及び何等防腐剤を含まずして、永久的耐久力ある御説明書は、弊社モリヤマタイムス紙上に公表してあります。他品と御比較御愛用願ひたい為特にお求めの際は、ハート印に御注意下さい。
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同記事には、守山均質牛乳および守山コーヒー牛乳が腐りにくいのは防腐剤をいれているから、あるいは脂肪分を取り除いてしまったからだ……という世間のウワサを取り上げ、科学に無知な「暗中模索」の妄言だと批判している。
搾りたての新鮮な牛乳を、ビタミン類が破壊されないよう低温度殺菌で消毒し、クーラー装置を通して「獣臭」を除去したあとオゾンを吸収させ、脂質組織を均等に混和するための装置「ホモゲナイザー」にかける。こうして製造するのが守山均質牛乳で、それに「モツカ」などを主成分とする純度の高いコーヒー銘柄のエキスに、しょ糖を添加したものが守山コーヒー牛乳だと解説している。
また、わたしの世代には奇異に感じるのだが、いわゆる広口の牛乳壜に紙のフタではなく、まるでコーラかビールのように王冠コルクで“菊型長壜”の細口を密閉するという、通常の牛乳ではありえないパッケージ法が用いられていた。このような「理学的操作のみ」により、衛生的で腐敗しにくい壜詰め牛乳ができるのであり、「薬品等の化学的幇助は、絶対に必要を認めません」とまでいいきっている。
守山商会の対応がすばやかったせいか、ホウ酸混入事件の影響による売り上げの低減はそれほど長くはつづかなかったようで、昭和に入ると駅のミルクスタンドは大流行することになる。その激しいシェア争いの過程で、守山商会は日本均質牛乳を圧倒し、ついに1930年(昭和5)に東京・中野生まれの同社を合併・吸収することに成功している。
おそらく、ホウ酸混入事件を念頭に置いて書いているのだろう、1938年(昭和13)に出版された『守山商会二十年史』(非売品)には、「永い期間にはその盛名を妬んで、壜型レーベル迄模倣したものを造り、宣伝費だけを安くして各駅へ売り歩くものもあつたが、結局旅客の口は賢明であつた。そうした品は日一日と売れ無くなつて、二、三年で雲散霧消する事もあつた」と、自信たっぷりに回顧している。
守山商会はその後、牛乳だけではなく多種多様な乳製品を開発・販売していくのだけれど、平塚には海軍の火薬廠や横須賀海軍工廠分工場、海軍飛行機工場などが集中しており、また日本本土進攻のコロネット作戦の主要上陸地点として想定されたため、1945年(昭和20)7月16日夜の花水川河口への照明弾投下からはじまる平塚大空襲で、守山平塚工場は壊滅した。その様子は、1957年(昭和32)に出版された『守山乳業株式会社四十年史』(非売品)に詳しいのだが、それはまた、別の物語……。
◆写真上:戦後すぐのころに製造された、王冠コルクをかぶせる“菊型長壜”の細口。
◆写真中上:上は、富士山や大磯丘陵を背景に馬入川(相模川)河口の守山牧場にいた乳牛ホルスタイン。中は、1938年(昭和13)ごろに撮影された平塚海岸からの眺め。右手の高麗山から千畳敷山(湘南平)Click!の向こうには富士山が大きく見え、わたしはこの風景を見ながら子ども時代をすごした。下左は、1938年(昭和13)出版の『守山商会二十年史』。下右は、当時の専務取締役・守山謙。
◆写真中下:上は、1925年(大正14)6月12日発行の東京朝日新聞より。中は、守山商会が昭和初期に採用していた同社製品のイメージガール。下は、コンビニで販売されている現行品「アフタヌーンティーチャイ」だが、わたしにはやはり甘すぎる。
◆写真下:上は、1925年(大正14)6月18日に東京朝日新聞に掲載された守山商会の記事広告。中は、昭和初期の「富士ミルク」のポスター。下は、均質牛乳にグリコーゲンを加えた「守山グリコ牛乳」(左)と、輸出用に開発された「ビタマウスミルク」(右)。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>はじドラさん
by ChinchikoPapa (2018-02-22 00:11)
いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2018-02-22 09:47)
ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2018-02-22 09:47)
貴船神社の参詣は、きざはしに行列するんですね。初めて見る光景です。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2018-02-22 09:49)
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>おぐけんさん
by ChinchikoPapa (2018-02-22 09:50)
ラン展は花だけの展覧会だと思っていましたが、多彩なブースがあっていろいろな展示がされているんですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2018-02-22 09:52)
戦前から、教師たちは学校で積極的に教え子たちを、卒業後の進路指導で陸海軍への勧誘し、志願させていたという話をうかがいました。その反省から、戦後に「教え子たちを再び戦場に送るな」のスローガンなんですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
by ChinchikoPapa (2018-02-22 09:57)
LPは擦り切れるほど聴きました。表題曲の「Bags' Groove」は、いまでもTVや店舗などでときどきBGMとして耳にしますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2018-02-22 10:01)
早春のハイキングでよく見かけるオオイヌノフグリが開花したら、もうすぐ春ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>okina-01さん
by ChinchikoPapa (2018-02-22 11:52)
近くにある社の境内では、カワヅザクラがほぼ満開になりました。あちこちで見かける紅白のウメも、美しい季節ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2018-02-22 11:55)
ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>とれたてトレンドさん
by ChinchikoPapa (2018-02-22 16:36)
「力士」は学生時代に飲み屋などで流行っていた酒だと思いますが、ほかに「白鷹」や「剣菱」なとの銘柄をよく見かけました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2018-02-22 22:37)
そろそろ虫たちも、活動をはじめてるようですね。きのうは羽虫を見かけました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>soramoyouさん
by ChinchikoPapa (2018-02-23 00:03)
ここしばらく鶏のから揚げを食べていないので、とても美味しそうに見えます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>マルコメさん
by ChinchikoPapa (2018-02-23 00:28)
谷中の寺内家に谷啓がやってきた回を、まったく憶えてないです。ずいぶん前に発売された、手元にあるVHSにも収録されていないですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2018-02-23 09:58)
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ありささん
by ChinchikoPapa (2018-02-23 09:59)
きょうは午後から晴れましたが、すっかり春めいた陽射しでした。日陰に残っていた先日の大雪が、今朝の雨でようやくなくなりましたね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>hirometaiさん
by ChinchikoPapa (2018-02-23 18:03)
22日は寒かったですね。外を歩いていると、耳が痛くなりました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2018-02-24 11:00)
家のテラス部分にレンガを敷いたのですが、周囲に樹木があると失敗しますね。レンガ敷きの横には、クロモチにウメ、ヒノキが植わっていたのですが、数年たたないうちに根っこがレンガを持ち上げはじめました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ADHD大ちゃんさん
by ChinchikoPapa (2018-02-24 20:16)
シャンペンの栓は、夢のあるデザインで美しいですね。つい、取っておきたくなります。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2018-02-24 21:27)
目白崖線沿いの落合地域だけでも、暗渠化されてしまった湧水の流れがあちこちにあります。いまでも、その上にあるマンホールに近づくと、雨後などにはものすごい水流の音がしてますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>simousayama-unami さん
by ChinchikoPapa (2018-02-24 23:50)
そういえば、子どもたちが大きくなってから、ビデオカメラは手にしなくなりました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2018-02-25 15:38)
ホウ酸を入れない方式で作る森山式コーヒー牛乳、化学の実験みたいで面白かったです。涎を流しながら、読みました。
by Marigreen (2018-03-08 17:05)
Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
この記事を書いてから、コンビニで守山乳業のカフェラテ製品を買って飲んだのですが、甘すぎて辟易しました。どうして、鬼のように甘くするのでしょうね。頭痛がしそうです。
by ChinchikoPapa (2018-03-08 17:58)