SSブログ

彝に頼まれ湘南に出かけた曾宮一念。 [気になる下落合]

大磯藁葺き農家.JPG
 曾宮一念Click!というと、千葉県の外房Click!や長野県の八ヶ岳Click!へ写生に出かけていたイメージ、戦後に下落合から移り住んだ静岡県の富士宮Click!における制作の印象が強いが、実は相模湾沿いの町々にもたびたび出かけている。特に、鎌倉Click!大磯Click!とのかかわりが深かったようで、同町の風景をモチーフにした作品をいくつか残している。
 曾宮一念は大磯の印象について、こう記している。ちなみに、彼は日本橋浜町の生まれなので、大磯に関しては松本順Click!(江戸幕府の御殿医時代は松本良順)が拓いた、江戸東京地方における憧憬の別荘地であったのをよく知っていただろう。1938年(昭和13)に座右宝刊行会より出版された、『いはの群』に収録の「大磯」から引用してみよう。
  
 汽車から窺つた大磯は立派な別荘とすきまのない住宅とで今迄近づき難く思つてゐた。今度はじめて下りて見ると春さきの大磯は青麦とげんげ田に菜の花と土の香、実は下肥のにほひをまぜて頬をなぜてくれる、どうしてまだのんびりとした田舎だ。線路のすぐ北にこんもりと茂つた山がある、春夏秋冬常盤木の色を主調としてゐるので、いつも変化の乏しい無能な山といふ印象を得てゐたのを、畑中から大観すると、なかなか形のととのつたよい山である。高麗山といふさうだ、目下のところ天国心中の坂田山に名誉を奪はれた形である。
  
 もし、曾宮一念が5月初旬に大磯を訪れていたら、高麗山の「常盤木の色」が山一面に霞がかかったような、薄いピンク色に変貌していたのを眺められただろう。高麗山は、大磯の丘陵の中でもヤマザクラが多い山だからだ。
 当時の大磯は、慶大生と深窓の令嬢とが駅の裏山で服毒自殺した、いわゆる自殺ブームのさきがけとなる「天国に結ぶ恋」の坂田山心中事件Click!で持ちきりであり、駅前では「心中最中」や「天国饅頭」などが売られていた時代だ。余談だけれど、わたしは子どものころ親に連れられ、心中の現場となった地点に建立された比翼塚Click!を見た記憶があるのだが、現在は事件現場ではなく鴫立庵Click!の敷地に移されている。
 曾宮一念が、湘南の町を訪れたのは、これが初めてではない。大磯旅行から15年ほど前、1922年(大正11)ごろに曾宮は病床の中村彝Click!からの伝言を携えて、平塚にいた宮芳平Click!を迎えにいっている。彝の弟子のひとりである宮芳平は、1915年(大正4)に東京美術学校を中退したあと、1920年(大正9)まで新潟の柏崎商業で嘱託教師をしていた。だが、画家への道をあきらめきれなかったのか、1920年(大正9)に柏崎商業を辞めると、病気の妻とともに平塚に移り住んでいた。
 中村彝は、平塚で呻吟している宮芳平を心配していたのか、長野県にある諏訪高等女学校の美術教師に推薦する伝言を、曾宮にもたせて派遣したのだ。この諏訪高等女学校Click!で空席になった教職こそ、同じく彝の弟子でフランス留学のために同校を辞職した、清水多嘉示Click!がいたポストだった。清水多嘉示Click!が渡仏したのは、1923年(大正12)3月なので、彝の伝言を伝えに曾宮が平塚の宮芳平を訪ねたのは前年中だったと思われる。
坂田山心中比翼塚.JPG
高麗山.jpg
大磯高麗山1938.jpg
松本順墓.JPG
 では、曾宮一念の来訪を、宮芳平はどのようにとらえていたのだろうか。1987年(昭和62)に野の花会が発行した宮芳平『音信の代りに友に送る-AYUMI』から引用してみよう。ちなみに、文中に登場する「Sさん」とは曾宮のことだ。
  
 その頃Sさんは日暮里の下宿屋の二階に病気を抱えて苦闘していた彝さんを知るようになり、後にわたしも彝さんを知るようになった。そしてわたしが病妻を抱えて相模の平塚にいたときSさんが彝さんの使者となって、わたしを信州諏訪へと赴かせるために迎えにきたのである。/その頃彝さんの作品は日の昇るような評判で褒賞を取り三等賞をとり二等賞を取って既に文展の審査員になっていたのである。Sさんは落選したり入選したりしていたがとうとう褒状を取って意気漸くに上っていた。/その頃、わたしはその群を離れて諏訪に来た。教師となったのである。わたしが教師をしている間にSさんはめきめきと売り出して、その名を曽宮といえば絵に関心を持つ人なら知らない人は無い程になった。わたしは羨しかった。Sさんの盛名はともかくとして、その作品に頭を下げざるを得ないのである。その色、その匂い、その才気、馥郁としていたのである。
  
 またちょっと余談だけれど、宮芳平が滞在した短い平塚時代に絵をならいに通っていたのが、わたしが小学生のときに通っていた画塾のおじいちゃん先生だった。
 諏訪高等女学校へ赴任した宮芳平は、しばらくすると平野高等女学校や諏訪蚕糸学校の美術教師を兼任しているので、教職が彼の肌には合っていたのだろう。彼が諏訪へ転居してから、わずか1年半で中村彝の訃報を聞き、下落合のアトリエへ駆けつけることになる。彼が休暇をもらって下落合に着いたとき、すでに中村彝は納棺が終わり、晩秋から初冬にかけて近所の野原に咲いていた花々で、その遺体の周囲は埋められていた。このとき、下落合に咲いていた野花とはノゲシやヒメジオン、スミレ、ツリガネニンジン、キツネノボタン、タツナミソウなどだろうか。中には野生化したスイセンや、サザンカも混じっていたのかもしれない。
 葬儀の写真を見ると、中村彝の棺を前に岡崎キイClick!満谷国四郎Click!にはさまれて立っているのが、若き日(31歳)の宮芳平のようだ。作品を彝に見てもらう機会が少なかった彼は、師の死後に痛切な文章を残している。同書から、再び引用してみよう。
宮芳平「AUMI」1987.jpg 宮芳平.jpg
中村彝葬儀192412.jpg
宮芳平「諏訪湖(立石より)」1930.jpg
  
 あの人は死にました
 あの人はいつもアトリエにいませんでした。/あの人はアトリエの隣の小さな南の部屋のベッドの中にいました。/絵を描くと熱が出る。熱が出るとこの部屋でやすむ。/わたしが会う時もたいていこの部屋でした。/この部屋にあの人がいない時は絵を描いている時ですからわたし達はアトリエに入れません。わたし達がこの部屋で待っているとおばあさんがお茶をもってきてくれました。おばあさんはあの人にはあかの他人です。しかし誰もあの人を看病してくれなかった時――誰しも長い病気に辛抱しきれなかったのです――このおばあさんがきてあの人を看病してくれるようになりました。枕もとには用事がある時人を呼ぶ呼鈴がついていました。/あの日/あの人はこの呼び鈴を押さなかったのです/押せなかったのかもしれません/おばあさんが来た時 死んでいました/あの人は喀血したのです/その血が喉につかえて死んだのです/喉をおさえ苦しんでいるうちに死んだのです
  
 平塚に宮芳平を迎えにいった曾宮一念は、彼が諏訪高等女学校の美術教師に就任すると、さっそく写生旅行がてら訪ねていった。だが、宮夫妻の部屋が狭かったので泊まれず、近くの諏訪湖近くの下宿屋に泊まって大雪にみまわれている。あまりの寒さに、曾宮は甲府へと出て鰍沢からポンポン蒸気で田子の浦へと南に向かった。曾宮が富士の裾野と接点ができたのは、このときが最初だったかもしれない。
 曾宮一念は、相模湾沿いの鎌倉町もときおり訪ねている。それは、彼の絵を夫妻で気に入り、たまに下落合623番地の曾宮アトリエへ寄っては作品を買ってくれていた、酒井億尋と妻の朝子が鎌倉に家を建てて病気の療養をしていたからだ。酒井夫妻とネコ嫌いの曾宮一念が親しくなったのは、朝子夫人が飼っていたネコに石をぶっつけたのがきっかけだった。おそらく、曾宮は遊びに出かけた佐伯祐三Click!アトリエの敷地から、佐伯と同じ地主の山上家Click!から借りた土地に家を建てて住んでいた、北隣りの酒井邸周囲をうろつく飼いネコが目障りで、思わず投石したものだろう。
曾宮一念野外写生.jpg
曾宮一念「梨畑道」1924.jpg
曾宮一念「漁家」1938.jpg
 以来、曾宮は酒井夫妻が下落合から鎌倉に引っ越したあとも、しばしば病気の夫人を見舞いがてら鎌倉を訪ねている。鎌倉の酒井邸は、滑川Click!が流れ杉本寺や報国寺などの伽藍が建ち並ぶ、静かな浄明寺ヶ谷(やつ)に建っていた。曾宮一念は、浄明寺ヶ谷を起点に周囲の鎌倉風景を次々と写しとっているのだが、それはまた、別の物語……。
  
[アート]ご連絡
 ご連絡がギリギリになってしまいましたが、あさって13日(日)に聖母坂沿いにある落合第一地域センターClick!で、「佐伯祐三生誕120年記念」講演シンポジウムおよび下落合の街歩きを行ないます。吉住新宿区長もご参加予定ですが、午前11時30分に開場、正午には講演シンポジウムをスタートする予定です。
 街歩きは、今回は佐伯アトリエも近い「八島さんの前通り」から目白駅までの「下落合風景」描画ポイント、および佐伯祐三や中村彝の各アトリエをはじめ、吉田博、笠原吉太郎、森田亀之助、里見勝蔵、蕗谷虹児、曾宮一念、牧野虎雄、片多徳郎、鈴木良三、鈴木金平、鶴田吾郎、有岡一郎、九条武子、満谷国四郎、竹久夢二、相馬孟胤、安井曾太郎、近衛篤麿、近衛文麿、熊岡美彦…etc.の各アトリエ跡や邸跡をめぐる予定です。もしご興味がおありでしたら、お気軽にご参加ください。
[アート]下落合街歩きマップ/街歩き資料ダウンロード
13日(日)は雨の中、たくさんの方々にお集まりいただきありがとうございました。あいにくの雨で、街歩きの資料類が濡れてしまったため、下記のURLよりダウンロードができるようにいたしました。ご参照ください。
下落合街歩きマップClick!!(313KB)
下落合街歩き資料Click!(7.12MB)

◆写真上:大磯の国道1号線(東海道)沿いに残る茅葺き農家で、背後の山は高麗山。
◆写真中上は、鴫立庵へ移設された坂田山心中の比翼塚。は、平塚市街から眺めた高麗山から湘南平(左)にかけての大磯丘陵と、1938年(昭和13)に描かれた曾宮一念『大磯高麗山』。は、鴫立庵の敷地にある徳川幕府御殿医で西洋医学を修めた、日本初の海水浴場と避寒・避暑別荘地「大磯」の開拓者である松本良順(松本順)の墓碑。
◆写真中下は、1987年(昭和62)発行の宮芳平『音信の代りに友に送る-AYUMI』(野の花会/)と宮芳平()。は、1924年(大正13)12月の中村彝の葬儀における宮芳平。は、1930年(昭和5)に制作された宮芳平『諏訪湖(立石より)』。
◆写真下は、野外で写生中の曾宮一念。は、1924年(大正13)制作の曾宮一念『梨畑道』。は、1938年(昭和13)に鉛筆で描かれた曾宮一念『漁家』。

読んだ!(21)  コメント(23) 
共通テーマ:地域

読んだ! 21

コメント 23

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>はじドラさん
by ChinchikoPapa (2018-05-11 09:40) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2018-05-11 09:41) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2018-05-11 09:41) 

ChinchikoPapa

上野はたびたび歩くのですが、パンダポストはまだ見たことがありませんでした。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>えーちゃんさん
by ChinchikoPapa (2018-05-11 09:43) 

ChinchikoPapa

前回の「コロッサス」と今回の「Way Out West」、それにもうひとつ「橋」は、初期のころのコレクションアルバムで懐かしいです。これら古いディスクを聴きながら、出て間もない「Easy Living」も聴いてました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2018-05-11 09:51) 

ChinchikoPapa

わたしもタカノの常連なのですが、美味しいケーキに奥様もお喜びでしょう。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2018-05-11 09:53) 

ChinchikoPapa

森や山が、すっかり若葉の彩りですね。きょうのこちらは、よく晴れて気持ちがいい1日になりそうです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>okina-01さん
by ChinchikoPapa (2018-05-11 09:55) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ありささん
by ChinchikoPapa (2018-05-11 11:06) 

ChinchikoPapa

馬場駅から下落合へ帰るとき、たまに「まき野」の前を通ります。暗くなると、いつも中からにぎやかな声が聞こえますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2018-05-11 16:35) 

ChinchikoPapa

わたしもロレックスは使ったことがありますが、より愛着が湧くのは日本製の時計ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>おくげんさん
by ChinchikoPapa (2018-05-11 22:28) 

ChinchikoPapa

5月15日に予定されている当ブログのSSL化で、膨大なメンテナンスが発生し、「更新を控える」状況になりそうなのを懸念しています。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>U3さん
by ChinchikoPapa (2018-05-12 11:48) 

ChinchikoPapa

つい先日、後楽園にウメの開花を観にいったばかりなのに、アッという間に夏の花が咲く季節になってしまいました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2018-05-12 11:50) 

ChinchikoPapa

帽子をかぶる習慣はないのですが、ほんとうは紫外線が強烈ないまの季節、眼や頭を保護するためにもかぶったほうがいいんですよね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>hirometaiさん
by ChinchikoPapa (2018-05-12 11:51) 

ChinchikoPapa

わたしの世代ですと、公園のベンチなどに座って食べるならともかく、道を歩きながらモノを食べるのは非常にみっともなく、ぶざまで下品な姿に見えますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyokiyoさん
by ChinchikoPapa (2018-05-12 21:17) 

ChinchikoPapa

うちの子ども一家がドライブがてらイチゴ狩りへ行き、採ってきたイチゴでジャムを作ってくれました。採れたてのイチゴジャムは美味しいですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
by ChinchikoPapa (2018-05-12 21:21) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>mwainfoさん
by ChinchikoPapa (2018-05-12 21:24) 

ChinchikoPapa

斎藤茂太の本は、母親が好きでよく読んでいました。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>simousayama-unamiさん
by ChinchikoPapa (2018-05-12 23:57) 

古田宙

シンポジウム、残念ながら参加できません。とこらで事前アナウンスはどういう風だったのでしょうか?
by 古田宙 (2018-05-13 10:14) 

ChinchikoPapa

「建設国債」が「赤字国債」に転換して、政府の赤字財政が露わになったのは、忘れもしません、わたしが学生時代の1978年のことでした。このままの状態が続けば、まちがいなく財政は破綻すると、経済学のレポートに書いて出したのを憶えています。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2018-05-13 17:42) 

ChinchikoPapa

古田宙さん、コメントをありがとうございます。
すみません、わたしのサイトではギリギリになってしまいましたが、新宿区側では「区報しんじゅく」の5月5日号に、豊島区側では池袋モンパルナス「街のどこもがが美術館」パンフレットで告知させていただきました。新宿区の区報では、平文の地味な扱いでしたので、あまり目立たなかったかもしれませんね。
わたしがもう少し早く、講演準備の合い間にでも、こちらでニュースを流していればと反省しています。
記事末に、本日の街歩きに使いました地図ならびに資料をアップロードいたしました。よろしければ、ダウンロードしてご参照ください。
by ChinchikoPapa (2018-05-13 17:49) 

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2018-05-13 17:50) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございます。>Ujiki.oOさん
by ChinchikoPapa (2018-05-13 20:23) 

ChinchikoPapa

映像は、ご自宅の庭を撮られたものでしょうか。なんだかお庭にウサギたちもいて、「不思議の国」しています。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2018-05-14 11:10) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。