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夏目利政邸に下宿した長沼智恵子。 [気になるエトセトラ]

長沼智恵子アトリエ跡719.JPG
 下落合436番地に住んでいた日本画家&洋画家であり、下落合一帯のアトリエを設計してまわったとみられ建築家でもある夏目利政Click!が16歳のとき、自宅の2階には長沼智恵子Click!(のち高村智恵子)が下宿していた。といっても、下落合にあった彼のアトリエではなく、1909年(明治42)にいた本郷区駒込動坂町109番地の自邸でのことだ。
 いまだ中学生だった夏目利政は、日本画家・梶田半古の画塾に通っており、すでに14歳で文展に入選している。その後、夏目利政は東京美術学校の日本画科へと進学するが、当然、2階に住んでいた洋画家をめざす長沼智恵子とも、少なからぬ交流があったことは想像に難くない。日本画のみならず、彼が洋画をこころざす最初のきっかけに、ひとつ屋根の下に暮らしていた長沼智恵子の影響が大きかったのではなかろうか。
 長沼智恵子と目白・雑司ヶ谷界隈とのつながりは、学生時代も含めて非常に濃いものがある。ここでいう「目白」とは、現在のJR目白駅周辺のことではなく、小石川区(現・文京区)の目白台一帯Click!(おそらく本来の地名位置)のことだ。日本女子大学へ通っていた彼女は、同大学に近接した女子寮「自敬寮」で学生生活を送っている。そのころの智恵子の様子を、1年先輩にあたる平塚明(はる)=平塚らいてうの、『高村光太郎と智恵子』(筑摩書房/1959年)から引用してみよう。
  
 図画は女子大では自由科目でした。洋画の先生は、松井先生という中年の男の先生でしたが、智恵子さんはその先生について水彩画の勉強をしていました。桐の細長いスケッチ箱を撫で肩にかけて、学校裏の雑司ヶ谷方面にスケッチに出かけたりしていました。(中略) 書見に疲れた眼で窓の外をみると、人影の絶えて広々と見える運動場を、智恵子さんがただひとり、自転車を乗りまわしているのが実に自由で、たのしそうに見えました。自転車はこの人のお得意でしたから、当時の女子大運動会のよびものの一つだった自転車行進には必ず出ていました。
  
 智恵子に美術を教えていたのは、明治美術会(のち太平洋画会)の創設メンバーだった洋画家・松井昇のことだ。浅井忠や小山正太郎、柳源吉、長沼守敬らが1889年(明治22)に明治美術会を結成するが、吉田博Click!満谷国四郎Click!、中川八郎、丸山晩霞ら後進が続々と欧州留学から帰国すると、明治美術会は時勢の流れから解散して、ほどなく太平洋画会Click!が結成されることになる。
 長沼智恵子は、1907年(明治40)4月に日本女子大を卒業する以前から、おそらく松井昇の紹介があったのだろう、下谷区谷中真島町1番地にあった太平洋画会研究所Click!へと通っている。このとき、智恵子は日本女子大のOG会でつくる「桜楓会」が建てた、小石川区小日向台町1丁目14番地の「第一楓寮」に住んでいた。だが、1909年(明治42)に第一楓寮が閉鎖されると、本郷区駒込動坂町109番地の夏目邸の2階へと転居している。夏目利政は16歳の中学生だったが、智恵子は7つ年上の23歳になっていた。
 1907年(明治40)前後の太平洋画会研究所には、落合地域あるいは新宿エリアでお馴染みの美術家たちが、続々と姿を見せている。洋画をめざす長沼智恵子の周囲には、中村彝Click!中原悌二郎Click!をはじめ、鶴田吾郎Click!堀進二Click!大久保作次郎Click!渡辺與平Click!小島善太郎Click!、足立源一郎、川端龍子、岡田穀、荻原守衛Click!、戸張孤雁などの面々だ。智恵子の研究所での様子について、彼女とは肩を並べて同研究所で学んでいた渡辺與平の妻・渡辺ふみClick!(のち亀高文子Click!)の証言を、2004年(平成16)に蒼史社から出版された北川太一『画学生智恵子』所収の、亀高文子『わが心の自叙伝』(神戸新聞学芸部編)から孫引きしてみよう。
  
 こういう男性たちにまじって、ここでは、男女共学のハシリといえましょうか、私ともう二人の女性がいました。一人は女子美校で一緒だった埴原久和代さんで、もう一人は後に高村光太郎夫人となられた長沼智恵子さんです。(中略) 智恵子さんは、美しい、なよなよした女性で話す声も聞きとりにくいほどの控えめな感じの外見と、その仕事ぶりは、また反対に自由奔放で強い調子のものでした。男女同権にめざめていないそのころ、大勢の男性の中にはいって勉強することは、いろいろな困難を甘んじて受け、あるいは克服しつつの連続でした。とはいいましても、明治の質朴な画学生たちは、私たちにとって決して危険な異性ではありませんでした。ただ、いかつい、こわい存在だったのです。女にやさしくするのは男の恥というような虚勢からくる見せかけの不親切だったかも知れません。
  
日本女子大学運動会1917.jpg
日本女子大自転車.jpg
北川太一「画学生智恵子」2004.jpg 日本女子大寮.jpg
 夏目利政は生粋の本郷っ子で、1893年(明治26)に駒込動坂町で生まれている。日本画には早熟で、14歳のとき第1回文展へ入選したことは先述したが、東京美術学校在学中の18歳のときにも、再び第5回文展に入選している。牙彫師Click!だった父親が早くに死んだため、母親とともに自邸の部屋や離れを下宿として人に貸していた。そこへ入居したのが、23歳の長沼智恵子だった。
 夏目利政は、文展に入選していたにもかかわらず、智恵子から作品の画面を徹底的に批判されていたようだ。前出の『画学生智恵子』収録の、1950年(昭和25)11月1日の新岩手日報に掲載された夏目利政の回顧録から孫引きしてみよう。
  
 その頃私は第一回文展に入選した。美術学校入学前のことなので私は皆からおだてられた。ところが智恵子さんから「子供のくせにしてこんなまとまった絵をかくことはちっとも真実を知らないからで、個性のない、だれでも書(ママ)ける絵だ」と頭から酷評された。これが私にとって自分の絵ということをまじめに考える大きな示唆となった。それからあの人のほんとうのものに心魂を打ちこんでスキもひまもない日常を見てたゞ驚嘆した。
  
 夏目利政が日本画家のみならず、洋画家もめざすようになったきっかけに長沼智恵子が大きく起立していたのは、当たらずといえども遠からずのような気がするのだ。こののち、夏目利政は駒込動坂町の自邸を整理・処分し、下落合436番地にアトリエを建てて転居してくる。また、弟の彫刻家・夏目貞良(亮)Click!も呼び寄せ、九条武子邸Click!の南隣り下落合793番地にアトリエを建設している。さらに、下落合804番地の鶴田吾郎アトリエClick!をはじめ、下落合に建設されたアトリエの多くは、彼の設計と思われるふしがあるのは、すでに何度か書いてきたとおりだ。
 さて、母校が近くて落ち着き安心するせいなのか、長沼智恵子は日本女子大学の近辺に住みたがるようだ。1911年(明治44)になると夏目邸の下宿を出て、同じく日本女子大を卒業した妹・セキとともに、高田村雑司ヶ谷719番地(現・豊島区南池袋3丁目)に小さな新築の借家を見つけて住みはじめている。智恵子が同地域を離れがたいのは、母校とその周辺に馴染みが深かったせいもあるのだろうが、周辺には美術家たちが多く住んでいたのも要因のひとつなのだろう。
 当時の雑司ヶ谷には、智恵子の親しい日本女子大の先輩だった橋本八重がいた。彼女は洋画家・柳敬助と結婚して、高田村雑司ヶ谷331番地に住んでいた。また、小石川区雑司ヶ谷91番地には、岸田劉生Click!たちとフュウザン会を結成した斎藤與里Click!のアトリエがあった。大正期に入ると、早々に二科会創設に奔走した津田青楓Click!は、日本女子大のすぐ東側にあたる小石川区高田老松町41番地におり、坂本繁二郎は高田村雑司ヶ谷36番地にアトリエをかまえていた。つまり、当時の先端をいく画家たちと交流できる交叉点が、明治末の雑司ヶ谷地域だったのだ。
 長沼智恵子が訪問した先には、津田青楓をはじめ中村彝、斎藤与里、熊谷守一Click!などのアトリエが記録されている。やがて、雑司ヶ谷に住んでいた洋画家たちのネットワークを通じて、高村光太郎と出逢うことになる。
日本女子大寮正門.jpg
太平洋画会研究所.jpg
太平洋画会研究所跡(谷中).JPG
 高田村雑司ヶ谷719番地の長沼智恵子アトリエを、1912年(明治45)6月に読売新聞の記者が訪問している。同年6月5日の同紙掲載の連載記事「新しい女(一七)」を、前出の『画学生智恵子』から少し長いが孫引きしてみよう。
  
 郊外の新屋 府下高田村雑司ヶ谷七百十九、鬼子母神境内の墓地を過って埃の白い街道を左へ郊外の閑かさを飽迄も吸った新築の家、夫は六畳と四畳半と丈の、小さくて明くて、サッパリとしてそれ自らが画室の様だ。こゝに妹と二人で住んでいる、室の一隅には露西亜更紗の三尺四方ばかりの上にプリミチブな泥人形やハリコ人形などが赤く青く白く黒く黄いろく散らかしてあり、床の間には古い印度瓶へ自分でエジプト風の図案を描き、それに挿した芍薬の花がもう萎れてゐる、その傍にはやゝ大きな額縁が二つ、自由な意匠の小さな壺が三つ四つ、窓の前の卓子にはガラス函入の絹毬が光り、その下の机には巻紙に何やら細かく書きかけてある、絵の具箱、カンバス、----このほかには箪笥もなく鏡台も見えない、こうした周囲を背景にして、素袷の襟を掻きあわせつゝ赤白の碁盤縞の布をかけたチャブ台の前に坐った二十四歳の、新しい女の芸術家を、まず想像して見たまえ(中略) ケチな芸術に非ず 「好きなのは、やはりゴオガンのです」話す時、その声は消えるように低くなる、「このごろ描きましたのは----」と立って壁によせかけた小さな板を裏返して「じきこの近くなのです」、見ると、木立の間から畠を越えて夕空が明るくのぞかれる、木の葉といい草の葉といい、女とは思われぬほど強く快く描いてある、ふとセザンヌの雨の画を思いだしたので、そのことをいうと「えゝセザンヌもほんとうにようございますわね」と子どもらしく口を開いて目をほそめた、好んで行くのは浅草の池の辺、あの活動写真の小舎などの毒毒しい色彩がたまらないそうな、けれども売らなければ食えないというのではない、そんなケチな芸術ではない
  
 文中には、「鬼子母神境内の墓地」というおかしな記述もあるが(鬼子母神堂北側の法明寺境内にある墓地という意味だろう)、おおよそアトリエの様子がわかる。
 長沼智恵子もまた、日本女子大の学生時代を含め、目白駅の東側に拡がる明治末から大正初期にかけての風景作品を、数多く描いていたにちがいない。その画面は、同じ時代をテキストで記録した海老澤了之介Click!の描写と、直接重なってくるだろう。このあと、智恵子は雑司ヶ谷719番地から、わずか北西に200mほどのところにある雑司ヶ谷711番地の借家へと転居している。
高田村雑司ヶ谷719・711_1918.jpg
高田町市街図1929.jpg
長沼智恵子アトリエ跡711.JPG
 高田村雑司ヶ谷719番地と同711番地は、ともに海老澤了之介Click!が住んだ雑司ヶ谷733番地のすぐ裏手(東側80mと北側50m)にあたる。だが、彼の自伝的著作『追憶』Click!には新進画家として、あるいは「新しい女」として新聞や雑誌にたびたび取り上げられ、のちに高村光太郎と結婚する長沼智恵子の記述がまったく見あたらない。ほとんど同じ町内の近隣同士なので、芸術家の存在にことさら敏感な彼が記録しないのはめずらしいことだ。海老澤了之介は、『青鞜』に集う「新しい女」たちが嫌いだったものだろうか。

◆写真上:雑司ヶ谷719番地(現・南池袋3丁目)にあった、長沼智恵子アトリエ跡の現状。実際には、写っている邸の裏側(西側)あたりに建っていたと思われる。
◆写真中上は、1917年(大正6)に行われた日本女子大学運動会の絵はがき。は、同大の運動場で自転車に乗る学生たち。下左は、2004年(平成16)に出版された北川太一『画学生智恵子』(蒼史社)。下右は、同大の雑司ヶ谷泉山潜心寮をめぐる築垣。古い大谷石の築垣上にコンクリート塀をつぎ足し、さらに有刺鉄線をめぐらす厳重さだ。
◆写真中下は、日本女子大学寮の正門プレート。は、太平洋画会研究所で石膏デッサンをする女子研究生。長沼智恵子か文中に登場する渡辺ふみ、または埴原久和代かもしれない。は、谷中真島町1番地にあった太平洋画会研究所跡の現状。
◆写真下は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷719番地と同711番地の界隈。は、1929年(昭和4)作成の市街地図にみる同じエリア。微調整レベルの地番変更はあるが、明治末から昭和初期まで大きなズレは見られない。は、雑司ヶ谷711番地の東通りに面したあたりに建っていた長沼智恵子アトリエの現状。

読んだ!(21)  コメント(39) 
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アヨアン・イゴカー

記事とは関係ないのですが、先日、たまたま既に他界している伯母が20年以上前に書いた文書が出て来て、そこに「東京市淀橋区西大久保470番地」で私の父親が生まれ、隣には希望社と言う出版社があり、農村向けの雑誌を出していた、と書いてありました。
後藤 静香と言う人物についてはウィキペディア(希望社についての言及もあります。)にあったのですが、希望社という単独の項目ではないようでした。何かご存知でしょうか?
by アヨアン・イゴカー (2019-01-31 15:52) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2019-01-31 17:26) 

ChinchikoPapa

きょうの夜半は、こちらでも雨から雪の予報が出ていますが、どうなるでしょう…。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>okina-01さん
by ChinchikoPapa (2019-01-31 17:27) 

ChinchikoPapa

トップが逮捕されてから、むしろ日産のCMがむしろ増えてるような…。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2019-01-31 17:30) 

ChinchikoPapa

O.ネルソンの『Straight Ahead』は秀逸な1枚ですね。E.ドルフィ―のサビがきいて、サウンドに飽きがきません。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2019-01-31 17:35) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
後藤静香は、平取(ビラトリ)のアイヌ民族と宣教師バチェラーとの関わりで有名ですね。違星北斗が出していた同人誌『コタン』を支援していた人です。
1918年(大正7)6月に、大久保村西大久保236番地に希望社を創立して、その後、西大久保470番地へ移転しているようです。創立地の西大久保236番地は、大久保小学校の正門から少し西へいったあたり、現在の小泉八雲記念公園あたりです。
後藤静香については、1988年に出版された『後藤静香選集』(善本社)が詳しいようですが、古書店では個別の著作も多々売ってますね。

by ChinchikoPapa (2019-01-31 18:12) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>takaさん
by ChinchikoPapa (2019-01-31 18:14) 

ChinchikoPapa

今夜は、ほんとうに久しぶりの大雨ですね。暮れからかろうじて、枝にへばりついていた枯れ葉も、この雨で残らず落ちてしまいそうです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2019-01-31 20:48) 

アヨアン・イゴカー

ご回答有難うございました。
伯母はこの後藤静香の経営する幼稚園に通ったとも書いていました。
希望社のビルは5階建てだったと書いていましたので、当時としては随分立派な建物だったのではないかと思います。
by アヨアン・イゴカー (2019-01-31 21:04) 

サンフランシスコ人

サンフランシスコで、日本女子大学の同窓会があるみたいです....
by サンフランシスコ人 (2019-02-01 08:44) 

ChinchikoPapa

わたしも「今」を生きるのが精いっぱいで、老後のことはあまり考えてこなかったですねえ。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyokiyoさん
by ChinchikoPapa (2019-02-01 11:39) 

ChinchikoPapa

「肘折温泉 カップ」は、デザインの良し悪しは別にして抜群のアイキャッチ力です。「こけしカップ」と呼ばれそうですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2019-02-01 11:41) 

ChinchikoPapa

きのうの朝方、玄関を開けたらいっせいに鳥が飛び立ちました。ヤマバトたちかと思ったのですが、ツグミの群れがきていたようです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
by ChinchikoPapa (2019-02-01 11:45) 

ChinchikoPapa

ペットといっしょに、コーヒーや食事が楽しめる喫茶店なんですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>soramoyouさん
by ChinchikoPapa (2019-02-01 11:47) 

ChinchikoPapa

写真を見ていて気がついたのですが、最近、昔のコーヒー店のような分厚いトーストをほとんど見かけなくなりました。みんな「そこそこ厚い」ぐらいに“減量”されてますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2019-02-01 11:50) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2019-02-01 11:51) 

ChinchikoPapa

寺社で行われる節分の豆まきは、寒さが苦手なので一度も参加したことがありません。三人吉三大川端の場の劇場中継を、暖かい部屋で観ながら豆をつまんでたりします。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2019-02-01 11:56) 

ChinchikoPapa

暗闇でなく薄暮のイルミネーションも、空の深みに映えて美しいですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2019-02-01 12:01) 

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>ありささん
by ChinchikoPapa (2019-02-01 12:01) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
西大久保236番地から470番地へ移転したあと、敷地が広くなってビルを建てたり幼稚園を経営できたりしたのかもしれないですね。
本棚を探していたら、西大久保の後藤静香について、少し書かれている本を見つけました。2004年に日本古書通信社から出版された茅原健『新宿・大久保文士村界隈』です。
明治期から戦前まで、大久保地域と百人町に去来した芸術家や思想家たちを簡単に紹介している文庫本ですが、いまでもamazonで入手できますね。よろしければ、ご参照ください。
by ChinchikoPapa (2019-02-01 12:07) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
日本女子大学は、日本でもっとも古い「大学校」を名のった女性教育施設ですので、おそらく卒業生は世界中にいるのでしょうね。
by ChinchikoPapa (2019-02-01 12:11) 

ChinchikoPapa

わたしも買うとすれば1,000~2,000円の、わりと手軽に飲めるワインでしょうか。それ以上になると、ウィスキーのほうへ手が伸びます。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2019-02-01 16:24) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>はっこうさん
by ChinchikoPapa (2019-02-01 21:25) 

ChinchikoPapa

全国的に海に面した地に、「ミ・ト(miーt)」という音の地名が散在しますが、どう解釈したらいいものか迷います。近くだと、伊豆半島(三津)にもありますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>dendenmushiさん
by ChinchikoPapa (2019-02-02 10:11) 

ChinchikoPapa

ちょうどいま、初音町の満谷国四郎アトリエと真島町の太平洋画会研究所について調べていたとこですが、美校が近いせいか画家たちの面白いエピソードが眠ってますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>八犬伝さん
by ChinchikoPapa (2019-02-02 15:04) 

サンフランシスコ人

「おそらく卒業生は世界中にいるのでしょうね....」

北朝鮮にもいるのでしょうか???
by サンフランシスコ人 (2019-02-03 03:23) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
戦前の朝鮮半島は日本の植民地でしたので、日本の学校を卒業した韓国・朝鮮人がたくさんいます。つい先日も、韓国の作家の方から高名な韓国詩人が卒業した、新宿区の学校について問い合わせをいただいたばかりですが、北朝鮮にも日本の学校を卒業した女性はいる(いた)でしょうね。
by ChinchikoPapa (2019-02-03 10:54) 

ChinchikoPapa

なんだか、モモも開花しそうな陽気ですね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>simousayama-unamiさん
by ChinchikoPapa (2019-02-03 21:46) 

サンフランシスコ人

「日本の学校を卒業した韓国・朝鮮人がたくさんいます...」

日本女子大を卒業する学生は、日本人だけだと思っていたのです.....
by サンフランシスコ人 (2019-02-04 03:31) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
戦前は、朝鮮・韓国人も名目上は「日本人」にされていたので、日本の学校を卒業した人たちがたくさんいますね。あるいは、もともと日本で育ち学校を卒業するなどしていた人たちが、戦後の「帰還運動」で祖国に帰ったケースは数十万人います。
by ChinchikoPapa (2019-02-04 10:41) 

wakosan

50年程前、なぜか夏目先生は宮城県の岩沼の友人の家に滞在していて、そのとき描いてくださった色紙(伊勢物語に関するもの2点)をながめていて、ふと検索してみました。
by wakosan (2020-02-24 16:34) 

ChinchikoPapa

wakosanさん、コメントをありがとうございます。
夏目利政の作品は、いまでは散逸してしまってなかなか出会うことができないので、とても貴重ですね。下落合には長い間アトリエを構えていたにもかかわらず、地元には作品がほとんど残っていないようです。むしろ、彼は下落合の画家たちのアトリエ設計者として、あるいはアビラ村(芸術村)のディレクター的な存在として知られていたようです。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2019-06-12

by ChinchikoPapa (2020-02-24 21:08) 

wakosan

先日50年程前と書きましたが、よく考えてみたら、63年前でした。
私は当時短大で卒論を書いていて、「伊勢物語」をやっていると言ったら、描いてくださったのです。「しらたまか なにぞとひとのとひしとき つゆとこたへて けなましものを」の絵ですが、これが見れば見るほどいい絵なのです。サインは「寸土」となっています。
by wakosan (2020-03-12 22:50) 

ChinchikoPapa

wakosanさん、コメントをありがとうございます。
それは、とても貴重な作品ですね。「寸土山人」は、1925年(大正14)ごろから下落合で使いはじめた雅号です。ちょうど、大正末の当時は油絵にも取り組みはじめたころですね。「しらたまか」は、露と消えてしまいたい悲嘆にくれる女性を描いたものでしょうか。
「寸土山人」記事は、ほかにもいろいろ書いています。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2019-06-12

by ChinchikoPapa (2020-03-12 23:20) 

wakosan

もう一枚は、「むさしのは きょうはな やきそ わかくさの つまもこもれり われもこもれり」。在原業平が女をさらって草むらにかくれていると、野焼きがはじまったので、今日は焼かないでくれと言ってるんですね。秋草の中に、臥せった女と業平が描いてあります。
夏目先生は色紙に墨で、歌と絵を5分ぐらいで描いておられたように思います。当時どうして宮城県におられたのでしょうね。
by wakosan (2020-03-14 09:19) 

ChinchikoPapa

wakosanさん、コメントをありがとうございます。
さあ、写生旅行で出かけたのでしょうか。それとも、宮城に有力なパトロンのひとりが住んでいて、襖絵か軸画の注文でも受けて滞在したものでしょうか。多くの洋画家もそうですが、旅行ついでにその地域に住んでいる支援者のもとへ立ち寄ったりしますね。日本画家の場合、日本家屋の床や襖などの描画で需要があったでしょうから、どこか近くの旧家やおカネ持ちの屋敷に大きな作品が残っているのかもしれません。
by ChinchikoPapa (2020-03-14 15:21) 

wakosan

夏目先生が滞在していた家の友人は当時薬科大学に在籍していましたが、理系は苦手なようで、ある画塾で油絵を描いていました。私も同じ画塾に通っていました。彼女はなかなかいい絵を描いていましたので、夏目先生は薬大を中退させて武蔵野美大に編入させました。彼女は卒業後、いちおう画家にはなったようです。
by wakosan (2020-03-17 09:23) 

ChinchikoPapa

wakosanさん、重ねてコメントをありがとうございます。
夏目利政は、日本画ばかりでなく洋画の素養も多分にあったようで、下落合では洋画家の友人のほうが圧倒的に多いような感じがしています。ただ、洋画作品が散逸してしまったものか、あまり目にすることのできないのが残念ですが。
ここではあまり取り上げませんが、下落合には日本画家の画室もたくさんありましたけれど、夏目に関する証言はほとんど洋画家仲間の中で語り継がれたものです。きっと、ご友人にもなにかの才能を感じて、転校を勧めたのかもしれませんね。
by ChinchikoPapa (2020-03-17 13:59) 

ChinchikoPapa

wakosanさん、夏目利政の和歌夫人のご子孫の方が、コメントをお寄せくださいました。ご参照ください。お祖父様の姉にあたる方が、和歌夫人とのことです。宮城県に滞在中も、和歌夫人を同伴していたものでしょうか。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2019-06-12

by ChinchikoPapa (2020-03-24 15:51) 

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