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下落合を描いた画家たち・松本竣介。(5) [気になる下落合]

松本竣介「配水塔」.jpg
 わたしは、文学畑の「無頼(ぶらい)」という言葉が好きではない。無頼というのは、寄るべのない身ひとつで暮らしを立て、ときに困窮すれば伝法なことをやらかしながら身すぎ世すぎをしている人間のことをいうのであって、いつでも支援を受けられる故郷の裕福な実家やパトロンを背景に、都会で「好き勝手なことをして暮らしている高等遊民」のことは、無頼とはいわない。
 「無頼作家」とか「無頼詩人」とかいう言葉を聞くと、まずマユにツバしたくなるのが常なのだけれど、経歴をよくよく読んでみると故郷の実家が素封家であったり、親兄弟の中に金満家がいたりと、およそ無頼とは無縁でほど遠い、かけ離れた「有頼」の生活をしている人物がけっこう多い。こういう人たちは、親離れできない人とか自立できない人、あるいは「ボクちゃん」Click!などと呼びはするがw、まかりまちがっても芝居の『天保六佳撰』Click!に登場する輩たちのように無頼とはいわない。
 上落合742番地に住んだ尾形亀之助Click!も、どこかで「無頼詩人」と呼ばれているらしいのだが、実家は宮城県でも有数の素封家だったらしく、その晩年に没落するまで42年間の生涯にわたり、家からの仕送りをベースに生活をつづけている。もっとも、それぐらいの余裕がないところにしか、文学(芸術)の芽は育たないというのであれば、今日の経済的な“低空飛行”の世相を背景に、ことさら文学が沈滞し隆盛をみない説明もたやすくつくのかもしれないが……。
 さて、先ごろ友人から「こんな本を見つけたよ」と、尾形亀之助の詩作で挿画が松本竣介の『美しい街』という本を貸していただいた。もちろん、尾形亀之助と松本竣介はその生涯にわたり、交わったことは一度もないと思われるし、尾形の詩集に松本が挿画を描いたこともないだろう。同書は、2017年(平成29)に夏葉社から初版が出版された新刊本だ。だが、大正期からの上落合2丁目742番地に住んだ尾形と、1936年(昭和11)から下落合4丁目2096番地で暮らした松本とは、ふたりとも落合地域の住人なので、さっそく興味を引かれて読みはじめた。
 その中に、松本竣介が野方町168番地に建っていた、荒玉水道Click!野方配水塔Click!を描いたスケッチが掲載されていた。(冒頭写真) 西落合にお住いの方なら、1928年(昭和3)11月から落合地域への通水がスタートした、野方配水塔正面の窓が穿たれている凸部の角度から、どのあたりから配水塔の方角を向いて描いたのかを、すぐに想定することができるだろう。同スケッチは、1985年(昭和60)に綜合工房から出版された『松本竣介手帖』に収録されているのだが、松本が下落合で暮らすようになってからほどなく、付近を散策しながら見つけて写生した風景の1枚なのかもしれない。
 手前に藁葺き農家が描かれているが、その向こう側には建てられたばかりとみられる住宅の切妻が2棟とらえられている。1932年(昭和7)に東京が35区制Click!になり淀橋区が成立すると、地名が落合町葛ヶ谷から西落合に変わっているが、スケッチは西落合1丁目403番地(旧・葛ヶ谷403番地)あたりの畑地、ないしは空き地から西を向いて描いたものだ。ただし、西落合は1930年(昭和10)前後に大きな地番変更が行われ、住所表記の再編が行われているので、西落合1丁目403番地は、ほどなく西落合1丁目346番地界隈となっている。西落合の藁葺き農家は、1950年代まで残っていて目にすることができた。
野方配水塔.JPG
野方配水塔1936.jpg
野方配水塔1947.jpg
野方配水塔東側.jpg
 さて、『美しい街』に収録された尾形亀之助の作品には、上落合界隈の風情を詠んだとみられる詩がいくつか見られる。「郊外住居」や「十一月の街」などに、落合地域らしい表現を拾うことができる。たとえば、「郊外住居」にはこんな描写がある。
  
 街へ出て遅くなった
 帰り路 肉屋が万国旗をつるして路いっぱいに電灯をつけたまま
 ひっそりと寝静まっていた
  ▲
 この作品は、1926年(大正15)~1927年(昭和2)ごろにつくられているので、「街」へ出るには上落合から中央線の東中野駅Click!まで歩いて新宿へ出たか、あるいは1927年(昭和2)4月に西武電鉄Click!が開通しているので、自邸から直線距離で170mほどの近くにある、中井駅から山手線の土手際にある高田馬場仮駅Click!に出たか、微妙な時期にあたる。前者だとすれば、この情景は東中野駅から上落合側(北側)へとつづく商店街だし、後者だとすれば中井駅前から寺斉橋をわたるあたりの商店街だが、時期的にみれば東中野駅からの「帰り路」のような気がしている。
 また、「夜がさみしい」には次のような一節がある。
  
 電車の音が遠くから聞えてくると急に夜が糸のように細長くなって
 その端に電車がゆわえついている
  
 「ゆわえつけられている」ないしは「ゆわえられている」というところ、少しおかしな表現だが、この「電車の音」は遠くから聞えるので、やはり中央線だろうか。同線の東中野駅と尾形亀之助の自宅は、直線距離でちょうど500mほどだ。もし、「電車の音」が西武線だとすれば、かなり「近く」に聴こえていなければならない。
野方配水塔1938.jpg
西落合1丁目1955.jpg
上落合740番地付近.jpg
 「坐って見ている」には、近くの銭湯の煙突が登場している。
  
 風が吹いていない
 湯屋の屋根と煙突と蝶
 葉のうすれた梅の木
  
 下落合742番地の尾形邸は、妙正寺川へと下る北向き斜面の丘上、また西の字(あざ)栗原へと緩やかに下る坂の上に建っていた。そこから煙突や屋根まで含めて見下ろせる銭湯は、目の前にあった上落合720番地の「鶴ノ湯」だ。寺斎橋を南にわたって、すぐ右手にあった銭湯で、現在では敷地が山手通りの高架下になってしまっている。おそらく、部屋の窓ないしは縁側から「坐って見てい」たのだろう。
 また、「昼寝が夢を置いていった」には、上落合に多かった原っぱが登場している。
  
 原には昼顔が咲いている
 原には斜に陽ざしが落ちる
 森の中に
 目白が鳴いていた
  
 同じ上落合に住んだ尾崎翠Click!の作品にも、いくつかの「原」Click!が登場しているが、大正末から昭和初期にかけての上落合は、水田や麦畑などの畑地が次々とつぶされて耕地整理が進み、住宅が建設される前の原っぱがあちこちに散在していた。これは、松本竣介が野方配水塔を描いた西落合でも、同様の風景が拡がっていたはずだ。
 最後に、「十一月の街」を引用してみよう。
  
 街が低くくぼんで夕陽が溜っている
 遠く西方に黒い富士山がある
  
 尾形亀之助邸は、北向き斜面の上にあるが西側へもやや傾斜しており、南の接道は西へ向けてだらだらと下っている。自宅の庭あたりから暮れなずむ西側を見やると、妙正寺川に沿った上落合の栗原から三輪(みのわ)にかけて、やや低くくぼんで見えただろう。そして、視界の左手にはシルエットになった富士山を黒々と見ることができたはずだ。
尾形亀之助旧居跡.JPG
尾形亀之助「美しい街」2017.jpg 尾形亀之助.jpg
松本竣介手帖1985.jpg 松本竣介.jpg
尾形亀之助「化粧」1922.jpg
 時期は少しずれるが、1934年(昭和9)に上落合2丁目740番地へ宮本百合子Click!が転居してくる。上落合2丁目742番地の尾形亀之助邸から、南北の小道をはさんだ3~4軒北寄りの家で落合第二小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)のすぐ南側に接した丘の上だ。そのときまで、もし尾形が同所に住んでいたとしても、「高等遊民」の詩人とプロレタリア作家とでは水と油で、お互い交流することはまずなかったのではないか。

◆写真上:尾形亀之助『美しき街』の挿画、松本竣介の野方配水塔スケッチ。西落合1丁目403番地(のち346番地)の旧道沿いから、配水塔を描いているとみられる。
◆写真中上は、松本竣介の描画ポイントあたりから野方配水塔を眺めた現状。は、1936年(昭和11/上)と1947年(昭和22/下)の空中写真にみる描画ポイント。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる地番変更後の描画ポイントあたり。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に撮影された野方配水塔と敷設されて間もない新青梅街道。(「おちあいよろず写真館」より) は、1955年(昭和30)ごろ撮影された茅葺き農家や畑地とモダン住宅が混在する西落合3丁目(旧・西落合1丁目)界隈。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる地番変更後の尾形亀之助邸とその周辺。
◆写真下は、西に向かって下り坂になる旧・上落合2丁目742番地の尾形亀之助邸跡。は、2017年(平成29)に出版された尾形亀之助『美しき街』(夏葉社/上左)と尾形亀之助(上右)、1985年(昭和60)出版の松本竣介『松本竣介手帖』(綜合工房/下左)と画室の松本竣介(下右)。は、1922年(大正11)に制作された尾形亀之助『化粧』。

読んだ!(21)  コメント(26) 
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コメント 26

アヨアン・イゴカー

>高等遊民」のことは、無頼とはいわない。
この定義、気に入りました。
by アヨアン・イゴカー (2019-04-07 12:35) 

ChinchikoPapa

ソメイヨシノは散るか色あせてしまいましたが、次に控えた開花の遅いサクラが満開になりました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2019-04-07 18:59) 

ChinchikoPapa

きょうは歩いていると、じっとり汗ばむような陽気でしたね。あちこちの森で、樹木の若葉が繁りはじめました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>(。・_・。)2kさん
by ChinchikoPapa (2019-04-07 19:04) 

ChinchikoPapa

きょうは新宿御苑の近く、耕牧舎牧場の跡や花園町を散歩していました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2019-04-07 19:06) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2019-04-07 19:08) 

ChinchikoPapa

確かに、ゴーギャンもどきのジャケットで、一度見たら忘れられないですね。手もとには、残念ながらないアルバムです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2019-04-07 19:12) 

ChinchikoPapa

「江戸天下祭り」ということは、神田明神か日枝権現のどちらかの山車行列を模したのが、いちばん最初の姿だったものでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>yamさん
by ChinchikoPapa (2019-04-07 19:15) 

ChinchikoPapa

中学2年生のとき、「ナチチャコ・パック」をテープレコーダー(カセットテープには未対応)に録音して、昼食+昼休み時間に放送で流しちゃえ!……という、放送委員を巻きこんだイタズラをしたことがありました。てっきり、教師が放送室に駆け込んできて止めさせられ、怒られるかと待ち構えていたら、そのまま45分間流れっぱなしで怒られなかったのが意外でした。教師も、深夜放送を聞いていたのかもしれません。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2019-04-07 19:24) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2019-04-07 19:25) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
前々から、実家から仕送りしてもらって生活しながら、「無頼作家」や「無頼詩人」っていったいなんなのだ?……と思っていましたので、文章にしたら少しスッキリしました。w
by ChinchikoPapa (2019-04-07 19:31) 

ChinchikoPapa

アンチエイジングは食習慣や運動習慣も重要だと思いますが、常に問題意識や課題意識を前提とする「考えること」が、精神的な“若さ”を支える重要なファクターだと思います。先入観や思い込み、経験則、定説・慣習依存などで検証作業や思考作業をやめてしまうことが、もっとも早く“老け”を呼ぶような気がしますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyokiyoさん
by ChinchikoPapa (2019-04-07 19:39) 

ChinchikoPapa

いい声でよく鳴けるようになったのが嬉しいのか、早朝から近くでウグイスが鳴いて起こされます。遠くで鳴くと春らしい風情なのですが、裏の樹で鳴かれるとうるさいですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
by ChinchikoPapa (2019-04-07 19:42) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>はじドラさん
by ChinchikoPapa (2019-04-07 19:43) 

ChinchikoPapa

神田川のサクラ並木は色褪せるか、すっかり散ってしまいました。そのかわり、ピンクに染まった川面が美しいですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>simousayama-unamiさん
by ChinchikoPapa (2019-04-07 19:46) 

ChinchikoPapa

『黒い雨』のモノクロ映像が、やはり強く印象に残っています。風呂場の鏡を見ながら髪が抜けるシーンで、口もとにえもいわれぬ笑みを浮かべる田中は、今村昇平のリアリズムなのでしょうね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2019-04-08 10:51) 

ChinchikoPapa

うちの鉢植えアジサイの根もとから、黄緑色の新芽が出てきました。これから雨が降るごとに、急速に伸びていくんでしょうね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2019-04-08 10:54) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ありささん
by ChinchikoPapa (2019-04-08 11:27) 

ChinchikoPapa

きょう、臨時総会でゴーンが役員を解任されましたね。残った役員たちを糾弾するだけでは、企業体質はまったく変わらないと想像しますが、今後の活動戦略は……。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>siroyagi2さん
by ChinchikoPapa (2019-04-08 17:52) 

kiyokiyo

ChinchikoPapaさん
こんばんは!
いつも貴重なご意見を頂きましてありがとうございますm(_ _)m
僕も仰る通りだと思います。
年配の方だけではなく、若い方も常に疑問を持つことが大切だと思います。
自身の知識や経験の範囲のみで判断してしまう、諦めてしまう行為は老けに繋がるのでしょうね。
「考えること」大切なことです。
考えないと疑問も生まれません!
ある意味、怒ることも必要ではないでしょうか?
どうせダメなんだから!そんなことでは本当にダメダメですよね^^
精神的な“若さ”やはりそれが一番大切なのかもしれません。

by kiyokiyo (2019-04-08 19:54) 

ChinchikoPapa

kiyokiyoさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
おっしゃるとおりですね。若い子たちにこそ、なんだか年寄りじみた「常識」や「既定知」、ましてや諦念などまったくおかまいなしに、現状へ「おかしい」「変だ」「ウソでしょ」「マジか」と疑義を突きつけつづけてほしいのですが、なかなか大きな動きになりません。身軽でしがらみが少ないぶん、体力と機動力を発揮して否定から新しい世界を生み出してほしいのですが……。
「怒り」や「悲しみ」などの感情は、一時の高揚期をすぎると、なにかを猛烈な勢いで考えはじめる端緒になりますので、人間として非常に重要な"反応"ですよね。その感性さえ鈍化したような若い子が多いのは、とても残念なことです。

by ChinchikoPapa (2019-04-08 21:43) 

skekhtehuacso

たしかに無頼の意味と高等遊民とは相容れないかもしれませんね。
でも、あたしゃ永井荷風がうらやましくてしかたがない。
女癖のことは別として、書けば売れるし、煩わしい人間関係とは無縁の生活を送れていたし、最後は独りで死ねたし。
あーあ、わたしにもあの才能があれば、こんなに苦労して生きなくても済んだろうに。
by skekhtehuacso (2019-04-08 22:24) 

ChinchikoPapa

「上等な接着剤」は、質のいいセメダインのような鼻に抜ける、クセになりそうな(中毒性のありそうな^^;)風味でしょうか。ときどき、わたしも酒の中にそのような香りを感じることがありますが、添加の醸造アルコールの独特な匂いなのでしょうか。そのような香りをかぐと、子どものころの懐かしいプラモ作りを思い出します。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2019-04-08 22:33) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>takaさん
by ChinchikoPapa (2019-04-08 22:34) 

ChinchikoPapa

skekhtehuacsoさん、コメントをありがとうございます。タッチの差で、コメントが行き違いになったようです。
永井荷風は、乃手の裕福な官吏の家に生まれていますが、母親の(城)下町気質の影響からか、身体が弱いながら芝居の戯作をしたり、訪米文学の翻訳で稼いだり教師になったりと、次々と自分なりに稼いで生活基盤を確立しようとしている姿勢は「高等遊民」ではないですね。かといって「無頼」でもなく、若いころから地元で自分の「居場所」を懸命に探していた東京人……という感触でしょうか。
年をとってからの飄々としたボヘミアン的な生活は、若いころ懸命に働いたり活動したりした「貯金」や「蓄積」があったからで、最初から「遊民」的な生活をして得たライフスタイルとは、ちょっとちがうと思います。
by ChinchikoPapa (2019-04-08 22:58) 

ChinchikoPapa

イヌを連れて散歩をするには、いい季節になりましたね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>soramoyouさん
by ChinchikoPapa (2019-04-10 09:53) 

ChinchikoPapa

以前の記事にまで、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2019-04-27 21:02) 

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