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中国民謡を演奏する陸軍軍楽隊。 [気になる音]

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 少し前に、戸山ヶ原Click!の陸軍軍楽学校や戸山学校軍楽隊の野外音楽堂にいまでも残されている、良質な玉砂利をふんだんに使用したコンクリート塊Click!についての記事を書いた。そのとき、野外音楽堂では実際にどのような吹奏楽曲が演奏されていたのかに興味をもった。戦後1956年(昭和31)に復元された、軍楽隊野外音楽堂(現在は解体されて再整備され、屋根のない四阿風のモニュメントに変わっている)では、かなり大編成の軍楽隊が演奏できたと思われる。(冒頭写真)
 野外音楽堂はコンクリート製で、ステージは低層の3段に分かれており、両側に反響壁が設置されている。いちばん手前の広いステージは、大編成の際は楽団員が、小編成の場合は将官やゲストのイスが並べられたのかもしれない。音楽堂のステージは、窪地の南南東側に向けて口を開いており、なんらかの記念日などで観客が多い場合には、平坦な客席ばかりでなく周囲の斜面にもあふれていただろう。
 箱根山の北東に位置する野外音楽堂は、戦前までふたつの湧水池が形成されていた南東側の段斜面にあたり、江戸期の尾張徳川家の下屋敷(戸山山荘)Click!だったころは、この位置にも水が湧き小流れや小池が形成されていた可能性がある。音楽堂は三方が傾斜地となる窪地として造成されたため、そこで演奏された楽曲は野外にもかかわらず、特に南東側に向けてよく反響したかもしれない。
 明治期に陸軍軍楽隊が設立されたころ、当然だが洋楽も洋楽器も経験のない日本では、ヨーロッパから専門分野の外国人を招聘した。いわゆる“御雇外国人”だが、陸軍ではフランスとドイツから教師を招いている。フランスからは、陸軍軍楽隊長の経験があるシャルル・ルルーが来日し、陸軍軍楽隊のために『抜刀隊』や『陸軍分列行進曲(扶桑歌)』Click!などを作曲している。2曲目は、1943年(昭和18)に「小雨にけぶる神宮外苑競技場……」の実況で有名な、学徒出陣の壮行会Click!で演奏されたタイトルで、文系の学生を戦場へ送ったいまやおぞましい曲だ。
 また、ドイツからは、やはり海軍軍楽隊長の経験があるフランツ・エッケルトが招聘された。エッケルトは陸軍軍楽隊へ教師として赴任する前後、宮内省雅楽課の顧問もつとめていたので、『君が代』の吹奏楽への編曲や『哀の極』などを作曲している。1899年(明治32)に帰国するが、再び東アジアへやってきて今度は朝鮮で李王朝の音楽教師をつとめている。1910年(明治43)の日韓併合で教職を失うが、そのまま朝鮮にとどまり民間での洋楽普及に尽力し、ドイツにもどることなく現地で死去している。エッケルトの墓は、現在でも韓国国内にある。
 さて、陸軍軍楽隊(のち陸軍戸山学校軍楽隊と呼称された)は、どのような曲を演奏していたのだろうか? いわゆる「軍歌」「軍楽」はもちろんだが、ときにシューベルトやベートーヴェン、ワグナーなどエッケルト故国の作品も演奏したらしい。また、軍楽隊のメンバーが作曲した作品も、積極的に演奏していた。さまざまな学校の校歌をはじめ、李香蘭Click!出演の映画音楽(国策映画)用に作曲したテーマ音楽Click!の演奏、有名な歌曲や日本民謡の編曲・演奏なども手がけている。陸軍軍楽隊の出身者で、戦後に活躍することになる作曲家には芥川也寸志や団伊玖磨、萩原哲晶、奥村一などがいる。
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 先日、「MUSIC MAGAZINE」(2019年9月号)を読んでいたら、寺尾紗穂のエッセイ『戦前音楽探訪』の中に上記のフランツ・エッケルトの名前と、陸軍戸山学校軍楽隊のネームが出てきて、思わず声を出して反応してしまった。陸軍軍楽隊の演奏曲の中には、中国の民謡が含まれていたことを初めて知ったからだ。いまでも演奏され、唄われる機会も多い中国民謡『太湖船』Click!だ。それをフランツ・エッケルトが行進曲として編曲し、『太湖船行進曲』Click!として軍楽隊のレパートリーに加えている。
 確かに、どこかで聴きおぼえのある行進曲で、全体がヨーロッパの協和音のように構成されてはいるが、ふいに中国の旋律が顔をのぞかせたりする。彼が編曲した『君が代』(のちに低音部2ヶ所が修正されるが、現在でも基本的にそのまま)も中国の旋律を思わせる響きがあるが、おそらく中国の旋律も日本の旋律も大雑把に“東アジアモード”とでもカテゴライズして、作曲や編曲に用いたものだろう。明治期の日本では、いまだヨーロッパの協和音よりも中国の旋律のほうに、より多くの親しみを感じていたのかもしれない。だが、今日ではあたりまえだが日本国内でさえ、それぞれ地方によっては地域ベースのモード(旋律)はかなり異なっている。
 ではなぜ、フランツ・エッケルトは日本の陸軍軍楽隊に、中国民謡の「太湖船」を取り入れたのだろうか? 『戦前音楽探訪』から、少し引用してみよう。
  
 その彼が作った「太湖船行進曲」は、元は「膠州湾行進曲」として、明治31年のドイツによる山東(膠州湾)租借の報を知って作曲されたものらしい。明治39年10月には日比谷公園で陸軍軍楽隊によって演奏もされている(『本邦洋楽変遷史』)から、このころから民間にも広まっていった可能性があるだろう。ドイツが山東を租借という名で99年間占領するとした、その喜びから、中国民謡と管弦楽を合わせたこの曲を日本にいたエッケルトは作ったのだろうか。
  
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フランツ・エッケルト.jpg 太湖船行進曲レーベル.jpg
 「山東(膠州湾)租借」とは、1898年(明治31)に渤海湾と黄海の間にある山東半島の南部一帯を、ドイツが清国政府に圧力をかけて租借・統治する「膠州湾租借条約」を締結したこと、要するに植民地化することに成功したことをさしている。この租借地獲得によって、アジアへの進出に出遅れたドイツは、東アジアに橋頭保を確保したことになるが、それを祝うためにエッケルトは『太湖船』のメロディーラインを拝借して、『膠州湾行進曲』を作曲(編曲)しているとみられる。
 でも、陸軍軍楽隊が演奏するときは『膠州湾行進曲』ではなく、原曲の名を冠して『太湖船行進曲』としたのは、中国への配慮からなどではなく、欧米列強のアジア侵略に対する軍内部の反感や警戒感からではないだろうか。軍楽隊が日比谷公園で同曲を演奏した1906年(明治39)、日本は日露戦争に勝利してロシアの南下を喰い止め、「アジアの盟主」を自任しはじめていたころだ。下落合にあった東京同文書院Click!(=目白中学校Click!)には、欧米の侵略から祖国を救い独立を勝ちとるため、数多くの中国人留学生Click!ベトナム人留学生Click!が参集していた時期と重なる。
 だが、1914年(大正3)に日本は日英同盟を口実にして山東半島のドイツ租借地を攻撃・占領すると、翌1915年(大正4)にはときの袁世凱政府に対華二十一カ条の要求を突きつけ、ドイツの租借地ばかりでなく、より広範囲の権益拡大を要求することになる。このとき以来、『太湖船行進曲』は中国人にとって侵略国ドイツを象徴する楽曲ではなく、新たに侵略国として立ち現れた日本を象徴する楽曲へと変異していったのだろう。事実、この要求の直後から中国各地で反日のデモやストライキ、暴動が頻発することになる。
陸軍軍楽隊19440310.jpg
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 原曲の『太湖船』は、中国の江蘇省にある太湖のたそがれどき、湖面の風を受けた船がすべるように静かに進む情景を唄ったものだが、『太湖船行進曲』のほうは中国大陸を奥へ奥へと際限なく踏み入ってくる、軍靴の響きを感じさせるような曲になってしまった。

◆写真上戸山ヶ原Click!にあった、軍楽学校の近くに設置された野外音楽堂(戦後復元)。
◆写真中上は、1923年(大正12)の1/10,000地形図にみる軍楽隊の野外音楽堂が設置された位置。は、1947年(昭和22)の空中写真にとらえられた野外音楽堂の残滓(復元前)。は、野外音楽堂の現状で東西南を斜面に囲まれている。
◆写真中下は、1929年(昭和4)に東京駅前で演奏する陸軍戸山学校軍楽隊。下左は、ドイツの御雇教師フランツ・エッケルトの肖像。下右は、1928年(昭和3)にビクターから発売された『太湖船行進曲』のレーベルで演奏は陸軍戸山学校軍楽隊。
◆写真下は、1944年(昭和19)3月10日の陸軍記念日に街中で演奏する陸軍戸山学校軍楽隊。紅白幕の指揮台が設けられ、どこかの新聞社か出版社の前だろうか戦時標語Click!「撃ちてし止まむ」の横断幕が掲げられている。翌1945年(昭和20)の陸軍記念日には、東京大空襲Click!で市街地の大半が炎上・壊滅する惨憺たるありさまだった。は、野外音楽堂跡の現状でコンクリートの演奏ステージは画面の左手背後にあった。

読んだ!(19)  コメント(23) 
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コメント 23

ChinchikoPapa

トランクにいろいろなものを詰めて、あちこちに展示するインスタは面白いですね。発想が際限なく、いろいろな表現を思いつきそうです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2019-10-29 09:27) 

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2019-10-29 09:33) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2019-10-29 09:34) 

ChinchikoPapa

このアルバムは、出だしからしばらくの演奏が、C.ヘイデンの『リベレーション・ミュージック…』のようなサウンドで、一瞬「姉妹盤?」と思わせる演奏です。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2019-10-29 09:40) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ありささん
by ChinchikoPapa (2019-10-29 09:41) 

ChinchikoPapa

天丼や親子丼、うな丼は食べますが、牛丼はめったに食べないです。やはり、和食でいうとすき焼きや牛鍋のほうへ、食指が動いてしまいますね。そういえば最近、牛丼を出す蕎麦屋が増えているように感じます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyokiyoさん
by ChinchikoPapa (2019-10-29 09:58) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>かんたんお小遣いかせぎさん
by ChinchikoPapa (2019-10-29 16:26) 

ChinchikoPapa

20年後というと、日本橋の高速道路を取っ払うタイムスパンとほぼ同じですね。なんとか、がんばりましょう。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2019-10-29 22:45) 

ChinchikoPapa

時節がら、「颱風」という酒名はしまったと思ったでしょうね。ラベルのデザインに採用している「風神」にしておけば……と、いまごろ酒蔵では思っているのではないでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2019-10-29 22:50) 

ChinchikoPapa

むくんだことはないように思うのですが、コーヒーなど水分の摂りすぎで水ぶくれの経験はあります。ちょっと水分を控えると治るのですが、それがけっこう難しいですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2019-10-29 23:13) 

ChinchikoPapa

「神はいてもてなくてもいい存在」の60年代以降に育った世代ですので、「祈り」という行為はこれまでの人生であまりないですね。地主神に挨拶する「お詣り」は、伝統として習慣化していますが……。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>サボテンさん
by ChinchikoPapa (2019-10-29 23:38) 

ChinchikoPapa

わたしも「nice!」機能は、当初より「読んだよ」ぐらいの足跡のつもりでいます。たいがい、押してくれた方のブログを訪れては、記事を読んで押すようにしてはいますが、完ぺきではないですね。むしろ、順位の上下やアクセス数の増減で、読者のテーマへの興味や嗜好の傾向を探ったりするのに活用しています。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2019-10-29 23:47) 

ChinchikoPapa

わたしは春先のスギ花粉のみですが、秋にセイタカアワダチソウやブタクサの花粉にやられる方も多いようですね。従来は存在しないか少量だった植物が急増すると、防衛反応としてのアレルゲンが形成されやすいようです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
by ChinchikoPapa (2019-10-30 15:35) 

ChinchikoPapa

多くの人たちが気楽に集まるのに、JAZZはぴったりですね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>hirometaiさん
by ChinchikoPapa (2019-10-30 15:41) 

アヨアン・イゴカー

>太湖船行進曲
早速YouTubeで聞いて見ました。
聞き易い可愛い民謡なのに、こんな風にして行進曲に書かれて演奏されたばかりに悪い印象が付いてしまったのは民謡が気の毒です。
by アヨアン・イゴカー (2019-10-30 19:33) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
面白いエピソードがありまして、中国の方が陸軍軍楽隊が演奏する動画をネットで見て、「太湖船」のようなかわいくて単純な民謡に、なんで大仰な指揮者が必要なのか不思議に思ったようですが、行進曲の演奏内容を聴いて「なるほど」と思ったようですね。
by ChinchikoPapa (2019-10-30 20:14) 

ChinchikoPapa

光りがあるから闇があると、米国流の相対概念でしょうか。D.リンチ監督の「陰陽哲学」にならえば、「ボブ」がいてこそ「クーパー」が存在しているが、どちらもコインの裏表で精神異常……に分類されそうです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ジョナサンさん
by ChinchikoPapa (2019-10-31 11:01) 

ChinchikoPapa

最中と黄粉菓子、そしてマカロンが苦手なわたしです。w
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2019-10-31 11:02) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2019-11-01 10:54) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>hideta-oさん
by ChinchikoPapa (2019-11-01 11:01) 

Marigreen

民謡と聞いてだけで、アヨアン・イゴカーさんのようにYouTube
で聞く気が失せました。日本の民謡が好きでないので、中国の「民謡」もその類かと思って。
因みにピアノで弾く曲ではシューベルトの『アムプロムプチュとモーメントミュージカル』をお薦めします。譜が易しい割りにメリハリが付いて弾くと達成感がします。ストレス発散にいいです。シューベルトの即興曲集はいただけないですが。
by Marigreen (2019-11-03 10:07) 

Marigreen

と上記の様に言った舌の根の乾かぬ内に、関心があったので「太湖船行進曲」聞いてみました。日本の民謡とは全然違いますね。やはり行進曲らしいですね。弾き手や弾き方にもよるのでしょうが。
by Marigreen (2019-11-03 11:45) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
中国で古くから唄われている『太湖船』は、中国の一地方の民謡というよりも、誰でも知っている日本の古歌曲『さくらさくら』に近い位置づけでしょうか。きっと、中国人ならたいがいの人が知っていて、唄える曲なのだと思います。
by ChinchikoPapa (2019-11-03 20:48) 

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