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岡不崩と本多天城の下落合アトリエ。 [気になる下落合]

本多天城アトリエ跡.JPG
 日本画界には歴代、「四天王」と呼ばれる画家たちがいる。江戸の末期、木挽町狩野派の10代・勝川院雅信(まさのぶ)の弟子たちだった狩野芳崖(ほうがい)、橋本雅邦(がほう)、木村立嶽(りつがく)、狩野勝玉(しょうぎょく)は「狩野派最後の四天王」と呼ばれたし、橋本雅邦や狩野芳崖の弟子たちだった下村観山(かんざん:芳崖弟子)、横山大観(たいかん)、菱田春草(しゅんそう)、西郷孤月(こげつ)は「雅邦四天王」、あるいは「朦朧体四天王」などと呼ばれている。
 そして、雅邦四天王とほぼ同時代を歩んだ狩野芳崖の弟子たち、岡不崩(ふほう)Click!岡倉秋水(しゅうすい)Click!、本多天城(てんじょう)、高屋肖哲(しょうてつ)の4人は芳崖四天王と呼ばれた。その四天王のうち、岡不崩とともに本多天城もまた下落合にアトリエをかまえていたことが判明した。情報をお寄せくださったのは、岡不崩のご子孫にあたるMOTさんだ。以下、コメント欄から引用してみよう。
  
 父より本多天城宅について改めて聞きました。落合道人様ご指摘の通り一ノ坂の途中にあって,坂を上がった突き当りのひとつ前の十字路を右に曲がった場所にあったと申してました。岡不崩の遣いで出向くと褒美に1銭の駄賃がもらえて,それで大福6個が買えたらしいです。十字路の左側には駄菓子屋?があって駄賃を使ったとか。岡不崩アトリエの裏は空き地になっていて中井通りを回らずに一ノ坂に抜けることができたそうです。
  
 さっそく、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、蘭塔坂(二ノ坂)Click!沿いの下落合4丁目1980番地(現・中井2丁目)にある岡不崩(岡吉壽)アトリエ(やはり表札が達筆で読めなかったのか姓が「岡吉」と誤記されている)のすぐ北側、急な一ノ坂を上りきってしばらく歩くと、上の道(坂上通り)Click!に突きあたる2本手前の路地を、右に折れた角から2軒目に本多天城アトリエを見つけることができる。当時の住所でいうと、下落合4丁目1995番地だ。
 この敷地は、まったく同じ住所である川口軌外アトリエClick!の3軒南隣りであり、下落合4丁目1986番地にあった阿部展也アトリエClick!の2軒北隣りという位置関係になる。また、本多天城アトリエの西隣りには、「熊倉」という苗字が採取されているが、これがMOTさんの書かれている「熊倉否雨」の住まいであり、同じく日本画家のアトリエだろうか? 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)には、残念ながら岡不崩とともに、本多天城や熊倉否雨の名前は記録されていない。
 MOTさんのお父様、つまり岡不崩のご子息の証言によれば、岡不崩アトリエ裏の空き地を通ってそのまま一ノ坂に抜け、坂を上りきった上の道(坂上通り)へ出る手前の十字路を右へ曲がると、本多天城アトリエ(2軒目)があった……という道順は、「火保図」ともピタリと一致し、しかも1936年(昭和11)に撮影された空中写真では、1銭のお駄賃が楽しみな“おつかい散歩道”を完全に再現することができる。おそらく、大福を売っていた店は下落合4丁目1990番地、すなわち十字路の北西角に店開きしていたタバコ店(店名は不明)のことで、目白文化村Click!近くの商店がみなそうだったように、タバコといっしょに副業で菓子も販売している店舗だったのだろう。
 岡不崩が、狩野芳崖のもとに入門したのは1884年(明治17)ごろといわれ、芳崖の弟子では最古参といわれている。本多天城は、翌1885年(明治18)に芳崖のもとへ30回以上も通って、ようやく入門を許されている。それは、芳崖が「己れの画風は飯が喰えぬから夫れでもよろしきや?」(高屋肖哲の回想)というように、弟子をとることにかなり消極的だったせいだろう。天城は最初、近澤勝美について洋画を学んでいたが、芳崖の作品に魅了されて転向したらしい。不崩と天城とは同年ごろ知り合ったとみられるが、弟弟子の天城は不崩の2歳年上だった。だが、狩野芳崖は1988年(明治21)に死去してしまうため、実際に彼らが師弟だった時間はわずか4~5年にすぎない。
本多天城アトリエ1938.jpg
岡不崩アトリエ1938.jpg
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 狩野芳崖の指導法は独特だったらしく、実際に日本画の技術面を教えていたのは狩野友信であり、芳崖はおもに画論や作品に対する批評を弟子たちに聞かせていた。当時、狩野芳崖は小石川植物園にあった図画取調掛(所)に勤務しており、弟子たちはそこへ当然のように出かけていっては絵を習っていた。当時の様子を、2017年(平成29)に求龍堂から出版された『狩野芳崖と四天王-近代日本画、もうひとつの水脈』所収の、椎野晃史『芳崖四天王コトハジメ』で引用されている岡不崩『鑑画会の活動』から孫引きしてみよう。
  
 芳崖・友信翁二翁が毎日出勤して画をかいている。我々も毎日弁当を持って出かける。然し余等ハ掛員でもなんでも無い。それならば何んで行くのかそこが面白いのだ。我々の頭脳にハ茲は役所であると云ふ考えが浮かばない。芳崖先生の画塾か鑑画会の事務所としか思へなかった。取調所の小使や植物園の人達は、余等を取調所の生徒だと思っていた。毎日出かけて行って鑑画会へ出品する画をかいている。古画の模写をやる、下画が出来ると芳崖先生の批評を受ける、(狩野)勝玉や(山名)貫義がやってくる、(狩野)探美や(木村)立嶽なども遊びにくる。どを(ママ)しても画塾である。(カッコ内引用者註)
  
 小石川植物園に置かれた図画取調掛(所)の実態は、狩野派の画家たちが集って新しい日本画を研究し模索した画塾だったのだろう。ときに写生旅行も行われ、芳崖が死去する前年、1887年(明治20)4月には芳崖とともに狩野友信、岡倉秋水、岡不崩、本多天城が連れだって妙義山に出かけている。
 狩野芳崖は、臨本や粉本の類を嫌っていたようで、図画取調掛(所)の実情は画塾だったにしても、とても日本画の塾とは思えない自由な学びや表現が許されていたようだ。
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岡不崩「一騎討」不詳.jpg
岡不崩「群蝶図」1921.jpg
 同書の椎野晃史『芳崖四天王コトハジメ』より、再び引用してみよう。
  
 (前略) 芳崖は放任主義であるが、決して弟子のことを顧みなかったわけではない。不崩によれば出来上がった画を芳崖に持っていくと、紙に塵が混じっていれば小刀で削り取って、色なり墨なりで繕ってくれたという。そんな芳崖に対して不崩は「其親切と熱心なのには敬服の次第である」と述べている。また芳崖が下画を直す際には「その図の心持ちを取って、それを完全ならしめるやうに」したという。自身の型を押し付けるのではなく、芳崖の教育方針はあくまで自主性を重んじたものであった。
  
 芳崖の死の翌年、1889年(明治22)に図画取調掛(所)や鑑画会を母体にした東京美術学校(初代校長:岡倉覚三=天心)が設立されると、芳崖四天王の4人は天心の勧めもあって同校の第1期生として入学している。だが、翌1890年(明治23)に天心の引き抜きで、岡不崩は東京高等師範学校の美術講師に、岡倉秋水は女子高等師範学校の美術講師に就任するために同校をわずか2年で中退している。本多天城は、高屋肖哲とともに卒業しているが、やはりのちに教職を経験している。
 さて、本多天城が下落合へアトリエをかまえたのは、いつごろのことだろう? 岡不崩は大正末、すでに下落合へアトリエを建てて転居してきており、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」には採取されているが、本多天城アトリエの敷地はいまだ草原のままだ。1930年(昭和5)の1/10,000地形図を参照しても、相変わらず空き地表現のままなので、天城アトリエの建設は1931年(昭和6)以降のように思える。同年、岡不崩と高屋肖哲は東京美術学校創立時のエピソードを語る座談会に出席しており、それを読んで懐かしくなった天城が、不崩のもとへ連絡を入れた可能性もありそうだ。
 また、本多天城は岡不崩から日本画と西洋画を問わず、画家たちのアトリエが集中している下落合の様子を聞いていたのかもしれない。さらに、もう一歩踏みこんで推測すれば、大正末に計画されていた東京土地住宅Click!によるアビラ村(芸術村)Click!計画も、岡不崩あるいは日本画がベースであるアビラ村の発起人のひとりである夏目利政Click!あたりから、事前にウワサ話として聞きおよんでいたのかもしれない。
岡不崩.jpg 本多天城.jpg
本多天城「水草」不詳.jpg
本多天城「水墨山水」不詳.jpg
 わたしの母方の祖父Click!は、売れない書家で日本画家だったが、苗字は代々「狩野」だった。おそらく明治維新とともに大江戸(おえど)とその周辺域から失職して四散した、江戸狩野派の末流だと思われるのだが、早くから横浜に住んでいる。きっと、明治以降に失業した数多くの幕府や諸藩の御用絵師たちと同様に、欧米へ輸出用の書画や器物用の絵柄を描きつづけていた、狩野一派のなれの果てではないかと想像している。

◆写真上:下落合4丁目1995番地(現・中井2丁目)にあった、本多天城のアトリエ跡。
◆写真中上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる本多天城と岡不崩のアトリエ。は、MOTさんのお父様がおつかいに出かけた「大福楽しみお遣いコース」。は、本草学会を結成し多彩な植物の鉢が置かれていた岡不崩のアトリエ庭。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる岡不崩アトリエ。いまだ本多天城アトリエは建設されておらず、十字路も敷設されていない。は、坂東武者の騎馬戦を描いたと思われる岡不崩『一騎討』(制作年不詳/部分) 時代は鎌倉期の想定だろうか、太刀と長巻による太刀打ちの刹那を描いている。は、1921年(大正10)制作の植物や蝶の描写が精細かつ正確な岡不崩『群蝶図』(部分)。
◆写真下:上は、岡不崩()と本多天城()。は、制作年不詳の本多天城『水草』(部分)。は、やはり制作年不詳の本多天城『水墨山水』(部分)。画面の背景に描かれた樹木や草原、山々の描写には、明らかに雅邦四天王による朦朧体からの影響が色濃い。
おまけ
MOTさんのお父様が、本多天城アトリエへお遣いに出かけ、途中で立ち寄っていた十字路角地の商店。1938年(昭和13)の「火保図」では「タバコ」店と記載されているが、おそらく菓子類も置いて売っていたのだろう。写真は、タバコ店のあった跡の現状。
タバコ屋1938.jpg
タバコ屋跡.JPG

下落合3丁目1986番地(現・中井2丁目)の山手坂上にあった、赤尾好夫邸=旺文社の「火保図」(1938年)と写真(1935年ごろ)です。
赤尾邸1938.jpg
赤尾邸1935頃.jpg

読んだ!(14)  コメント(27) 

読んだ! 14

コメント 27

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2019-11-28 10:57) 

ChinchikoPapa

東京は秋が長くて暖かいのか、近くのモミジは橙色のまま紅くはならないようですね。このまま、茶色く枯れて散ってしまうのでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2019-11-28 11:00) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2019-11-28 11:02) 

ChinchikoPapa

自然界の「生活」音を模したような曲(?)、わたしは退屈に感じてしまいます。JAZZ界からではなく、60年代の現代音楽のワナにまんまとはまっているような気がします。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2019-11-28 11:09) 

ChinchikoPapa

消化剤は、ほとんど飲んだことがないですね。解熱剤も、かえって風邪などの治りを遅らせるので飲みませんが、ときどき仕事中に痛くなるとつらいので頭痛薬は服用してしまいます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyokiyoさん
by ChinchikoPapa (2019-11-28 11:14) 

ChinchikoPapa

海に浮かんでいるのは、ほんとうに気持ちがいいですね。あの波まかせのたゆたい感は、強い陽射しがなければ夕立がくるまで、いつまでもそうしていられました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2019-11-28 16:35) 

ChinchikoPapa

病院へ行かないお年寄りが急増して、2030年ごろには日本の平均余命が下がっていきそうですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ピストンさん
by ChinchikoPapa (2019-11-28 16:38) 

ChinchikoPapa

これからもっと冷えるのでしょうか、きょうは寒かったですね。明日は快晴の予報ですが、まだ秋晴れのカラッとした日があまりない印象です。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
by ChinchikoPapa (2019-11-28 19:59) 

skekhtehuacso

小学生のとき、道徳の授業で狩野芳崖を習いました。
たしか“岡倉天心を通じてフェノロサと出会い、西洋画の技法を取り入れて「悲母観音」を書き、狩野派を再興させた。”と習ったことを、40年ぶりに思い出しました。
ちがいましたっけ?
by skekhtehuacso (2019-11-28 21:48) 

ChinchikoPapa

skekhtehuacsoさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
わたしも、小学校か中学校の美術教科書で、カラーグラビアの芳崖「悲母観音」を見た記憶があります。確か、岸田劉生の「麗子像」や高村光太郎の「手」とともに掲載されていたかと思います。
明治維新の直後から、日本画をどのように革新するかで西洋画の技法を取り入れはじめますが、雅邦四天王は近代日本画を確立して大きく飛躍したものの、その出身母体である狩野派は芳崖を最後に、実質的に滅びてしまいますね。狩野派の最後の輝きが、狩野芳崖と芳崖四天王の作品群ではないかと思います。
by ChinchikoPapa (2019-11-28 22:10) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ありささん
by ChinchikoPapa (2019-11-29 12:55) 

ChinchikoPapa

中学生むだったころでしょうか、小学生時代のシールブームを追いかけるようにステッカーブームというのがあって、やたら企業ロゴとか商品ロゴを貼るのが「かっこいい」という時代がありました。バンドのPA装置やギター、バッグ、サーフボードなどにベタベタ重ね貼りしているお兄ちゃんやお姉ちゃんたちを見かけましたね。ステッカーはなかなか手に入らず、子どもたちはやりすごしていましたが……。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2019-11-30 11:31) 

ChinchikoPapa

アイルランドの酒は小説などでよく目にしますが、アイリッシュウィスキーはともかく、ギネスは飲んだことがないですね。色からすると、ふつうのビールより苦めでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>八犬伝さん
by ChinchikoPapa (2019-11-30 15:25) 

Marigreen

狩野芳崖の教育方針を見ていると、緒方洪庵の適塾を思い出した。ジャンルは全然違うけど教育方針が似ている。
又、Papaさんのお祖父様が日本画家だったとは初耳。Papaさんが絵が上手なのは、遺伝だったのですね。
by Marigreen (2019-12-01 08:25) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
芳崖の教授法は、おそらく自分の表現では世の中の需要があまりないため、若い弟子たちの自主性にまかせた側面が見られますね。「自分のところへ弟子入りしても、これからは食べていけない」といっているのを見ても、滅びゆく狩野派を意識していたんだと思います。
わたしは、絵はヘタですよ。うまかったら美校に進んでいます。
by ChinchikoPapa (2019-12-01 16:09) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2019-12-01 23:52) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>らしゅえいむさん
by ChinchikoPapa (2019-12-02 11:46) 

MOT

貴重な情報ありがとうございます。
天心邸の怪といい,いつもながら精緻な観察と深い洞察力に感服しております。
『一騎討』は不崩が幹事を務めた真美会の第1回展覧会に出品された
もので,明治36(1903)年の作品のようです。人物画はこれ以外に知りません。
岡倉秋水が明治40年に合戦の絵を東京勧業博覧会に出展していますが,何か関係があるのでしょうか。


by MOT (2019-12-02 23:11) 

ChinchikoPapa

MOTさん、コメントをありがとうございます。
おそらく、1903年(明治36)に岡不崩が制作した『一騎討』、同年の高屋肖哲『平重盛苦戦』、翌1904年(明治37)の不崩『夜襲』、翌1905年(明治38)の岡倉秋水『得能通言(雪中武者)』、翌1906年(明治39)の秋水『敵は間近図』、そして1907年(明治40)の秋水の『包囲』と一連の武者絵や戦図は、同時代に起きた日露戦争の戦前・戦中・戦後と無関係ではないと思います。
近々、岡不崩アトリエの写真を見つけましたので、お庭の「楽只園」ともどもご紹介したいと思っています。^^
by ChinchikoPapa (2019-12-03 10:02) 

MOT

父の話によると熊倉医院の近くに旺文社があったらしいです。その医院反対側を下り更に上ったところの赤土山(の近く?)に津軽藩の末裔が住んでいたとか。
十字路角地の商店はタバコも扱う駄菓子屋(本人談)で正月には凧も売っていたそうです。
by MOT (2019-12-11 02:01) 

ChinchikoPapa

MOTさん、コメントをありがとうございます。
はい、熊倉医院(下落合3-1736)が接している振り子坂から山手坂を西へ上ると、下落合3丁目1986番地に旺文社の創立者である赤尾好夫の大きな邸がありました。当初は、自宅の一部を社屋にしていたようですね。
赤尾好夫は『落合町誌』にも掲載されていないため、わたしもずっと知らないできたのですが、先年ある方からうかがい、いつか書こうと思っていたテーマです。いい機会ですので、今度記事にしてみたいと思います。記事末に、赤尾邸の「火保図」(1938年)と写真を掲載してみました。ご参照ください。
やはり、タバコだけでなくいろいろ売っていた商店なのですね。一ノ坂上に、いまでも残る栗原商店のおばおちゃんにお話をうかがいましたら、最初は青果店としてスタートしたものの、文化村の住民たちから日用雑貨も扱ってくれといわれつづけ、しまいには雑貨のほうが大半を占めるようになってしまったというお話をうかがいました。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2016-06-08

by ChinchikoPapa (2019-12-11 11:31) 

MOT

コメントありがとうこざいます。
栗原さんといえば,このあたり一帯の大地主栗原さんが中井駅から中井通りに抜ける道の突き当りに住んでいたと父より聞いています。
佐伯さんの家の近くの空き地で凧上げをしていたとも申してました。
佐伯祐三アトリエのことでしょうか。
赤尾の豆単(英語基本単語熟語集)まだ販売されているようでね。
by MOT (2019-12-11 13:46) 

ChinchikoPapa

MOTさん、いろいろ貴重な情報をありがとうございます。
栗原さんは、小野田家や鈴木家と並び、ほんとうに大地主だったようで、下落合には分家も含めますと10軒以上は展開しているのではないかと思います。うちのご近所にも、栗林さんがお住まいですね。掲載の空中写真でいいますと、1936年(昭和11)の「大福楽しみお遣いコース」の文字にかかって見える、大きな敷地の白く巨大な西洋館が栗原邸です。
赤尾邸の裏(西隣り)が、下落合3丁目1988番地の佐伯さんのお宅ですので、おそらくお父様が凧揚げされた空き地は、大日本獅子吼会に近い宅地の造成地だったのではないかと思います。
わたしは、親から「蛍雪時代」を読むようにいわれました。w
by ChinchikoPapa (2019-12-11 14:09) 

MOT

栗原さん宅へは父が地代を袱紗に入れて届けたそうです。その後届けることはなくなったようです。途中まで借地だったのか、分割払いだったのか。デベロッパーから購入したのではなさそうですね。
by MOT (2019-12-11 15:55) 

ChinchikoPapa

MOTさん、重ねてコメントをありがとうございます。
二ノ坂周辺の邸宅は、地所の購入先がいろいろ分かれているようです。東京土地住宅から敷地を購入した邸もあれば、同社が1925年(大正14)に経営破たんしたあと、事業を引き継いだ箱根土地から購入しているお宅もあったりします。岡不崩アトリエの一帯は栗原家の所有地で、頻繁にお父様がおカネをとどけていたとすれば、土地を分割払いで購入されたのではないでしょうか。借地権の場合は、1~数年で更新(1回)ですので、頻繁にとどける必要はなさそうです。
三ノ坂上の島津家が宅地開発・経営をしたケースを見ますと、三ノ坂上と四ノ坂上の広大な宅地は、戦前まで借地のまま経営をつづけ、戦後になって家を建てていた住民に土地を譲渡・購入してもらっているようです。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2008-05-20

by ChinchikoPapa (2019-12-11 16:10) 

ChinchikoPapa

自己リプライの訂正です。
>うちのご近所にも、「栗林さん」がお住まいですね。
もちろん、栗原さんの誤りでした。
by ChinchikoPapa (2019-12-11 16:13) 

ChinchikoPapa

もうひとつ、リプライのし忘れです。仕事の合い間ですと、注意力が散漫になってしまいますね。すみません。

>赤土山(の近く?)に津軽藩の末裔が住んでいたとか
大正期にはドイツ人のギル邸があった広い敷地に、昭和初期になると巨大な津軽義孝伯爵邸の西洋館が建っていました。当時は、改正道路(山手通り)工事が本格化しておらず、用地買収もまだでしたので、赤土がむき出しの丘=通称「赤土山」と呼ばれてはおらず、一連の丘陵地が通称「翠ヶ丘」と呼ばれていた時代です。

by ChinchikoPapa (2019-12-11 16:21) 

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