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「サラリーマンが身についたわね」。 [気になる下落合]

上野壮夫1928.jpg
 ずいぶん以前に、花王石鹸とミツワ石鹸の社長宅が、“呉越同舟”のように下落合の町内にあったことをご紹介Click!している。大正期から、花王石鹸の2代目・長瀬富郎邸Click!近衛町Click!の下落合1丁目416番地(現・下落合2丁目)に、ミツワ石鹸の三輪善太郎邸Click!は下落合1丁目350番地(現・下落合3丁目)にそれぞれ建っていた。お互いの社長宅は、直線距離で約450mほどしか離れていない。
 また、長谷川利行Click!の蒐集家でも知られ、ミツワ石鹸の取締役兼宣伝部長だった、「♪ワ、ワ、ワ~輪が3つ」の衣笠静夫Click!も、三輪邸の北側にあたる下落合1丁目360番地に住んでいる。ふたつの会社が面白いのは、ミツワ石鹸が日本橋薬研堀Click!(現・東日本橋)に本社があったのに対し、花王石鹸(長瀬商会)は日本橋馬喰町にあり、お互いの本社も約450mしか離れていなかったことだ。そしてもうひとつ、戦後は花王石鹸の宣伝部長でありクリエイティブディレクターだった人物もまた、落合地域とは深い関係で結ばれている。花王石鹸の商品が次々とヒットし、ミツワ石鹸と覇を競いあっていた当時の宣伝部を牽引していたのは、小坂多喜子Click!の夫である上野壮夫Click!だった。
 上野壮夫が、四谷署の特高Click!に検挙され拷問のすえに「転向」したのは、武田麟太郎Click!が主宰していた「人民文庫」が廃刊する数ヶ月ほど前、1937年(昭和12)秋のことだ。とたんに生活は苦しくなり、小坂多喜子は「人物評論」でいっしょだった大宅壮一Click!に相談し、夫の就職先を世話してもらっている。その就職先が、1938年(昭和13)10月に入社した長瀬商会(花王石鹸)宣伝部だったのだ。
 2代目社長の長瀬富郎は同志社出身で、もともと左翼思想に共感を抱いていたといわれる。花王石鹸には、すでに宣伝部長として歴史学者・服部之総や、本郷教会の牧師で社会主義者の太田英茂、築地小劇場の飛鳥鉄雄らが勤務していた。上野壮夫は、そのような社内環境であまり違和感なく受け入れられた。いや、むしろ居心地がよく上野が敗戦後、1961年(昭和36)まで花王に勤務しつづけられたゆえんだろうか。
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』から、長瀬富郎の項目を引用してみよう。
  
 花王石鹸長瀬商会社長  長瀬富郎  下落合四一六
 花王石鹸本舗として世に知られる、長瀬家は岐阜県福岡村の旧家にして代々酒造業を営みし家柄であるが先代富郎夙に上京精励努力して明治二十年日本橋に分家を創立して商業に従事。同二十三年花王石鹸の製造販売を開始今日の業礎を築成せり、当主富郎氏は其三男にして明治三十八年二月を以て出生、同四十四年家督を相続し前名富雄を改め襲名す。同志社大学に学び曩に豪洲南方方面を視察し、更に昭和三年商業視察の為に一ヶ年欧米を漫遊す。夫人房江は山梨県人萩原拳吉氏の三女にて東洋英和女学校の出身である。
  
 上野壮夫は、花王石鹸へ入社後も文学活動をつづけているが、プロレタリア文学からはいちおう足を洗うかたちになった。入社から5年後の1943年(昭和18)12月、仕事の腕を見こまれた上野は、満州の奉天に設立された花王石鹸奉天工場の工場長として赴任することになる。現地では、元プロレタリア詩人で何度も逮捕歴のある活動家がやってくるというので、幹部たちが極度に緊張していたようだが、上野の人なつっこい性格とおおらかさが幸いして、すぐに工場へ溶けこめたようだ。
 敗戦と同時に花王の奉天工場は閉鎖となるが、付近の工場が軒並み周辺の中国人たちによる略奪や破壊に遭うなか、花王の工場は無事だった。それは、上野が日本人と中国人の給与や待遇を平等にしていたため、周辺の住民に花王の評判がよかったことと、彼の交渉力や折衝力=経営手腕が優れていたからだろう。左翼運動のさなかにも、上野はさまざまな責任あるポストに就いて、危機的な状況を何度も切り抜けている。
長瀬富郎邸跡.JPG
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 工場に勤務していた社員とその家族たちを全員帰国させ、上野壮夫は工場と設備をすべて中国側に明け渡す手つづきを終えると、家族を連れて敗戦から1年3ヶ月後、1946年(昭和21)11月になってようやく帰国している。そして、翌1947年(昭和)4月に花王本社に復帰し、総務部長と宣伝部長に就いている。この間、花王の分社化や組織の変遷があり、1951年(昭和26)に上野はいったん花王油脂を退社しているが、翌1952年(昭和27)4月に再び花王石鹸へ入社し、コピーワークを中心に宣伝部のクリエイティブディレクターとして、戦後の花王広告を牽引していくことになる。
 中国から引き揚げてきたあと、上野壮夫と小坂多喜子は西武池袋線・江古田の借家に住むが、1949年(昭和24)に高円寺へ家を建てて転居している。花王石鹸で、上野が広告宣伝の責任者として仕事をしていたころの様子を、1997年(平成9)に朝日書林から出版された、堀江朋子『風の詩人-父上野壮夫とその時代-』より引用してみよう。
  
 宣伝部作成室にはデザイナーの奥田政徳、中尾彰、池田真幸、写真家の石川信一などが居た。(中略) 戦後すぐに壮夫がひねり出したキャッチフレーズが「清潔な国民は栄える」というのである。戦後の荒廃と疲弊からの人々の再生を願って書いたものである。キャッチフレーズと書いたが正確に言えばスローガンである。以来このスローガンは花王石鹸の企業理念を表わす標語として使用された。(中略) フェザーシャンプーの広告で、芸大出の新進気鋭のデザイナー天野秀夫氏とともに第二十四回産業デザイン振興運動総理大臣賞、毎日広告賞を受賞する。「髪と若さと」というのがその時のキャッチフレーズである。その後、「ムチャです、大切な髪を石鹸や洗剤で洗うのは……」とか、「男だって使うべきよ」(コピー製作永山十四氏)の広告をくりかえし、フェザーシャンプーはぐんぐん売上げをのばした。特に「ムチャです」というキャッチフレーズは効果絶大で、それまで石鹸や毛糸用洗剤で髪を洗っていた人達があわててフェザーシャンプーで髪を洗い出した。
  
 日本に広くシャンプーの習慣を根づかせたのは、上野壮夫のコピーかもしれない。上野は、新聞広告電通賞や朝日広告賞なども立てつづけに受賞している。
 その後、1961年(昭和36)に花王石鹸を退社(同社顧問に就任)するが、日本広告技術者協議会の会長をはじめ、コピーライターズクラブの会長、日本デザイナー学院の学院長などを歴任し、その間に武蔵野美術大学デザイン科や、中央美術学院、久保田宣伝研究所などの講師や教授も勤めている。広告誌からの原稿依頼も増え、「宣伝会議」「雑誌広告」「ブレーン」などの常連執筆者となっていった。これら多忙な仕事をこなす中で、上野壮夫は文学活動をやめてしまったのだろうか?
長瀬富郎二代.jpg 長瀬商会花王石鹸本社1930.jpg
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花王本社オフィス1960.jpg
花王石鹸広告1957.jpg
 小坂多喜子は、「夫から文学の道を奪ったのはわたしだ」といっていたようだが、彼女のあまり知らないところで、戦前にも増して膨大な詩や小説、エッセイ、評論などが産みだされていた。それらは、メジャーな文芸誌に掲載されることもあれば、「文芸復興」のような同人雑誌に発表されたり、あるいは未発表のまま上野の書斎で眠っていた作品群などがあった。彼の死後も、随筆集や詩集が出版されている。
 1949年(昭和24)5月、新日本文学会から『日本プロレタリア詩集1928~1936』が出版された。上野壮夫の作品は、1932年(昭和7)に書かれた『スパルタクスの道を』が収録されている。同書の前書きは中野重治Click!が担当し、解説は壺井繁治Click!が書いている。この時期、上野壮夫も新日本文学会に参加していたが、すぐに退会している。そのきっかけとなったのは、同会の会合で宮本百合子Click!が放ったひと言だった。
 「上野さん、サラリーマンが身についたわね」。もちろん、プロレタリア文学運動の前線から「転向」して離脱し、花王石鹸に入社したことに対する、たっぷりと皮肉をこめた彼女の言葉だった。もはや、新日本文学会の中に自分の居場所はないと一方的に感じた彼は、このひと言で早々に同会を離脱している。
 堀江朋子のインタビューに、画家で版画家の飯野農夫也は次のように答えている。
  
 「あの当時、文学が“個”に沈みこまなかったのは間違っていなかったと思います。しかし、あれだけの自己犠牲はいったい何だったのだろうと思います。上野壮夫は文学を志して、政治にふれたのです。ですから転向をせまられ、ついには文学者としての筆を折らざるを得なかったことは不運だったと思います。上野壮夫はその無念さと寂しさを生涯もち続けたのではないですか(中略) 私にとって、当時の上野壮夫は中野重治と同等の人でした」(同書より)
  
 上野壮夫は、決して線が細い性格ではなかったと思うのだが、詩人らしく繊細で真面目で傷つきやすい心の襞も備えていた。だから、人の心の中もよく読み通すことができ、そのときどきの状況や環境の正確な把握や、バランスの良い細かな気配りができるため、運動のさなかにも多彩な組織の“長”に推薦されることが多かったのだろう。
  
 その黒い階段を下り / ばらばらの墓石をあつめてみたところで
 夜と霧と / あれら無数の死の意味を / 知ることはもうできやしない
 きみらが流した血の赤土の上に / 三三三メートルの鉄塔が立ち
 電離層からくるかすかな散乱波は / あたかも死者の声に似て慄へてゐるが
 その意味をだれも解くことはできやしない
                   (『墓標』抜粋/「文芸復興」1961年2月)
  
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髪と若さと1957.jpg
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 宮本百合子の言葉に、「サラリーマンだって、賃労働で食ってる正真正銘の労働者だろう。労働者が身についてなにが悪い? どういう意味だ、ええ? 小石川のお嬢~さんClick!」と開き直れないところが、詩人・上野壮夫の上野壮夫たるゆえんなのだろう。

◆写真上:1928年(昭和3)に撮られた、全日本無産者芸術連盟(ナップ) 時代の上野壮夫。
◆写真中上は、下落合416番地の長瀬富郎邸跡。は、1937年(昭和12)竣工の長瀬邸(新邸)。は、下落合350~360番地の三輪善太郎邸跡と衣笠静夫邸跡。画面の右手全体が三輪邸跡で、左手前がミツワ石鹸の宣伝部長だった衣笠邸跡。
◆写真中下は、2代目・長瀬富郎()と1930年(昭和5)に撮影された日本橋の花王石鹸長瀬商会本社()。中上は、上野壮夫が1943年(昭和18)に赴任した花王石鹸満州奉天工場。中下は、上野在籍中の1960年(昭和35)に撮影された花王石鹸の本社オフィス。は、1957年(昭和32)に制作された代表的な花王石鹸広告。
◆写真下は、1954年(昭和29)の上野作品で「お肌が よく知っています」広告。は、1957年(昭和32)の上野作品で「髪と若さと」広告。「ムチャです、大切な髪を石鹸や洗剤で洗うのは……」のコピーともども、花王フェザーシャンプーの大ヒットを記録する原動力となった。下左は、1956年(昭和31)に同社宣伝部で撮影された上野壮夫。下右は、1997年(平成9)に出版された堀江朋子『風の詩人』(朝日書林)。

読んだ!(18)  コメント(20) 
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コメント 20

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2019-12-25 10:08) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2019-12-25 10:08) 

ChinchikoPapa

『Ascension』が世に出た直後のアルバムなんですね。トレーンが生きているうちからのhomageアルバムは、ちょっとめずらしいです、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2019-12-25 10:13) 

ChinchikoPapa

東京近美では、数点ずつ「戦争画」を展示していますね。写真は、中村研一の『珊瑚海海戦』でしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2019-12-25 10:26) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ありささん
by ChinchikoPapa (2019-12-25 10:27) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>mwainfoさん
by ChinchikoPapa (2019-12-25 13:34) 

ChinchikoPapa

相手がイヤな気分になるのも意に介さず、グチや他人の悪口を一方的に吐く人間は「自己中心」ですが、すべての責任を他者のせいにする「自己愛」性癖にいたる一歩手前の症状だと想定しています。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2019-12-25 17:26) 

ChinchikoPapa

ずいぶん前になりますが、東京の豊島屋酒造さんは生協を通じて、飲み用と料理用で純米酒をとったことがあります。ナントカ衛門という名前でしたが、風味はかなり前なので憶えてません。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2019-12-26 13:28) 

ChinchikoPapa

こちらでは夜明けではなく日没ですが、そろそろダイヤモンド富士が見られる季節です。でも、たいがい仕事をしている時間なので、うっかり見逃してしまうことのほうが多いですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
by ChinchikoPapa (2019-12-26 13:32) 

ChinchikoPapa

どぶろく風ソフトクリーム、ちょっと惹かれますね。どこかで、ウィスキー風ソフトクリームというのはないでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2019-12-26 13:34) 

ChinchikoPapa

王祿酒造は、松江市街から中海に向かう191号線の途中にある酒蔵ですね。松江滞在中に何度か、その前を通ったことがあります。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyokiyoさん
by ChinchikoPapa (2019-12-26 13:41) 

ChinchikoPapa

近くの病院へ家族が入院した経験がありますが、幸いなことに入院直後・入院中・退院時と、医者のくわしい説明がありました。カンファレンスというのではなく、症状などもたいしたことがなかったので、主治医によるていねいなインフォームドコンセントということなのでしょうね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ピストンさん
by ChinchikoPapa (2019-12-26 13:47) 

ChinchikoPapa

ラグビーロスに入りましたけれど、日本代表の選手はそのままいろいろなシーンで注目されていますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2019-12-26 23:47) 

ChinchikoPapa

皮肉なことに戦争や天災が起きると、自殺率は大きく低減しますね。「死」が、あまりに身近にあるせいでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>サボテンさん
by ChinchikoPapa (2019-12-27 00:17) 

Marigreen

上野杜夫さん頑張っていたんですね。食う為の仕事と自分の好きな文学とを両立させて。それに対する宮本百合子の投げつけた台詞の残酷なことといったら。腹が立ちました。
結局いい家柄出のお嬢さんだった宮本百合子には食っていくということは、どういうことか?分からなかったんですね。
by Marigreen (2019-12-27 08:15) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
わたしも、宮本百合子の言葉には「この人、なにいってんだろ?」という感覚です。特高による生命も危うい拷問のすえの「転向」が、それほど重大な事であれば、軍国主義者が戦後に豹変し、いともたやすく、そして臆面もなく「にわか民主主義者」に豹変する転向のほうが、とてつもなく重大かつ問題視しなければならない課題のように見えますがね。
by ChinchikoPapa (2019-12-27 11:21) 

ChinchikoPapa

仕事が多忙なときなど、いまでも甘いものが無性に欲しくなりますが、疲れを癒やすために脳が要求していると考えてきました。でも、単なるストレス解消のためなのかもしれませんね。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2019-12-27 12:39) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>らしゅえいむさん
by ChinchikoPapa (2019-12-28 19:13) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2019-12-29 10:12) 

ChinchikoPapa

以前の記事にまで、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2019-12-31 11:30) 

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