落合周辺の風景『絵本江戸土産』。(下)

　姿見橋(面影橋)から、川沿いに東へ850mほど歩くと、椿山の山麓に関口芭蕉庵Click!がある。神田上水の護岸補修工事に、1677年(延宝5)から1680年(延宝8)までの4年間にわたり、普請の差配として参画したといわれる松尾甚七郎(芭蕉)が滞在した、目白下の庵があったとされる地点だ。広重の画面では、やや下流に架けられていた駒塚橋の右岸から神田上水の上流を見て描いている。なお、現在の駒塚橋は水神社のほぼ下に設置されているが、江戸期の架橋位置は現在よりも100mほど下流だった。
　右手に描かれた山が椿山Click!(目白山)で、その中腹に見えている茅葺きの建物が芭蕉庵だ。当時は水神別当とされていたようで、管理は胸衝坂(胸突坂)をはさんだ水神社(すいじんしゃ＝椿山八幡社)が行なっていたようだ。駒塚橋のすぐ下流には大洗堰Click!が設置されており、その手前で神田上水は分岐し、北側の浄水は開渠Click!から暗渠で水戸徳川家上屋敷(後楽園)へと通じ、南側の流れは大洗堰から江戸川Click!と名前を変えて、舩河原橋Click!から千代田城の外濠へと注いでいた。
　広重は「広野」と書いているが、画面の左手に拡がっているのは早稲田田圃、すなわち広大な水田地帯だ。室町期の以前、このあたりには不忍池Click!やお玉が池Click!と同様に、奥東京湾の名残りとみられる大きな白鳥池Click!が形成されていた。江戸川橋周辺では、住宅地を掘るとすぐに水が湧くといわれ、昔日の白鳥池の名残りがいまだに残っているようだ。早稲田田圃は、そのような水田に最適な湿地帯を造成し、広大な水田地帯を開拓したものだ。遠景に意味のない源氏雲を描くこともなく、全体的にスッキリした画面になっていて高い記録性を感じる作品だ。
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　関口上水端芭蕉庵椿山 関口といふはこの書前の編に画したる井の頭の池より東都へひく上水の別れ口にて 一は上水に入りて余水は江戸川へ落る 本字堰口に作るべし させる風景の地ならずといへども水に望み広野に望みて 只管閑雅の地なるにより 俳諧者流この菴を作り会合して風流を遊ぶ
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　椿山(目白山)の東側に通う目白坂沿い、山腹にあった新長谷寺(戦後に廃寺)の境内Click!には、室町末期ないしは江戸最初期に下国の足利から勧請された、不動尊を奉る目白不動堂があった。「鉄の馬」Click!を埋めたという伝承がいまに伝わる、目白＝鋼Click!やタタラ製鉄とのゆかりが深いとみられる土地柄だ。広重は、目白坂の坂上(現在の関口台町小学校あたり)から、東南の方角を向いて描いている。
　月や夜ザクラが描かれているようなので、暖かな春の黄昏どきだろうか。陽が落ちているにもかかわらず、境内には参詣者や茶屋娘の姿が見える。当時は、相当なにぎわいだったのだろう。左手に見えている大きめな堂が新長谷寺の本堂で、右下に少しだけのぞいている屋根が目白不動堂だろうか。茶屋の簾屋根ごしに見えている遠景は、小日向村や中里村、あるいは牛込水道町の林だろう。
　現在の目白不動は、ここに描かれた新長谷寺の廃寺にともない、戦後になると椿山(目白山)を離れ、西北西へおよそ1.4kmほど離れたところにある金乗院へと移転している。江戸期の当時は、あまりにも有名で広く知られていたせいか、画面に添えられた解説文も簡潔でしごくそっけない。下目黒の目黒不動(滝泉寺)と比べられているが、椿山の中腹とはいえ目白不動堂は標高20mはゆうに超えていただろう。
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　目白不動は 目黒とかわりて高き丘にあり 眺望もつともよし
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　さて最後に、『絵本江戸土産』に収録された落合地域の西側にある、新井村の新井薬師(梅照院)Click!を観てみよう。手前から奥へとつづく道は、上高田村から分岐する「新井薬師道」と呼ばれた参道筋だ。参道は途中で南西にカーブして曲がり、梅照院境内の門前へと出ることができた。
　参道の両側には、料理屋(栗飯が名物だった)や茶屋が軒を連ね、ひときわ大きな茅葺き屋根が新井薬師の本堂だ。参道の方角からだと、本堂はやや左向きになっており、右手に見えているのは明治期になって新井薬師遊園Click!(現・新井薬師公園)となる森で、その向こう側(左手の奥)が北野天神の鬱蒼とした森だろう。
　ここで留意したいのは、江戸期の当時は修験者の修行場として使われ、1914年(大正3)以降は郊外遊園地として拓ける新井薬師遊園が、小高い丘状に描かれていることだ。現在はほぼ平地となり、公園の北側に数十メートルほどのわずかな膨らみを残すだけとなっているエリアだが、少なくとも幕末までは画面に描かれたような丘陵が存在していた可能性がある。その丘陵を崩したのが、大正初期の新井薬師遊園が造成されたときなのか、あるいは昭和初期に新井薬師公園に改変されたときなのかは不明だが、北西へと下る斜面に築造された古墳の墳丘をうかがわせる広重の表現となっている。
　江戸が大江戸へと拡大する中で、目白不動も多くの参詣者を集めたのだろうが、新井薬師もまた市街地からの参詣客でにぎわうようになっていたらしい。
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　新井薬師 雑司谷の先なり この薬師尊霊験新にして 眼病を守護し給ふにより 都下より詣人多し 尤八日十二日を縁日として 老若士女歩行を運ぶ 就中一軒の茶房ありて 種々の食物を商ふ
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　安藤広重・二代広重の『絵本江戸土産』は、大江戸観光の土産物として売られていたパンフレット、あるいは記念絵図集のようなものだが、その目的のせいでどこか軽んじられているものか、江戸期の資料として引用されることが少ないようだ。また、江戸市民へ向けた作品ではなく、観光客ないしは一時滞在の人々向けなので、あまり「地元の資料」として重要視されない倣いがあるのかもしれない。確かに、『絵本江戸土産』は浮世絵の風景画などに比べ色彩が少なくて淡く、地味で安上がりな装丁となっている。




　だが、同書に限らず江戸土産用に刷られた本は、同じ名所を描くにしても、ふだん浮世絵などで見慣れた視点ではない、別角度から写生している新鮮な構図だったり、浮世絵にはない意外な風景を写生している可能性があるので、貴重な資料にはちがいない。広重一派に限らず、同様の土産本で落合地域の描写を見つけたら、改めてご紹介したい。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<了>

◆写真上：関口芭蕉庵の西側、胸衝坂(胸突坂)沿いにある水神社(椿山八幡社)。
◆写真中・下：それぞれ、上が広重『絵本江戸土産』の画面で、下が現在の同じ場所を写した風景。関口芭蕉庵の現状は、上が芭蕉堂で、下が庭の湧水を利用して造られた瓢箪池。目白不動は、上が不動堂があった目白坂の新長谷寺跡で、下が現在の目白不動が安置されている金乗院。新井薬師では、上が新井薬師本堂を裏側から眺めたところ、中は新井薬師公園に残る丘陵の跡、下が斜面下にある北野天神社。

コメント 24

わたしも健康を気にせず、ステーキを飽きるほど食べてみたいですね。
「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2020-01-09 11:15) 

バッテリがいかれて入院していた携帯ノートPCですが、入院費が高くてそのまま戻してもらうことになりました。当分、ACアダプタが手放せません。「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞@ミックさん
by ChinchikoPapa (2020-01-09 11:17) 

吊るされた藁靴を見ると、雪深い白川郷の姿が浮かんできます。
「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2020-01-09 11:20) 

「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2020-01-09 11:21) 

今回のオレゴンのアルバムより、ゆったりとした気分で聴くなら、少し前に紹介されていたO.ソーサーの『Aleatoric Efx』のほうが好きですね。12弦のギターが耳障りです。「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2020-01-09 11:51) 

高級ウヰスキーは、国産でもとんでもない値段になっていて、なかなか手が出ないですね。海外でも人気が高いらしく、困った現象です。「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞kiyokiyoさん
by ChinchikoPapa (2020-01-09 11:55) 

「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞ありささん
by ChinchikoPapa (2020-01-09 11:56) 

メジロが集団で地上に下りているのは、たいへんめずらしい光景ですね。こちらでは野良ネコが多いせいか、木々の枝々を渡るばかりで、地上に下りることはまずありません。「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞kazgさん
by ChinchikoPapa (2020-01-09 13:57) 

人手が必要なフィジカルな世界は別ですが、定型業務や基幹系の処理業務(デスクワーク)の「資格」は、これからますます微妙になりますね。大企業のRPA(SWロボット)の導入が4割を超えたいま、ホワイトカラーや専門職の大量失業が懸念されます。いまでこそRPAの導入コストは高めで大企業しか対応できていませんが、中小企業や専門事務所(税理士・会計士・労務士etc.)に下りてくるのはもはや時間の問題です。(この2～3年かもしれません)　富士通の総務部門(人事・給与・仕訳・就業・労務etc.)が解体され、スタッフの多くが営業部隊に配置転換されたのは記憶に新しいところですね。「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2020-01-09 17:53) 

ドン・メルチョーを醸造するブドウの生育環境は、害虫が発生しにくく非常に理想的だというのを、どこかで読んだ憶えがあります。チリワインならではの、強みと優位性でしょうか。「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞fumikoさん
by ChinchikoPapa (2020-01-09 22:39) 

「小論文」という言葉は、なんだか懐かしいですね。大学の入試以来でしょうか。「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞プリスキラさん
by ChinchikoPapa (2020-01-09 22:41) 

志賀高原には、1980年代にけっこう長く滞在したことがあるのですが、玉村本店の酒を口にしてるかもしれないですね。「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2020-01-09 22:45) 

1964年の開会式は、松林で眼にケガをしたせいで鮮明に憶えているのですが、その他のこまごましたことは憶えてないです。翌年だったか、市川崑の記録映画が小学校で上映されましたが、感想文に「とてもつまらなかった」と書いて怒られたのは憶えています。w　「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2020-01-10 00:22) 

クリスマスなのだから、本物の料理を並べるぐらいのシャレた展示でもいいのに……と思います。予算がないのでしょうか。「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞ (。・_・。)２ｋさん
by ChinchikoPapa (2020-01-10 00:24) 

自身が居住する街で、自治体のサービスを受けるだけ受けているのに地元に「カネを落とさない(税金を払わない)」というのは、なんだか詐欺に近いような制度で納得できません。そのぶん、当該地域に住みその地域に税を納めている人々が、税を払わない人々のサービスコストを負担しているわけで、不公平きわまりないと感じます。「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞サボテンさん
by ChinchikoPapa (2020-01-10 00:31) 

広重が「広野」と呼んだ場所がどのような地域をいうのか、今一つはっきりしません。因みに私が現在住んでいる町は「広野」と呼ばれています。

by Marigreen (2020-01-10 08:09) 

Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
下記の記事中、鶴田吾郎の南北が逆の手描き地図で、「早稲田田圃」と記載されているあたりが「広野」です。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2009-06-20

by ChinchikoPapa (2020-01-10 09:48) 

大分の「青の洞門」は、みごとな断崖絶壁ですね。隧道のメンテナンスは橋脚と同様にたいへんで、修繕積み立ての通行料はけっこう高かったのではないでしょうか。「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞tarouさん
by ChinchikoPapa (2020-01-10 11:51) 

学習と業務現場のギャップは、医療機関に限らずどこの職場でも付きものですね。専門技術ばかりでなく、家庭教育で備わっているはずの「礼儀」や「常識」「見識」といった人間性に絡む技術も、逐一問われてきます。「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞ピストンさん
by ChinchikoPapa (2020-01-10 13:04) 

わたしは一度もタイには行ったことがないのですが、怖いホラー映画ではけっこう馴染みがあります。w　「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞デーンさん
by ChinchikoPapa (2020-01-10 13:57) 

サイクリングで気軽に見学できる砲台島があるのは、うらやましいですね。こちらの明治期の砲台遺構は、フェリーに乗らないと行けません。「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞今造ROWINGTEAMさん
by ChinchikoPapa (2020-01-10 16:23) 

カリカリのベーコンに、半熟の目玉焼きを添えて食べるのが大好きなわたしとしては、いちばん上の写真に惹かれます。「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞eva-chinさん
by ChinchikoPapa (2020-01-10 18:03) 

リアルト橋周辺は、みごとなまでに赤い屋根瓦で統一されていますね。自治体の条例で、瓦の色が規制されているのでしょうか。「読んだ！」ボタンをありがとうございました。＞takemoviesさん
by ChinchikoPapa (2020-01-10 18:08) 

伝法院の拝観日に出かけると、ついでに周囲を散歩するのですが、屋根の上の次郎吉さんは目立ちますね。本年も、よろしくお願いいたします。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。＞simousayama-unamiさん
by ChinchikoPapa (2020-01-11 22:51)