SSブログ

下落合に住んだ国際平和運動家・上代タノ。 [気になる下落合]

上代タノ1917.jpg
 上代(じょうだい)タノの名は、旧・小石川区(現・文京区の一部)側の目白界隈にお住まいの方ならご存じだろう。昭和初期から、日本女子大学Click!の英文学部を牽引し、戦後は1956年(昭和31)から1965年(昭和40)まで同大学の学長をつとめた人物だ。日本で初めて、アメリカ文学の講義を行なったことでも知られている。
 また、大正期の上代タノは新渡戸稲造Click!とともにジュネーブで国際連盟の仕事をして、新渡戸から東京女子大学Click!の創立に加わるよう求められるが、迷ったあげくにその誘いを断って成瀬仁蔵への恩義から日本女子大へ復職し、戦後は1947年(昭和22)から国際連合への加盟活動に参画して、湯川秀樹や平塚らいてふらとともに世界平和アピール七人委員会を創設、1982年(昭和57)に死去するまで国際平和へ貢献しつづけた女性だ。
 したがって、国際平和運動の活動家として、また戦時中でも軍部の圧力に屈せず、英語教育をやめなかった日本女子大学の英文学部(戦時中は軍部の命令で格下げされ、外国語学科に改名させられた)の教授および学部長、そして同大の学長として、彼女の名前はその分野ではあまりにも有名だ。また、彼女は海外、特に米国では知られており、戦時中に強制収容された日系米国人の女学生支援に、米国の女子大学が立ちあがっているのも、留学していた上代タノの存在が大きい。
 上代タノは、1886年(明治19)に島根県で生まれている。松江市高等女学校(現・松江北高等学校に包括)を卒業すると、一時は地元の小学校で教鞭をとっていたが、両親の勧めで東京の日本女子大学校英文学部予科に入学している。同大学の家政部Click!ではなく、両親の推奨で英文学部に進学することは、当時の女性に対する保守的な教育環境を考えれば、特に地方においては例外的な出来事だったろう。
 彼女は入学と同時に、日本女子大キャンパスの学内寮「鳳泉寮」ではなく、英国聖公会福音宣教協会のエリス・フィリップス宣教師(当時は英文学部教授)が経営する、雑司ヶ谷にあった外寮「暁星寮」に入寮している。学内寮の「鳳泉寮」では管理やしつけが厳しかったが、外寮「暁星寮」は規則がゆるく比較的自由で、しかも洋食が主体で英語を教えてもらえる、英文学部の学生たちにとってはあこがれの寮だったようだ。
 1906年(明治39)に、彼女の保証人だった東京日日新聞の河井酔名が月刊『女子文壇』を創刊することになり、上代タノはその編集部でアルバイトをしている。おもに原稿を取りにいく仕事だったが、そのうち自分も同誌に投稿するようになった。また、取材やインタビューなどに同行するようになり、日本女子大設立理事でもあった女学生大好きヲジサンの大隈重信Click!をはじめ、小日向台町Click!の新渡戸稲造、鶴見祐輔、前田多門らと親しくなっている。渋沢栄一の通訳アルバイトをしていたのも、この時期のことだ。
 上代タノ(23歳)は、1910年(明治43)に日本女子大を卒業すると、同大英文学部予科で英語教師になると同時に、学長の成瀬仁蔵が新渡戸稲造や浮田和民とともに創刊した英語雑誌『Life and Light』の編集事務をまかされている。彼女が、成瀬学長の秘書のような仕事をするようになったのもこのころからだ。だが、彼女はさらに上級の学校へ進学することを考えるようになっていた。
 当時の大学制は、女子の進学をまったく認めていなかったので、彼女は海外留学を真剣に考えるようになる。東北帝国大学が、日本で初めて女子学生Click!を受け入れたのは、もう少しあとの1913年(大正2)のことで、しかも理学系の学部のみだった。文部省の官僚が対応に頭を抱えるなか、下落合2080番地の金山平三Click!と結婚する牧田らくClick!が、東北帝大の数学科に通っていたのもこのころだ。北海道帝国大学が女子の予科生を認めたのが1918年(大正7)、早稲田大学が女子聴講生を解禁したのは1921年(大正10)のことであり、上代タノの時代はいまだ上の学校で学ぶことができなかった。
 1912年(大正元)に、彼女は米国ニューヨーク州のウェルズ女子大学英文学科に入学し、1917年(大正6)にM.A.を取得して帰国すると、親しい新渡戸稲造からさっそく東京女子大学の創立に誘われている。だが、成瀬仁蔵への恩義からそれを断り、日本女子大の英文学部教授に就任すると、ほぼ同時に新渡戸稲造の国際問題研究会へ参加しており、国際平和運動に興味をもちはじめたのもこのころからのようだ。つづいて、井上秀や羽仁もと子Click!らとともに婦人平和協会を結成したあと、1924年(大正13)にミシガン大学大学院に留学、翌年には英国のケンブリッジ大学ニューナム・カレッジへと留学している。
日本女子大開校式190104.jpg
日本女子大学正門(明治末).jpg
上代タノ1906.jpg 上代タノ1916.jpg
 この間、英国をはじめヨーロッパ各国の教育状況や施設を視察してまわり、WILPF(婦人国際平和自由連盟)の第5回総会には日本代表として出席・講演した。次いで、ジュネーブの国際連盟事務局で事務次長だった新渡戸稲造とともに、同連盟の仕事をこなしている。上代タノは1927年(昭和2)、新渡戸夫妻とともに帰国すると日本女子大の英文学部長になるが、同時にさまざまな執筆活動を行なうようになる。
 ケンブリッジ大学から帰国したあと、上代の講義を受講した女学生たちの証言が残っている。2010年(平成22)にドメス出版から刊行された、島田法子・中嶌邦・杉森長子共著『上代タノ―女子高等教育・平和運動のパイオニア―』から引用してみよう。
  
 国文学部二七回生の白鳥喜代は次のように回想している。「上代タノ先生……の印象は今でも強く残っております。学生の憧れの的でしたから。あの日、先生は講堂から築山を通って、校庭を颯爽と下りてこられたのを目の当たりにしまして、私はそのお姿や歩き方に見とれてしまいました。留学から帰られたときでしたからワンピースの色まで覚えております。それはシックなグリーン、そして胸に大玉のヒスイの、ながーいネックレスをつけられて、素的(ママ)な先生でした」と。留学から戻った上代は、ハイカラなお洒落にもさらに磨きをかけ、女子学生のロール・モデルとして颯爽と活躍したようである。(中略) 高等学部第二回生の長沢ふさは当時を回想して、「女子大時代超一流の先生方に巡り合ったことを後に思い起こすと、なぜ講義をしっかり聞いておかなかったのか悔やまれます。アメリカから帰っていらしたばかりの上代タノ先生にも習いました。あの方は真っ直ぐな、情熱的な方でした。学生の指導もその人の特質と将来を見越してされ、翻訳の仕事を与えられてそれが生涯の仕事となった人もいます」と述べている。
  
 上代タノが下落合に住むようになるのも、ちょうどこの時期だ。文中にも登場しているが、当時の日本女子大では文部省の認可を受けた総合大学化をめざしており、高等学部(大学予科)が設置されたばかりだった。
 上代が担当した講義は、「近代アメリカ文学」と「1870年以降の英文学批評」の2テーマだった。早稲田大学にアメリカ文学科を設置するために、大隈重信のアドバイスで日本女子大に蓄積されている膨大な図書や資料を閲覧しに、早大文学部の教授や学生たちが目白崖線の豊坂をのぼって、頻繁に通ってくるようになるのもこの時期のことだ。また、上代タノは大学の国際化にも力を入れ、日本女子大内に国際連盟協会学生支部を設立している。
日本女子大学生1903頃.jpg
日本女子大学桜楓館売店.jpg
日本女子大学運動会1925.jpg
 1933年(昭和8)10月に、恩師で東京における父親のような存在だった新渡戸稲造が他界すると、おそらく悲しみからの気分転換のつもりだったのだろう、翌年から下落合へ転居してきている。残念ながら『落合町誌』(1932年)が刊行された直後のことであり、彼女が下落合のどこに住んでいたのか具体的な住所は不明だ。
 おそらく、日本女子大英文学部の10年ほど後輩で、同じく婦人平和協会に参加していた、和田富子(高良とみ)邸Click!の近くではないかと思われるが、それについては改めて記事に書いてみたい。目白通りをまっすぐ東へたどり、竣工したての千登世橋Click!をわたって日本女子大へ通勤するには、下落合東部の目白駅寄りが適するだろうか。
 下落合で暮らしていた間に、彼女は研究社から出版されていた英米文学評伝叢書の第41巻『リー・ハント』を執筆し出版している。その執筆中に、東京では陸軍皇道派が起こした二二六事件Click!が勃発し、日本とドイツとの間で日独防共協定が締結されている。破局へと向かう世界戦争の時代が、もうすぐそこまで迫っていた。
 上代タノが日本女子大へ入学したころ、同大キャンパスの様子をルポした磯村春子Click!の訪問記事が残っている。彼女の取材目的は学内寮「鳳泉寮」のほうで、上代タノがいた雑司ヶ谷の外寮「暁星寮」でなかったのは残念だが、当時の同大キャンパスの雰囲気をよく写しているとみられる。1913年(大正2)に文明堂から出版された、磯村春子『今の女』収録の「目白台の婦人部落」から引用してみよう。
  
 雨上りの踏み心地よき、テニスコートには、ラケツト打振る一群、吹く風に袖をまかせて、球打つ音、冴え渡る笑声混りて、世はこれ等の、若き人々の楽園である。/玄関に立つた。/正面は小使室なる可し。物古りたる紙張りの硝子戸の前に、摺り切れたる古箒只一本。園内の清楚なる気分と思ひ合せて、稍々浅間しき心地した。/正面の校舎を後庭に廻つて、家政科の割烹室。馬鈴薯一升十二銭、蚕豆一升十二銭、即席しるこ四銭五厘などの掛札がある。器具棚、料理板など、とりどりに打並ぶ間に、白前垂掛の女学生数十名入乱れて、今しも日本料理のお稽古最中で、彼方の隅には、試食の連中にやあらん、料理着のまゝ、お皿の立食をして居る。/更に、芝草清き庭を伝ふて、離れの一棟を覗けば、此処には、共同購買組合なる看板が懸けられて、堆く積まれた薪炭に隣つて、沢庵の大樽、大根、葱、薩摩芋其他の野菜の品々、処狭きまで並んで居る。出入商人の悪癖を避けて、二十寮舎連合の購買組合で、目下寄宿生は約五百人、其食料品の購買高は一ケ月約二千円ですと、監督は答へた。其二十寮舎は、一万五千坪の新緑の間に割居し、各寮舎には、二十五名程の学生が収容せられて、とりどりに、其特色を発揮し、さながら、世離れした婦人部落を形造つて居る。
  
上代タノ(ドメス出版).jpg 上代タノ展図録2013.jpg
成瀬記念講堂.JPG
日本女子大学明桂寮1927.jpg
 戦争の激化とともに、日本女子大で英米文学を教授する上代タノへの文部省や軍部から、そして特高Click!からの圧力や恫喝が日増しに強くなっていくが、彼女は大学でも、敗戦色が濃くなった学生たちの勤労動員先の工場でも、ついに英語教育をやめることはなかった。軍部と真正面から対峙していくことになる上代タノだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:1917年(大正6)に、留学先の米国ウェルズ女子大学を卒業した上代タノ。
◆写真中上は、1901年(明治34)4月に行われた日本女子大学校の開校式。は、明治末に撮影されたとみられる同大学校の正門。下左は、1906年(明治39)に撮影された同大英文学部予科に在籍していたころの上代タノ。下右は、1916年(大正5)の米国のウェルズ女子大学へ留学中に撮影された上代タノ。
◆写真中下は、1903年(明治36)に撮影された日本女子大の学生たち。前列中央は、親からようやく許された家政学部に在籍中し、絵ばかり描いて画家をめざしていた長沼智恵子Click!だと思われる。は、大正期の撮影とみられる同大桜楓館内にあった売店。は、おそらく1925年(大正14)ごろに行われた第16回運動会の様子。
◆写真下上左は、2010年(平成22)に刊行された『上代タノ―女子高等教育・平和運動のパイオニア―』(ドメス出版)。上右は、2013年(平成25)に開催された「上代タノ―故郷を愛す・国を愛す・世界を愛す―」展図録。は、正門右手にあるリフォーム前の成瀬記念講堂。は、日本女子大学のキャンパス北側に佐藤功一の設計で1927年(昭和2)に建設された同大「明桂寮」。現在、卒業生を中心に保存・活用の運動が展開中だ。

読んだ!(18)  コメント(18) 
共通テーマ:地域

読んだ! 18

コメント 18

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2020-10-20 11:49) 

ChinchikoPapa

サルビアは懐かしい花ですね。以前は、どこの家庭の庭でも紅い花を見かけましたけれど、最近はあまり見かけません。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>tomi_tomiさん
by ChinchikoPapa (2020-10-20 11:52) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ありささん
by ChinchikoPapa (2020-10-20 11:52) 

ChinchikoPapa

60年代半ばらしく、ビッグバンドの荘厳なサウンドですね。黒人たちが公民権とアイデンティティの獲得をめざしていた時代の匂いがします。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2020-10-20 12:00) 

ChinchikoPapa

この季節は案外雑菌が繁殖しやすく、食中毒などにも注意が必要ですね。COVID-19ウィルスなどよりも、はるかに危険な強毒菌がいますので、初夏と同様に秋も要注意です。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyokiyoさん
by ChinchikoPapa (2020-10-20 12:03) 

ChinchikoPapa

子どものころ、高価でなかなか買ってくれなかった立体絵本に憧れましたけれど、いくつになっても立体表現には惹かれます。部屋の壁に、物語刺繍をかけておくと楽しそうですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2020-10-20 12:07) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2020-10-20 12:07) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>かんたんお小遣いかせぎさん
by ChinchikoPapa (2020-10-20 13:05) 

ChinchikoPapa

先週、少し暖かな日が2~3日つづいたとき、ソメイヨシノが勘ちがいをして花をポツンポツンとつけてました。今年の夏は短かったですが猛暑だったので、花々の感覚が少し狂っているのでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>hirometaiさん
by ChinchikoPapa (2020-10-20 14:51) 

ChinchikoPapa

もうひとつアメリカでイメージするのは、横浜の山手町から三渓園に向かう途中にあった、広大な米軍住宅です。原色のペンキで塗られた住宅や、巨大なスーパーマーケットがフェンス越しに見えて、まったく異国の街並みに見えて印象的でした。とうに返還されましたが、いまでも面影が残ってますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2020-10-20 22:23) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>takaさん
by ChinchikoPapa (2020-10-21 21:55) 

ChinchikoPapa

「ぼぼ」というワード、面白いですね。原日本語で「子ども」「赤ちゃん」の意味ですが、いまでも東日本ではつかう地域があります。ラジオは高校時代から、お年玉+小遣いをためてNationalの「ワールドボーイ」というのを聴いてました。かなり高かったのを憶えてます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2020-10-21 22:00) 

ChinchikoPapa

東博に『モナリザ』がきたときは、たいへんな騒ぎだったのを子ども心に憶えています。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2020-10-22 09:53) 

ChinchikoPapa

数年前に教師がこぼしていたことですが、現在の学内業務が民間並みにシステム化されたら、おそらく50%近くの負荷軽減や効率化が可能ではないか……とのことです。確かに25年ほど前、民間のアナログ業務ではシステム化により70~80%の負荷軽減や効率化はザラでした。そのぶん、授業や部活などのフィジカル面を充実させられるのではないかと。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>サボテンさん
by ChinchikoPapa (2020-10-22 10:08) 

ChinchikoPapa

わたしもアナログカメラは、交換レンズも含めてつい最近まで保存していました。オーディオもそうですが、思い入れのある機械はなかなか棄てられません。でも、たいがい家族に邪魔扱いされ、最終的には処分するのですが。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
by ChinchikoPapa (2020-10-22 22:25) 

ChinchikoPapa

発泡酒を開栓する際、ひとつ手前のコルク開け(デグラフェール)は持ってないです。たいがい、ナイフかハサミで代用してしまいます。オマケについてると嬉しいですが、さすがに高価ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2020-10-23 10:55) 

ChinchikoPapa

以前の記事にまで、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2020-10-27 11:28) 

ChinchikoPapa

以前の記事にまで、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2020-10-27 23:41) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。