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落合西部と江古田・片山の和田伝説いろいろ。 [気になる下落合]

鎌倉みち(哲学堂通り).jpg
 落合地域とその周辺には、鎌倉期あるいはそれ以前からの起源がありそうな、鎌倉幕府の御家人「和田氏」の伝説が語り継がれている。以前、周辺に散在している「和田」の地名考Click!については、すでに記事にしていた。東京の西北部には、和田氏が館をかまえていたとされる和田山(現・哲学堂公園/中野区)をはじめ、東和田・和田町(ともに中野区)、大和田(豊島区)、和田戸(新宿区)、和田・和田堀(ともに杉並区)、和田(渋谷区)などだ。
 杉並区と渋谷区は、手もとに資料がないので伝説・伝承の類は不明だが、その他の地域は明らかに鎌倉期前後の和田氏、鎌倉街道が貫通していたとみられる和田戸<山>(戸山ヶ原Click!)を含め(戸山ヶ原の和田戸は、室町期を舞台にした「山吹の里」の和田家にちなんだとする人もいる)、その支道(地元では「鎌倉みち」と呼ばれる)が通っていた、落合地域の西部に隣接する野方村(大字)江古田(字)東和田の和田山を意識しつつ語られているように思われる。これらの伝承は、大別すると鎌倉幕府の以前、幕府が開かれたあと、そして幕府内の御家人同士の内紛が激しくなった時期などに分類できるだろうか。
 落合地域で語られている「和田氏」伝説は、たとえば和田山も近い自性院縁起に代表されると思われる。1932年(昭和7)出版の大澤永潤Click!『自性院縁起と葵陰夜話』Click!(非売品)の記述が代表的だ。少しだが、同書より引用してみよう。
  
 今より八百年前藤原時代の末葉義家卿の部下の士によつて開かれたといふ床しい伝説を持つ当地はそれより三百有余年を経て室町時代となりました、勿論この間、鎌倉時代の伝説として近くに和田義盛の據城跡と伝ふる和田山の伝説が村の鎮守の森に続いて西方一帯の丘陵に渡つてあります。(中略) 和田山の故事は一寸前述致しましたが当初鎮守御霊社境内に続いて西方一帯の丘陵地で明治年間彼の妖怪学の泰斗で社会事業家井上円了博士の哲学堂が建説(ママ:設)せられ都人学徒の参観者数多あり、又この度び大東京都市編入に際し此の辺一帯天然風致区域に指定せられました。
  
 「和田義盛の據城」と和田山が、かなり抽象的な表現で(なんら具体的な根拠のないままに)伝承されてきた様子が想定できる。だが、伝説はこれだけにとどまらない。和田山の周囲にある江古田(えごた)村や片山村などでは、「和田義盛の館があった」というような単純な伝承ではなく、より具体的な説話が語り継がれている。
 1180年(治承4)に、石橋山の合戦で真鶴から敗走した源頼朝Click!は、安房で北条氏や千葉・相馬氏、和田氏、安達氏、上総氏、毛利氏、武田氏、畠山氏、三浦氏、川越氏、江戸氏などと再起をはかり、隅田川を渡河して鎌倉をめざした。このとき、北関東の足利氏や世良田氏(松平氏→徳川氏)、新田氏はいまだ動いていない。のちに、鎌倉幕府によって全国に守護(大名)として配属される坂東武者たちの姿がすでに登場している。
 隅田川を渡ったあと板橋に布陣(本陣)するころには、頼朝の軍勢は2万にふくらんでいた。その際、頼朝にしたがった和田義盛が布陣したのが、のちに和田山と呼ばれるようになる丘陵地帯だったという伝承が、古くから語り継がれている。「和田義盛の館があった」という伝説よりは、がぜんリアリティのあるエピソードだろうか。和田義盛が館を築いたのは鎌倉市街ないしは三浦であって、わざわざ鎌倉から離れた武蔵野丘陵に館を築く必然性はないし、鎌倉期の館遺構が発掘されているわけでもない。
また、戸塚(現・早稲田エリア)の南の戸山には、頼朝が鎌倉入りをする際に休息した場所として「和田戸氏の館」という伝承があるが、「和田戸氏」とはどのような氏族なのだろうか? 頼朝の家臣にも鎌倉幕府の有力御家人の中にも「和田戸氏」という一族はいないし、『東鑑(吾妻鏡)』にも登場していない。なにかの誤伝か、後世の創作ではないか。
和田山(明治末).jpg
和田山(大正期).JPG
小島善太郎「埴輪」不詳.jpg
 また、和田義盛の子「和田磯盛」にからんだ伝承が、江古田村の第六天Click!勧請にまつわる物語に登場している。1984年(昭和59)に中野区江古田地域センターから発行された『江古田今昔』に、そのくだりが掲載されているので引用してみよう。
  
 入植伝では和田伝説の続きになるが、氷川社に合祀された第六天は義盛の子和田小太郎磯盛の子孫百姓磯右ヱ門の勧請したものだといい、寺山の西方にあった通称小川屋敷跡はその名残りだったという。窮迫して家具、古文書類を売払って行方知れずとか。それにしても草分千家の一員ということにはなる。
  
 ここに登場する「和田小太郎磯盛」とは、いったい何者だろうか? 和田氏の系譜はかなり詳しく判明しており、和田義盛の子に「磯盛」という人物は見あたらない。江古田村だけで語り継がれている、和田氏の「子孫」だろうか。
 江戸期に入ると、世の中が平和になり万事生活にも余裕がでてきたせいか、自身のあるいは自家の祖先がどこの誰なのかが気になりはじめ、ルーツをたどるアイデンティティ探しが大流行している。江戸期に系図屋の商売が大繁盛したことは拙サイトにも何度か書いているが、その祖先をたどると必ず「清和源氏」か「桓武平氏」、武門っぽくなければ「藤原氏」、どれにもひっかかりそうもなければ「橘氏」へたどり着くというような家系図を、系図屋は全国の津々浦々で大量生産して(デッチ上げて)まわった。
 ありがちな「落人(おちゅうど)」伝説も、そんな江戸期のルーツ探しブームの中でつくられている。現在では全国各地に「平家の落人部落」伝説が散在しているが、それだけ全国規模で各地に「落人」がいれば、鎌倉幕府の軍勢と対抗できるじゃん(爆!)……というぐらい、江戸期には「平家の落人」ブームも各地で起きている。
 ご多分にもれず江古田村にも「落人」伝説が残り、それが和田山の伝承と習合して、鎌倉幕府と対立し敗走した「落人」(和田磯盛?)が住みついて江古田村を形成した……というような伝承になったのではないか。自身の祖先が歴史上でもそこそこ名の知られた人物であり、大枚はたいて手に入れた膨大なツリー状の家系図を引っぱりだしては「世が世なら」と誇示するのを、いい商売をした系図屋は目を細めて眺めていたのではないだろうか。和田義盛の息子をひとりぐらい増やすのは、系図屋にとっては朝飯前だったろう。
 江古田地域センターの『江古田今昔』にも「疑義はあるが」とあるが、幕府と合戦して敗走した和田氏の残党が、鎌倉から馬をとばせば丸1日でたどり着けそうな、しかも鎌倉街道とその支道が通う武蔵野丘陵へ落ちのびることなどありえない。以前、大坂の陣から落ちのびた西軍の騎馬武者が数騎、わざわざ敵の本拠地である江戸の天領(幕府直轄)・下高田村へ落ちのびて住みついたケースをご紹介Click!しているが、『新編若葉の梢』Click!の編者である高田町の海老澤了之介Click!も「ありえない」と書いているように、幕府のきびしい「落ち武者狩り」などまるでなかったことにされた、平和な江戸期の系図屋による“神話”だろう。
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和田山バッケ.JPG
 もうひとつ、片山村には鎌倉期の落ち武者伝説が語られている。1955年(昭和30)に出版された熊沢宗一『わがさと/かた山乃栞』(非売品)から引用してみよう。
  
 東鑑(吾妻鏡)には、土御門天皇の御宇建仁二年の頃より享保(ママ)年間に至るまで武蔵野の広野を開発して八十余の武蔵野新田と唱える郷が出来たことが記されている。此の頃から約十年後の建保元年の五月には源頼朝の重臣和田義盛が、和田山「現在の哲学堂公園」に拠って、北条義時と兵を交えたが、力及ばずして敗北し、其の子孫は当地に帰農したことを口碑に伝えている。此のことから推察しても、当地方は古くから農耕が営まれていたのを知ることが出来る。(カッコ内引用者註)
  
 『吾妻鏡(東鑑)』に、江戸期の享保年間のことなど書かれていないし、800万石におよぶ徳川幕府の財政を支える「武蔵野新田と唱える郷」が、わずか「八十余」などということもありえない。また、和田義盛一党と北条氏が戦ったのは鎌倉市街(雪ノ下村の南側で和田氏の墓所である和田塚から由比ガ浜にかけて)であって、まったく史実に反する。そこには、なにか大きな勘ちがいか、江戸期の系図屋による野放図なリップサービスがありそうだ。
 さらに、鎌倉の落ち武者伝説は、江古田村の旧家にも伝わっている。1973年(昭和48)に出版された堀野良之助『江古田のつれづれ』(非売品)から引用してみよう。
  
 江古田村孫右衛門組の名主深野孫右衛門の家は旧家で、鎌倉時代から住んでいたと伝えられる。江古田村字東本村には旧家が七、八軒あったが、深野孫右衛門の家は、その中の一軒である。(中略) 東本村は、江古田の元村(もとむら)であるといわれる。そこに居を構えた旧家は、いずれも古くから江古田本村に住みついた鎌倉時代の落武者の末孫であったのだろう。武蔵風土記稿に記された天正時代(民家十一戸)の大部分は、右に揚げた旧家であろう。
  
 確かに、和田山の南側には鎌倉期の集落跡が見つかっており、また近くの下落合村本村Click!からは鎌倉の年紀銘が刻まれた板碑が出土しているので、鎌倉時代からあちこちに集落が形成されていたのは事実だろうし、落合地域に限ればそれ以前の平安期や奈良期、さらに古墳期以前(旧石器時代まで)にさかのぼる遺構が複数見つかっており、有史以来、このあたりには人が間断なく住みつづけてきたこともまちがいないだろう。
 ただし、それを鎌倉期の「落武者」に収斂していくのは、考古学的(科学的)な検証が皆無だった江戸期由来の、さらにいえば系図屋由来の伝承ではないだろうか。数々の伝承の中で、源頼朝の鎌倉入りに関連して和田義盛とその一党が布陣(先陣)した丘陵が、南に向けて見晴らしのよい和田山だったという伝承が、もっとも歴史学的には不自然ではなくリアルであり、また『吾妻鏡』など文献史学の側面からも矛盾しないいわれのように思える。
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堀野良之助「江古田のれづれ」1973.jpg 堀野良之助.jpg
 西落合に隣接する和田山には、このほかにも数多くのエピソードが眠っている。妙正寺川のバッケ(崖地)Click!に開いた横穴氷室や五辻安仲の別荘、和田山の学校、高田南蔵院Click!の買収と、哲学堂以外にも面白いテーマが多いので、またいつか記事に書いてみたい。

◆写真上:古くから「鎌倉みち」と呼ばれた、野方地域(中野区)と落合地域(新宿区)の境界を通る哲学堂通り。伝承や周囲の遺構から、鎌倉街道の支道とみられる。
◆写真中上は、明治末に撮影された和田山の井上哲学堂。手前には、沢庵漬けにして出荷されるダイコンが大量に干されている。は、大正期の井上哲学堂で電燈線とみられる電柱が田畑を横切っている。は、下落合村出身の小島善太郎Click!が描いた『埴輪』(制作年不詳)。1955年(昭和30)出版の熊沢宗一『わがさと/かた山乃栞』(非売品)に収録された作品で、一帯から埴輪片も数多く出土しているとみられる。
◆写真中下は、東洋の「六賢人」を奉った井上哲学堂に建つ六賢台の塔上内部。下は、和田山のバッケ(崖地)に現在も繁る森林。
◆写真下は、鎌倉・由比ガ浜にある和田一族の墓所といわれる和田塚。は、1973年(昭和48)出版の堀野良之助『江古田のつれづれ』(非売品/)と著者()。

読んだ!(20)  コメント(23) 

読んだ! 20

コメント 23

ChinchikoPapa

いまだ、Mao主席の神話が生きていた時代の作品ですね。最近、C.ヘイデンのQuartet Westシリーズを聴くことが増えました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2021-06-14 14:39) 

ChinchikoPapa

わたしも、「銀座カリー」は好きですね。あと、東南アジアのココナツカレー(レトルト)も、最近よく食べるお気に入りです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2021-06-14 14:42) 

ChinchikoPapa

うなぎは土用といわず、なんだか1年じゅう食べているような気がします。そのため、お小遣いの減りが激しいですね。w 「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>にのまえさん
by ChinchikoPapa (2021-06-14 14:46) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>じーバトさん
by ChinchikoPapa (2021-06-14 14:47) 

ChinchikoPapa

鎌倉文学館は、しばらくご無沙汰しています。手前の吉屋信子旧邸には何度か立ち寄ってますが、そのまま和田塚方面へ抜けてしまうことが多いですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>tarouさん
by ChinchikoPapa (2021-06-14 14:52) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2021-06-14 14:53) 

ChinchikoPapa

ネコは、キジトラがいちばん好きです。うちのヤマネコもキジトラ風ですが、毛足が細長く日本のキジトラではないようです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>tomi_tomiさん
by ChinchikoPapa (2021-06-14 14:55) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2021-06-14 14:55) 

ChinchikoPapa

近所のバラが好きなお宅から、香りが道路にまで漂ってきます。モッコウバラをアーチにしたエントランスは、いつ見てもすてきですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2021-06-14 14:59) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2021-06-14 14:59) 

ChinchikoPapa

円筒形の内部は、どのようなフロアになっているんでしょうね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kerokeroさん
by ChinchikoPapa (2021-06-14 17:19) 

ChinchikoPapa

わたしも、金輪際まったく支持できないですね。ついでに、政府自民党に幇間(太鼓持ち)かコバンザメのようにくっついて、安保法案や共謀罪の成立へ積極的に加担している公明党は、もっと支持できないですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
by ChinchikoPapa (2021-06-14 19:17) 

ChinchikoPapa

アニメーションと、その語源となったアニミズムについての関係を探る本を、その昔読んだ憶えがあります。どのような海外の宗教や思想に洗われようと、日本のアニミズムの根は深いですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2021-06-14 22:02) 

ChinchikoPapa

鶴乃江酒造さんの製品は、野口英世もさんざん飲んでいそうですね。底なしの酒飲みだったそうですから、一晩で数升は空けてたんじゃないでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2021-06-14 22:12) 

ChinchikoPapa

プリンタはあまり使わなくなったので1台ですが、PCはバックアップマシンとしてデスクトップ1台とノート型1台を用意していますが、それでも不具合を起こすと焦りますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyokiyoさん
by ChinchikoPapa (2021-06-15 09:33) 

ChinchikoPapa

現状では、選択型の夫婦別姓が適しているのでしょうね。どうしても同姓にこだわるのは、明治政府の戸籍にもとづく「家」制度を保守・維持したいためですが、いまや日本式の戸籍がある国はアジアの3か国です。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>サボテンさん
by ChinchikoPapa (2021-06-16 09:50) 

ChinchikoPapa

「熱干麺(ホットドライ麺)」というのは、どのような風味なのでしょうね。一度も食べたことがありません。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>大善士さん
by ChinchikoPapa (2021-06-16 09:59) 

にのまえ

実は、一昨年中野区江古田の病院に半年間入院していたことがあるのと、僕も鎌倉幕府成立に興味があったので和田氏のことは興味深いです。
by にのまえ (2021-06-16 16:17) 

ChinchikoPapa

にのまえさん、コメントをありがとうございます。
わたしも、和田山と鎌倉期の伝承には興味津々です。関東では、五郎伝説と御霊伝説が習合した可能性が指摘されている、「御霊社」や「五郎」の名がつく地名が周辺に散在したり、鎌倉の「葛ヶ岡」に対して和田山西側の「葛ヶ谷」という呼称にも惹かれますね。
by ChinchikoPapa (2021-06-16 16:35) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>ふるたによしひささん
by ChinchikoPapa (2021-06-16 23:34) 

アヨアン・イゴカー

>武門っぽくなければ「藤原氏」
なかなかうまい商売ですね。我が家の父方の本家には50代以上にわたる家系図(藤原不比等?)が残っています(小さな写真で見たことがります)が、果たしてどこまで信頼できるのか不明です。

by アヨアン・イゴカー (2021-06-17 00:47) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、こちらにもコメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
江戸期の系図屋は、その商売が大流行したにもかかわらず、案外取りあげられていないテーマです。全国から江戸や大阪の系図屋に弟子入りして、家系図づくりの技術やノウハウを学び、再び全国へ散っていったとみられますので、その営業網は全国くまなくいきわたっていたのではないかと思います。
by ChinchikoPapa (2021-06-17 09:42) 

ChinchikoPapa

そろそろ、ビワが色づきはじめましたね。こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>okina-01さん
by ChinchikoPapa (2021-06-17 14:19) 

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