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中井駅前の商店街で値切る林芙美子。 [気になる下落合]

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 林芙美子Click!は、浦和のうなぎ屋Click!での一件があったにもかかわらず、大江賢次Click!に対しては手のひらを返したようにはならず、驚くほどやさしく接しつづけている。片岡鉄兵・光枝夫妻Click!がそうだったように、大江賢次にはどこか「面倒みてやらなければ」という思いを他者に抱かせるような、得な性格をしていたようにも思えるが、彼が貧乏のどん底にあえいで明日をも知れない生活を送っていたせいもあるのだろう。
 どうやら、林芙美子には自分より生活が困窮している、あるいは困難に直面してとことん追いつめられている人間を見ると、とたんにやさしく保護したくなるような性癖があったようで、うがった見方をすれば下落合4丁目2108番地(のち2107番地/現・中井2丁目)に住んでいた船山馨夫妻Click!に終始やさしく接していたのも、ヒロポン中毒で夫妻が明日をも知れぬ破滅寸前にまで追いつめられていたからではないのかな……とさえ思えてくる。彼女が子どもをことさら愛して優しかったのも、自分が保護する対象としてのみ、安心して眺めていられたからではないだろうか。
 ところが、自分より豊かな生活をしている同性作家や、自分よりも優れた作品を書いていると認めざるをえない同性作家、あるいは自分よりも文壇あるいはマスコミでチヤホヤされている相手には、それを努力や精進のバネにしようという意識には転じず、口をきわめてあることないこと容赦のない悪口を記者たちにいい含めるか、ときに鎮痛剤中毒で上落合842番地Click!から鳥取へ帰郷した尾崎翠ケースClick!のように、各出版社をまわって平然と「死んだ」ことにするのさえいとわなかった。(戦後にNHKの“裏とり”取材で、ようやく尾崎翠Click!の生存が確認されている)
 そんな林芙美子も、プロレタリア文学の端くれをにない、きょうの食事にもこと欠いていた大江賢次には、うなぎ屋で襲って気心が知れた(?)ものか姉のようにやさしかった。ある日、腹を空かせた大江賢次が五ノ坂下の彼女の家を訪ねると、夕食をいっしょに食べていけと中井駅前の商店街へ買い物に誘われている。そのときの様子を、1974年(昭和49)に牧野出版から刊行された大江賢次『故旧回想』から引用してみよう。
  
 またあるとき、黄昏の谷底の町並をいっしょに歩いていた。外食はつらかろうから、今夜はうちで食べなさいといって、買出しのお手伝いである。西武線中井駅ちかくに商店が多く、林さんは姐ごらしく、私は少し離れて後を追うたが、どの店でもかならず値切る口上のうまさ、つい正札よりも安く仕入れる手ぎわのよさにたまげた。/「や、先生にかかっちゃたまらねえや」と、顔なじみの八百屋は鼻をこすって、「だからほら、最初から二十銭のとこを十八銭に負けてまさ」/「でも、仕入れは十五銭くらいでしょ、もう一銭がとこ負けて、十七銭にしときなさいてば」/行商人の両親について、旅から旅をめぐり、いっときは渋谷の道玄坂で夜店をやった経験があるだけに、商いのかけひきのよろしさ、ちゃんと相手の気ごころを見抜いて、がめつい値切りが愉しそうでさえあった。
  
 月額25円もする西洋館の家賃を楽々と払い、毎月大金を稼いでいる有名な流行作家が、大江賢次も「がめつい」と書いているように、地元の零細商店で商品を値切り倒してはダメでしょ……とふつうは思うのだが、林芙美子にはそのやり取りがゲーム感覚で面白かったのかもしれない。でも、中井の商店街にしてみれば、自分たちより月々何十倍、何百倍もの収入がある作家に値切られては、実にたまったものではなかっただろう。
中井商店街青果店.jpg
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 いちおう、八百屋の店主は彼女を「先生」と呼んでいるけれど、カネづかいがキレイでない林芙美子のことを、地元の商店街ではなんといっていたのか、わたしは一度も取材したことがないので知らないが、地元の有名な「作家先生」として自慢し、誇りに思ってなどいなかったのではないだろうか。戦後、下落合3丁目1146番地(現・中落合1丁目)に自邸&プロダクションClick!があった赤塚不二夫Click!のことは、商店街では親しみをこめて語られているのを知っているが、林芙美子については一度も聞こえてきたことがない。
 さて、林芙美子は大江賢次に、小説の書き方のていねいな手ほどきさえしている。「私をいっそう可愛がってくれて、よく創作のコツを教えてくれた」(同書)と書くほど、彼女は大江賢次のことを「弟」のように扱っていたようだ。彼が書いた作品について、登場人物の具体的な特徴を指摘しながら、人物描写のリアリズムについて詳細に教えている。「あんたの小説の主人公、やたらにけんめいに描いているけど、あんなのだめ。小説は芝居と同様に、大道具や小道具をうまくあしらうもんよ」と、文章を添削するほど熱心に教えているところをみると、林芙美子は彼によほど気を許していたのだろう。
 作家なら誰もがもっている「創作の秘密」とでもいうべき、描き方の手法や独自の細かなテクニックまで、彼女は大江賢次に教示している。同書より、再び引用してみよう。
  
 示されたのは、書きそんじの原稿用紙の裏いっぱいに、登場人物の顔や姿をえがき、その横に「ここにホクロあり」とか、「ドモるくせ」とか、「髪に手をやるとき小指をピンとさせる」など、略図ながら人間像あまたに注釈していた。それらの綿密な設計図は、本人が焼却したかも知れないが、もし今あれば貴重な研究のよすがになろう。/のちに現住所から二百米ほど離れた、目白台(ママ)の丘の斜面を手に入れ、庭には伊豆ふうの竹林をしげらせ、養子を学習院に通わせて、「放浪記」の作者らしくない暮し向きに辟易した。立野(信之)とおなじく、かの女もぽっくりと死んだ。(カッコ内引用者註)
  
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 著者は「目白台」などと書いているが、もちろん目白崖線の斜面にあたる下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)に建設し、1941年(昭和16)に五ノ坂下の「お化け屋敷」Click!から転居した現・林芙美子記念館の家のことだ。
 この記述から、林芙美子は作品の登場人物について、映画やドラマの脚本家、あるいは今日の漫画家などと同様にひとりひとり綿密なプロットを描きながら、場面場面の動きやしぐさを想像して書いていたのがよくわかる。わたしは林芙美子の資料で、そのような執筆上のプロットを一度も見たことがないので、大江賢次が書いているとおり作品が脱稿すると、庭の焚き火で落ち葉とともに燃やしていたのかもしれない。
 林芙美子が、小説を書くうえでの具体的なテクニックや、執筆する上での登場人物にリアリティをもたせる秘訣まで同業者に教えた例は、大江賢次をおいてほかには知らない。それほど、林芙美子は彼に気を許していたものだろうか。戦後、もう少し彼女が長生きして、大江賢次が1958年(昭和33)に書いた小説『絶唱』が大ヒットし、同年の映画も浅丘ルリ子と小林旭のコンビでロングランをつづけるのを目のあたりにしたら、はたして同様にやさしく接してくれたかどうかはさだかでない。
 ある日、鳥取出身の大江賢次に、林芙美子は安来節を唄ってくれとせがんだ。また、小説のネタに使われてはたまらないと大江賢次は断ったが、「後生だから唄ってちょうだい」とゴリ押しされ、彼はイヤイヤ唄いはじめている。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 しかたなく私は唄ったが、まったく驚いたことに、かの女は姉さんかぶりにたすきがけでお盆をもち、唄に調子合わせて踊りだしたではないか。それをアラエッサッサーの、なんべんもくり返し。私は気が狂ったのではないか、と疑わざるを得なかったがあに図らん、「牡蠣」の出版記念会の席上で、かの女みずからいつしか衣裳を変え、唄いながら踊ったではないか。しかも、安来節の婦踊りは盆にかぎっているのに、ご念入りにも男芸の「どじょうすくい」さえ披露した。
  
 大江賢次は、リアル『放浪記』の舞台を目のあたりにしていたわけだが、安来節の練習を彼の唄声とともにしていたとは、わたしが初めて知った事実だ。
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 子どものころから芝居や新劇を問わず、わたしはよく舞台を観に連れていってもらったが、『放浪記』の舞台を生で見たことは一度もない。別に、うちの親たちは林芙美子が苦手だったわけではないのだけれど、おふくろが森光子を気に入らなかったせいだろう。

◆写真上:中井駅前通りに並ぶ商店街で、正面の右手が西武新宿線・中井駅。
◆写真中上は、中井駅近くの青果店(八百屋)。は、1928年(昭和3)作成の「大日本職業別明細図」にみる中井駅周辺。左手に下落合3丁目1986番地の赤尾好夫邸で開業した欧文社(現・旺文社)Click!が見える。は、大江賢次(左)と林芙美子(右)。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に作成された「大東京各区便益明細地図」にみる中井駅とその周辺。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる中井駅の北側周辺の様子。は、同年の「火保図」にみる中井駅の南側周辺の様子。
◆写真下は、四ノ坂下の自邸に設置した手塚緑敏Click!と林芙美子のアトリエ。は、1951年(昭和26)6月27日に「宮川」を出る生前最後の姿をとらえた林芙美子のショット。自宅にもどったあと、この夜に急死している。は、変わらない「宮川」のうな重。

読んだ!(20)  コメント(23) 
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コメント 23

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2021-11-17 15:06) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2021-11-17 15:06) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2021-11-17 15:07) 

ChinchikoPapa

トリックアートは、もっと多彩なテーマを取りあげたら面白いことができそうですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>tomi_tomiさん
by ChinchikoPapa (2021-11-17 15:18) 

ChinchikoPapa

花の新しい品種は、機密保護や情報漏えい防止がたいへんだとうかがったことがあります。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2021-11-17 15:20) 

ChinchikoPapa

レンコンは普段からけっこう食べているので、クワイとかユリの根とか正月ならではの野菜が食べたくなります。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyokiyoさん
by ChinchikoPapa (2021-11-17 15:21) 

ChinchikoPapa

ジャケットの「メディテーション」を通りこして、なんとなく入眠してしまいそうなサウンドです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2021-11-17 15:25) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>じーバトさん
by ChinchikoPapa (2021-11-17 15:26) 

ChinchikoPapa

そういえばここ数年、展望台に立ったことは何度かありますが、20年以上は観覧車には乗っていません。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2021-11-17 15:28) 

ChinchikoPapa

ご訪問と「読んだ!」ボタンを、ありがとうございました。>U3さん
by ChinchikoPapa (2021-11-17 17:35) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ふるたによしひささん
by ChinchikoPapa (2021-11-17 20:18) 

ChinchikoPapa

天道の街は、さすがにおてんとうさまが似合いそうな町ですね。最近、ほとんど無縁の壜詰めオイルサーディンにはまっています。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2021-11-17 22:19) 

ChinchikoPapa

「マウント」(この用語は嫌いです)は、受け手の側にも精神的なテーマがありそうです。事実を話しているだけで、「マウントされた」と感じる被害意識が強いコンプレックスの課題ですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>サボテンさん
by ChinchikoPapa (2021-11-18 10:00) 

ChinchikoPapa

ご近所に、毎年この時期になると丹精こめた大輪の菊を咲かせていたお宅があったのですが、家を手放されてしまったのか今年は咲きませんでした。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>hirometaiさん
by ChinchikoPapa (2021-11-18 10:03) 

ChinchikoPapa

今年は気温が高いせいか、家の周辺ではイチョウも青いままで、なかなか紅葉がはじまらないようです。モミジは橙色に変色しましたが、真っ赤になるには暖かすぎますね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>tarouさん
by ChinchikoPapa (2021-11-18 16:24) 

ChinchikoPapa

ワインといえば“赤”ばかり選んでいましたが、正月は魚介類も数多く食卓にあがるため、たまには“白”もいいですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>fumikoさん
by ChinchikoPapa (2021-11-19 09:57) 

ChinchikoPapa

ブログ開設16年目、おめでとうございます。わたしも来週、スタートから18年目を迎えます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2021-11-19 16:57) 

ChinchikoPapa

リクエストのできないJAZZバーはわかりませんが、JAZZ喫茶が激減しているのに寂しさを憶えるこのごろです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>(。・_・。)2kさん
by ChinchikoPapa (2021-11-21 20:19) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>yamさん
by ChinchikoPapa (2021-11-21 20:19) 

kazg

「読んだ!」ボタン、押し忘れでした(汗)
by kazg (2021-11-25 14:25) 

ChinchikoPapa

kazgさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
かえって、お手数をおかけしているようで恐縮です。
ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2021-11-25 14:32) 

kazg

>かえって、お手数をおかけしているようで
いえ、とんでもございません。私の方こそそう申し上げなければなりませんが、訪問のご挨拶を残すことは、私自身の(一人勝手な)得心のためですので、ご容赦下さい。
by kazg (2021-11-25 14:40) 

ChinchikoPapa

kazgさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。<(_ _)>
by ChinchikoPapa (2021-11-25 15:04) 

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