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富永哲夫博士による家庭衛生の常識。(5) [気になる下落合]

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 富永哲夫Click!『家庭衛生の常識』Click!(帝國生命保険/1932年)は、大正末から昭和初期にかけて人々の生活における衛生面で、どのような課題が存在していたのかを具体的に教えてくれる小冊子だ。換言すれば、当時の人々はどのような衛生課題に直面し、それらを怖れると同時に真正面から向きあい、どのような方法で解決し克服しようとしていたかを知ることができる情報源ともいえる。
 今回の食物に関するテーマも、当時の人々が日常的に悩まされていた課題のひとつだ。もっとも大きな食べ物の課題は、肉魚類や野菜などに付着している寄生虫卵を体内へ取りこんで起きる寄生虫症、次いでそれらに付着した細菌によってもたらされる疫病、そして当時から問題視されていた食品添加物の毒性だ。今回は3つの課題のうち、当時はきわめて深刻だった寄生虫感染について取りあげてみたい。
 寄生虫については今日では想像ができないほど、多くの日本人が寄生虫症に感染していた。それは、寄生虫の知識が社会へ浸透していなかったため動物の肉を生のまま、あるいは十分に火を通さずに食べてしまうことによる感染や、特に青果類は現在のように安全な有機肥料や化学肥料ではなく、人の糞尿が多用されていたため、感染者から排泄されたものが生育する野菜や果物に付着し、それを生食することによって感染者が増加し拡散するという、負のサイクルが存在したからだ。
 わたしが子どものころ、いまだに化学肥料ではなく人間や家畜の糞尿を用いて育てられた青果類が多く流通し、小学校では必ずカイチュウやギョウチュウの検査が行われていた。現代でも寄生虫病は昔話ではなく、野菜や果実を食べてカイチュウに寄生された人は、海外から輸入された野菜などをよく洗わず、また加熱せずに食べたケースが多い。日本国内ではほとんど発生していないが、海外では寄生虫による疾患はそれほどめずらしい事例ではない点に留意すべきだろう。
 また、現代では肉や魚に火を通さず生食で食べたために、寄生虫症を発症することが多い。ことにウシやブタの生食は要注意で、海外からの輸入品には生食を前提としないで育てられた肉が多いため、寄生虫の温床となっているようだ。また、近ごろよく聞くのはサケやマスなどの川魚からの感染で、寿司や刺身で食べたことによる寄生だろう。
 国内に出まわっている生食用のサケやマスは、「養殖だから安全」という“神話”が崩れたのは記憶に新しい。生食用として売られていた魚に、海外からの輸入品(もちろん安価だから輸入した養殖ではない個体)が混じっていたことにより、寄生虫(裂頭条虫や線虫)がまぎれこんでいたようだ。利潤を上げるためには、なんでもやってしまうのが資本主義だというのを忘れてはならず、自身の判断による注意や警戒が必要なのだろう。線虫(アニサキスなど)は、サバやアジ、イワシ、サンマ、カツオ、イカなどにも寄生しているので、刺身や寿司を好む国民に気をつけようといっても限界があるのかもしれないが。
 それでも、昭和初期における寄生虫の被害は今日の比ではなく、特に農村部では寄生虫を保有しない人のほうが、むしろまれであることが統計で確認されている。東京市衛生試験所が実施した調査を、『家庭衛生の常識』から引用してみよう。
  
 過般東京市衛生試験所に於て、市内小学校児童五〇,七二一人の検便を行つた結果、その二四.三三%、即ち一二,三四一人の寄生虫の保有者であることが判明した。その内最も多いのは回虫の九,五九九人。これに次ぎ鞭虫の二,九三三人。その他条虫、十二指腸虫、蟯虫等少からぬ数字を示して居る。元来寄生虫は都会に於ては割合に少く、田舎に多いものであるから、日本全国に於ては非常な多数の寄生虫保有者があるものと云はねばならぬ。/先年内務省に於て静岡、山口、秋田、福井、愛媛、奈良、佐賀、島根及び群馬の九県の各一ケ村宛につき一七,六九八人の寄生虫検査を行つた結果、一五,一七二人に寄生虫が宿つてゐた。即ち八割五分余は罹患者で、僅かに一割五分の人に寄生虫を見なかつたのである。/最近寄生虫予防法案が発布され、その予防に努力するに至つたのもこれが為めである。
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 各地域で無作為に行った調査検診では、実に85.7%の人々がなんらかの寄生虫を保有していたというデータが残っている。つまり、寄生虫のいない人のほうがめずらしい状況だ。また、上記の東京市内の検査でも明らかなように、体内にいる寄生虫は1種類ではなく、複数種の寄生虫に感染している人も多かったとみられる。
 文中で条虫(ジョウチュウ)と書かれているのは、いわゆるサナダムシなどと呼ばれる寄生虫で、半焼けの豚肉を食べることで寄生し2~3mの長さにまで成長する有鈎(ゆうこう)条虫、生または生焼けの牛肉やヒツジ肉、ヤギ肉で体内に入り4~8mに達する無鈎条虫、サケ・マスやクジラなどの刺身で体内に侵入する裂頭条虫などに分類されている。これらの寄生虫が体内に入ると、貧血や食欲不振、下痢、腹部の不快感などが起きるが、感染に気づかずにすごす人たちも多かったようだ。
 昭和初期の当時、もっとも広くかつ多くの人々に感染していたのはカイチュウ(回虫)だが、特に子どもたちが保有している割合が高いのが特徴だった。飲料水(井戸水または用水)や野菜などにカイチュウの卵が混じり、飲料水は煮沸せずに、野菜は生のまま食べるとすぐに感染する。当時は、畑の肥料として糞尿をまくことが一般的に行われており、また糞尿の桶を井戸や用水で洗い流すことで感染が拡がりやすかったのだろう。
 東京市衛生試験所が検査した、市内に出まわる野菜のカイチュウ卵の付着率データが残っている。それを参照すると、いわゆる葉もの野菜の着卵率が60~80%非常に高かったことがわかる。同冊子より、再び引用してみよう。
  
 市内に販売せらるゝ野菜につき回虫卵の有無を検査せるに、次表の如く白菜に於ては八〇.〇%、ほうれん草に於ては七八.五%等、非常な多数に於て虫卵を認めるのである。従つて野菜は総て回虫卵を保有するものと心得て、調理前に充分丁寧に洗滌し、更に八〇度以上の熱湯を通せば安全である。又「クロール」石灰一〇万倍位の溶液に暫時浸して後、清浄な水で洗ふもよい。/十二指腸虫は皮膚を通して侵入することが多いが、又糞便と共に排泄せられた虫卵が飲食物に付着して、その生食に因り感染することも少くない。かゝる感染は主として野菜によるものであるから、回虫に於けると同様の注意をすれば予防されるのである。/尚この外肺臓「ヂストマ」、肝臓「ヂストマ」等も、蟹或は淡水魚等の生食に因り感染するものであるから、かゝるものゝ生食は避けなければならぬ。
  
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 昭和初期の回虫卵付着率の統計データを見ると、「葫蔔蔔」(にんじん)や「牛蒡」(ごぼう)からは寄生虫卵は検出されていないが、同じ根菜類の「大根」や「若牛蒡」などから検出されているのが興味深い。これは、地上に出ている野菜は直接人糞などの肥料がかかりやすく、地下に伸びる野菜は肥料がかかりにくいということではなく、収穫後に洗浄した“洗い場”Click!や用水路などの水に問題があるのだろう。野菜を洗う水場で、同様に肥桶を洗っている可能性が高いとみられる。
 また、ネギ類でも長ネギに付着する寄生虫卵が61.5%、若ネギも60.0%と付着率が高いのに対し、玉ネギへの付着が16.6%と低いのは、寄生虫卵を含んだ肥料が縦長のネギと球状のネギとでは浸透度が異なるからだろう。同様に、葉が開き気味な白菜への付着率が80.0%ときわめて高く、葉が丸く密着して閉じ気味なキャベツが7.6%と低いのも、内部への肥料の浸透度に由来するものと思われる。
 戦後、人糞を用いた肥料が減少し、かわりに魚介類をベースにした有機肥料や化学肥料が普及するにつれ、寄生虫症は徐々に減っていった。それでも、わたしが子どものころまでは検便によるカイチュウ卵検査や、粘着テープによるギョウチュウ検査などが実施されていた。現在でも、粘着テープを使ったギョウチュウ検査は、幼稚園や小学校低学年で実施しているところが多いと聞いている。
 現代の寄生虫症でもっとも多いのは、生(なま)や生焼けの魚や肉から感染するアニサキス症だ。国立感染症研究所のデータでは、2005年(平成17)から2011年(平成23)までの7年間にわたる、約33万人を検査対象とした分母データに対し、アニサキス症に感染していた患者は7,147人だった。すなわち、日本人の約2.2%の人たち(約286万人)がアニサキスに感染している可能性があり、年間には約1,000人余の人々が自覚症状の有無にかかわらず、生食や生焼けの魚や肉を食べて感染している可能性がありそうだ。
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 もうひとつ、エキノコックス(条虫類)の発生は、従来はキタキツネからといわれていたが、他地域でもキツネ経由とは異なる、ブタを宿主とする別タイプのエキノコックス症例も確認されており、感染した家畜の肉を食べないのはもちろん、検査をすり抜けた家畜の肉が出まわる可能性も考慮すると、やはり生食や生焼けの肉は避けたほうが無難なのだろう。

◆写真上:下落合に残る野菜畑で、大江戸(おえど)時代から150万人の市街地人口を養うために、江戸の近郊農家で作付けされる野菜は種類も量も豊富だった。
◆写真中上は、落合ダイコンの栽培。は、青首にするための作付け。は、1925年(大正14)制作の曾宮一念Click!『冬日』Click!(部分)に描かれた諏訪谷の“洗い場”。下落合東部で収穫された、ダイコンやゴボウが洗われて市場へ出荷されていた。
◆写真中下は、昭和初期には感染率が高かったカイチュウの標本。寄生虫に興味のある方は、目黒区下目黒4丁目にある目黒寄生虫館は必見だ。は、東京市衛生試験所が調査した同冊子の「市販野菜ニ附着セル回虫卵検出率表」。
◆写真下は、長ネギ畑。は、寄生虫卵の多かった白菜と少なかったキャベツ。

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コメント 2

アヨアン・イゴカー

子供の頃一度だけ寄生虫がいると診断され、一度だけサントニンを飲まされたことがありますが、世の中が黄色に見てて、妙な感じでした。あれ以降、寄生虫はいなかったと思います^^;
当時は結構、寄生虫がいたようです。
by アヨアン・イゴカー (2022-01-28 23:19) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーコメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
親が、寄生虫の駆除剤を飲むと「みんな黄色に見えるよ」といっていましたが、ほんとうだったんですね。きっと、親の世代はたいてい飲んでいたものでしょうか。わたしは寿司が好きなので、ちょっと心配です。
by ChinchikoPapa (2022-01-29 11:13) 

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