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富永哲夫博士による家庭衛生の常識。(7) [気になる下落合]

蚊取り線香.jpg
 現在でも、下落合で悩まされている害虫にヤブカ(薮蚊)がいる。正確には、ヒトスジシマカとかヤマトヤブカなどに分類されるようだが、あの縞々パンツをはいたやつに刺されると強烈なかゆみが襲ってくる。樹木が多く繁り、森林の中に泉や池があるような環境では、ヤブカの大量発生はやむをえないのだろう。イエカ(家蚊)とちがい、蚊取り線香の煙ではなかなか死なず、しぶとく人間の吸血をねらって襲来を繰り返す。
 害虫の中でも、人間に寄生・依存して生きるものは、おおまかに「寄生虫」の範疇に分類され、カやノミ、ナンキンムシ(トコジラミ)などは「一時的寄生虫」に規定されている。これに対し、以前の記事Click!に登場した人体内に寄生して生きるカイチュウやジョウチュウなどは、「持久的寄生虫」として分類されている。昭和初期の規定なので、現代の衛生学上ではより細目な分類が行なわれているのかもしれない。
 昭和初期は、日常生活でもノミがそれほどめずらしくなかった時代で、1896年(明治29)に衛生学の生みの親である緒方正規が、台湾でペスト(黒死病)の流行はネズミのノミが媒介することを突きとめ、以来、日本をはじめ世界各国ではノミの撲滅運動が盛んになった。緒方正規の研究によれば、ペストの流行は人間より先にネズミの集団内で起き、寄生したネズミが全滅してしまうと、今度はノミが人間に寄生してペストを流行させることが証明された。ヨーロッパでは、長い間「ペストはネズミが媒介する」といわれてきたが、ペスト菌を運んでいたのはネズミ自体ではなく、寄生するノミだったのだ。
 ノミは、一度に8~10個の卵を産み、1匹の雌ノミは一生に750~800個の産卵を繰り返すといわれている。卵(0.4~0.7mm)には粘着性がなく、人体や着物に産みつけられてもパラパラと床面や地上に落ち、暗い隙間などに吹き寄せられて孵化する。幼虫は、塵埃が多い家具の隙間や畳の目、畳下、床下などで棲息して12日前後で成虫となり跳躍しはじめる。ノミは直射日光を好まないが、ジメついた湿度の高い場所も苦手なようだ。
 以上のノミの性質を前提に、富永哲夫Click!『家庭衛生の常識』Click!(帝國生命保険/1932年)の中で、清潔を保ちさえすればノミの繁殖は防げるとしている。ノミが棲息しやすい日本間の場合、畳の目を「真空掃除機」で吸うのが理想的だが、よく絞った雑巾で拭きとるのも効果があると書いている。昭和初期、性能のいい「真空掃除機」=電気掃除機は輸入品が中心であり、しかもかなり高価だったので、庶民が手軽に購入するわけにはいかなかった。銀座の輸入家電専門店「マツダ・ランプ」Click!へ、しじゅう出かけていた新しもの好きな村山籌子Click!は、英国製の電気掃除機を使っていたが、村山知義Click!の目玉が飛びでるほどの高額だったろう。
 ノミは、塵埃の多い乾燥した場所を好むので、電気掃除機がいちばん効果的な駆除法だったようだが、薬品による駆除も紹介している。同冊子より、引用してみよう。
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 殺虫用薬品として最も有効なるは石油又は石油乳剤である。蚤は石油に対して極めて弱く殆んど瞬間に死滅するものである。五月頃、畳及び床を清掃して塵を払ひ、床板の上に二三枚の新聞紙を隙間なく敷き詰め、それに石油、石油乳剤、樟脳油、「クレゾール」等を噴霧にしてかけ、その上に畳を敷くのである。尚地面にも石油乳剤を撒布すれば充分効果を現はすことが出来る。/除虫菊粉即ち蚤取粉は有効ではあるが、蚤を昏朦麻痺の状態に陥れるのみにて撲滅の目的を達することは出来ぬ。即ち麻痺の状態にある蚤を集め処分する必要がある。/其他「ベンヂン」、「テレピン」油、「クレゾール」、「クレオリン」等も相当有効である。「ナフタリン」は五-六時間にて漸く奏功するものであるから、余り有効とは云ひ得ない。
  
 これらの薬物の使用は、今日ではカンベンしてほしい駆除法だ。家じゅうが、臭くなってたまらない。現在、外壁用のクレオソートClick!さえ条例によって禁止されている有毒物質なので、室内にこれらの薬物を噴霧したら、人体になんらかの影響があるだろう。
ネコノミ.jpg 米国GE真空掃除機1928.jpg
畳.jpg
室内燻蒸.jpg
 次に、カも深刻な病気をもたらす害虫で、フィラリア病や黄熱病、マラリアなどを媒介することが知られていた。また、コガタアカイエカと日本脳炎の因果関係が発見されるのは、富永哲夫が同冊子を書いてから3年後、1935年(昭和10)になってからのことだ。同年に、どうやら日本脳炎ウィルスがコガタアカイエカを媒介にして発症するらしいことが確認されている。また、2014年(平成26)にヒトスジシマカ(ヤブカ)がデングウィルスを媒介して、都内で100人を超えるデング熱患者が出たのは記憶に新しい。
 昭和初期は、道路が舗装されておらずあちこちに水たまりがあり、道路の側溝(下水溝)には蓋がされていなかったため、ボウフラが繁殖する温床となっていた。カの産卵は、一度に65~350個におよび2~5日でボウフラになる。4回ほどの脱皮のあと、蛹(さなぎ)になって成虫になるまで、およそ10~23日ほどかかる。カを撲滅するためには、ボウフラや蛹のうちに退治するのが肝要だとしている。また、できるだけ地面を平坦にして水たまりをつくらず、湧水源や池には魚を放しておけばカの発生は防げるとしている。
 だが、カの幼虫を駆除するのにも、富永哲夫は薬品を推奨している。
  
 水溜(みずたまり)に生存する幼虫の撲滅には石油が最も有効である。水面一平方米(メートル)につき三〇立方糎(センチメートル)の割合に石油を使用すれば充分である。一週間に一度づゝ石油を撒布すれば孑孑(ボウフラ)及び蛹を殺し蚊の発生を防ぎ充分目的を達することが出来る。/成虫の撲滅に対しては燻臭法として「テレピン」油、沃土(ヨウド)「フオルム」、薄荷(ハッカ)油、樟脳油等を用ひて効果がある。煙草、除虫菊、纈草根(けっそうこん=カノコソウのこと)、「ユーカリ」樹の葉等を燻煙しても効果がある。市中に販売せらるゝ蚊取り線香は主として除虫菊にて作らるゝものであるが、不良品が少なくないから注意を要するものである。(カッコ内引用者註)
  
 文中に「除虫菊」や「纈草根」の名称が出ているが、これらの植物は昭和初期には重要な栽培植物で、欧米諸国へ向け「除虫剤」として大量に輸出されていた。
 それにしても、水たまりやドブにいるボウフラなどを退治するのに、またしても臭い石油系の薬剤がいくつか紹介されているが、これでは街じゅうが臭くなってしまうではないか……との懸念がある。事実、わたしが物心つくころには、側溝(下水溝)へこれらの油性剤がいまだ多く撒かれ、住宅街全体が臭かった記憶がある。
 蚊取り線香(除虫菊など)やハッカ油は、現在でも「蚊除け」として使われているが、これらの衛生努力を重ねてもカの発生はほとんど抑えられず、結局、人々は蚊帳を吊って寝るのが常態だった。わたしが幼稚園へ通うころまで、緑色の蚊帳を自宅でも吊っていた記憶がうっすら残っているが、祖父の家へ出かけるとずいぶんあとまで蚊帳を見かけたものだ。。
ボウフラ.jpg ヤブカ.jpg
側溝排水溝.jpg
除虫菊.jpg カノコソウ.jpg
 さて、もっとも馴染みのない害虫がナンキンムシ(トコジラミ)だが、わたしは一度だけ友人の下宿で見たことがある。高校を卒業したばかりのころ、大学に通う友人のアパートへ遊びにいったら、「夕べ、つぶしてやったぜ」と、血を吸って4~5mmほどに大きくなった数匹の死骸を見せられた。夜に床へ入ると、なぜか背中や足のあたりがモゾモゾし、翌朝になると強烈なかゆみに襲われたとかで、自身の身体をオトリにして連日、ナンキンムシと戦争をしているようだった。薬剤を買えば、すぐにでも駆除できそうなものだが、友人はどこか「戦争」を楽しんでいるフシが見えた。
 ナンキンムシは、特に重篤な病気を媒介することはないが、刺されたあとのかゆみはカやノミよりも強烈という話だ。人をはじめ、動物の血を吸って生活している虫だが、エサに数ヶ月間ありつけなくても生きていられるしぶとい虫らしい。一度に7~8個の卵を産み、7~8週間で成虫になる。欧米諸国でも、ナンキンムシは悩みの種だったらしく、ベッドの脚をツルツルにして這いあがれなくしたり、ベッドの脚の先に水をためられる小さな容器を取りつけたりと、さまざまなナンキンムシ対策が考案されたようだ。
 富永哲夫はここでも、あとあとまで強烈に臭う薬物の使用を奨めている。
  
 揮発油、昇汞水(しょうこうすい)、「ストロハン」丁畿(チンキ)、「アルコホール」、錯酸(さくさん)、石炭酸、安息香酸、「ベンヂン」、「テレピン」油、石油、「クレシン」或は「フオルマリン」等を噴霧器により隙間に吹き込み、或は又硫黄燻蒸、硫化水素燻蒸、青酸瓦斯燻蒸、除虫菊燻蒸、「フオルマリン」蒸気或は熱蒸気法等を応用することがある。尤もこれ等の薬品並に方法は成虫を駆除するには有効であるが、卵には何等効果がない。従つて繰り返し行ふ必要がある。(カッコ内引用者註)
  
 アルコールはともかく、いずれも強い臭いが長く残る薬剤が多いが、「硫化水素燻蒸」とか「青酸瓦斯燻蒸」など、ヘタをすれば住民が「燻蒸」されかねない強烈な毒物だ。
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クレゾール.jpg テレピン油.jpg
樟脳油.jpg ホルマリン.jpg
 子どものころ、銀座の地蔵祭Click!かどこかで戦前からつづく、「三寸」=露天商Click!の見世による「おみくじウグイス」Click!を見たことがあるが、親父が子どものころには「ノミのサーカス」という見世物もあったそうだ。にわかには信じられなかったが、海外ではいまだ現役のようで、実際にノミが跳ねて空中ブランコに乗ったり、小さな遊具で遊んだりする。ウグイスとちがって、ノミに芸を仕こむのはたいへんだったろう。エサで釣って芸をおぼえさせるのだろうが、そのエサは露天商の手先から吸う生き血だったのかもしない。

◆写真上:侵入したカを退治するため、いまでもたまにお世話になる蚊取り線香。
◆写真中上上左は、ネコに寄生するネコノミ。上右は、1928年(昭和3)に発売された米国GE社の最新式「真空掃除機」。は、昭和初期の住宅は圧倒的に畳敷きの部屋が多かった。は、火を使わずに害虫を駆除できる現在の室内燻蒸。
◆写真中下は、カの幼虫のボウフラ()とヤブカ()。は、排水用に開けられた側溝口。は、明治以降は欧米にも盛んに輸出された除虫菊()とカノコソウ()。
◆写真下は、陽当たりの悪い湿った部屋に棲息するナンキンムシ(トコジラミ)。は、病院臭でおなじみのクレゾール石けん液()と、油絵には欠かせないテレピン油()。は、着物の防虫剤に使われる樟脳油()と、理科室の標本でおなじみのホルマリン()。

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ぼんぼちぼちぼち

樟脳って、油という状態でも売られていたのでやすね。
勉強になりやした。
by ぼんぼちぼちぼち (2022-02-12 09:39) 

ChinchikoPapa

ぼんぼちぼちぼちさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
わたしも、「衣類の防虫剤」として売られている樟脳しか、実際には見たことがありません。もとの原材料は樟脳油で、それを固形化したものなのかもしれませんね。
by ChinchikoPapa (2022-02-12 17:25) 

アヨアン・イゴカー

最近は、温暖化しているためでしょうか、かなり涼しくなってからも少し暖かい日には蚊が飛んでくることがあります。ちょっと、庭で土を掘ったりしていて、油断すると飛んできます。
質が悪いのは、アカイエカで、一週間以上腫れたままになります。どうも、アレルギーがあるようです。
ヤブカの方は、刺されたときだけ偉く痒いですが、痒みはすぐに引いてしまいます。
by アヨアン・イゴカー (2022-02-13 23:53) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントと「読んだ!」ボタンをありがとうございます。
うちは夏になると、ヤブカの襲来に悩まされます。家のまわりの草むしりなどしようものなら、いつの間に刺されたのか強烈なかゆみにみまわれますね。以来、夏の草むしりは懲りたのでやってません。
蚊に刺されたかゆみには、アサガオの葉をむしってその汁をつけるとよく効くと教えられたのでやってみましたが、これが不思議とよく効いて、かゆみがすぐになくなります。以来、ベランダでアサガオを育てるようになりました。
by ChinchikoPapa (2022-02-14 10:33) 

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