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21世紀には「寺じまい」が加速する。 [気になるエトセトラ]

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 これまで、東京地方にいた仏教の坊主Click!たちが、空襲が予想されるようになった1944年(昭和19)暮れあたりから1945年(昭和20)のはじめにかけて、檀家(信者)も堂宇も、寺の本尊も墓地(仏)も、法事も日々の勤行も、なにもかもいっさいがっさい放りだして、次々に東京から逃げていった経緯を何度か悪しざまに書いてきた。
 親父は、檀家寺の坊主がもっともらいしい理由をつけて、東京大空襲Click!の少し前に逃げだしていったことを、本気か冗談か生涯「敵前逃亡」と称して軽蔑していたが、当時の軍隊でいえば「敵前逃亡」は、その場でただちに銃殺を意味するコトバだ。
 それほど、檀家にとっては肉親の遺体が判明しても弔いさえ出せなかった許しがたい逃亡坊主たちが、説教師面(づら)しながら生死について語る欺瞞性や醜悪さに辟易していたのだろう。そんな東京地方の歴史をまったく考慮しない、勉強不足でなにも知らない京都のオバカ坊主たちが、『京都ぎらい』Click!によれば女の子のいる銀座のクラブだかキャバクラに僧衣のまま繰りだして、周囲を「凍りつかせた」エピソードClick!(「しもた、ここは京都とちがうんや」と凍りつかせただけで済んで、よかったね)もご紹介していた。
 わたしは、朝鮮半島経由のシャカ王国を起源とするこの外来宗教を、まったく信じてもいなければ尊重もしていない。両親も同様だったようで、戦後、江戸期から先祖代々の墓がある深川の寺を早々に見かぎり、現在は目白崖線つづきの小日向にある高台の無宗教墓に眠っている。もっとも、仏教という外来宗教は親世代からの伝承で嫌悪感をもよおすが、仏教美術(特に彫刻Click!)は少なからず好きだ。
 親父も同様で、子どものころから全国各地の堂宇Click!仏像Click!、それが展示されている宝物館や博物館などへ鑑賞に連れまわしてくれた。そのおかげか、わたしは特に鎌倉時代の仏師が彫りあげる豪壮な彫刻Click!が好きで、そこそこ名の知られた作品は(鎌倉期を問わず)ほとんど拝観しているのではないか。もっとも、これらの作品は仏教が比較的「マジメ」で、真摯な時代に創造されてきたものにはちがいない。
 さて、少子化や檀家の減少、無縁墓の増加、過疎化、無関心、あるいは東京地方のように東京大空襲Click!などの戦争体験から、危機的な状況を迎えた肝心なときに檀家(信者)の前から姿を消す外来宗教の坊主に対して、「てめえら、それでも宗教者か!」(失礼)という反感を抱く地域性などにより、このところ寺院の廃寺が止まらないようだ。
 たとえば、下落合では佐伯祐三Click!の実家である光徳寺Click!や、九条武子Click!の実家である西本願寺Click!浄土真宗本願寺派Click!では、文化庁の『宗教年鑑』によれば10,507院(1970年現在)あった寺が2020年には10,185院と、なんと242院も減少している。ちなみに、うちの檀家寺だった禅の曹洞宗だが、14,696院(1970年現在)あったのが14,497院(2020年)と、やはりマイナス152院に減少している。ニュースなどで「墓じまい」の話はよく聞くけれど、この統計からは「寺じまい」が加速している様子がうかがえる。
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 坊主の減少はもっと深刻で、浄土真宗本願寺派の場合はピーク時に28,894人(1995年)いたものが、2020年には19,206人と1万人近く減少(-9,689人)している。曹洞宗は16,765人(1995年)いたものが、浄土真宗本願寺派ほど深刻ではないにせよ2020年には15,563人と、マイナス1,202人を記録している。ただし、この数字は各宗派が文化庁に提出した僧籍簿をもとにしたもので、僧籍だけが帳簿に残り実際には宗教活動をしておらず、どこか一般企業に勤務して生活している人物(在家僧)も含まれているとみられる。
 中でも、曹洞宗の寺院数が全国で14,497院もあるのに、15,563人しか坊主がいないということは、野球でいえばリリーフピッチャーがひとりもおらず全試合、ときには他試合までを同一のピッチャーで投球しつづけなければならない……というのに等しい。なぜなら、15,563人の中には親子(住職・副住職)で経営している寺院もあるので、たったひとりで切り盛りしている寺の多くは、ケガをしようが病気になろうが法事は待ってはくれないので執行しなければならず、もしその坊主になにかあれば、すぐさま「寺じまい」を考えなければならないというのが現実のようだ。
 すでに兼務の寺々も、数多く出はじめているのだろう。事実、同宗派が2015年(平成27)に公表した「宗勢総合調査報告書」によれば、2005年(平成17)には19.5%だった全寺院における兼務寺院の割合が、10年後には22.2%と増加している。いまに兼務では手がまわらず、無住の寺院が増加して「寺じまい」が加速しそうな状況だ。
 当然、仏教を信仰する人間が減れば寺の収入も減少し、檀家が少なくなれば寺の経営を直撃する。「坊主まるもうけ」などといわれた時代は遠く去り、ほんの一部の裕福な観光寺や不動産業者兼地主と見まごう寺を除けば、年収200万円を切るような低所得にあえいで生活苦に悩む寺々も多いらしい。法事や寄進をする檀家が減り、雨漏りする屋根や崩落した軒先さえ修繕できない寺院もあるようだ。
 また、サラリーマンや企業の経営感覚をもちこむ坊主が急増し、宗教者としての質的な課題も多々あるようで、「本山」では頭を痛めているらしい。特に、先の浄土真宗本願寺派で1万人近くも坊主が減少しているのは、同宗が推進する「僧侶育成体系プロジェクト委員会」により、廃寺というよりも質的によくない坊主を淘汰したという側面もありそうだ。
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 そこで、各宗派とも坊主の養成には熱心なようで、宗門関係の学校や養成機関では奨学金や奨励金を設けて学生を集めるところも少なくない。また、「中高年出家プロジェクト」も盛んで、勤務先の会社を退職した、あるいは見切りをつけた人々を「第二人生プロジェクト」として僧籍にオルグする仕組みだ。坊主の減少を食い止めるためには、人材確保がまず第一の課題と位置づける宗派は多い。つまり、「僧侶資格」取得のために専門の学校を卒業していなくても、ある一定期間で決められたカリキュラムをこなす掛搭(修行のこと)を終えれば、それだけで僧籍を与えるという即席の簡易育成制度だ。
 うちの檀家寺だった、曹洞宗の事例を見てみよう。2022年に興山舎から発行された「月刊住職」2月号から、曹洞宗宗務庁教学部の担当者の言葉を引いてみる。
  
 曹洞宗に関係する学校を卒業や修了しなければ(僧籍の)資格を取得できないわけではありません。卒業あるいは終了した学校の種別に応じた、一定の僧堂掛搭期間を了ずることによって教師資格(僧の資格)を取得することができる制度としています。多様化する社会にあっては、教師資格取得に関する柔軟な制度であるとは考えています。(中略) 卒業した学校にかかわらず教師となることは可能ですが、駒澤大学や愛知学院大学といった、曹洞宗に関係する学校法人が運営する学校が多数あり、曹洞宗の教えを建学の理念等に掲げ、教育が実施されておりますので、教師養成としての学校として宗別で位置付けしております。さらには、教化機関としての学校として位置付けており、学生生徒が曹洞宗の教えに触れる機会となることから、関係学校と連携しながら、宗風の宣揚を図っていきたいと考えています。(カッコ内引用者註)
  
 「多様化する社会」とか「柔軟な制度」とか、まるで専門学校のパンフを読んでいるようだが、これではますます宗旨の本質を踏まえない「でもしか」即席坊主だらけで、より質的な課題が拡大しそうだと思うのだがいかがだろうか。どの宗教でも同じだと思うが、もっとも重要なのはにわか知識の詰めこみではなく現場での実践と経験ではないか。そして、信者の危機や苦悩に寄り添い「本山」(実際は「江戸の恥はかき捨て」で生まれ故郷だろう)などへ逃亡などせず、正面から向きあうことではないか。
 同誌には、寺院へICTを導入してVRツアー&参拝だのリモート墓参り、リモート除夜の鐘、デリバリー除夜の鐘、プロジェクションマッピングとライトアップイベント、勤行のライブ配信など、「御供養の新たなニーズに対応」する「コンセプト」のケーススタディが紹介され、より仏教を手軽で身近になどという記事が掲載されているけれど、どこか根本的なところでまちがっているような気がする。
 宗教は、道具立てや堂宇の風情や、催事や観光めあての仕掛けではなく、どこまでいっても“人”であり人望であり、信望であり徳望だと思うのだが、それを亡くし形骸化して久しい外来宗教には、むしろふさわしい末期的な症状というべきだろうか。
 余談だが、除夜の鐘はもともと禅寺で撞かれたもので、宗派を問わず撞かれるようになったのは、NHKの中継放送からだという研究者の説がある。『宗教年鑑』によれば全国の寺院75,495院(2021年現在)のうち、鐘楼がある寺院は全体の25%前後にすぎないそうだ。
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 いまでは茶の湯用語として知られる【一期一会】だが、本来は仏教用語から引かれたもので、生涯に一度あるかないかの生命の瀬戸際に立たされた空襲前夜、尻に帆かけて東京から逃亡していった不マジメな坊主たちを、いったい誰が信用するだろうか。銀座のクラブだかキャバクラへ、女の子めあてに繰りだす京都のふざけた僧衣坊主も同様だが、腐敗し堕落した外来宗教に明日はない。仏教の衰退に、再びシャカ用語を借りればいまさら【四苦八苦】するのは、堕落のはてに反感と無関心を助長する、文字どおり【自業自得】ではないか。

◆写真:とりあえず廃寺の心配がなさそうな、各地にある有名な寺々。伽藍を見ただけで寺名を当てられる方は「お寺通」で、いまや宗門にとってはありがたいクライアントだろう。

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Marigreen

私の檀家寺は真言宗ですが、私も信仰している訳でなく、神道も含めて冠婚葬祭の儀式の言わば旗振り役として利用しています。積極的な無神論者ではないですが、現在ある宗教のどれにも帰依していません。好みとしてはキリスト教が一番好きですが、これにも帰依していません。只なんか大いなるものがあるのではないか?と漠然と思っています。それでないと善悪の弁別もできないし、道徳もないでしょう?
by Marigreen (2022-03-20 16:57) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
わたしは、過去に戦争ばかり起こしている一神教は、生理的にダメですね。どちらかといえば、あらゆる生命は奇跡のような偶然や必然を繰り返し、科学では説明しきれない「神が宿っている」ように見える、日本のアニミズムに近い感覚でしょうか。(理性ではなく、あくまでも感覚ですが)
そのようなモノの見方を、「野蛮の未開宗教」とさんざん蔑視してきた、仏教もキリスト教もイスラム教も嫌悪感を催しますね。彼らの宗教のほうが、よほど人を殺して平然としている史的な「野蛮の未開宗教」のように見えています。
by ChinchikoPapa (2022-03-20 21:43) 

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