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落合には37基の古墳が記録されている。(上) [気になる下落合]

蘭搭坂途中.JPG
 大正期から昭和初期にかけ、上落合と下落合には合わせて37基の古墳が記録されていた。ただし、葛ヶ谷地域(現・西落合)は未調査Click!だったと思われ、実数はもっと多かったのではないか。もちろん、1966年(昭和41)7月15日に発見された下落合横穴古墳群Click!は、このカウントに含まれていない。わたしの想定していたよりもはるかに多くの古墳群が、大正末から昭和初期まで残され確認できていたのがわかる。
 上落合と下落合をたんねんに歩き、ときに鳥居龍蔵Click!らとともに地元の古墳を発掘・調査、そして記録しつづけたのは、大正期から月見岡八幡社Click!の宮司をつとめていた守谷源次郎Click!の仕事だ。彼は、戸塚から落合、大久保にかけて色濃く残っていた「百八塚」Click!の伝承を強く意識していたとみられ、考古学に関する豊富な知識と、現場を訪れて描くていねいなスケッチとで、地元にとってはかけがえのない一級資料を残してくれている。また、神社の宮司だったにもかかわらず薩長政府の皇国史観Click!に収斂せず、落合へ鳥居龍蔵を招聘しているように人文科学的な視座Click!も備えていた稀有な人物だ。
 その中には、わたしの知らない、あるいは下落合でさえ知る人のほとんどいない古墳群までが含まれており、現在では確認しようにもとうに墳丘が崩され、住宅街の下に埋没したものがほとんどだ。つまり、宅地化が進む昭和初期まで残されていた古墳は、裏返せばすでに37基しか残されていなかったということにもなり、こちらでも何度か記事にしている大型古墳Click!の痕跡らしい多様な正円フォルムClick!は、江戸期から農地開墾で崩されたり、寺社の境内にされていたとみられるため、37基の中には含まれていない。
 月見岡八幡社の守谷宮司は、同社の瓢箪型をした境内(1962年に現在地へ移転する前の境内=現在は境内跡の西側の一部のみが八幡公園)を、大型の前方後円墳ではないかととらえており、おそらく境内の西側と北側にあった小規模な円墳ないしは小型の前方後円墳を、主墳に付随する陪墳ではないかとみて、37基の中にカウントしている。また、地図上には1基として記載されている古墳でも、同一場所で複数の墳丘が描かれているスケッチも残されており(大塚浅間古墳エリアのケース)、厳密にいえば37基は37エリアという意味になり、古墳の実数はもっと多かったのではないかと推定できる。
 1980年(昭和55)に出版された守谷源次郎・著/守谷譲・編『移利行久影(うつりゆくかげ)』(非売品)の中から、戦災により焼失する以前の月見岡八幡社の全景を描いた絵に添えられた、著者のキャプションより引用してみよう。
  
 戦災前最古の神社として町人が崇め続けた「月見岡八幡社」の全景。/前方後円墳風な地形といい、石器、土器、埋葬、遺蹟をも包含した境内は、大樹小木密生して本社を取りまき、八幡神社の大景を作り出した状景は、夜空に照り映ゆ月が数多の星を従えて高天短天の中津空に音も立てず静かに座します状に似たものを感じさせる。この神社も一夜にして昭和二十年五月二十五日の戦禍に焼失してしまった。
  
 境内から出土した土器の中に、縄文式や弥生式のものに加え、素焼きの埴輪片が混じってなかったかが非常に気になるところだ。
下落合東部.jpg
藤稲荷の丘.JPG
権兵衛坂神木.JPG
 まず、下落合から見ていこう。御留山の斜面に建つ藤稲荷Click!には、横穴(おうけつ)古墳が1基採取されている。おそらく、藤稲荷の本殿・拝殿がある丘の斜面に穿たれた横穴式の古墳で、下落合横穴古墳群と同じような仕様だったのだろう。
 つづいて、七曲坂Click!の中途(東側)の丘上には円墳(ないしは前方後円墳)が1基確認できる。鳥居のマークが付いているので、大正期までなんらかの祠か小さな社(やしろ)が奉られていたのだろう。ひょっとすると、昌蓮Click!が設置した祠がそのまま残っていたのかもしれない。場所は、権兵衛坂の中腹にある十返肇Click!十返千鶴子邸Click!の庭先にあったとみられる神木Click!と、七曲坂の間あたりの丘上に位置する。
 ただし、このあとにご紹介する「円墳」とされている古墳も、前方部が崩されて後円部しか残らなかったケースの可能性が多々あり、戦前には「円墳」とされていたものが戦後の緻密な発掘調査で、実は前方後円墳(あるいは帆立貝式古墳)だったことが判明した事例が、1980年代より現代まで連綿とつづいているのは周知のとおりだ。
 次に、下落合弁天社Click!の西並びにも、円墳として1基が採取されている。当時は、その背後の急峻な斜面に隠れていた下落合横穴古墳群は未発見であり、斜面の丘下には別の古墳が存在していたのだろう。わたしが想定している、下落合摺鉢山古墳(仮)Click!に付属していた陪墳のひとつなのかもしれない。
 いつか、下落合の“ニキビ”Click!としてご紹介していた、地面から突きでた円墳状の正円突起について、すなわち曾宮一念アトリエClick!蕗谷虹児アトリエClick!の前にあった1基、西坂の坂上にあった1基、そして第一文化村Click!の1基については、守谷源次郎が調査をしているさなかに崩されるか、あるいはそれ以前に当該エリアの宅地開発で消滅してしまったものと思われる。少なくとも大正末まで、それらの円墳状の突起が残されていれば、当然、守谷源次郎の目にとまり現地調査をしていただろう。
 つづいて、現在の六天坂Click!が通う斜面に円墳が1基記録されている。おそらく、第六天Click!の祠が坂下に移される以前、本来の境内があったと思われる位置に存在したのではないだろうか。そして、六天坂の西側の急峻な斜面には横穴古墳群が展開していたようで、2基の横穴古墳が地図に記載されている。現在は、山手通りの貫通でほぼ全的に消滅してしまった、六天坂と振り子坂Click!との間に通っていた矢田坂Click!の斜面にも、先の2基の古墳と対面するように横穴古墳が1基記録されている。
下落合弁天社.JPG
下落合中部.jpg
六天坂西側斜面.jpg
 さらに、下落合の西側へ目を向けてみよう。蘭塔坂Click!(二ノ坂)の坂上近くにあった墓地の南側に、大きなめな円墳記号が印されている。下落合に記入された古墳記号では最大のもので、守谷源次郎が作成した地図では、落合富士Click!にされていた大塚浅間古墳Click!に匹敵するサイズだ。明らかに塚状の円墳ないしは前方後円墳(前方部が欠損したもの)があったとみられ、地元ではなんらかの禁忌エリアClick!の伝承がつづいていたものか、近世に入って附近の住民たちの墓域にされていたとみられる。
 そのさらに西側には、目白学園Click!のキャンパス内に、同様の円墳が1基採取されている。同所は旧石器時代Click!にはじまり、縄文時代から現代までつづく重層遺跡の落合遺跡Click!が発見されたエリアで、その中の古墳時代の遺構(近代まで残りやすい古墳)が、昭和初期まで残存していた可能性が高い。落合遺跡Click!が発見されるのは、守谷源次郎が同古墳の存在を採取してから、戦争をはさみ20年以上のちの時代のことだ。
 同様に、目白学園の南西に位置する中井御霊社Click!には、中規模の円墳が3基に小規模なものが2基ほど採取されている。中井御霊社もまた、そもそもの境内が高台に造営された大型古墳のひとつだったと仮定すると、これらバッケが原Click!が一望できる西側に集中する中小の古墳群は、主墳の後円部に付属する陪墳の可能性がありそうだ。
 以上が、守谷源次郎の調査による大正末から昭和初期まで残存していた、下落合の古墳あるいは古墳の残滓だ。数えてみると14基ほどだが、これほど古墳数が少なかったとはどうしても思えない。先の“ニキビ”の事例もそうだし、1966年(昭和41)発見の下落合横穴古墳群もそうだが、地図から漏れている古墳、あるいは未発見のまま破壊された古墳はかなり多数にのぼるのだろう。
 また、守谷宮司がいるのは上落合の月見岡八幡社であり、当然、下落合よりも地元である上落合の地勢のほうが、よほど詳しかったにちがいない。同時に、箱根土地Click!東京土地住宅Click!など大手ディベロッパーによって、大規模な開発が急速に進む下落合に対し、耕地整理が進捗中だった上落合のほうが、往古からの地形がそのままで古墳が発見しやすかったという事情もあるとみられる。
 それは、下落合に記載された古墳の所在地が、大正末から昭和初期にかけて宅地造成の進んでいない未開発の地域、あるいは社(やしろ)の境内で手つかずの場所であることからもうかがえる。また、下落合の北西に位置する葛ヶ谷(現・西落合)は未調査のままだったようで、こちらの記事でご紹介している丸塚Click!や四ツ塚などの記載が漏れているのは、仕事の手がまわらなかったのだろう。
下落合西部.jpg
御霊坂.JPG
中井御霊神社.JPG
 次回は、上落合とその周辺域に残っていた古墳群をご紹介したいが、下落合とは異なり守谷宮司は近所で訪れやすかったせいか、すでに消滅してしまった古墳群のていねいなスケッチも残している。現代では、かけがえのない貴重なビジュアル証言といえるだろう。
                                <つづく>

◆写真上:比較的大型の古墳があり、大正期までは墓域にされていた蘭搭坂(二ノ坂)の丘上あたり。大谷石の築垣は、現在は解体されて存在しない。
◆写真中上は、『移利行久影』に添付の「上落合附近上古之図」に採取された古墳群。守谷源次郎が調査・記録したもので、下落合東部の状況。は、昭和初期まで横穴古墳があった藤稲荷の杜。は、権兵衛山の神木があった十返千鶴子邸跡。古墳は、その神木と七曲坂の丘上の中間あたりに位置していた。
◆写真中下は、下落合弁天社の西側敷地で、正面にはのちに下落合横穴古墳群が発見される急斜面があった。は、「上落合附近上古之図」に採取された下落合中部の古墳群。は、大正期には第六天の境内だったとみられる六天坂西側の斜面。
◆写真下は、「上落合附近上古之図」に採取された下落合西部の古墳群。は、中井御霊社の西側に通う御霊坂。古墳群は、坂を上がった左手の丘上にあった。は、中井御霊社の拝殿で、古墳群はその裏手から右手にかけて展開していた。

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pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。またまた古墳の話ですね。落合地域にも数多くの古墳が存在することに驚きました。古墳とは異なりますが、戦時中は防空壕も多かったでしょうね。戦争、地震となにかと暗いご時世です。隣国からミサイルが飛んできたら、今なら大江戸線に駆け込むことになるのでしょうか?!
by pinkich (2022-03-19 08:14) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
横穴式の古墳を拡張して、戦時中の防空壕にしていた例はけっこう多いです。あるいは、田畑のある農村地域では、やはり拡張して農具置き場や貯蔵庫に使われていた例もあります。同じ墓所でも古墳期ではないですが、鎌倉に多い「やぐら」も戦時中は拡張されて防空壕にされていたケースが多々ありますね。
大江戸線は深いので、東西線よりは安全かもしれませんが、ミサイルが「核」であれば地上には出られなくなり、そのまま地底をさまようことになりますね。
by ChinchikoPapa (2022-03-19 13:30) 

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