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ネコを「虎」と強弁する大橋の見世物小屋。 [気になる猫]

両国広小路跡(本所).JPG
 江戸期の大橋(両国橋)Click!の西詰めと東詰めには、延焼防止のための広場に近い道路が設置され、両国広小路Click!と呼ばれていた。そして、日本橋側の米沢町の北側をおおざっぱに西両国(現・東日本橋)、本所側の南本所元町あたりを東両国と通称していた。もっとも、現在の大橋(両国橋)は本来の位置から40~50mほど北側に移動して架けられているので、当時の広小路は本所側にその道筋の一部が残っているにすぎない。(冒頭写真)
 この当時は江戸一の繁華街だった大橋の両詰めで、江戸後期には盛んに見世物が小屋がけしていた。「小屋」といっても、40間×11間(約72.8m×約20m)もある巨大な建物や、高さが4~5階建てのビルに匹敵する「小屋」もあり、明治以降や今日イメージする見世物小屋とはまったく異なる建造物だ。浮世絵にも描かれ、江戸東京博物館には大橋のジオラマも展示されているので、ご存じの方も多いかもしれない。余談だが、わたしの先祖はすでに西両国の南側に位置する日本橋米沢町ないしはは薬研堀界隈Click!に住んでいたので、新しい見世物がかかるとさっそく見物しに出かけていっただろう。
 見世物小屋は当時、大橋の両詰めと浅草の奥山が有名で、大橋は本所側にある回向院Click!の催事に合わせ、奥山は浅草寺Click!の催事に合わせて開催されるのが一般的だった。江戸期の見世物は、明治以降に流行った淫靡猥雑なコンテンツとはかなり異なり、見世物文化研究所の川添裕の分類によれば細工ものや曲芸・演芸もの、動物もの、そして人間ものに分類されるといい、特に多かったのが細工ものと曲芸・演芸ものだった。
 細工の見世物というのは、ギヤマン(ガラス)や貝殻などを使った巨大細工、編み籠や竹細工、一文銭などを用いた大きな人物像や動物など、今日でいえばテーマパークや遊園地、リゾート地などにありそうな趣向のものだった。美術的ないい方をすれば、それらは江戸の巨大なインスタレーションと呼べなくもない作品群だ。本来は別の目的のために作られたモノ(たとえば竹籠)が、高さ2丈6尺(約8m)もの三国志に登場する関羽に姿を変えてしまうところが、細工見世物の面白さとダイナミズムだったのだろう。曲芸・演芸ものは、その名のとおり今日のサーカスやマジックショーのような見世物だ。
 これらの見世物で当たり(ヒット)をとると、ゆうに数千両の売上があったというから、当時の商売としては最大のイベント興行だったろう。ひとたび大ヒットすれば、芝居(歌舞伎)小屋の収益を大きく上まわったというから、全国各地の寺社が見世物小屋を勧請したがるのも無理はなかった。川添裕によれば、大当たりの見世物は武家や町人を問わず、大江戸(おえど)の全人口の半分(70~80万人)が押しかけるような盛況だったという。大江戸では、そんな見世物小屋が参集するのは、広小路(広場状の火除地)のある大橋(両国橋)と、外濠(神田川)の浅草御門(浅草見附)の彼方にある浅草寺裏の奥山が中心だった。
 見世物の大多数は、細工ものと曲芸・演芸ものが主流だったが、回数はそれほど多くはないものの動物見世物も大きな話題を呼んでいる。特に、海外の動物はほとんど誰も見たことがなかったため、そのたびに大騒ぎとなった。まず、1824年(文政7)には駱駝(ヒトコブラクダ)の夫婦が江戸にやってきて、にわかにラクダブームが起きている。入場者数は1日に5,000人といわれ、6ヵ月ものロングラン興行だったという。
広重「東都名所両国橋夕涼全図」.jpg
広重「東都名所両国橋夕涼全図」部分.jpg
国安「駱駝之図」1824.jpg
かつ川長徳斎「海獣俗よんで海怪うみのおばけ」1838.jpg
 その入場料による収益は数千両にのぼり、ラクダにちなんだ多種多様なグッズの売上も含めると、莫大な利益が計上されたのだろう。ラクダは、オシドリと同様に夫婦和合の象徴とされる動物で、また麻疹(はしか)や疱瘡(天然痘)の予防にきくなどといわれ、さまざまなご利益グッズが作られ販売されている。2頭のラクダは、その後、10年以上にわたって日本全国を巡業してまわったというから、その人気のほどがうかがわれる。
 次に、1838年(天保9)にはアザラシの見世物小屋が大橋詰めに建った。相模湾で漁師の網にかかったもので、以前から馬入川(相模川)の河口域で2頭の海獣が目撃されていた。いまでこそ、前世紀よりはきれいになった多摩川や荒川、中川などでアザラシはたまに目撃されているが、当時は見たことがない人々が多かったせいか、たちまち大評判となった。愛嬌のあるアザラシのことを、「海怪(うみおばけ)」などと呼んで囃し立てているところをみると、当初は海の「怪獣」として売りだそうとしていたものだろうか。
 1851年(嘉永4)には虎(トラ)の見世物小屋が両国橋に建った……が、斎藤月岑の日記に挿入された絵を見ても、どうしてもトラには見えずネコなのだ。2021年4月28日発行の日本経済新聞に掲載された、藤原重雄「日本史のネコ十選」より引用してみよう。
  
 豊後(大分県)から生け捕ってきたもので、小犬の大きさで尾が太く、とても太っていて、薄鼠色に茶色の斑があり、生餌を食した。別の随筆では、鳴き声が聞こえないように拍子木でごまかしていたといい、月岑も「虎にあらず猫の一種なり」と記している。また別の記録では、対馬で捕獲したとしており、月岑が記す特徴からも、ツシマヤマネコであったらしい。真実を明かした方が、今日では珍しがられたかもしれない。
  
 大分県にトラが棲息していたというのは、かつて一度も見聞きしたことがないし、ニャンコのような鳴き声だったというから記事の想定が正しいのだろう。身体が「小犬」ほどのサイズというから、対馬でツシマヤマネコの幼体をひろったものだろうか。
斎藤月岑日記「虎」18511021.jpg
ツシマヤマネコ.jpg
オトメヤマネコ.jpg
 ニャーオという鳴き声を、見物客に聞かれないよう拍子木の音でごまかしていたらしいが、けっこうな人出があったようなので、ヤマネコをトラに化けさせたわりには収益が多かったのかもしれない。実際のトラを、誰も見たことがないので成立しえた見世物だったのだろう。この伝でいけば、うちのちょっと凶暴なオトメヤマネコも、大橋西詰めにかかる見世物小屋では、トラで十分押しとおすことができそうな気がする。
 ところが、その9年後にはホンモノの獰猛なトラがやってくるというので、大江戸は再び大騒ぎとなった。生餌として与えられたニワトリを、追いまわしては一撃で仕留めて食べてしまう大きな猛獣に、武家も町人も熱狂したのだろうが、当時の浮世絵を参照するとどう見ても縞模様のトラではなく、身体にブチブチの斑点が入ったヒョウなのだ。
 獅子(ライオン)もトラも実物を一度も見たことがない当時の人々は、それでもトラには縞模様があることぐらいは絵画を通じて知っていたので、「ありゃ、虎じゃなくて豹だぜ」と指摘する人がでてきたものか、ヒョウはトラのメスだということで話が落ち着いたらしい。そんなところで納得してしまうのも、今日から見れば妙な気がするが、大型のネコ科の動物を見るのは初めてだったので、「トラでもヒョウでも、とにかくスッゲ~!」と、その迫力に圧倒されたのだろう。少なくとも、9年前のツシマヤマネコよりは、トラへ少しだけ近づいたのはまちがいない。
 さて、1863年(文久3)には久しぶりに象(インドゾウ)が見世物小屋にやってきている。江戸へ安南(ベトナム)からインドゾウが初めてやってきたのは、1729年(享保14)の徳川吉宗の時代のことなので、すでに当時を知る人はいなくなっており、人々は「その昔、うちのご先祖が象というべらぼーな動物が通るてんで、いっさん見に出かけたらしいんだけどさ」と、もはや昔話のように子孫へ語られていたにちがいない。
 インドゾウの見世物は、幕末で最大のヒットとなったが、めずらしい海外の動物は長崎からもたらされるのではなく、このインドゾウは開港したばかりの横浜に上陸して、すぐに大江戸へとやってきている。ラクダやトラもそうだが、ゾウもまた神獣や霊獣のたぐいであって、そのご利益にあやかろうと多彩なグッズ商売が生まれている。特にゾウは、普賢菩薩の化身であって信仰する人々にはありがたい動物だったのだろう。
広景「虎の見世物」1860.jpg
芳豊「中天竺舶来大象之図」1863.jpg
大橋(両国橋).JPG
 さて、享保年間に安南(ベトナム)から江戸へとやってきたインドゾウだが、飼育・管理費がかかりすぎるため幕府から払い下げられ、中野村の農民たちが引きとって余生の面倒をみることになった。このとき、落合地域からは大挙して見物客が中野村へ押しかけているとみられ、相変わらずその人気は高かったにちがいない。インドゾウの体調が悪くなると、面倒をみていたのが象小屋から北へ1,500mの位置にある、上落合村の馬医(現在の獣医に相当)だったことから、ことさら落合の村々ではなじみの動物になっていたのではないか。

◆写真上:本所側の旧・両国広小路跡で、突き当りの向こう60m先は大川(隅田川)。
◆写真中上は、2葉とも1841年(天保12)ごろ制作の広重Click!『東都名所両国橋夕涼全図』。(手前が日本橋側で川向こうが本所側) 大橋両詰めの広小路には、大小さまざまな見世物小屋が並んでいる。は、1824年(文政7)制作の国安『駱駝之図』。は、1838年(天保9)に制作された長徳斎『海獣/俗よんで海怪(うみのおばけ)』。
◆写真中下は、1851年(嘉永4)10月21日の『斎藤月岑日記』に描かれた「虎」のスケッチ。どう見てもニャンコだが、ツシマヤマネコでもめずらしかったろう。は、ツシマヤマネコ。は、江戸期なら「虎」になれたかもしれないオトメヤマネコ。
◆写真下は、1860年(万延元)に制作された広景『虎の見世物』。どう見てもトラではなくヒョウなのだが、トラのメスということで一件落着したらしい。は、1963年(文久3)に描かれた芳豊『中天竺舶来大象之図』。このゾウは人には慣れており、お辞儀をする芸まで憶えていたらしい。は、現在の大橋(両国橋)の中央付近から日本橋側を眺めた夜景。左端の灯りが点いているビルの一帯が、江戸期に西両国の広小路があったあたり。

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pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しています。江戸時代にすでに象やラクダが日本に輸入されていたわけですね。ラクダは立川談志が得意とする同名の落語があるので存じ上げておりましたが、象が見せ物としてだけではなく、落合近辺で飼育されていたとは知りませんでした。江戸時代の動物ネタと言えば、生類憐れみの令が有名で、中野周辺に大規模な犬の飼育施設があり、綱吉が亡くなると同時に大量に犬が殺処分され、死骸が悪臭を放ったので、臭い消しのために、桃の木が大量に植栽され、そのため、中野周辺には、桃にちなんだ地名が多いとかいう話でしたね。
by pinkich (2022-03-26 23:03) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
いつかも記事にしましたが、「らくだ」の噺はもどり橋の先の落合火葬場にたどり着く以前、神田上水の面影橋あたり、あるいはそれ以前でオチになり、40~50分に短縮された演目になっていますので、なかなか落合地域が出てこないですね。元噺は、千日前の火屋で酒呑みの「冷や」とかかるわけで、火葬場が出てこないと面白味が薄まってしまうような気がします。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2010-05-01
中野村で飼育されたゾウの面倒をみた、上落合村の馬医・幸山五左衛門について調べているのですが、なかなか資料が見つからないですね。中野の犬小屋の資料は、綱吉の肝煎りで経営されていたせいか資料がいろいろ残っていますが、ゾウは幕府から払い下げられたあとの民間飼育だったせいでしょうか、いまだ詳細な資料が入手できません。
by ChinchikoPapa (2022-03-27 10:39) 

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