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旧・八幡通り沿いに展開していた風景。(下) [気になる下落合]

月見岡八幡社跡1.JPG
 にぎやかな商店街Click!が、旧・八幡通りClick!沿いに形成されていた昭和初期のころ、月見岡八幡社Click!の祭礼には住民たちが大勢集まっていただろう。神輿や山車は、旧・八幡通りを起点に各町内を巡行し、再び同社の前に集合していたにちがいない。旧・八幡通りの商店街でも、祭礼の日には提灯や飾りつけが華やかだった様子を想像できる。
 ちなみに、月見岡八幡社には神輿や山車はなく、祭りで巡行するのは昭和初期から上落合の町々で誂えた“町神輿”だった。現在の祭りの様子を、1994年(平成8)に新宿歴史博物館から出版された『新宿区の民俗(4)/落合地区篇』から引用してみよう。
  
 上落合地区の神輿は、町会で持つ町神輿である。月見岡八幡神社には、昭和初期から神輿はなかったそうである。現在の町会で所有している神輿は、東部町会が、大人神輿一・子供神輿三、中央町会が子供神輿一、三丁目町会が大人神輿一・子供神輿一、である。はっぴや揃いのゆかたなどは、町会ごとに用意している。神輿の収納は、月見岡八幡神社にある神輿蔵を借用している。各町会とも神輿は町内を巡行し、宮入はない。
  
 これは、月見岡八幡社が1962年(昭和37)に現在地へと遷座し、旧・八幡通りが消滅して新・八幡通りが敷設されたあとの祭礼の姿だが、旧・八幡通りに面していた時代もさほど変わらない神輿の巡行が行なわれていたのだろう。もっともにぎわったのは、1940~1941年(昭和15~16)に行われた祭礼だったようで、守谷源次郎Click!も神輿と山車が練り歩く様子をスケッチに残している。
 この祭礼には、「表祭」と「裏祭」があったというのは、上落合に長く住む古老の証言だ。別に、祭り自体に表裏があるわけでなく、落合柿Click!のよく実をつける年が「おもて」で、それほど実がならない年が「うら」と称していただけのようだ。1983年(昭和58)に上落合郷土史研究会が出版した、『上落合昔ばなし』から引用してみよう。
  
 お祭りに「おもて祭」と「うら祭」とあるそうですが、神社としては「おもて」も「うら」もないそうです。/ではどうして「おもて」「うら」というようになったのかしら……/古老の話では、昔、落合一帯は柿の名産地であったそうです。/柿は一年おきになるので、柿のなる年は祭を盛大にやると言うので、その年は「おもて祭」と言うようになったそうです。従って柿がならない年は「うら祭」と言うことになります。
  
 落合柿が名産品だったのは、江戸後期から明治期にかけてだったと思われるので、そのような祭りの表現は大正期に入ると、早々に忘れ去られたのだろう。
月見岡八幡社跡2.JPG
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 カキの木も含め、二度にわたる山手大空襲Click!で上落合はほぼ丸焼けになり壊滅したせいか、あるいはもともと工場敷地が多かったせいか、1956年(昭和31)ごろに撮影された旧・八幡通りの東側から南側にかけての街並みには樹木が少ない。
 1980年(昭和55)出版の守谷源次郎・著/守谷譲・編『移利行久影(うつりゆくかげ)』Click!(非売品)に収録された、月見岡八幡社付属の愛育園(保育園)の屋根上から東を向いて撮影された写真には、小滝橋の西詰めに近い位置に建っていた山手製氷工場Click!の建屋がとらえられている。このビルは、戦前からバスの小滝橋車庫の北側に建っており、爆撃されているにもかかわらず焼け落ちなかったのは鉄筋コンクリート構造だったからとみられる。戦後も、しばらくはそのまま使われつづけたようだが(製氷工場ではなかったかもしれない)、1960年代の後半になって解体されているようだ。
 次に、小滝橋方面を撮影した写真には、先の山手製氷工場の建物の一部と、早稲田通り方面の風景が写っているが、やはりあちこちの焚き火の煙だろうか、遠景がかすんでよく見えない。少し高くなった位置の地平線に、横へ連なるように見えている四角い黒い影は、おそらく北西側から眺めた戸山ヶ原Click!アパート群Click!だろう。
 そして、南側を向いて撮影した写真には早稲田通りへと出る直前の、旧・八幡通りの様子が記録されている。また、右手には小滝台住宅地Click!の急峻な斜面が見えており、丘上には同住宅地に建っていた屋敷のひとつが見えている。小滝台住宅地も空襲でほぼ全滅しているので、写真にとらえられている丘上の建物は戦後のものだろう。小滝台の左手(東側)に見えているかなり高い煙突は、焼け残った中野伸銅工場のものだろうか。
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 旧・八幡通りに目を移すと、路上の人物がふたり見えている。手前に見えている制服姿の人物は、腕章をして自転車に乗った巡査か郵便配達員だろう。そして、その後方を歩く人物の姿が面白い。肩からなにやら白い布バッグ状のものを袈裟がけに下げ、左手には薄い大きめな板のようなものを抱え、右手はこれも大きめなバッグ(?)のような、西風にあおられていそうな薄くて四角い手さげ包みをもっている。頭にはベレー帽をかぶっていそうで、見るからに写生帰りの画家のような風体の人物だ。
 左手で抱え右手に下げているのは、2枚とも布のようなものに包んだキャンバスのように見え、サイズから想像すると双方とも20号ぐらいだろうか。写生地へ出かけるところか帰りなのかは不明だが、この時期の画家が集まる写生地というとどこだろう? 大正期が終ったばかりの昭和初期、上落合の早稲田通り沿いを描いたとみられる作品に、下落合727番地に住んでいた宮坂勝Click!『初秋郊外』Click!がある。戦後の画家は、下落合の坂道あたりから復興する新宿方面の眺望を描きにでもいくのだろうか。
 戦災で大きなダメージを受け、戦後は落合下水処理場の建設のための用地買収で、空き地だらけになってしまった旧・八幡通り沿いでは、戦前はにぎやかだった月見岡八幡社の祭礼も、あまり盛り上がらなかったのではないだろうか。そろそろ、龍海寺跡の敷地へ遷座する話も出ていたのかもしれない。にぎやかだった以前の祭りの様子を、前出の『上落合昔ばなし』から引用してみよう。
  
 大正の初め頃までの「お祭り」は、近郷近在でも有名であった。それは、村中総出で大きな屋台や桟敷を作り、浅草から芸人を呼んで夜どおし芝居をやったからです。その頃境内に「力石」という石があった。丸い石で「二十貫」「三十貫」と刻んであり、村の若者達はカツイだり、さし上げたりして力自慢をしました。昔の八幡さまは本当に素朴な建物であり、拝殿の天井が格天井となっていた。その一枚一枚に江戸時代の有名な画家の「谷文晁」の筆による色彩鮮やかな花鳥の絵が書いてありました。空襲のとき、神主さんがやっと一枚だけ助け出すことが出来たそうです。
  
 この「神主さん」とは守谷源次郎のことだが、谷文晁に依頼して制作してもらった天井画Click!のうち、たまたま空襲のときには1枚だけ取り外して別の場所に保管されていたため、延焼の難を逃れたというのが事実のようだ。
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月見岡八幡社南側眺望1.jpg
月見岡八幡社南側眺望2.jpg
 戦前に撮影された旧・八幡通りの写真は、残念ながら発見することができなかったが、1936年(昭和11)から1944年(昭和19)、そして空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に偵察機F13Click!から撮影された空中写真などを見ると、沿道にはたくさんの商店と見られる家々が建ち並んでおり、当時はにぎやかだった商店街の様子を想像することができる。その繁華な街も、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で壊滅してしまった。
                                 <了>

◆写真上:現・八幡通りから眺めた、旧・月見岡八幡社の境内の一部(八幡公園)。
◆写真中上は、右手の八幡公園から中央の現・八幡通りにかけての旧・月見岡八幡社の境内跡。は、現・八幡通りから落合水再生センター内にかけての同社境内の跡地。は、落合中央公園の野球場手前までが同社境内の跡地。
◆写真中下は、1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる空襲で壊滅した旧・八幡通り界隈。明星尋常小学校の焼け跡には、すでに4棟のアパートが建ち並んでいる。は、1957年(昭和32)の空中写真にみる旧・八幡通りで、すでに落合下水処理場建設の用地買収がかなり進捗している。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる消滅した旧・八幡通りで、現在の新・八幡通りが西側へ新たに敷設されている。
◆写真下は、旧・月見岡八幡社の境内から南東側を撮影した写真。焚き火の煙でかすんでいるが、右手に見えているビルが旧・山手製氷工場。は、同社より南南東の風景で遠景に連なるのは戸山ヶ原のアパート群だろう。は、同社から南側の旧・八幡通り沿いの風景。小滝台のバッケ(崖地)Click!が右に見え、路上にふたりの人物がとらえられている。

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