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金山稲荷の石堂孫左衛門と「石堂孫右衛門」。 [気になるエトセトラ]

金山稲荷1955.jpg
 どこかで誰かが、記述をまちがえている。かつて、金山稲荷(鐵液稲荷)Click!のあたりに住みついた刀工の石堂派Click!(わたしはいまのところ石堂守久一派Click!ではないかと想定している)の当初の人物名を、石堂孫左衛門とする史料と、「石堂孫右衛門」とする史料とが混在している。拙サイトでは、寛政年間に金子直德Click!が記録した『和佳場の小図絵』Click!にならい石堂孫左衛門と書いてきたが、たとえば1951年(昭和26)に出版された『豊島区史』(豊島区役所)では、「石堂孫右衛門」となっている。
 きょうの記事は、いつどこで誰が、刀工名の記述をまちがえているのかがテーマだ。刀工が茎(なかご)Click!に切る銘と本名が、まったく異なるケースはめずらしくないが、本名の記載をまちがえたりすると、そもそも刀工の「代」が変わって時代ちがいになってしまったり、同じ流派の場合だと(姓に相当する部分が共通することが多いために)、まったくの別人を指してしまうケースがままあるからだ。ここは、金山にいた刀工の名前を、改めて厳密に規定しておきたいと思う。
 まず、あらゆる地域史料の原典とみられる、寛政年間に金子直德が記録した『和佳場の小図絵』(早稲田大学所蔵の原本)から、原文をそのまま引用してみよう。
  
 鐵液(かなくそ)稲荷大明神 此辺の鎮守とす、又金山いなりとも云。法華勧請。別堂石堂孫左衛門と云、鍛冶の住居にて、守護神に祭る所也。今に鐵くそ出る。利益甚多し。例年二月初午に祭、昔は廿二日祭礼なりしと。(カッコ内引用者註)
  
 金子直德は金山で鍛刀した刀工名を、明らかに石堂孫左衛門だと規定している。
 では、『和佳場の小図絵』などの地誌を参照したとみられ、1919年(大正8)に出版された『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)ではどうだろうか? 以下、引用してみよう。
  
 金山稲荷社 雑司谷金山の東にあり元亀年間此所の刀鍛冶石堂孫左衛門宅地にて稲荷を安置し常に刀剣の妙を記念す、老て其所に入定すと言伝ふ、然るに文化の頃此地を開墾せし折一個の石櫃を掘得、蓋を退けて閲するに帽子装束せし故骨全体具足して生るゝが如く暫時にして崩れたり、是なん石堂氏入定の故骨なりと言ふ。
  
 この伝承では、おそらく古墳時代の武人の古墳、ないしは鎌倉時代の武士の“やぐら”(墓所:ただし石櫃や遺体の状況が時代的に不可解)と、室町末から江戸初期に江戸へやってきた石堂派の「入定」墓とを混同しているとみられる。空気に触れたとたん「具足」(鎧兜)が崩壊しているところをみると、古墳時代の遺構の可能性が高いように思える。棺が石製Click!(房州石Click!か?)だった点も、古墳の玄室を想起させる特徴だ。
 そして、『高田村誌』でも刀鍛冶は石堂孫左衛門と記録されていてまちがいがない。では、金子直德の『和佳場の小図絵』を現代語訳した、1958年(昭和33)出版の海老澤了之介Click!による『新編若葉の梢』Click!(新編若葉の梢刊行会)から引用してみよう。
  
 鐵液稲荷大明神/鐵液稲荷はまた金山稲荷ともいう。御嶽・中島・金山の鎮守である。別当を石堂孫左衛門という。鍛冶の家で守護神に祭ったのである。この所いまでも鐵液が出る。利益甚だ多い。例年二月初午の日に祭るが、昔は二十二日が祭礼日であった。/<石堂孫左衛門は金山稲荷の社前にて刀鍛冶を業としたという。また鍛冶屋遠藤孫右衛門の居りしところともいう。>
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 < >内は、海老澤了之介Click!が加えた註釈で、大正期から昭和初期ごろまで鍛冶屋(刀鍛冶ではなく野鍛冶Click!=刃物・大工道具・日用金物などを製造した道具鍛冶か?)だった、遠藤孫右衛門という人物がいた伝承も添えられている。
和佳場の小図絵(寛政年間/早大).jpg
高田村誌1919.jpg
新編若葉の梢1958.jpg
 海老澤了之介もまた『新編若葉の梢』や、同年に出版された『江戸西北郊郷土誌資料』(新編若葉の梢刊行会)でも、まちがいなく石堂孫左衛門と記録している。
 では、次に雑司ヶ谷へ転居してきて周辺地域の歴史に興味をもち、秋田雨雀Click!などとも親しく交流していた江副廣忠の『高田の今昔』Click!では、どのように書かれているのだろうか。『高田の今昔』は、全編が和紙に謄写版(ガリ版)刷りの和綴じ本で、江副廣忠Click!が雑司ヶ谷に引っ越してきてから9年目に出版されている。
 1929年(昭和4)に出版された、江副廣忠『高田の今昔』(三才社)から引用しよう。
  
 金山稲荷(無格社)/所在 大字雑司ヶ谷金山の東
 元亀年間、此地の刀鍛冶、【石堂孫右衛門】なる者、宅地内に稲荷社を安置し常に刀剣の効を祈念す、後、老いて此地に入寂すと言伝へらる、文化年間此地を開墾せし時、一個の石櫃を掘出し、蓋を退けて見るに烏帽子、装束せる古骨、全体具足して安坐せるが、大気に接して暫くの間に崩壊せりと云へり、是即ち石堂氏入定の故骨なりしなり、(【 】引用者註)
  
 石堂派Click!の刀工名を、傍らで1919年(大正8)の『高田村誌』を直接参照しているのに「石堂孫右衛門」と誤記しているばかりでなく、『高田村誌』の文章によけいな解釈や表現をプラスしているのがわかる。刀鍛冶の装束に見あうよう、「帽子装束」を勝手に「烏帽子(えぼし)」と解釈してしまい、「石櫃(棺)」に寝かされていたかもしれない遺体を、「入定(寂)」に見あうよう「安坐」していたことになっている。ちなみに、「帽子」は古くからの刀剣用語Click!でもあり、鋩(きっさき)に返る刃文も意味している。
 石堂孫左衛門を、「石堂孫右衛門」と勘ちがいしたのは、のちに同所で鍛冶屋を営んでいた道具鍛冶だったとみられる遠藤孫右衛門のことも聞きおよんでおり、両者の名前が近似していることから、つい「孫右衛門」と誤記してしまったものだろうか。
高田の今昔1929.jpg
高田町史1933.jpg
豊島区史1951.jpg
 さて、イヤな予感がしてきた。江副廣忠の『高田の今昔』は、1933年(昭和8)に出版される『高田町史』Click!(高田町教育会)では、史蹟や文化の項目で参考書としてかなり引用されたとみられ、近似した表現が目立つからだ。あるいは、江副廣忠自身が高田町教育会に参画して、『高田町史』の編纂委員のひとりだったのかもしれない。同書より引用してみよう。
  
 金山稲荷(無格社) 雑司谷三百三十四番地(新町名雑司谷町一丁目)
 祭神は宇迦之御魂命(略)。人呼んで金山稲荷とも鐵液稲荷とも云ふ。元亀年間この地に住める刀鍛冶の【石堂孫右衛門】なるもの、其の宅地に稲荷社を安置して、常に刀剣製作の妙を得んと祈願したと伝ふ。(以下略/【 】引用者註)
  
 なぜ、『高田町史』の高田町教育会は、1919年(大正8)に出版されていた『高田村誌』を参照せず、また原典に当たって“ウラ取り”をしないで、江副廣忠の『高田の今昔』に記された「石堂孫右衛門」を、そのまま採用してしまったのだろうか。
 イヤな予感と書いたのは、行政資料がひとたび記述をまちがえると、その誤りがエンエンとどこまでも引き継がれていく怖れがあるからだ。そして、この誤りは戦後の1951年(昭和26)に出版された『豊島区史』(豊島区役所)でも、そのまま踏襲されていくことになる。
  
 金山稲荷社 雑司ヶ谷町一ノ三三四/祭神は宇迦之御魂命、人呼んで金山稲荷とも鉄液稲荷ともいう。刀鍛冶の【石堂孫右衛門】が此の辺に住み刀剣作法の妙を得ようと、祭つて祈願した神社と云い伝えられている。(【 】引用者註)
  
 現在、豊島区民のみなさんが手にする、1981年(昭和56)に出版された『豊島区史』(通史編1)でも、刀工名が「石堂孫右衛門」のままになってやしないかが心配だ。
稲荷社1.JPG
稲荷社2.JPG
 最後に少し余談だが、雑司ヶ谷金山に日本女子大学Click!の寮が建設されて、戦後もしばらくたったころ(少なくとも1955年以降)、地元には金山稲荷社は廃社になったという方と、遷座ないしは分祀されて雑司が谷1丁目のアパートが建つバッケ(崖地)Click!裏に、「刀稲荷」として残っているという方がいて、どちらの経緯が事実だかハッキリしない。元の金山稲荷の位置から、北東へ140mほどの1丁目にある社(やしろ)は、いまでは単なる稲荷社としか呼称されておらず、由来や由緒書きのプレートも設置されていない。雑司ヶ谷にお住まいの方で、どなたか金山稲荷のその後をご存じの方がいれば、ご教示いただきたい。

◆写真上:1955年(昭和30)に『新編若葉の梢』の著者・海老澤了之介が撮影した、日本女子大学の寮内にあったころの金山稲荷社。
◆写真中上は、早稲田大学に収蔵されている金子直德『和佳場の小図絵』の原文。は、1919年(大正8)に出版された『高田村誌』の解説文。は、1958年(昭和33)に出版された海老澤了之介『新編若場の梢』の解説文。
◆写真中下は、1929年(昭和4)に出版された江副廣忠『高田の今昔』の解説文(誤記)。は、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』の解説文(誤記)。は、戦後初の1951年(昭和26)に出版された『豊島区史』の解説文(誤記)。
◆写真下:アパート裏のバッケ(崖地)中腹にある、雑司が谷1丁目の稲荷社。

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Fuji

 ブログを楽しみに読んでいます。
 雑司が谷で生まれ育ちました。
 雑司が谷に長く住み、街の歴史に詳しい方に話を伺ったところ、金山稲荷で1990年3月6日に行われた初午祭の写真を4枚見せてくれました。
1葉は、清立院の庵主様を囲んで、雑司が谷の旧家の方々が話しているもの。端に青い幟(上部切れていて大明神の文字しかわからず)が写っています。他の3葉は祠の写真。写真とその方のメモからわかることは、15㎝位の木像、その上に絵が描かれた額、その左横には氏子中の名前が列挙された額、7と星が染め抜かれた手ぬぐい(7は御会式の順番だそうです、星は清土の星か)です。
 木像の上の額には、白拍子?装束の女人と鶴嘴を持った鍛治職人が描かれ、他にも何かあるのですが不明です。菊川英信の記名(メモより)があります。
 写真はないのですが、昭和53年10月着工、昭和54年2月完成お堂並びに鳥居復旧工事費寄付者名のメモがあります。
 としま遺跡研究会の2012年9月発行の通信には、その年の4月に金山稲荷を訪ね、『無残な状況、1年前にはすでに取り壊されて』とあります。
 初午の写真から1990年にはあったのは確かですが、一体いつまであったのでしょうか。解体した、売り払ったなどいろいろ言われていますが、古文書や古地図にも載り、江戸時代の絵師が描いた額など含め貴重な文化財や、地域の大事な稲荷がそんな簡単になくなるものか不思議です。

by Fuji (2022-05-09 15:08) 

ChinchikoPapa

Fujiさん、金山稲荷に関する貴重なコメントをありがとうございます。
ずいぶん以前、雑司が谷にお住まいの方から、金山稲荷は壊されて廃社になったとうかがっていたのですが、別の方からは日本女子大の寮敷地から少し離れた場所に遷座し通称「刀稲荷」と呼ばれている……ともうかがっていました。それっきり、ハッキリと場所を確認しないまま歳月がたってしまったのですが、その「刀稲荷」が拙記事の下段でご紹介している「無名」の稲荷ではないかと想定したしだいです。
おっしゃるとおり、江戸初期にはすでに存在していた由来の古い、そして広く知られていた金山稲荷が、早々に壊されて廃社になるとも思えず、そのゆくえを探していたところでした。日本女子大も創立当初から、キリスト教系の学園にもかかわらずその存在を許容していたわけですので、氏子連へ断りもなしに解体してしまうとも思えず、ましてや書かれているような初午祭などの行事が行われていたとすれば、なおさら何かのやり取りがあった上で、双方が納得ずくで解体されていると思えます。
さて、金山稲荷はどこへいってしまったのでしょう。

by ChinchikoPapa (2022-05-09 15:58) 

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