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下落合駅と野方駅を描く鳥居敏文。 [気になるエトセトラ]

鳥居敏文「野方駅」19470831.jpg
 5月10日(火)に、拙サイトへの訪問者がのべ2,200万人を超えました。いつも調査不足ぎみの拙い記事をご覧いただき、ほんとうにありがとうございます。
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 敗戦から間もない1947年(昭和22)8月31日、鳥居敏文は西武新宿線の下落合駅Click!と野方駅をスケッチしに訪れている。当時は、空襲でもかろうじて焼けなかった長崎1丁目1番地にアトリエがあったころで、彼はアトリエから徒歩で下落合駅まできて写生し、電車に乗って野方駅で降りると再び写生しているとみられる。
 鳥居敏文が暑いさなか、なぜ下落合や野方を訪れているのかは不明だが、このころに人が集散する「駅」をテーマに、モチーフ探しをしていた気配があり、同年の春に東京都美術館で開かれた第15回独立展には『駅の人々』を出品している。また、同時に毎日新聞社が主催する美術団体連合展にも作品を出展しており、戦後につづく旺盛な創作活動をスタートしはじめていた。ひょっとすると、独立美術協会Click!の画家仲間が同地域に住んでいたため、彼は訪問したついでに駅をスケッチしているのかもしれない。
 野方駅の画面を観ると、戦災を受けていないため駅舎は戦前から変わっていないのがわかる。郵便ポストが駅舎の角に設置されているのも、売店が駅舎の横に付属するのも下落合駅と同じ仕様だが、下落合駅の駅舎が北向きなのに対し、野方駅は南向きなので売店に日除けの幕が下がっている。その売店では、子どもたちがなにかを買っており、駅舎の入口にはうしろ手にバックをもち、人待ちをしている女性が描かれている。
 また、改札では駅員と話す女性がいて、構内の右手には時刻表を見ているらしい人物がとらえられている。駅のネームプレートは、「野方驛/NOGATA STATION」と書かれているが、戦後の簡略字だった「下落合駅」の「駅」とは異なり、戦前からつづく焼け残った駅なので旧字の「野方驛」としたものだろうか。戦後、突貫工事でこしらえたバラック風な下落合駅(まだ駅舎はなく改札施設と呼んだほうがふさわしいかもしれない)とは異なり、野方駅は戦後もコンパクトでモダンな姿をとどめていた。
 1991年(平成3)に出版された『鳥居敏文画集』(鳥居敏文画集刊行会)の中で、新潟市美術館長の林紀一郎は「鳥居敏文の絵画」と題して次のように書いている。
  
 だが鳥居敏文の半世紀を超える歴程を跡づけてみて気付くのは、(特に近年その傾向が顕著に思われるのだが) 風景画だとか、人物画や静物画だとかいった表現のジャンルに拘泥しない、画家自身の自由な絵画的発言が大作の画面を借りて折々に行われていることである。この絵画のメッセージの大いなる特徴は、大画面の空間に人物も風景も静物もそれぞれの造形要素を共生させて、調和と秩序を保っている点にある。鳥居絵画のこの共生がもたらすものは、ロマンティシズムの無言劇である。そしてその舞台に展開する人間のドラマには寓意と象徴が主題化されるのである。
  
 わたしも、戦前戦後を通じた作品には、常になにかを語りたそうな表情をした人物たちが登場し、あえて黙して語らずのように感じていたが、特高Click!から徹底的に弾圧されたプロレタリア美術時代に起因するものかと想定していた。だが、戦後に制作された作品群を通してみると、確かに「無言劇」という言葉がいい得て妙でしっくりくるように思う。
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 1947年(昭和22)の『駅の人々』では、画面に20人前後の人物が登場しており、駅の雑踏を描いているにもかかわらず、どことなく静寂感がただよう。手前の人物たちは、それぞれの想いの中に沈潜し、自己の内面を見つめているような表情さえ感じとれる。駅とは、人がなにかを選択あるいは決心して向かう場所であり、人々がなにか目的や想いを抱きながら出かけてゆく、あるいは来訪する物語の交差点のような場所だ。
 『野方驛』のなに気ないスケッチにしても、それぞれ人物の表情までは描かれていないものの、手前の人待ちポーズでたたずむ女性にしろ、改札で駅員と話しこむ女性にしろ、構内で時刻表をジッと見つめる人物にしろ、なにか深い事情がありそうな物語性を感じさせる。戦争前後のタブローでは、そのようなモノいいたげな無言の人物たちが登場しているが、1970年代以降の画面になると、文字どおりキャンバスを“舞台”に設定したような、「無言劇」を演じる人物たちが画面に配置されていく。
 そんな視点から、改めて鳥居敏文の作品画面を観ていると、特に人物たちの背景になっている風景や建物、部屋などが、実は舞台の書割だったり映画のオープンセット、あるいはドラマのスタジオセットのように思えてくる。作品と向きあう観賞者に対して、描かれた人物たちの想いや願いなどの内面を想像させるように設(しつら)えられたのが、書割の風景や大道具としての建物あるいは部屋のように思えてくるのだ。これは、鳥居敏文という画家がもつ、表現上の大きな特徴であるのかもしれない。
 さて、下落合駅から西へ4つ先の野方駅が登場したので、せっかくだからなにか野方地域に関する地元のエピソードなどをご紹介したいと思うのだが、残念ながら野方駅の周辺については詳しく調べていないので、すぐには思いつかない。現在の住所としての「野方」という地名は、もともとの野方町のほんのごく一部のエリアにすぎず、本来の野方町は中野区のおよそ北半分もの面積をもつ大きな町だった。
 同町が成立した1924年(大正13)には野方をはじめ新井、江古田(えごた)、江原、鷺宮、上高田、大和、若宮、白鷺、沼袋、松が丘、丸山の各地域が同じ町内だった。そこで、野方駅のある狭義の野方エリアに限定して、地域の資料に当たってみた。
 先日、江戸東京の民話のひとつ「小ザルの恩返し」Click!をご紹介したが、広い意味での野方町(落合地域の西隣りにあたる上高田地域)にある松源寺に伝えられた昔話だ。そこで、もうひとつ明治生まれで野方地域にお住まいの女性が語り伝えた昔話をご紹介したい。1987年(昭和62)に中野区教育委員会が出版した、『口承文芸調査報告書/中野の昔話・伝説・世間話』収録の「鼠の嫁入り」という昔話だ。
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 あるところに住んでいたネズミの一家は、娘が年ごろになったのでどこかに嫁入りさせたいと考えていた。どうせ嫁がせるなら、「世間でいちばん偉いとこにやろう」ということで、お天道様(太陽)のもとへ縁談を持ちこむと、お天道様は黒雲が出てくると光ることができないから、黒雲さんのほうが自分よりも偉いと答えた。そこで、今度は黒雲さんへ縁談を持ちこむと、風さんが出てくると吹き飛ばされてしまうから、自分よりも風さんのほうがよほど偉いのではないかと答えた。以下、同資料より引用してみよう。
  
 それで風さんのとこ行って、「家の娘をもらっていただきたい」って言ってお話したら、「どうもあたしはね、風でいばってるけれども、壁さんに当たられると、どうも壁さんがあると、壁のところを通ることができないから、壁にはかなわないから、壁さんに行きなさい」って。(中略) そしたら壁さんは、「あなたに似たそのしっぽのある、口のとがった、そのチュースケさんにね、突っつかれると、壁がみんな食われちゃう」って。/だから、やっぱり壁よりも、チューさんのほうが、ねっ、いちばん偉いんだから、やっぱり鼠さんは、鼠さんのところへおやりなさいってことなの。
  
 この太陽<雲<風<壁<ネズミは、どこかで聞いたことのある笑い話で、太陽<雲<風<樹木<キツツキとか、太陽<雲<風<大地<タヌキ(キツネ)とか、野方ばかりでなく類似の話が各地に散らばっているような気がする。
 もうひとつ、野方地域に伝わる笑い話に「ニンジンを食べるやつはスケベだ」というのがある。1989年(平成元)に中野区教育委員会がつづけて出版した、『続/中野の昔話・伝説・世間話』収録の昭和ヒトケタ男性が語る同話を、短いので全文引用してみよう。
  
 「ニンジンを食べるやつはスケベだ」って言うんだけどね。それ、その語源、それは、理由はね、ニンジンを蒔いたりなんかするときは、忙しいらしいんですよね。で、近所で、手助けってことを「すけべえ」っていうんだけどね。「じゃあ、すけるべえや」って。まあ、それから来たんじゃねえかってことは、おやじが言ってましたがね。/よく、関東語っていうんですか。「手助けしべえ」とかなんかありますね。「じゃ、すけべえか」って。「手助けしようか」ってことを、「すけべえか」って言って、「そこから『スケベエ』ってきちゃったんじゃねえか」なんてこと、おやじが言ってましたがね。
  
 もちろん、「助ける」「助けられる」を「スケる」「スケられる」と省略するのは、江戸東京の市街地でも同様で、少なくとも安永年間(1772~1781年)の古文書から見ることができる。助太刀(スケだち)や「助人(スケっと)」など、いまでも江戸期からそのままつかわれている言葉も残っている。これに、関東南部(おもに海岸に近い地域に多い方言)の「べえ」がつくと、確かに「スケるべえ(助けよう)」になる。
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鳥居敏文「ある群像」1975.jpg
鳥居敏文「平和へのがい」1980.jpg
 ことに、相手に対して問いかける場合は「スケるべえか?」とはならず、より省略型の「スケべえか?(助けようか?)」になるのだろう。おそらく、神奈川県や千葉県でも、「ニンジンを食べるやつはスケベだ」なんて話が、どこかで語り継がれているのかもしれない。近郊の農村だった野方地域で、おそらく明治期からいわれていた「スケベ」話だろう。

◆写真上:1947年(昭和22)8月31日に描かれた、鳥居敏文のスケッチ『野方駅』。
◆写真中上は、スケッチと同年の1947年(昭和22)の空中写真にみる西武新宿線の野方駅。駅周辺の住宅街も、空襲を受けていないのがわかる。は、戦後まもないころの野方駅。は、『野方駅』に描かれた人物部分のクローズアップ。
◆写真中下は、野方駅周辺の宅地開発にともなう乗降客の急増から、左手にあった売店を撤去して改札口を増設した1965年(昭和40)撮影の野方駅。は、1960年代の撮影と思われる改札の内側から駅前を眺めたところ。は、野方駅の現状。
◆写真下は、1950年(昭和25)制作の鳥居敏文『私は二度と欲しない』。は、1975年(昭和50)の同『ある群像』。は、1980年(昭和55)の同『平和へのねがい』。

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コメント 2

tomi_tomi

2200万人!凄い訪問数ですね(日本の5人に1人は訪問)調査不足ぎみはご謙遜です。いつも地元の古い資料の豊富さに感心するばかりです!!
by tomi_tomi (2022-05-13 02:02) 

ChinchikoPapa

tomi_tomiさん、コメントをありがとうございます。
この2年半ほどは、新型コロナ禍で現場の取材や調査、資料あさりもままならず、過去に調べておいた資料でなんとか記事を継続しているというのが事実です。早く、自由に動きまわれる日常がくるといいのですが……。
by ChinchikoPapa (2022-05-13 10:35) 

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