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下落合を描いた画家たち・片多徳郎。(2) [気になる下落合]

片多徳郎「秋林半晴」1929.jpg
 以前、pinkichさんからいただいた『片多徳郎傑作画集』Click!の中に、もうひとつ「下落合風景」ではないかと想定できる作品がある。片多徳郎Click!が、下落合734番地へアトリエをかまえてから間もない時期、1929年(昭和4)10月に制作された『秋林半晴』だ。(冒頭写真) F4号の小さなキャンバスに、いかにも屋外でサッと書きあげたような表現の画面で、右下にはまるで日本画家か刀鍛冶Click!のように、干支を入れた「巳巳(昭和4年)十月」の年紀と署名が入れられている。
 片多徳郎が、『秋林半晴』を仕上げてから半年後の1930年(昭和5)5月、ようやく体調がよくなってベッドから離れ付近を散歩しはじめた下落合623番地の曾宮一念Click!は、すぐ近くの家に「片多徳郎」の表札を見つけて訪ねることになる。片多徳郎Click!は、曾宮一念が東京美術学校Click!へ入学した翌年に卒業しているので、「蒼白い小柄な飾気の無い」学生だったのは憶えていたが、つき合いはまったくなかった。そのときの様子を、1938年(昭和13)に出版された、『いはの群れ』(座右寶刊行会)から引用してみよう。
  
 昭和五年の春頃から私はポツポツ散歩をするやうになつてゐた、或る日のこと、今迄空いてゐたすぐ近くの家に「片多徳郎」の表札を見つけた。しかし半ば知つて半ば知らないこの先輩、酒飲みで気むづかしさうなこの人を私一流のコワガリからそつと訪ねもせずにゐたが其の前年の「秋果図」(帝展出品二十号長形)に引き付けられてゐたので其後小品を大分かいてゐられる噂をきいて思ひ切つて訪ねた。コワゴワあつてみると昔の青年はかなりに年をとつてはゐたが少しもコワクないのに安心した、その時思ひあたつたのは或る雑誌に「酔中自像」といふひどく怖ろしい顔をしたのが載つてゐたことである。
  
 このあと、曾宮一念と片多徳郎は互いのアトリエを往来するほど親しくなるが、曾宮の「あまり飲むなよ」という親身な忠告に対して、片多は弱音やグチばかりを吐いていたようだ。曾宮は、同書で自身のことを「小心者」と書いているが、片多徳郎はそれに劣らない「小心者」だったようで、いくら入院して断酒を繰り返しても、結局は酒に逃げ場を求めるという印象を曾宮に残している。
 さて、酒毒に苦しめられては入退院を繰り返していたころの、小品『秋林半晴』の画面を詳しく観ていこう。まず、太陽光線は明らかにやや右手の上方から射しており、おそらく片多徳郎は東または南に近い角度でこの作品を描いているのがわかる。画家がイーゼルをすえている位置から左手にかけ、ゆるやかな斜面のある地形をしており、描かれている樹々の多くは広葉樹(落葉樹)のようだ。右手の奥には、樹木が水面に反射しているような表現がみとめられ、ここにはそれほど大きくはない池があるのかもしれない。モノクロだと、残念ながらはっきりしないので、ぜひカラーで観てみたい作品だ。
弁天池1936.jpg
弁天池1.JPG
弁天池2.JPG
 緩斜面の上から、樹林を透かして池のある山か丘の裾野を見おろしている、そんな感慨を抱く画面構成となっている。手前の樹々はまばらだが、池のような表現の向こう側には、よりこんもりとした樹林が繁っているのがわかる。周囲の地形や見えている風景を考慮すると、1929年(昭和4)の時点でこの画面に相当する場所は、わたしには1ヶ所しか思い当たらない。1934年(昭和9)の自裁直前に描かれた『風景』Click!の画面左手の枠外、林泉園Click!からつづく谷戸の拡がり気味な出口にある弁天池と、その周辺の緩斜面だ。
 清水多嘉示Click!が、7年前の1922年(大正11)に描いた『下落合風景』Click!の、御留山Click!近衛町Click!の丘との間にある深い谷間の出口にあたる緩斜面には湧水池があり、池の真ん中には弁天の祠が奉られていた。この谷戸の出口、弁天池Click!の一帯は相馬孟胤邸Click!の敷地内だったにもかかわらず、清水多嘉示Click!が『下落合風景』を写生した小高い藤稲荷社Click!の境内があるためか、あるいは藤稲荷の源経基がらみの由来を忌避して結界をめぐらせたかったせいなのか、将門相馬家Click!では弁天池の西側に庭門と腰高の塀を設置して敷地を遮断(逆にいえば弁天池の周辺を開放)していた。同家が1915年(大正4)に制作した『相馬家邸宅写真帖』Click!(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)にも、庭門の写真はあるが同池は収録されていない。
 したがって、弁天池の弁天社には誰でも参詣することができ、また『秋林半晴』が描かれる前後には、近衛町から弁天池の畔へと出られる坂道が拓かれて、住民たちの憩いの場になっていた様子がうかがえる。さらに、1935年(昭和10)前後には自然のままの形状だった弁天池に手が入れられ、まるで公園の池のようにかたちが整えられるとともに、近衛町からつづく坂道の池の端には憩いの広場のような四角いスペースが設けられており、そこにはベンチがいくつか置かれていたのかもしれない。
 弁天池周辺の風致整備工事は、おそらくここの地主である相馬家が実施したものだろう。相馬家が、第一徴兵保険Click!(戦後は東邦生命保険Click!)に敷地を売却する以前、1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、同保険会社による宅地開発がスタートする直前の、郊外遊園地Click!のように整備された弁天池周辺の最終形を確認することができる。また、近衛町から池までつづく坂道は、東京土地住宅(1925年に経営破綻)から開発を引き継いだ箱根土地の仕事かもしれない。戦後になると、東邦生命は同池を養魚場として活用しており、ブームになったニシキゴイの養殖などしていたものだろうか。
片多徳郎「秋林半晴」1929拡大.jpg
弁天池1938.jpg
弁天池3.JPG
 この湧水池は、林泉園から湧きでる小流れ(画面でも左手から右手の池とみられる方角へ横切る、窪地のような淡い線状の表現が見られる)と、御留山に建つ相馬邸の南側に口を開けた庭園谷戸から湧きでる小流れが合流してできたもので、現在では当時の形状とはだいぶ異なっているものの、下落合のおとめ山公園で見ることができる。また、昭和初期であれば、いまだホタルが小流れや弁天池の周辺で見られたのかもしれないが、いまでも同公園では“落合ぼたる”の飼育がつづいている。
 下落合734番地のアトリエを、昼食を終えてからだろうか画道具を抱えて外出した片多徳郎は、七曲坂Click!相馬坂Click!を下ると雑司ヶ谷道(新井薬師道)Click!へと出て、東へ少し歩いたところで弁天池のある緩斜面を100mほど上っているのだろう。この時期、第一徴兵保険の住宅地開発とともに開拓された御留山の坂道Click!、すなわち現・おとめ山通りはいまだ存在していない。画家は、弁天池の北北西側の斜面にイーゼルをすえると、南南東の方角に向いて写生をしはじめている。
 絵の具はそれほど厚塗りではなく、筆運びも速かったように思われるので、おそらく陽光の角度がそれほど変わらないうちに描き終えているのではないだろうか。キャンバスをアトリエに持ち帰ったあと、いくらか加筆してサインを入れているのかもしれない。10月の終わりごろの情景だろうか、モノクロ画面なので想像するしかないが、樹々の葉は緑というよりも変色して茶色がかった表現が多いように感じる。人物の姿が見えないので、描かれたのは平日の昼間だろうか。
 1929年(昭和4)の片多徳郎作品を観ると、外出せずにアトリエで制作した果実や花などの静物画が多い。アルコールのせいで、体調が思わしくない日々がつづいていたのだろう。そんな中で小さいサイズながらも、久しぶりに描いた風景画『秋林半晴』は、翌年からつづくモデルを使った人物画や、新たな風景画に取り組むきっかけになったものだろうか。
弁天池19441213.jpg
弁天池19450402.jpg
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 片多徳郎アトリエの斜向かい、下落合604番地にアトリエをかまえていた牧野虎雄Click!は、片多について「風貌にしても心持にしても大分老境に入った画人かと見る人に想わせるものがあった」と書いているが、無類の酒好き同士ということでお互いのアトリエで飲む機会も多かったのだろう。片多徳郎が画業に、そして人生に疲れていた様子が垣間見える。

◆写真上:1929年(昭和4)10月に制作された、F4号の片多徳郎『秋林半晴』。
◆写真中上は、1936年(昭和36)6月11日に撮影された空中写真にみる弁天池と想定描画ポイント。は、2葉ともおとめやま公園に残る弁天池の現状。
◆写真中下は、『秋林半晴』のサインおよび樹木背後に水面反射のようなものが見える右下部分の拡大。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる遊園地として整備されたらしい弁天池。は、旧・相馬邸内の池に毎年飛来するマガモ(♂)。
◆写真下は、1944年(昭和19)12月13日に撮影された弁天池で、池の周囲はかなりの樹林が繁って覆われているのがわかる。は、空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された弁天池とその周辺域。第一徴兵保険の宅地開発で拓かれたばかりの、現・おとめ山通りがはっきりと確認できる。は、2葉とも旧・相馬邸内の谷戸からの湧水で形成された池と、いまも泉から枯れずに流れつづける湧水流。
おまけ
先日、神田神保町にあるギャラリー内田の内田久様より、片多徳郎が1913年(大正2)に制作した「少女像」を拝見した。当時の片多徳郎の表現としては、アカデミックでなんら違和感をおぼえないが、板のキャンバスに描かれた裏面の「コーヒーカップ」には少なからず驚いた。とても明治が終ったばかりのころの画面とは思えず、大正末から昭和初期のような表現で描かれた「コーヒーカップ」だった。画面の右下にサインが入れられているので、こちらが表面なのかもしれないが、片多徳郎はどこかでセザンヌの作品でも目にしたのだろうか?
片多徳郎「少女像」1913.jpg
片多徳郎「コーヒーカップ」1913.jpg

読んだ!(21)  コメント(8) 
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コメント 8

pinkich

papaさん 秋林半晴の作画ポイントについて詳論いただき、ありがとうございました。どこにでもありそうな風景画でも、papaさんのお目にかかると描画ポイントまで看破されるようですね。ギャラリー内田さんにも行かれているようで、片多作品を私も見に行きますね。
by pinkich (2022-06-12 19:27) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
最近、近所を歩いていますと、それぞれの風景から各時代のエピソードが透過されて浮かび、幻覚や幻想のようなものが見えてきますので、これは米国の作家ジャック・フィニイのような眼差しを獲得できたのではないかと、ようやく物語のスタートラインに立てたような気分になっています。
ギャラリー内田さんの片多作品は、少なからず衝撃を受けました。明治から大正への境目で、こんな表現をしてたのか??……と、改めて片多徳郎の奥深さを認識させられた作品です。
by ChinchikoPapa (2022-06-12 20:16) 

pinkich

papaさん ギャラリー内田で片多徳郎作品を拝見してきました。大変いい作品でした。情報提供いただき、ありがとうございました。すでに売約すみでしたので、気が引けて裏面のコーヒーカップを拝見することまではしませんでしたが、少女像だけで大変満足しました。片多徳郎の初期の大変貴重な作品かと思います。
by pinkich (2022-06-13 17:43) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、重ねてコメントをありがとうございます。
さっそく行かれたのですね。^^ 画面には時代色がつきタバコのヤニなどでしょうか、かなりくすんで見えますが、ちゃんとしたプロに洗浄してもらうと、おそらく鮮やかな色彩が戻るのではないかと思います。特に裏面の「コーヒーカップ」は、鮮やかな色づかいのように見えますね。
by ChinchikoPapa (2022-06-13 18:04) 

pinkich

papaさん 今回の秋林半晴、以前取り上げていただいた若葉片丘にしても落合地域を描いたものかもしれませんね。カラー版を見ることができませんが、帆足先生的収蔵のサイトでくすんだ色として紹介されている昭和6年の風景画がこれらに類似する風景画なのかもしれません。片多徳郎の絶筆とされる風景画、郊外の春(秋)は、papaさんのおかげで落合地域やその東長崎に描画ポイントがあることがわかりましたね。落合柿の静物画もあります。片多徳郎と落合地域のつながりについて解明されたことは、papaさんの偉業だと思います。
by pinkich (2022-06-14 19:51) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
たいしたことをしていませんので、「偉業」などといわれてしまいますと果てしなく恐縮してしまいます。片多徳郎の作品は、ギャラリー内田の例もそうですが、いまだ埋もれている作品がずいぶん多いのではないかと思います。その中には、下落合時代の風景画も残されているかもしれません。
彼の描く下落合風景は、有岡一郎のように大きくて美しい西洋館のある街角でも、ことさら造成工事中の「キタナイ」場所ばかり選んで描く佐伯祐三とも異なり、傾斜面の地形的な面白さに画因をおぼえるものでしょうか、「どうしてここを?」と思うような意外なポイントを選びますね。これからも、片多作品(特に風景画)には注意してみたいと思います。
by ChinchikoPapa (2022-06-15 10:44) 

pinkich

papaさん 片多徳郎の日記が断片的に残っていて、大分の美術館で開催された片多徳郎展の古い図録の画家のことばとして収録されております。昭和4年乙己の日記はかなり残っているようで、秋林半晴は、絵には10月とありますが、日記でいうところのおそらく11月1日作画の風景4号ではないかと考えます。10月の日記では、秋果図を描きあげた安堵感から放心状態となり、また酒害で新橋付近の東都病院、赤十字病院に入退院する様子がわかります。東都病院に入院した際に、看護婦と日比谷公園を散歩し、木の下道を3号に写生と記されています。秋林半晴は、東都病院から退院後に落合の自宅付近を描いた可能性もありますが、医師から安静を指示されて写生に出かける体力もなかったのであれば、日比谷公園のスケッチをもとに4号の油彩画を描いた可能性もあるのではないかと考えます。戦前の日比谷公園にこのようなる樹木がらあったのかどうかわかりませんが、、、
by pinkich (2022-06-18 17:14) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
やはり酒のせいで、肉体的にも精神的にも疲れていた時期に当たるようですね。その日比谷公園の、「木の下道」3号が残っていれば、おそらく『秋林半晴』と同様に早描きの画面とおもわれますが観てみたいものです。
日比谷公園とその周辺は、日比谷入江の海と湿地帯だった埋立地で(その先につづいて西側に大きな溜池がありました)、『秋林半晴』に描かれたような斜面には心当たりがありません。
by ChinchikoPapa (2022-06-18 23:25) 

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