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ついにはデパートのようになった公設市場。 [気になる下落合]

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 落合地域には、公設と思われる市場が大正末から昭和初期にかけて2ヶ所確認できる。ひとつは、大正末には開業していた中井駅前に近い下落合市場Click!、もうひとつが月見岡八幡社Click!(旧境内)の向かいにあった上落合市場Click!だ。ただし、上落合市場のほうは何度か移転しているように思われる。公設市場の設計仕様でいえば、いずれも第二号あるいは第三号に類する木造建築だったらしく、山手空襲Click!であえなく焼失している。
 公設市場が、第一次世界大戦後に起きた米騒動に起因しているのは以前の記事Click!でも取り上げたが、関東大震災Click!をはさみ新たな公設市場の設置が東京各地で盛んになった。特に、全滅に近い被害を受けた東京市の市営市場は、震災後に耐震防火の設計がもっとも重視され、鉄筋コンクリート仕様の燃えにくい市営市場が急増していく。公設市場の設置当初の様子を、1930年(昭和5)に興文堂書院から出版された、復興調査協会『帝都復興史』第参巻の「公設市場」から引用してみよう。
  
 (公設市場の)創立当時は其の規模も小さく設備も不完全なるを免れず、且つ其の商品も白米、雑穀、味噌、醤油、牛豚肉、鮮魚、野菜、薪炭の八種類に過ぎなかつた為め、一般市民に利用されなかつたが、漸次その設備を改善すると共に販売品を安価に供給するため当局は種々研究を重ねたる結果、一般小売商に比して優良品を比較的安価に提供し得るに至つた為め、従来小売商人の暴利に苦しめられつゝあつた一般市民の公設市場利用熱は漸次高まり震災当時に於ては創設当時よりも市場数増加せるのみならず、各市場の取扱品目は著しく増加し、市民特に中産階級以下の日常生活に欠く可らざるものとして発展しつゝあつた。(カッコ内引用者註)
  
 ところが、市街地の公設市場はいまだ木造が多く、関東大震災によって大半が焼失している。震災当時は、市街地(東京15区Click!)に設置された東京市設市場が11ヶ所、近郊の郡部に設置された東京府設市場が31ヶ所あったが、このうち市街地および近郊の15ヶ所の市場が、大震災による大火災で商品在庫も含めて全焼している。
 関東大震災の以前に企画されていた市場の設計図案によれば、鉄筋コンクリート造りの市場建築モデルである「第一号」が存在していたが、建設費に手間やコストがかかるためか、いまだ数が少なかったのだろう。実際に建てられた市場は、木造平家建ての設計図モデル「第二号」か、あるいは壁のない吹き抜けの木造建築だった設計図モデル「第三号」が多かったとみられる。落合地域に大正末から昭和初期にかけて建設された公設市場は、この「第二号」あるいは「第三号」の設計図がベースとなって建設されているのだろう。
 鉄筋コンクリート造りによる公設市場(設計図第一号)の図面を見ると、正面の間口(8間半)は広めの道路に面していることが建設の前提で、残りの壁面(3面)はほかの建設敷地に隣接していることが条件とされている。建物の構造は地上2階に地下1階で、地下は市場内に出店している店舗の商品を備蓄・保管する倉庫として活用できるようになっている。各売店からは、専用階段を利用して地下倉庫へ下りることができた。
 鉄筋コンクリートの公設市場について、売店部分の室内仕様を見てみよう。1922年(大正11)に内務省社会局から発行された、『公設市場設計図及説明』から引用しよう。
公設市場設計図及説明1922.jpg 帝都復興史1930.jpg
公設市場第1号1.jpg
公設市場第1号2.jpg
  
 天井高前方ニ於テ十一尺五寸後方ニ於テ十尺トス 階段ノ外ニ必要アレハ床ニ上ゲ蓋ヲシテ商品ノ上下ニ便ス、陳列段ハ階段反上ゲ蓋ヲ考慮シテ本設計ニ依レルモ(ノ)ハ単ニ一例ヲ示スニ過ギズシテ売品ノ種類、性質ニ応ジ出店人ニ於テ任意設計スルヲ可トス、例ヘハ肉店、魚店ノ類ハ図面ノ如ク床上七尺迄ヲ硝子張、夫ヨリ上部梁迄ヲ金網張リトシテ蠅ヲ防ギ出札所ニ於ケルカ如ク切符売場及売品受渡口ヲ設クルカ如シ/売台甲板ハ幅一尺五寸高三尺三寸木製ニシテ一端ヲ出入ノ通路トス、冬期ニ於テ下部ニ暖房用放熱器ヲ装置スルコトヲ得、夜間ニ於テ甲板上部ニ自在戸ヲ立テ昼間ハ間仕切壁ニ沿ヒテ畳ミ置クヲ得シム、尚店内適宜ノ位置ニ洗浄用給水栓及運搬シ得ル金属製屑鑵ヲ備フルモノトス(カッコ内引用者註)
  
 2階の売店スペースは、市場の店舗数が増えたときのための予備室、あるいは市場の事務室として利用できるようになっている。売店の解説には上水道しか書かれていないが、各店には端に掘られた下水溝(排水溝)が設置されており、通風換気は各売店ごとに換気口を装備し、通路上部の天井両側には換気窓がうがたれて、常に外気が取りこめる設計となっていた。また、従業員や顧客用のトイレは浄化槽を備えた水洗式を採用し、「大」用の個室が4室、小便器が5個それぞれ設置されていた。
 鉄筋コンクリート造りの市場(第一号)は、1922年(大正11)の時点で建設費が坪単価280円と見積もられており、建物だけで72,240円の予算が必要だった。それに加え、商品の陳列棚や送風機、浄化装置、照明、水道(工事)などの設備や機器に別途費用が発生した。これに対して、木造による公設市場の設計図(モデル第二号)は建設費が坪単価160円で12,460円、木造吹き抜けの市場(モデル第三号)なら建設費が坪単価140円で13,500円ほどだった。第二号の木造市場より第三号の建設費が高いのは、想定されている敷地面積が第三号のほうが18.5坪ほどよけいに広いためだ。
 こうして、東京市内や東京府の郡部には次々と公設市場が開業していったが、関東大震災以降は鉄筋コンクリート造りによる建物が急増していくことになる。特に街道沿いには、内務省社会局による『公設市場設計図及説明』の設計図にまったくとらわれない、おシャレなデザインをした大型の公設市場が次々と建設されていく。
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公設市場第3号.jpg
 下落合の近隣でいえば目白駅前に開業した、まるで古城のようなデザインをしていた目白市場Click!、長崎バス通り(目白バス通り)に開業していた、戦後の名曲喫茶のような意匠の長崎市場Click!、そして公設市場というよりもむしろデパートのように大型化した、目白通り沿いの「椎名町百貨店」Click!(開設当初は「椎名町市場」だった?)と、鉄筋コンクリート造りの公設市場は年々大型化していった。
 公設市場内で扱う商品も、大正期の「白米、雑穀、味噌、醤油、牛豚肉、鮮魚、野菜、薪炭の八種類」どころではなく、デパートや今日の大型スーパーマーケットと同様に、食品から日用雑貨までありとあらゆる商品を取りそろえた販売構成になっていく。中には、目白駅前にあったオシャレな目白市場のように買い物ついでや通勤通学客を見こんだ、川村学園Click!の経営による女学生の喫茶店Click!までが出現するようになっていった。
 昭和初期の様子を、復興調査協会『帝都復興史』第参巻から引用してみよう。
  
 而して其の販売品目も創設の当初は米穀其他八種目に限定されてゐるが、発展に伴れて漸次増加され、日用品の外荒物類、麺類、罐詰等の準日用品をも販売し、更に金物類、洋品、雑貨、庶民階級向の呉服類等にも及んで広く販売されるに至つた 即ち震災後に於ける公設市場一般の販売品目は、白米、雑穀、乾物、野菜、漬物、佃煮、罐詰、鮮魚、干盬魚、牛豚其他の肉類、和洋酒、清涼飲料水、洋品雑貨、味噌、醤油、麺類、砂糖、菓子、パン類、茶、陶器、荒物、金物、傘、履物、薪炭の二十七種類に拡張され、市民の生活必需品は大部分市場に於て整へ得られるに至つた。
  
 つまり、当初は米価をはじめ、生活には欠かせない食品や燃料の急激な値上がり対策として、必要最小限の商品8種に限定して安価に販売していた公設市場が、昭和期に入るとまるでデパートかスーパーのような大型店舗へと衣がえし、必ずしも生活弱者だけではなく一般市民までターゲットに入れた、大規模な流通機関にまで発展してしまったのだ。
 これでは、周囲の店舗や商店街はたまったものではないだろう。公設市場が、いつの間にか強力な競合相手として立ちはだかったことになる。東京じゅうの商店街から、東京市や東京府へ抗議が殺到したと考えても、あながちピント外れではないだろう。
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椎名町百貨店1933.jpg
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 椎名町に設置された大型の市場が、地図上から「公設市場」の記号がいつのまにか消え、なぜ「椎名町百貨店」という私設のような名称になっているのか、なぜ1930年代には公設市場が次々と姿を消していったのか、そこに地元商店街との激しい軋轢を感じるのだ。

◆写真上:長崎町の目白通り沿いにあった、「椎名町百貨店」跡の現状。
◆写真中上上左は、1922年(大正11)発行の『公設市場設計図及説明』(内務省社会局)。上右は、1930年(昭和5)出版の復興調査協会『帝都復興史』第参巻(興文堂書院)。は、鉄筋コンクリート建築の「公設市場第一号」設計図面。
◆写真中下は、「公設市場第一号」の設計図面。は、木造の「公設市場第二号」の設計図面。は、壁がなく吹き抜けの「公設市場第三号」の設計図面。
◆写真下は、ダット乗合自動車の終点折返し場の東側に建っていた1935年(昭和10)ごろの目白駅前のオシャレな「目白市場」。は、目白通り沿いに建っていたもはや市場というよりはデパートに見える1933年(昭和8)撮影の「椎名町百貨店」。は、まるで戦後の名曲喫茶のような意匠に見える1940年(昭和15)ごろ撮影の長崎バス通りに開業していた「長崎市場」。(「目白市場」と「長崎市場」は小川薫アルバムClick!より)

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skekhtehuacso

私は子どもの頃(昭和50年代)は名古屋で過ごしましたが、こういう公設市場、まだいくつか残っておりました。
スーパーのような一つのお店じゃなくて、中に入るといろいろなお店が入店していてその一つひとつで必要な物を買って回るしくみの場所。
祖母といっしょに買い物に行くと、お店の人が話しかけてくれるので、楽しかったことを覚えております。
そうそう!、総菜屋さんで買ってもらうスパゲッティサラダ、おいしかったなぁ。
by skekhtehuacso (2022-07-27 19:49) 

ChinchikoPapa

skekhtehuacsoさん、コメントをありがとうございます。
わたしは学生のころ、近所の私営市場の利用経験はありますが、公設市場は知らないというか存在しなかったですね。子どものころは、近所にスーパーマーケットが進出してきて、いまから考えるとそれほど大きな店舗ではなかったのですが、小学校低学年のころは母親に連れられて、よく買い物に付き合わされていました。
お菓子売り場にも、子どもが惹かれるような商品が少なく(みんなメジャーなありきたりのお菓子ばかりで)、駄菓子屋のほうがよほど魅力的に映っていました。w
空襲を受けていない東京の郊外域へいけば、どこかに公設市場が残っているのかもしれません。まあ「道の駅」なども、各地の自治体による公設市場といえなくもないでしょうか。
by ChinchikoPapa (2022-07-27 22:19) 

アヨアン・イゴカー

公設市場というもの、初めて知りました。
設計図なども、1922年のものなど、とてもオシャレで、当時の日本の様子が想像できて楽しいですね。
by アヨアン・イゴカー (2022-08-01 14:50) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
鉄筋コンクリート造りの「第一号」は、市場というよりも明るくて風通しのいい、中規模の病院のような建物みたいだと眺めていました。アールのきいたファサードや、窓のかたちがシャレてますね。
by ChinchikoPapa (2022-08-01 18:02) 

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