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短編のうまさを感じる文化村の池谷信三郎。 [気になる下落合]

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 目白文化村の第二文化村Click!に住んだ作家に、ドイツ留学の学生同士であり一高Click!の先輩だった村山知義Click!と親密な関係だった池谷信三郎がいる。ふたりは、一高時代から知りあっていたとみられるが、お互いの留学先がベルリン大学だったのでより親しくなったのだろう。池谷新三郎は、東京帝大を休学してベルリンにいったがのちに帝大を退学し、村山知義は東京帝大を中退してからベルリンへと向かっている。
 1923年(大正12)の関東大震災で、池谷の実家が被害を受けたためにベルリンから帰国したあと、ヨーロッパの新進芸術運動から影響を受けた戯曲や小説を次々と発表するようになる。特に1925年(大正14)には、ベルリンでの滞在経験をテーマにした『望郷』が、時事新報社の募集した懸賞小説に入選している。また、同年に村山知義たちと結成した演劇集団「心座」に参画し、戯曲『三月三十二日』を築地小劇場で上演した。翌1926年(大正15)には、戯曲の代表作ともいえる『おらんだ人形』を発表している。
 なお、時事新報社に連載された『望郷』の挿画は村山知義Click!が担当したが、あまりにも絵が斬新すぎて読者の不興をかい、連載の途中で降板させられている。だが、その後に出される池谷信三郎の『望郷』(時事新報社/1925年)や『橋・おらんだ人形』(改造社/1927年)などの著作は、村山知義による装丁で出版された。
 戯曲『おらんだ人形』は、当時のモダンなアパートメントClick!ですごす青年たちの、「恋愛の機微」を描いた1幕ものの会話劇なのだが、アメ車の「パツカアド」や女が会話するとき口にする小粒の「チヨコレイト」、卓上でナイトがすべるチェス盤、ボールによるテーブルマジック、会話に登場する銀座の喫茶店資生堂Click!など演出の道具立てはモダンで、当時としては斬新でカッコよかったのかもしれないが、これらの道具立てや書割(おそらくモダンな)を差し引いて舞台を眺めたら、伝統的でありがちな男女の「惚れた腫れた」劇をクールな感覚の会話で再現しただけ……のようにも思える。
 『おらんだ人形』の前年、1926年(大正15)にはベルリンを舞台にした主人公が外国人の小説『街に笑ふ』を逗子の海辺で執筆し、また翌1927年(昭和2)には同じくベルリンの外国人(おそらくドイツ人)を主人公にした小説『橋』を鎌倉で執筆している。特に後者の『橋』は、池谷信三郎が創作した代表的な短編といわれているが、『街に笑ふ』も含めて今日的な目から見ると、あまり出来がいいとも思えず内容が面白くない。主人公に外国人をすえて、異国の幻想的な街の風景を背景にしながら、不思議でつかみどころのないな味わいのする小説に仕上げているので、当時としては新鮮でめずらしく評判になった作品なのかもしれないが、現代からみると印象が散漫で読後の印象が希薄だ。
 たとえば滞日経験が数年のドイツ人作家が、日本人を主人公にして東京の街中をさまよわせたとしても、おそらくリアルで的確、深くて面白い物語が創造できるとは思えないのと同様に、どこかウソ臭さが鼻についてしまうのだ。ちょうど、昔日の米国やイタリア映画に登場する「日本人」たちのように、いったいどこの国に育ちどのようなアイデンティティを備えた人間なのか、“国籍不明”感が濃厚に漂うのにも似ているだろうか。
 少し横道にそれるが、観光客の外国人(特に欧米人が多いだろうか)が感謝して礼をいうとき、なぜか両手を合わせて拝む仕草をすることがある。東南アジア諸国などの宗教的な生活習慣とは異なり、日本では両手を合わせて人物を拝む慣習はおしなべて死者(ホトケ)に対してであり、「オレは仏教徒Click!でもないし、まだ死んじゃいねえぞ。無礼なことするな!」と、誰も彼らを注意しないのだろうか?
 社会観や生活観がまったく異なる、外国人を主人公にすえるのであれば、おそらくはその国や街、地域に根づいて文化や風俗、習慣と密に同化しなければ、いくら幻想的な場面を多用したとしても、リアルな情景の創造や心理の描写はむずかしいのではないだろうか。
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 これは別に外国と日本に限らず、国内の地方・地域においても同様だろう。以前の記事Click!にも書いたけれど、いくら自身の出自とは異なる地方・地域で長期間暮らしたとしても、その地方・地域の根にあるアイデンティティに同化していなければ(あるいは同化をどこかで拒否していれば)、当の地方・地域の住民から見ればトンチンカンClick!なことをいったり書いたりしているのに気がつかない。
 一所懸命に図書館や資料室に通って勉強しても、そこに記録されているのは粗いザルの目にひっかかったほんのわずかばかりな史的事実のみで、多くの文化や風俗、習慣、出来事は地方・地域ごとの家庭など生活の中で日々伝承され後世に残されていく。それに気づかず、すべてわかったような顔をして“お勉強発表会”のようなことをしても、その現場・地場の住民にしてみれば「??」となるのは当然のことではないだろうか。出来事は図書室や資料室で起きているのではなく、地方・地域のその現場で起きていることなのだというのは、拙サイトへ記事を書いていて痛感しつづけているテーマのひとつだ。
 池谷信三郎の小説には、むしろ故郷の東京を舞台にした作品に、今日的な目から見ても光る作品が多い。たとえば、エンディングが唐突で安易な尻きれトンボ感が強く、少し長くなっても登場人物たちの言動をていねいにすくいとり熟成させたほうがいいのではないかと思うのだが、下落合時代に書かれた中編の『花はくれなゐ』は、けっこう飽きずに最後まで読ませる作品だ。また、同年の短編『縁』や『郵便』も、途中から先が読めるような流れで最後はやはり安易な予定調和へと落としこんではいるが、物語のテンポや展開がH.モーパッサンやO.ヘンリーを彷彿とさせるような味わいを見せている。
 池谷信三郎は、村山知義Click!の「心座」が解散したあと、舟橋聖一Click!らとともに「蝙蝠座」へ参画するが、そのわずか3年後の1933年(昭和8)に結核が悪化し、若干33歳で死去している。残された彼の作品を読むかぎり、戯曲よりも小説のほうが面白く(ただし外国人が主人公の小説=ベルリンものは除く)、その後も活躍していたら短編の名手になっていそうな「未完の器」的な作家ではないだろうか。残念ながら、現代では池谷信三郎の作品に触れられる機会は非常に少なく、昭和初期に刊行された古書を手に入れるか、オムニバス全集の中にちらほら収録された代表作といわれる作品を参照するしかなさそうだ。
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 池谷信三郎は下落合1639番地、すなわち目白文化村の第二文化村(いまの感覚だと第一文化村か?)に、1927年(昭和2)9月から1929年(昭和4)まで住んでいる。下落合1639番地は広くない区画で、大きめな屋敷が2棟並んで建っていた。第一文化村から第二文化村へと、南西方面に抜ける広めの三間道路(センター通り)に面しており、同地番の角から西側の細い道をまがると、地元の住民たちが「オバケ道」と呼んでいた細い路地が、落合第四府営住宅Click!の境界に沿ってカーブをしながらつづいている。
 第二文化村が売りだされた当初、1923年(大正12)にこの敷地は早々に売れたとみられ、1925年(大正14)に作成された「目白文化村分譲地地割図」では、吉田義継邸(北側)と吉村佐平邸(南側)になっている。ただし、実際に住宅を建設していたか建設予定地のままだったかどうかは不明で、いまだ土地の購入者名を記載しただけだったのかもしれない。
 1926年(大正15)になると、「下落合事情明細図」によれば北側の吉田邸の敷地は空き地ないしは空き家だが、南側の吉村邸の敷地は石田義雄邸になっている。ちょうどこの時期に、池谷信三郎は郊外に家を探していたとみられ、下落合1639番地の北側の空き地に家を建てたか、あるいは空き家を借りるかして入居している可能性が高い。
 ちなみに、池谷信三郎が1929年(昭和4)に目白文化村から転居してしまうと、そのあとは「火保図」(1938年現在)によれば佐藤邸(北側)および松田邸(南側)に住民が変わっている。目白文化村は、長く住みつづける住民がいる一方で、大家が屋敷を賃貸ししていたところなどは住民名がコロコロと変わるため追いかけるのがむずかしい。また、池谷信三郎が目白文化村にいた時期は、金融恐慌から大恐慌へと世界経済が大混乱していた時代と重なるので、住民の移動や入れ替わりが激しかったのだろう。「東京都全住宅案内帳」(1960年現在)によれば、戦後は竹内邸(北側)と杉本邸(南側)に変わっていた。
 なお、池谷信三郎が目白文化村に住んでいた1929年(昭和4)、おりからの円本ブームClick!から平凡社がシリーズで出版していた「新進傑作小説全集」の第2巻が、『池谷信三郎集』として世にでている。ちなみに、第1巻は『犬養健集』で第3巻が『佐々木茂索集』、第4巻が『横光利一集』、第5巻が以前にもご紹介した『片岡鉄兵集』Click!だった。
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 昭和に入ると、池谷信三郎は文芸誌へ作品を次々と発表していき、中河與一Click!や石浜金作、菅忠雄、川端康成Click!などと懇意になる。だが宿痾の結核は、おそらく自身が満足する作品を残す時間を与えてはくれなかった。なお、文藝春秋Click!菊池寛Click!は、1936年(昭和11)より早逝した彼を記念して、文芸誌「文学界」に池谷信三郎賞を設置している。

◆写真上:下落合1639番地にあった、第二文化村の池谷信三郎邸跡(道路左手)。
◆写真中上は、1925年(大正14)出版の池谷信三郎『望郷』(新潮社/)と、1927年(昭和2)出版の同『橋・おらんだ人形』(改造社/)。ともに、村山知義の装丁・挿画による。は、1931年(昭和6)出版の同『遥かなる風』(新潮社/)と、著者の池谷信三郎()。は、1927年(昭和2)上演の心座『スカートをはいたネロ』の舞台。
◆写真中下は、1929年(昭和4)に平凡社から出版された「新進傑作小説全集」シリーズの『池谷信三郎集』()と著者のサイン()。中左は、1925年(大正14)作成の「目白文化村分譲地地割図」にみる下落合1639番地。中右は、ちょうど池谷信三郎が住んでいた1929年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる同番地。は、西洋館とみられる住宅の形状がよくわかる1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同地番。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合1639番地界隈。は、『池谷信三郎集』(平凡社)収録の著者プロフィール。は、死去する少し前に文学仲間と撮影した記念写真で、左から池谷信三郎、中河與一、石浜金作、川端康成、菅忠雄。

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