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上落合で暮らし荼毘にふされた大西瀧治郎。 [気になる下落合]

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 上落合1丁目509番地(現・上落合2丁目)には、海軍の大西瀧治郎が住んでいた。広大な野々村金五郎(金吾)邸Click!(1954年に移転した現・落合第二小学校Click!)の、道路をはさんだすぐ南側に接する敷地の一画で、特高や憲兵隊Click!による弾圧が激しくなると米国へ亡命する八島太郎(岩松惇)Click!アトリエの、路地をはさんだ向かいにあたる。
 戦中派の方は、大西瀧治郎の名前は忘れられないだろう。爆弾を抱いて敵艦に体当たりする、あの生きて帰還できずもはや作戦とも呼べない海軍の「神風特別攻撃隊」を編成した人物だからだ。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)では、「海軍中佐/海軍航空本部教育部員」として掲載されているが、詳しい人物像は紹介されていない。敗戦時、大西瀧治郎は海軍中将だった。
 また、1938年(昭和13)の「火保図」にも、同地番の大西邸が採取されているので、少なくとも太平洋戦争がはじまる前後までは上落合に自邸があったとみられる。なお、同邸は1945年(昭和20)4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる山手大空襲Click!で、上落合のほぼ全域が壊滅Click!したときに延焼・焼失している。
 大西瀧治郎は、1909年(明治42)に海軍兵学校へ入学(第40期)すると、1912年(明治45)に同校を卒業している。ミッドウェイ海戦のとき、空母「飛龍」の艦長として艦と運命をともにした山口多聞とは同期生だった。その後、海軍大学校をめざすが何度か受験に失敗している。大西は、当時から大艦巨砲主義に反対し、空母の艦載機など航空機を中心とした軍備を唱えていたが、海軍部内に根強い従来の戦艦中心主義の勢力と鋭く対立した。これからは制空権の有無が戦闘の勝敗を決すると考えていた、同期入学の山口多聞とは意見があっただろう。また、当時は大尉だった中島和久平が海軍を辞め、民間の飛行機製作所(のちの中島飛行機Click!)を創設するのにも協力している。
 1928年(昭和3)には、日本初の空母「鳳翔」の飛行長に任命されて艦隊勤務につき、1932年(昭和7)には空母「加賀」の副長に転任している。同年に『落合町誌』が編纂されているので、大西は海軍航空本部教育部から空母「加賀」の副長へと転出するころだったのがわかる。翌1933年(昭和8)には、佐世保海軍航空隊指令として転任しているので、上落合の自邸にはほとんど帰らなかったのではないかと思われる。
 ちょうどこのころ、大西瀧治郎は第1航空戦隊の山本五十六Click!らとともに、「航空主兵・戦艦無用」論を海軍内で展開し、海軍建造部ですでに計画化されている呉の第1号艦(戦艦「大和」Click!)と長崎の第2号艦(戦艦「武蔵」Click!)の建造を中止し、同予算で大型空母(正規空母)を3隻建造すべきだとして強く反対している。また、「大和」型戦艦を1隻建造する予算があれば、最新鋭の戦闘機を1,000機製造できると主張して、海軍部内の大艦巨砲主義者たちと対峙した。このころから、大西は海軍航空隊でも陸軍航空隊でもなく、日本「空軍」の設立をめざすようになったといわれている。
 1937年(昭和12)には、海軍航空本部教育部長に就任し、「航空軍備ニ関スル研究」(1938年)と題したパンフレットを制作して広く配布している。海中にいる潜水艦を除き、航空戦力には海上の艦艇は対抗できないと説き、「空軍」の優位性を強く主張している。翌1938年(昭和13)になると、日中戦争の激化により欧米諸国の圧力から原油の輸入量が減少し、艦隊燃料や航空燃料も十分に確保できなくなっていった。そんな折も折、大西瀧治郎は「水からガソリンを製造する」という、幼稚な詐欺師にひっかかっている。ちょうど、上落合の大西邸が「火保図」に採取されたころのことだ。
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 最初に大西瀧治郎のもとへ、「水からガソリンを製造できる」という話を持ちこんだのは、街の「発明家」を自称する本多維富という人物だった。本多からどのようなプレゼンテーションを受けたのかは不明だが、なぜか大西は「できる」と信じてしまったようだ。大西は、この「発明」を海軍上層部にも報告し実験への立ちあいを求めたため、海軍次官の山本五十六や航空本部長の豊田貞次郎も巻きこまれている。もちろん水からガソリンを精製することなど不可能なので、周囲が実験に疲れた深夜をみはからって、本多が水とガソリンの容器をスリカエたところを見つかり、実験は「失敗」に終わった。
 大西瀧治郎は、教育部長名で「覚」書きとしているが、内容は明らかに海軍じゅうに配布した始末書で、彼が広範に本多の「ガソリン」詐欺を宣伝してしまったせいか、海軍ばかりでなく陸軍省や商工省、警視庁、憲兵隊にも「覚」書きと称する始末書を配布している。ちょっと興味深いので、大西の「本多氏発明ノガソリンノ特殊製造法実験ノ終結ニ際シ関係者ニ申渡シ覚」(1939年1月17日)から少し引用してみよう。なお、原文のカタカナでは読みにくいので、文章をひらがなに変換している。
  
 今回の実験に関する海軍側の責任者として本実験の成績を発表し併せて本件に関する海軍側の所見を伝達致します/本実験の経過はご承知の通り順調と言ひ難いものでありましたが兎に角十日に亘る実験の期間中に於て本月十日午前零時二十五分及同十五日午前二時五分の両回に各一回(容量四〇〇瓦薬瓶)宛ガソリン製造に成功したるが如き現象を見る事が出来たのであります、併しながら此の両回共内容物がガソリンに変化すると称せらる時機の前と後とに於て其の使用せられて居つた瓶が確実に変更せられて居つたのであります/此の瓶が変更せられて居つた点に関しては明確に之を証明し得る物的及人的証拠を有して居るのでありまして若し御希望ならば説明を致します
  
 書類名は「申渡シ覚」などといかめしいが、内容は“謙虚”で恥ずかしそうな文面なのがおかしい。最後に、各省庁が実験について「相当関心ヲ有シテ居ル様デアリマスカラ参考ノ為」といういいわけを添えて、上記の諸組織に「所見ヲ通知スル」と配布している。
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 1941年(昭和16)1月、山本五十六は日米開戦が不可避になった場合、真珠湾の米太平洋艦隊を奇襲Click!することが可能かどうか、その作戦研究を大西瀧治郎へひそかに下命している。大西は、当時第1航空戦隊の参謀だった源田実に立案を任せたが、シミュレーション(図上演習)を繰り返した結果、日本は米国に勝てる見こみがまったくないので、米国を強く刺激するような真珠湾攻撃には強く反対したうえで、たとえ開戦することになっても米国との早期停戦・講和をめざすべきだと、山本へ答申している。
 日米開戦後の1942年(昭和17)に、大西瀧治郎は海軍航空本部総務部長に着任した。海軍の将官や政財界のメンバーを集め、同年4月に開催された「国策研究会」で講演し、「上は内閣総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣、企画院総裁、その他もろもろの長と称する人々は単なる書類ブローカーに過ぎない。/こういう人たちは百害あって一利なし、すみやかに戦争指導の局面から消えてもらいたい。それから戦艦は即刻たたきこわして、その材料で空軍をつくってもらいたい。海軍は空軍となるべきである」と発言したらしい。
 当時の東條内閣Click!をはじめ、陸海軍の首脳部を無能でいらないと全否定の“暴言”を吐いて出席者を唖然とさせたが、特に処罰を受けることもなく不問にふされたとされている。だが、この国策研究会の講演記録が見あたらないので、この発言が事実かどうかは不明だ。のちに糧秣(食糧)や弾薬などの輜重計画をまったく考慮せずインパール作戦を発動した陸軍の上層部に対し、「でたらめな命令」「作戦に於て各上司の統帥があたかも鬼畜如きもの」と打電した佐藤幸徳中将は即時解任されているので、もし大西がそのような発言をしたとすれば、なんらかの処分が下されていたのではないだろうか。
 さて、1944年(昭和19)も秋になると戦局はますます不利になり、当時は第1航空艦隊司令官に就任していた大西瀧治郎は、比島(フィリピン)戦線において爆弾を抱き敵艦に体当たりをする「神風特別攻撃隊」を編成する。ちなみに、神風特別攻撃隊の命名も大西自身によるものだ。神風特攻隊については、あまたの書籍や記録映像、映画など膨大な資料があるので、詳細はそちらを参照していただきたい。だが、いくら神風特攻隊で数多くの若者の生命を犠牲にしても、戦局はまったく変わらず好転しなかった。
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 敗戦の翌日、1945年(昭和20)8月16日の未明に渋谷南平台の海軍官舎で、「多くの青年を死なせた」ことへの責任をとり割腹自決をはかったが介錯を断ったために死にきれず、同日の夕方まで重体のまま息があった。死後、庭木を伐採して造ったにわか棺桶に入れられた遺体は、自邸があった上落合の落合火葬場で荼毘にふされている。周囲の住宅街は一面の焼け野原で、上落合1丁目509番地の自邸もとうに灰になっていたが、落合火葬場はなんとか機能していた。航空機による攻撃の威力を、生涯にわたって唱えつづけた大西が、山手空襲により一面が焦土と化した上落合で焼かれるのは、なんとも皮肉な結末だった。

◆写真上:上落合1丁目509番地(現・上落合2丁目)の大西瀧治郎跡(画面左手)。右手の一画が八島太郎(岩松惇)のアトリエ跡で、正面は落合第二小学校(野々村邸跡)。
◆写真中上は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる大西邸。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」に採取された大西邸。は、1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲(4月13日)直前にF13Click!によって撮影された大西邸。
◆写真中下は、大西が海軍航空本部教育部長時代に執筆した『航空軍備ニ関スル研究』論文を紹介する「昭和十三年五月/支那事変一般記事」。は、大西瀧治郎()と1939年(昭和14)1月23日付けで海軍省から陸軍省に通達された「水ヨリ「ガソリン」ヲ製造スル実験ニ関スル通知」()。は、大西が書いた「申渡シ覚」=実質的な始末書。
◆写真下は、米艦へ突入する神風特攻隊の爆装零戦。は、特攻隊で被弾した米機動部隊。は、神風特攻隊の戦果を報じる「大本営一般特報170号」(1944年10月31日)。

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コメント 6

pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。
今回の記事もなかなかマニアックで楽しめました。水をガソリンに変える詐欺や大西氏の始末書の話は笑えました。油が尽きて敗戦となったとはよく言われますが、当時の海軍上層部の藁にもすがる切実さが伝わってくるエピソードではないかと思います。
by pinkich (2022-12-07 21:49) 

サンフランシスコ人

「神風特攻隊で数多くの若者の生命を犠牲にしても、戦局はまったく変わらず好転しなかった....」

当たり前!
by サンフランシスコ人 (2022-12-08 05:29) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
詐欺師の本多維富を囲み、海軍の首脳が水からガソリンができるかどうかを、ジッと見まもっていた情景を想像すると、どこか滑稽ですらあります。そうまでして「油」を手に入れなければ、航空機や艦船をいくら保有していても役立たないのは、多くの人々が深刻かつ切実に気づいていたはずですが、「南方資源が……」や「フタを開けてみなければ……」の野放図な楽観論が幅をきかす、おかしな政治(軍事)状況だったのでしょうね。
by ChinchikoPapa (2022-12-08 09:59) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
当たり前ですね。かけがえのないパイロット(人命)と、貴重な兵器をみすみす亡くしに出撃し、それでなくても足りない戦力を低下させる一方の「作戦」なのですから。
by ChinchikoPapa (2022-12-08 10:06) 

pinkich

papaさん 画集届きました。ありがとうございました。描画ポイントの特定は、落合地域を熟知しているからこそできたのであり、papaさんの偉業だだと思います。大事にします。ありがとうございました。
by pinkich (2022-12-08 21:45) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
たいした仕上がりではありませんので、どうぞおヒマなときにでもご笑覧ください。こちらこそ、貴重な画集をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2022-12-08 21:49) 

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