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今西中通が描いた上落合の「雪景色」。 [気になる下落合]

上落合850番地.jpg
 先日、1985年(昭和60)に三彩社から限定500部で出版された『今西中通画集』を、近くにお住まいのpinkichさんよりお贈りいただいた。雨の中、わざわざ拙宅までとどけてくださったのだ。ほんとうに、ありがとうございました。>pinkichさん 同画集に目を通して、改めて今西中通が残した画業の全貌を知ることができた。
 今西中通Click!は、1930年(昭和5)から上落合851番地Click!にアトリエをかまえ、1934年(昭和9)に江古田1丁目81番地へ転居するまでの4年間をすごしている。画集には、1930~1932年(昭和5~7)にかけて制作された、住宅街の雪景色を描いたタブローのモノクロ画面が4点ほど、すべて『風景』という暫定(?)タイトルのまま掲載されている。時期的にみても、また当時の道路は舗装されていないのでグチャグチャにぬかるんでいたであろう点や、降雪による交通機関の混乱などで遠出はしにくかったとみられる点も考えあわせると、アトリエのある上落合の近所を描いた作品の可能性が高いとみられる。
 当時の東京は、現在よりも冬の平均気温がかなり低く、年間を通じて大雪の日もめずらしくなかった。ちなみに、今西中通が渋谷道玄坂の下宿から上落合851番地に転居してきて、いまだ周囲の街並みがめずらしく眺められていたと思われる1930年(昭和5)を例にとると、1年のうち小雪の日は除いて大雪の日が8日もある。麹町にあった東京中央気象台Click!の記録によれば、同年の2月1・2日にかけて29.4mm(降水量換算:以下同数値)、2月6日に14.3mm、2月26・27・28日にかけて36.0mm、3月6・7日にかけて15.0mmの降雪があった。気象台があった麹町区とちがって当時の東京郊外なら、さらに多くの積雪があったと想定しても不思議ではない。また、同年は12月にも降雪が記録されている。これに小雪の日も含めれば、年間15日前後の降雪はめずらしくない時代だった。
 画集のモノクロ画像を観察してみると、森林の地面や家々の屋根などにもかなりの積雪があったように見えるので、今西中通は大雪のやんだ合間を見はからって、画道具を手に近所を歩きまわりながらこれらの風景を描いたものだろう。
 まずは、画面の下を蛇行ぎみの小川が流れているようで、その向こう岸には宅地造成を終えたとみられる空き地や、屋根に雪を載せた住宅街が拡がっている。すぐにも、当時は小流れだった妙正寺川Click!と上落合の街並みが思い浮かぶ。遠景に崖線の連らなりが見えないところをみると、川の北岸の小高い位置から南を向いて描いた風景だろうか。
 の画面は、当時の典型的な2階建て住宅を描いているが、個人邸というよりも上落合にあまた建設された貸家のような風情だ。上落合851番地にあったアトリエのすぐ北側には、1930年(昭和5)5月に林芙美子Click!手塚緑敏Click!夫妻が転居してくるコンパクトな2階家Click!(上落合850番地)が建っていたが、この貸家には少し前まで尾崎翠Click!が住んでいた。尾崎翠Click!は同年、近くにある上落合842番地の家へと移るが、その際にもとの借家の大家を林・手塚夫妻に紹介している。の画面は、今西中通がアトリエをでたすぐ北側の位置から、親しかった林・手塚夫妻の2階家を描いているのかもしれない。
 『今西中通画集』に掲載された年譜の、1930年(昭和5)から少し引用してみよう。
  
 上落合八五一に住む。川口軌外を知る。「フサ像」のモデルであったフサのいた喫茶店に通う。この家の二階に、後フサと結婚した早大生の藤原氏がいて、下を今西が使っていた。中間冊夫は今西と近所の林芙美子のところへ時々訪問している。[中間氏談]
 五月に、林芙美子宅は上落合八五〇番地に越した。今西とは何時とはなく知り合うようになった。そのころの今西は生活に困ったわけでなく、今西の財産を管理している田島家から仕送りがあった。郷里からも友人がやってきて居候がいて、貧乏たらしいところはなかった。林家では将棋をよくやったり、林家とは今西結婚後まで交際があり、結婚のお祝いに林家から鉄瓶がおくられた。[林緑敏氏談]
  
今西中通画集1985.jpg 今西中通.jpg
風景①.jpg
風景②.jpg
 当時、独立美術協会Click!会員のひとりである川口軌外Click!は、今西アトリエから眺められる北側の丘上、下落合1995番地にアトリエClick!を建てて住んでいたので、今西中通はときどき川口アトリエを訪問している。このあと、今西中通の表現がフォービズムからキュビズムへと変貌していくのも、川口からの少なからぬ影響があったのだろう。
 文中では、今西中通が林芙美子Click!と「知り合」ったように書かれているが、落合地域の他の画家たちと同様に、まず知りあったのは落合町の各地で写生しながら、洋画家をめざしていた夫の手塚緑敏Click!(のち林緑敏)のほうで、その連れ合いとしての林芙美子を知ったのだろう。「将棋をよくやった」相手も、また結婚時に「鉄瓶」を贈ってくれたのも、ついにプロの画家にはなれなかった人の好い手塚緑敏Click!だったように思う。
 さて、の画面は右手に社(やしろ)の拝殿、または本殿のような建物が描かれている。その周囲には不ぞろいの玉垣のような、あるいは大小の杭のようなものが並んでおり、神域の結界を形成しているように見える。手前には、雪の野原か空き地に湾曲した道路らしい筋が描かれている。上落合や下落合を問わず、わたしはこのような風景を形成する社をかつて実際に見たことはないが、1930~1932年(昭和5~7)のころに限定すると、改正道路(山手通り)の工事Click!で消滅してしまった、上落合578~579番地の大塚古墳Click!を境内にしていた大塚浅間社Click!が、画面の風情にもっとも近いだろうか。
 上落合大塚古墳をベースに築かれた落合富士Click!は、画面右手の拝殿が描かれた右端から画面の右枠外にこんもりと半球形に盛りあがって位置しており、大小不ぞろいで杭(おそらくコンクリート製)に細い鉄パイプを通した玉垣(?)で境内が囲まれていた。月見岡八幡社Click!守谷源次郎Click!が大正末ないしは昭和初期に撮影した写真には、同社の拝殿や落合富士とともに、その不ぞろいだった杭状の玉垣(?)の一部までがとらえられている。
 最後の雪景色は、おそらくアトリエの近所にある雪が積もった雑木林を描いたもので、どこの風景なのかまったく見当がつかない。逆光で並ぶ木々のうしろには、なにか建築物のようなかたちがありそうなのだが、モノクロ画面では判断しにくく不明だ。画面をカラー画像で観られれば、もう少し情報がつかめて何かの形状がつかめるかもしれない。以上4点の『風景』が、上落合の雪景色を描いたとみられる今西中通のタブローだ。
上落合850尾崎宅.jpg
風景③.jpg
大塚浅間神社.jpg
 さて、いただいた『今西中通画集』の年譜に、少し気になるところがあったのでついでに書いてみたい。それは、1933年(昭和8)の項目に記載されている。以下、引用してみよう。
  
 (前略) 林芙美子『放浪記』出版記念に「春景色」二十五号を贈る。
 淀橋区下落合に住む(上落合の町名変更で前記と同じ場所)。
  
 この記述には、ふたつの大きな疑問がある。ひとつは、今西中通が上落合851番地に住んでいた1934年(昭和9)の時点まで、東京市が35区制Click!への移行(1932年)とともに上落合が1丁目と2丁目に分けられた際、一部に細かな地番変更はあっても、上落合851番地が「下落合」になってしまうような「町名変更」はなかった。
 ふたつめの疑問は、強いて「町名変更」に触れるのであれば、1942年(昭和17)ごろ蛇行した妙正寺川の直線整流化工事Click!がほぼ完了した際、以前から同河川を下落合と上落合の境界としていたせいで、上落合の一部の敷地が妙正寺川の北側、つまり下落合5丁目(旧・葛ヶ谷御霊下)側へはみ出してしまう結果となった。このとき、上落合851番地の北側一帯にあたる850番地の敷地は、ほとんどが妙正寺川に“水没”している。しかし、再び直線化された妙正寺川が町境とされ、川の北側にはみでた上落合の土地で町名変更が行われたのは戦後のことであり、今西中通が死去してからずいぶんあとの時代だ。
 また、上落合851番地の敷地は、妙正寺川の工事によってもなんら影響を受けておらず、戦前の淀橋区時代から戦後の新宿区時代を通じてもそのままであり、1966年(昭和41)に上落合が1丁目~3丁目に分割されるまで、一貫して上落合2丁目851番地のままだった。生前の今西中通が「町名が淀橋区下落合に変わっても同じ家に住んでいた」と語っていたのか、友人たちによる誤った証言なのか、あるいはのちの研究者が行なった調査にもとづくなんらかの錯誤なのか、この年譜に見られる記述にも尾崎翠の旧・住所Click!と同様に、なにか大きな勘ちがいがひそんでいそうだ。
風景④.jpg
上落合851番地1936.jpg
上落合851番地1938.jpg
 今回は、今西中通が上落合時代に残したタブローの風景作品について書いたが、彼が同じ時期に描きとめた素描の中にも、落合風景らしい画面がいくつか残されている。ときに鉄道だったり、高圧鉄塔が見える住宅街だったりするのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:直線整流化工事で妙正寺川に水没した上落合850番地界隈と、対岸に見えているのは今西中通が暮らした昔日の上落合851番地の住宅街。
◆写真中上は、1985年(昭和60)に限定500部で出版された『今西中通画集』(三彩社/)と、1938年(昭和13)ごろに撮影された今西中通()。は、1930~1932年(昭和5~7)制作の今西中通『風景』は、同時期に制作された同『風景』
◆写真中下は、尾崎翠に紹介された上落合850番地の借家2階で撮影された林芙美子。は、1930~1932年(昭和5~7)ごろ制作された今西中通『風景』は、月見岡八幡社の守谷源次郎が撮影した大塚浅間社の境内。
◆写真下は、1930~1932年(昭和5~7)制作の今西中通『風景』は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合851番地界隈。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同区画。工事直前の様子で、上落合850番地の家々はすでに取り壊されている。
おまけ
 1930~1932年(昭和5~7)ごろに描かれた、今西中通『風景』のカラー画像を見つけたので掲載しておきたい。画面右手の拝殿のような社建築らしい建物の左手には、樹間を透かして赤い鳥居のようなものが確認できる。これが大塚浅間社の風景でないとすれば、戦後に移転する月見岡八幡社(一部が現・八幡公園)の、境内の一画をとらえたものだろうか。
風景④カラー.jpg

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pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。今西中通の記事ありがとうございました。今西中通が描いた雪景と落合地域のつながりを解き明かす画期的な記事であったと思います。とりわけ、大塚浅間社の古い写真と今西中通の油彩が構図といいそっくりなのには驚きました。個人的にはフサがいた喫茶店もおそらく落合地域なのかなという点が気になっています。それにしても今西中通がこの時期描いたフサ像は素晴らしいものが多いですね。
by pinkich (2022-12-15 21:20) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
わたしも、「フサ」がいた喫茶店の所在地が気になります。落合地域だとすれば、上落合の八幡通りか三輪通り、銀座通り、早稲田通りのいずれかでしょうか。映画館「公楽キネマ」のプログラムに、店の広告を載せていたかもしれませんね。今西中通のアトリエについても、上落合851番地の家々でかなり絞りこめてきましたので、より突っこんで書こうかと思っています。それにしても、貴重な画集をありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2022-12-15 21:56) 

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