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昔の下落合によく似る成城のハケ沿い。 [気になる下落合]

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 世田谷区の面積は58.06km2で、とんでもなく広い。東京都の23区では、大田区(60.66km2)に次ぐ第2位の広さだ。同区を横断している国分寺崖線は、落合地域を横断する目白崖線Click!の風情によく似ており、崖地のことを前者はハケClick!で後者はバッケClick!と呼称しているのも近似していて、これまで何度かご紹介してきている。
 でも、同じ崖線と呼ばれていても、その規模はまったく異なる。通称としての目白崖線が、音羽の谷間の西側、江戸期以前は目白山Click!(のち椿山あるいは関口台)と呼ばれていた位置から、下落合の外れにある目白学園Click!の丘までおよそ5kmつづく崖線なのに対し、国分寺崖線は立川市から大田区の多摩川べりまで約30kmもつづく崖地だ。目白崖線は、国分寺崖線のわずか6分の1の規模にすぎない。目白崖線は、文京区に豊島区、新宿区の3区にまたがる崖地だが、国分寺崖線は立川市にはじまり国分寺市、小金井市、三鷹市、調布市、世田谷区、そして大田区までエンエンとつづいている。
 目白崖線は、神田川(江戸期以前は平川Click!)および妙正寺川(江戸期以前は井草流あるいは北川Click!)の段丘で、下落合(現・中井2丁目)の字名・大上Click!がピークの標高37.5mだが、国分寺崖線の多くは野川沿いに形成された段丘で、区部を外れると標高70mを超える丘もめずらしくない。国分寺崖線の国分寺Click!小金井Click!については、昔日の下落合と近似する風情としてこれまで何度もご紹介してきた。ときに親父のアルバムClick!や、わたしが高校時代に撮影した「ハケの道」の写真類、あるいは織田一磨Click!のスケッチ、昭和初期の写真類Click!なども含め、落合地域以外の記事としては多めなほうだ。
 今回は、崖線の近似で親しみを感じるが、これまでほとんど訪れなかった世田谷区を横断するハケ=国分寺崖線をご紹介したい。だが、冒頭にも書いたように世田谷区は面積が広いので、いつものように目白崖線沿いを散策する気分で出かけたりすると、思いのほか疲労することになる。世田谷区が58.06km2の広さに対して、新宿区は面積18.23km2とわずか31.1%の広さにすぎない。目白崖線の通う文京区(11.29km2)および豊島区(13.01km2)の3区を合わせても、世田谷区の広さには到底およばない。
 この感覚をしっかり身につけてから散策に出かけないと、期せずしてひどい目に遭うことになる。スマホの歩数計でいえば、目白崖線沿いの散策は「きょうは、けっこう歩いたねえ」といっても1万~1万5千歩ほどだが、世田谷の崖線沿いでうっかり不用意な散策コースを設定すると、2万~3万歩は普通であたりまえなのだ。閑静な住宅街の中にもかかわらず、クルマがひっきりなしに往来しているのは、繁華街へちょっとした買い物や食事に出かけるのも、徒歩でいくのがあまり現実的ではないからなのだろう。
 また、崖線沿いの住宅街が似ているばかりでなく、もうひとつ世田谷区にこのごろ親しみをおぼえるのは区長・保坂展人の存在だ。わたしは大学を卒業してすぐのころ、仕事をしながらミニコミを制作・発行していたのだが、当時は代々木にあった「青生舎」を主宰する彼のもとへ話をうかがいに出かけたことがある。それが縁で拙誌に寄稿していただき、パートナーさんからは何度か郵送費(切手)のカンパをいただいた憶えがある。そのせいか、いままであまり縁のなかった世田谷区に、なんとなく親しみを感じるようになった。
 さて、今回散策したのは、世田谷区成城の国分寺崖線沿いだ。この崖線沿いも、目白・下落合地域と風情がとてもよく似ている。目白崖線沿いの東部は、江戸の後期=大江戸(おえど)Click!時代から大名や旗本の屋敷、それに加え町人たちの街がすでに形成されており、明治期になると崖線の西部=落合地域が別荘地として開発されているが、世田谷区の国分寺崖線沿いも明治期になると別荘地として注目されるようになる。そのような環境の中で、成城(当時は砧村喜多見台)は大正末になると、東大泉Click!国立Click!と同様に学園都市としての開発がスタートしている。ちなみに、成城の丘上は標高50m弱となっている。
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世田谷国分寺崖線散策マップ.jpg 世田谷の近代建築発見ガイド.jpg
 大正末、新宿駅を起点に小田急線の敷設事業が具体化してくると、牛込区原町2丁目87番地(現・新宿区)に開校していた成城学園では、関東大震災Click!の教訓から郊外への移転計画が持ちあがった。そしていくつかの候補地をしぼり、1925年(大正14)に現在地の砧村喜多見台へと移転し、小田急電鉄と協議したうえで近くに成城学園前駅を設置した。同学園の後援会地所部が、学園都市としての住宅地を開発するため、1926年(大正15)に2万坪の土地を取得して区画整理をはじめている。また、1927年(昭和2)には水道利用組合を結成し、規模の大きめな井戸を掘削して地下水を各家庭に配給するのは目白文化村Click!と同様だが、ほどなく荒玉水道Click!からも給水を受けている。
 つづいて、1931年(昭和6)には電話線が引かれ、翌1932年(昭和7)にはガスの供給もはじまった。この時点で、成城町は学園都市というよりも、新宿へ小田急線1本で出られる郊外住宅地として注目されるようになり、東京市街地からの転入者が増えていった。戦後は、特にオシャレで閑静な住宅街として注目され、いくつかのドラマや映画のロケ地にも採用されて、人気のある住宅街として今日にいたっている。
 開発の様子を、2012年(平成24)に(財)世田谷トラストまちづくりから発行された『世田谷の近代建築 発見ガイド―世田谷の近代建築調査より―』から引用してみよう。
  
 こうして大正14年(1925)、まず成城第二中学校が移転・開校し、第1期土地分譲後40戸程の家が立ち(ママ)並びました。また、昭和4年(1929)に朝日住宅展覧会が開かれて16棟のモデルハウスが分譲販売されると、以降この朝日住宅の洋風スタイルが成城の1つの特色となりました。その後も住宅地は駅の南北に広がり、貸地も含め37万坪もの大住宅地ができあがりました。/残念ながら朝日住宅については1棟も現存しませんが、今でも比較的多くの近代洋風住宅が残り、また大谷石の外構とともにみどり豊かな屋敷環境が残るのは、分譲当初に交わされた申し合わせが、今も成城に暮らす人たちの間で『成城憲章』として引き継がれているからなのです。
  
 この一文に登場している、成城の「朝日住宅」のモデルハウス×16棟Click!については、こちらでも4回の「次世代型住宅」シリーズClick!ですでにご紹介している。下落合には、より古い明治期や大正期に建てられた西洋館が多かったが、成城はさらにそこから進化した今日の住宅の意匠Click!へと直結する、昭和初期の洋風住宅が建ち並んでいた様子がうかがえる。
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 成城の街並みを歩いていて感じるのは、1970~1980年代にかけて歩いていたら、まるで近代建築(特に昭和初期から戦前にかけて)の住宅展示場のようだったろうと思えることだ。現在でも、当時のいくつかのお宅があちこちに残っていて、歩いていると街角で突然出あうことができる。国の有形文化財に登録された建物も多いが、中にはすでに自治体が保存・管理し、ハケ沿いの緑地(成城みつ池緑地)に接して建つ旧・山田邸(1937年築)のように、いつでも内部を一般公開している住宅もある。
 ハケ沿いに、緑の森が集中しているのも目白崖線の風情と同じだが、成城とその周辺の緑地(自治体が管理している)は、1年のうち決められた日時にしか公開されず、ふだんは立入禁止のところが多いので散策するには注意が必要だ。目白崖線沿いの椿山荘Click!江戸川公園Click!関口芭蕉庵Click!肥後細川庭園(旧・新江戸川公園)Click!学習院キャンパスClick!おとめ山公園Click!など、昼間ならたいがい散策できるバッケ(崖地)の森や緑地とは異なり、おそらく植生などを保護するために立ち入りを制限しているのだろう。野鳥が多く、タヌキが出没するのも目白崖線とよく似ている。もっとも、最近のニュースで改めて紹介されたように、タヌキは新宿駅にも棲みついているのだが……。
 成城の街並みを歩いていると、ときに1970年代半ばの下落合を歩いているような感触をおぼえる。初めて歩く街なのに、どこか懐かしさと既視感おぼえるのは、おそらく住宅地の風情や雰囲気が似ているせいなのだろう。落合地域は、二度にわたる山手空襲Click!で大半が焼け野原になったが、成城はほとんど戦災を受けずに敗戦を迎えている。
 ただし、落合地域とのちがいは、主要な道筋が江戸期や明治期とあまり変わらないところへ、住宅地を開発した落合町に対し(大正末から昭和期に耕地整理が行われた西落合地域Click!は除く)、成城はあらかじめ計画的な道路を敷設したうえでの開発なので、比較的整った道筋でわかりやすく歩きやすいことだ。現代の落合と成城が大きく異なるのは、成城はいまだ四角いビル状の低層マンションの数が少ない点だろうか。
 また、成城町の開発で古墳がどれほどつぶされてしまったのかは不明だが、成城から喜多見、狛江にかけての国分寺崖線沿いは“古墳の巣”のような史蹟だらけで、このあたりも目白崖線沿いの史的環境とよく似ている。目白崖線(特に東部)は、江戸期からの開発なので破壊された古墳がどれほどの数にのぼるのか不明だが、「百八塚」Click!の伝承がいまに残るように、戦前の落合地域だけ見てもバッケ(崖地)沿いには数多くの古墳Click!が記録されている。そんな史的相似も、国分寺崖線に親しみをおぼえる要因なのかもしれない。もちろん、野川沿いも旧石器時代Click!から人が間断なく住みつづけてきた、遺跡だらけの土地がらだ。
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 成城のハケ下の道から、カワセミが飛ぶ野川や対岸の古墳を観察し、もう一度崖線の丘上に出ようと直登できるお茶屋坂を上りはじめたのだが、目白崖線のバッケ坂で馴れているわたしの足でも、国分寺崖線の坂はかなりきつい。のぼれどのぼれど、丘上にたどり着かないのだ。もっとも3年間のCOVID-19禍で、身体がなまっているせいもあるのだが……。

◆写真上:見なれている目白崖線よりも、かなり見晴らしの視点が高い国分寺崖線。
◆写真中上は、1935年(昭和10)ごろ撮影の成城町。は、1945年(昭和20)1月19日にF13Click!によって撮影された成城町。は、2019年(平成31)に(財)世田谷トラストまちづくり発行の『世田谷 国分寺崖線散策マップ』()と、2012年(平成24)に同財団発行の『世田谷の近代建築 発見ガイド―世田谷の近代建築調査より―』()。
◆写真中下は、成城の街中に残る近代建築のN邸(1927年築)。は、保存・公開されている旧・山田邸(1937年築)。は、国分寺崖線の典型的な雑木林。
◆写真下からへ、国分寺崖線のハケ(崖地)に通う散歩道、武蔵野らしい雑木林、野川沿いから国分寺崖線を望む、のぼれどのぼれど丘上に出ず息ぎれしたお茶屋坂。

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アヨアン・イゴカー

区立小学校に通っていました。成城学園前から徒歩でした。当時は、アメリカ人でしょうか、外国人の住んでいる派手なペンキで塗られた家屋も途中に何軒かありました。二階建ての少なかった当時、洋館がいくつかあり、立派で、大きく見え、どくとくの雰囲気を作っていました。
by アヨアン・イゴカー (2022-12-28 23:04) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
アヨアンさんの小学校時代は、さぞ静かで落ち着いた街並みだったでしょうね。現代のように、敷地の建蔽率ギリギリに住宅を建てるのではなく、建物を屋敷林が取りまいて全体が緑の街だったのではないかと思います。いまでも、低層マンションの四角い建物が少ないせいか、歩いているとホッとする街並みですね。
by ChinchikoPapa (2022-12-29 12:24) 

tomi_tomi

今年1年 訪問・nice!有難う御座いました。よいお年をお迎えください。
来年も宜しくお願いしますm(_ _)m
by tomi_tomi (2022-12-30 16:14) 

ChinchikoPapa

tomi_tomiさん、わざわざコメントをありがとうございます。
こちらこそ、来年もよろしくお願いいたします。ご健勝な新年をお迎えください。
by ChinchikoPapa (2022-12-30 16:40) 

(。・_・。)2k

今年も大変お世話になりました
新年も変わらぬお付き合いのほどよろしくお願いいたします

by (。・_・。)2k (2022-12-30 21:40) 

ChinchikoPapa

(。・_・。)2kさん、コメントをありがとうございます。
こちらこそ、来年もどうぞよろしくお願いいたします!
by ChinchikoPapa (2022-12-30 22:11) 

pinkich

papaさん あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。成城学園が関東大震災を契機に新宿牛込から世田谷に移転したとのこと。成城中学高校は、まだ新宿牛込にありますので、正確には、成城中学から分離独立した成城第二中が世田谷に設立されたといったところでしょうか。それにしても、私立中の設立と発展と歩調をあわせて街が発展していくさまは今では考えられないので凄いなと思います。
by pinkich (2023-01-01 09:45) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、あけましておめでとうございます。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
成城学園町は、学校が主体となって学園都市を建設したのが成功のもとなのでしょうね。大手ディベロッパーが中心になって、学校の誘致を進めつつ開発していった街は、かんじんの学校が来なかった「学園都市」の例もありますので……。
by ChinchikoPapa (2023-01-01 16:53) 

スポ

初めまして。実家が中落合(旧下落合)にあり以前より拝見しておりました。
成城学校は当時の教師陣が教育方針の違いにより分裂し、分離していった教師が保護者・生徒ごとごっそり移住したと、当時PTAをしていた者の孫から聞いています。
同時期に移住、同じ学校の保護者同士ということで、戦後新興住宅地として発展する前までは風通しがよく家々の心理的な垣根も低かったそうです。
by スポ (2023-01-13 20:01) 

ChinchikoPapa

スポさん、コメントをありがとうございます。
成城学園は、周囲に出身者がおらず、またわたし自身もほとんど事情を知らない学校ですが、いろいろと内部ではあったのですね。貴重な情報をありがとうございます。
「心理的な垣根」でいいますと、下落合も以前よりは風通しが悪い話をあちこちで耳にします。低層マンションが増えたせいで、誰が住んでいるのかよくわからない……というのも、ひとつの要因でしょうか。マンションが建つ敷地を、横文字が多くて憶えにくいせいか「元〇〇さんの家のところ」と話される方も多いですね。
by ChinchikoPapa (2023-01-13 22:20) 

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