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逆さまで「踊る」上落合のマヴォな住谷磐根。 [気になる下落合]

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 上落合186番地の村山知義アトリエClick!で、岡田龍夫や高見沢路直(本名:高見沢忠太郎=田河水泡Click!)らとともに、逆さまで踊っていたマヴォな画家のひとりに住谷磐根がいる。彼もまた、マヴォや三科が盛んなころ上落合に住んでいた。
 住谷磐根は群馬県の出身だが、同じマヴォ仲間で画家志望の戸田達雄もまた同県出身だ。住谷は、石井柏亭Click!らが結成した日本水彩画会で1921年(大正10)に作品が入選すると、東京へやってきて小石川の川端画学校Click!へ入学している。戸田は東京へ出ると、一時は丸ノ内にあったライオン歯磨広告部の画室へ入社するが、のちに独立して絵本やグラフィックデザインの領域でも活躍している。
 住谷磐根は、上落合のどこに住んでいたのかは不明だが、佐伯祐三Click!の「親友」を自称する阪本勝Click!と上落合で一時期同居していたらしい。その様子を、1970年(昭和45)に日動出版から刊行された『佐伯祐三』(1983年改訂9版)から引用してみよう。
  
 私は東大在学中、転々と下宿をかえたが、一時上落合で自炊生活をしていた。自炊生活といっても男一人でできるものではなく、だれかとの共同生活を必要とした。その相手は、仙台二高の先輩で、現在同志社大学総長の住谷悦治君の実弟、住谷磐根だった。彼は私よりもっと若い画家だったが、人柄のよい人物だったから、仲よく自炊生活をしたものである。
  
 これは、同書が出版された当時、生存していた人物の実名をあげて書かれているので、おそらく佐伯のエピソードClick!とは異なりウソではないのだろう。早逝したマヴォの三浦束三が、上落合742番地に住んでいた尾形亀之助Click!の隣家で暮らしていたのと同様に、マヴォの仲間たちは上落合東部のあちこちに散って住んでいたとみられる。
 住谷磐根は、初めて村山知義Click!の作品に接したときの衝撃を次のように語っている。2012年(平成24)に神奈川県立近代美術館葉山分館で開催された、「すべての僕が沸騰する/村山知義の宇宙」展図録に収録の、やまさきさとし「芸術は空間のクリエイションである―童画家TOMと童謡童話作家籌子―」の証言部分から引用してみよう。
  
 「画家矢橋公麿(丈吉)に連れてゆかれ、文房堂の意識的構成主義の展覧会をみた。その力づよいテーマと画風にぼくは驚倒、仰天した。そのエネルギーのすごさ、その構成と絵ともいえぬ材料とほとばしる力にびっくりしたし、また、矢橋にさそわれて三角の家にも行き、これまた驚愕した。そこには一味もちがう絵が掲げてあり、描写風の写実の絵もあって、こんな絵を画く人があんな絵も画くという所に感動したのです。」/「三角の家には絵も沢山あるが、本が天井までぎっしり積み上げられ、感動した。村山という人はみんながそこら辺で雑談したり、タムロしてお茶をのんでいる傍で、そんな脇で、静かに本を読んでいるのだが、ワイワイ騒いでいる連中に静かにせよ、とは一言もいわないで、いつのまにか外国語や日本語の500ページ、800ページの本を読み了えるという所があり、その読書量、その時間の無駄のなさにぼくはびっくりして、世の中にこんな人がいるのかとたまげてしまった。」
  
 神田文房堂Click!の展覧会場で村山知義の作品に感激していたころ、住谷磐根は「三角の家」で逆さまになって「踊る」ことになるなど思ってもいなかっただろう。
住谷磐根「唯物弁証法的イワノフ・スミヤヴヰッチ」1923.jpg
住谷磐根「工場に於ける愛の日課」1923.jpg
住谷磐根「連動と機械の構成」1924.jpg
 1923年(大正12)になると、住谷磐根は村山知義Click!柳瀬正夢Click!尾形亀之助Click!、門脇晋郎、大浦周蔵らが結成したマヴォ(Mavo)へ急接近する。“マヴォ宣言”とともに、同年7月にはマヴォ第1回展覧会が浅草の伝法院Click!で開催されている。明治期には、伝法院屯所=警視庁が置かれ市中取り締まりの中心だった同院で「人騒がせ」な展覧会をやるのも、おそらく神田っ子の村山あたりが思いついたアイデアではなかったろうか。
 住谷磐根は、同年の第10回二科展にイワノフ・スミヤヴィッチの筆名で『唯物弁証法的イワノフ・スミヤヴヰッチ』を出品して入選するが、マヴォ仲間から抗議を受けて出品をとり下げている。ちなみに、上掲の「村山知義の宇宙」図録では住谷の『工場における愛の日課』が入選したと書かれているが、はたしてどちらが事実だろうか?
 村山知義らマブォグループは、二科展の落選作を集め展覧会会場付近の通りを練り歩くデモンストレーションを行なった。住谷と村山は、より大々的に「二科落選歓迎移動展覧会」を企画するが、直前に警察から中止命令を受けている。この年の11月には、東京の寺院やカフェなど20ヶ所に作品を分散して展示する、マヴォ第2回展覧会を開催している。
 このころの住谷は、すでに髪を伸ばしておかっぱにし、ルバシカを着ながら上落合やその周辺を闊歩していただろう。当時の様子を、同図録に収録された滝沢恭司「小英雄はスタイリッシュ―ファッションに見るマヴォイスト村山知義の近代性―」から引用してみよう。
  
 ルバシカはまた、マヴォのメンバーが常用した衣服でもあった。岡田龍夫は「マヴォの思ひ出」の中で、当時流行のルバシカを着て下落合から中野、外山ヶ原(ママ)あたりを練り歩いたと回想しているし、戸田達雄に至っては、当時ルバシカや毛糸のセーターしかもっていなかったというのだ。また高見沢路直は、『マヴォ』6号(1925年7月)に出した「求婚広告」で、「容頗る美長髪にしてルバシカを着す」などと記して自己紹介した。(註釈記号略)
  
 「外山ヶ原」は、もちろん戸山ヶ原Click!の誤りだが、長髪にルバシカが彼らのユニフォームになっていた様子がうかがえる。また、高見沢路直(田河水泡)が周囲の女子たちから気味悪がられたものか、「求婚広告」Click!を出しているのが面白い。
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マヴォ「踊り」1924.jpg
マヴォ「死と悪魔」「死の舞踏」第3幕舞台面1924.jpg
 1924年(昭和13)になると、住谷磐根は三科造形美術協会の結成に参加し、また関東大震災Click!によって壊滅的な被害を受けた東京の、「帝都復興創案展」へ“マヴォ理髪店”の建築デザインを出品している。また、住谷を含むマヴォイストたち6人が、自由学園Click!で行われた村山知義Click!村山籌子Click!の結婚式に参列し、マヴォの愛唱歌「サイヤンカネ」を合唱している。このころから、住谷は自由学園でほかのマヴォイストたちとともに、「踊り」の練習をしてやしなかっただろうか。
 このあと三科造形美術協会は解散し、村山知義がマヴォを脱退するころから、住谷磐根も同グループから離れていったようだ。住谷は、1926年(大正15)3月に西巣鴨町池袋993番地へ引っ越している。池袋御嶽社や子育稲荷社の近くだが、下落合2076番地Click!へ転居してくる前に刑部人Click!がアトリエをかまえていた池袋966番地と、道路をはさんで隣接していたと思われる位置だ。村山は、柳瀬正夢Click!らとともにプロレタリア文化運動に軸足を移していくが、住谷は数年後になぜか牧野虎雄Click!に師事するようになる。戦前は下落合604番地にあった牧野虎雄アトリエClick!へ、住谷は頻繁に訪ねてきているのではないだろうか。やがて、住谷は槐樹社が開催する展覧会や独立展に作品を出品しているが、マヴォ時代の表現とは似ても似つかない画面になっていた。
 1932年(昭和7)に、住谷は村山知義から肖像画の依頼を受けている。住谷の窮状を見かねた、義理がたい村山の配慮だったようだ。同画集に収録の、やまさきさとし「芸術は空間のクリエイションである―童画家TOMと童謡童話作家籌子―」から再び引用してみよう。
  
 (村山)籌子さんといえば、そう昭和7年に、知義から籌子さんのお母さんの肖像画を描いてくれといわれ、写真を借りて、それをみながら描いたのですが、絵は気に入ってもらえず、未完におわりました。今思うと、それは知義がぼくへの経済援助のつもりで依頼されたんですね。」この年に籌子の母、寛(ゆたか)は病死している。知義は岡内家の礼金を期待して依頼したのであろう。(カッコ内引用者註)
  
 住谷磐根は戦後、挿画に興味をもったのか童話や絵本も手がけている。そのあたりにも、童話絵本作家の村山籌子Click!村山知義Click!の影響があるかもしれない。
村山知義の宇宙展図録2012.jpg 高見沢路直(田河水泡).jpg
住谷磐根「丸ノ内風景」1936.jpg
住谷磐根「無錫場外」1938.jpg
 住谷磐根には、1974年(昭和49)に武蔵野新聞社から出版された『点描 武蔵野』という著作がある。ちょうど、わたしが高校生のころ小金井や国分寺をはじめ国分寺崖線Click!沿いのハケを、あちこち歩きまわっていた時期と重なるため、どこか懐かしい雰囲気のする本だ。描かれている挿画も同時代のものなので、いつか機会があったらご紹介したい。

◆写真上:おかっぱ長髪にルバシカ姿ではない、スーツを着た若き日の住谷磐根。
◆写真中上は、1923年(大正12)に制作された住谷磐根『唯物弁証法的イワノフ・スミヤヴヰッチ』。は、同年に制作された住谷『工場に於ける愛の日課』。は、1924年(大正13)に制作された住谷『連動と機械の構成』。
◆写真中下は、1923年(大正12)撮影の村山知義アトリエの内部。は、1924年(大正13)に村山アトリエで演じられたパフォーマンス「踊り」。下左が住谷磐根で、下右が岡田龍夫と上が高見沢路直(田河水泡)。は、同年のパフォーマンスで「死と悪魔」「死の舞踏」。いちばん上が村山知義だが、下にいる住谷磐根がどれなのかが不明。
◆写真下上左は、2012年(平成24)に開催された「すべての僕が沸騰する/村山知義の宇宙」展図録(神奈川県立近代美術館)。上右は、おかっぱにルバシカの高見沢路直。彼は、のちにのらくろClick!を主人公にした戦争漫画家になる。は、1936年(昭和11)に制作された住谷磐根『丸ノ内風景』。は、1938年(昭和13)に制作された同『無錫場外』。

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アヨアン・イゴカー

1920年代、30年代の日本の芸術家たちの活動も、面白いですね。私はシュール、抽象絵画も好きなので、こういうMavoのような実験的な試みには惹かれます。
田河水泡がMavoに参加していたのは知りませんでした。
>「容頗る美長髪にしてルバシカを着す」などと記して自己紹介した
落語やのらくろを書いた人は、やはりユーモアのセンスがありますね。
by アヨアン・イゴカー (2023-01-11 11:30) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、こちらにもコメントをありがとうございます。
面白いですよね。第1回マヴォ展が浅草の伝法院というのもおかしく、大正期はいまだ伝法院=警視庁といういかめしいイメージが残っていたと思われますので、最初から官憲をおちょくった展覧会企画のようにも思えます。当時の警察では、同展を苦々しく眺めていたのではないかと想像できますね。
この記事の住谷磐根は、その後まったく面白くない絵を描くようになってしまいますが、彼については近々もう一度記事にしたいと思っています。
by ChinchikoPapa (2023-01-11 11:55) 

U3

遅ればせながら、新年あけましておめでとうございます。

今年の元日は一日中雲一つない青空で、清々しい一年の始まりでした。
by U3 (2023-01-13 21:13) 

ChinchikoPapa

U3さん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
こちらは年末にCOVID-19に感染し、熱は3日で引いたのですが嗅覚がいまだに鈍く、正月の料理はさんざんでした。本年もよろしくお願いいたします。
by ChinchikoPapa (2023-01-13 22:07) 

pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。村上知義の展覧会は、私も世田谷美術館で観ました。ヘルタ嬢像がたまらなく良く、それ以降の肖像画はかえって凡庸な印象でした。早熟の天才かと思います。軍国主義の真っ只中に生まれなければ、もっと自由に才能を羽ばたかせたのではないかと惜しい気がします。
by pinkich (2023-01-13 22:48) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
確かに、軍国主義のクビキがなければ、もっといろいろなことをやれていそうな気がしますね。ただ「飛べないハト」のように、神様へ「空気の抵抗がなければ、もっと速く飛べる」と訴えたハトが、その願いが叶って空気がなくなり真空になったら。まったく飛べなくなってしまったという譬え(フランス哲学だったでしょうか)もあり、抵抗があるから存在が光り輝き高く飛べていたという、このあたり難しいテーマも含みますね。
by ChinchikoPapa (2023-01-14 00:15) 

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