上落合にあった今西中通のアトリエ風景。 [気になる下落合]
今西中通Click!が上落合851番地(のち上落合2丁目851番地)にアトリエをかまえていた時期、1930~1934年(昭和5~9)の4年間にはアトリエの内部で描かれたとみられる、何点かの静物画やモデル画が残されている。本格的な仕事場をもてたことがうれしかったのか、転居したばかりのころ、1931~1932年(昭和6~7)にかけてアトリエで描いたとみられる静物画が数多く残されている。
また、モデル画は近くに開店していた喫茶店の娘で「フサ」という年若い女子を描いたもので、当時の人物像では「フサ」像がもっとも多く、よほど彼女が気に入って魅せられていたのだろう。この喫茶店の店名は残念ながら不明だが、「フサ像」あるいは「FUSA像」とタイトルされて残る肖像画が数多く存在するので、喫茶店に通いつめては描き、また彼女をアトリエに連れてきては制作していたのだろう。「フサ」の肖像は、ときに面長だったり丸顔だったりと一定していないので、おそらく今西の理想の女性像(面立ち)が、「フサ」の面影にこめられた作品ではなかったろうか。
「フサ」は、今西中通が好みの面立ちをしていたとみられるが、上落合時代が終わると「フサ」との縁も切れてしまったか、彼女が結婚して喫茶店にいなくなってしまったか、あるいは喫茶店がほどなくつぶれてしまったのかもしれない。この喫茶店が、萩原稲子Click!の「ワゴン」Click!のように中井駅の近くにあったものか、上落合の南側を貫通する早稲田通り沿いClick!ないしは八幡通り沿いClick!の商店街に開店していたものか、あるいは東中野駅へと向かう道すがら(住吉通り=プロレタリア通りClick!)にあったのかは不明だが、今西中通が「フサ」のいる喫茶店へ頻繁に入り浸っていたのはまちがいないだろう。
上落合851番地にあった、今西中通Click!のアトリエ内部を描いためずらしいタブローも残されている。1931~1932年(昭和6~7)に制作された、今西の『画室の一隅』(冒頭写真)という画面だ。赤錆で腐食していきそうな、あるいはカビ臭さが漂いそうな壁面を背景に、手前にはいまにもくずおれそうな頼りないイスが置かれている。背後には、細長いハンガーラックか帽子かけでも置かれているのだろうか、その一角に今西の仕事着らしいルバシカのような衣服がかけられている。部屋全体が薄暗くて重苦しく、どこか画家の生活苦を想起させる画面だが、この時期の今西中通ははたして明日の食費を懸念するような、かなり苦しい生活を送っていたと思われる。
だが、今西の友人たちも頻繁に画室を訪れ、たびたび酒が入っては大さわぎをしていたようなので、この画面から受けるアトリエの静謐で暗い印象とはかなり異なる、“青春”を謳歌するような雰囲気ではなかったろうか。このころの今西について、同年輩で1930年協会洋画研究所Click!時代からの友人だった中間冊夫の証言が残っている。pinkichさんからいただいた『今西中通画集』の巻末に収録の、中間冊夫「今西君との交友」から引用してみよう。
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その頃の今西君は下落合に住んでいた。空地を前にした古い二階屋で、北側に線路をへだてて下落合の文化村が高く眺められた。すぐ近くに有名になる前の林芙美子が世帯を持って小さな二階屋にすんでいて今西君とつきあっていた。彼の家は往来に面した店屋の感じで入口が硝子戸のはまった十畳位の土間で、その奥が六畳位の部屋になっており、今西君の部屋であった。二階には早稲田の学生が二、三人いて今西君と共同炊事をやっていた。訪ねて行くと誰かしら人が来ており、又やって来た。へい衣粗食を意に介せず痛飲しては良く画論をやり、卓をたたいて蛮声を張り上げるさまはまことに溌溂たるものだった。部屋から土間へと青黒い絵が大小壁にぶらさがり、絵具と食器が乱雑を極めた中でいつも明るい顔で楽しそうであった。
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文中「下落合に住んでいた」は、もちろん上落合の誤りだ。中間冊夫は、「フサ」が今西アトリエへきてモデルになっていたのを頻繁に目撃しているようで、彼は「今西中通の純情な面がいたるところに表れてほほえましい」と書き残している。
「下落合の文化村」が眺められたと書いているが、上落合851番地から丘上の北東の方角にあたる奥まった位置の目白文化村Click!は望めない。今西アトリエから丘上に見えていたのは、下落合西部に東京土地住宅Click!が開発を予定し、同社の経営破綻により途中でストップしたアビラ村(芸術村)Click!の西洋館群だ。おそらく彼のアトリエからは、島津源吉邸Click!や金山平三アトリエClick!などのモダンな建築群が見えていたのだろう。
林芙美子Click!が「今西君とつきあっていた」には、彼女の性格Click!やふだんの素行Click!を考慮すると一瞬ドキッとするのだがww、いまだ彼女の小説が売れずに洋画家志望の夫・手塚緑敏Click!とつましく暮らしていた当時としては、また純情で曲がったことがキライな土佐育ちの“いごっそう”である今西中通の性格を考慮すれば、手塚緑敏Click!との美術や将棋好きの共通項と、北隣りに住む近所同士ということで夫妻と親しく「つきあいがあった」というのが正しい表現なのだろう。
今西中通が暮らしていたアトリエの風情は、「彼の家は往来に面した店屋の感じ」と書いているので、尾崎翠Click!が住んでいた上落合842番地の2階家や銭湯「三輪湯」Click!などが建っていた、最勝寺Click!境内の北面を東西に貫く三輪(みのわ)通りに面していたのはまちがいない。1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、三輪通りに面して長屋か商店建築のような建物が3棟建っている。その背後の北側は、蛇行する妙正寺川までが空き地であり、林芙美子・手塚緑敏たちが住んでいた上落合850番地の家々は、すでに妙正寺川の直線整流化工事に備えて解体されたのか採取されていない。
中間冊夫は、代々幡町代々木山谷160番地にあった1930年協会洋画研究所時代の想い出についても証言している。彼の「今西君との交友」から、再び引用してみよう。
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今西君と私との交友は代々木山谷にあった一九三〇年協会の研究所に始まる。一九二八年か二九年である。ちょうど一九三〇年協会展がフォービズムの運動で盛んだった頃である。代々木山谷の住宅地の中で小さな画室であったがフォービズムに共鳴する若い研究生がしっくりした気持でまとまり、家庭的なふんいきを持っていた。[中略] 絵具の安い時代で和製の絵具を使う者などなく、(今西中通は)ルフランの絵具を大胆にしぼり出して描いていた。合評会があり講演会が盛んに開かれた。そして前田寛治がリアリズムを話し、里見勝蔵がセザンヌのコンポジションについて語り、新帰朝の中山巍がフランスの画壇の状勢(ママ)を知らせた。小島善太郎・林武・中野和高・宮坂勝・野口弥太郎そういった人たちに指導されてがむしゃらな勉強をしていた。(カッコ内引用者註)
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この1930年協会洋画研究所は、同所にあった工藤信太郎Click!のアトリエを借用していたもので、彼の困窮する生活を救済する目的があったともいわれている。
同洋画研究所の講演会を記録した貴重な写真が、1949年(昭和24)に建設社から出版された外山卯三郎Click!『前田寛治研究』Click!に掲載されている。1928年(昭和3)5月19日(土)に行われた同研究所の第1回講演会における記念写真で、会場は代々木山谷小学校(現在ある同名の小学校とは別)だった。この写真には、文中に登場する前田寛治Click!や里見勝蔵Click!、木下孝則Click!、小島善太郎Click!、野口彌太郎Click!、外山卯三郎Click!、林武Click!、藤川栄子Click!(写っているのはおそらく本人)、笠原吉太郎Click!(?)、鈴木亜夫Click!、清水登之Click!など、拙サイトでもおなじみの人々が写っている。
この講演会には上記の中間冊夫はもちろん、小石川の川端画学校Click!に通っていた若き日の今西中通も参加していただろう。それを前提に記念写真を改めて見なおすと、最上段=最後列の右からふたりめに、画学生時代の明らかに中間冊夫とみられる学生服の男子がとらえられている。そして、その左横、右から3人めに口もとを引き結んで帽子をかぶった、やはり学生服姿の今西中通とみられる人物が写っている。この講演会が開かれた当時、ふたりはまだそれほど親しくはなかったかもしれないが、お互い学生服を着ている受講者同士ということで、隣りあって記念写真に納まったのかもしれない。
今西中通は、1934年(昭和9)に上落合から西隣りの江古田1丁目81番地へと転居している。おそらく上落合の借家の家賃が払いきれず、より家賃の安い井上哲学堂Click!近くの鶏舎を改造した長屋へと引っ越しているが、雨が降るといまだ鶏臭が鼻をついたという。
◆写真上:三輪通りに面した上落合851番地のアトリエ内を描いた、1931~1932年(昭和6~7)ごろ制作された今西中通『画室の一隅』。
◆写真中上:上は、近くの喫茶店の娘を描いた1931年(昭和6)制作の今西中通『フサ像』。下は、同年にアトリエ内で制作されたとみられる同『サザエ』。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる三輪通りに面した下落合851番地の今西中通アトリエ。中は、アトリエで描かれたとみられる1931年(昭和6)制作の今西中通『花など』。下は、同じく1931年(昭和6)制作の同『花』。
◆写真下:上は、1933年(昭和8)に制作された今西中通『卓上静物(小鳥)』。中は、妙正寺川沿いの住宅街を描いたとみられる1930年(昭和5)ごろ制作された連作の『雪景色』Click!。下は、1928年(昭和3)5月19日に開かれた第1回講演会の講師と参加者の記念写真。
★おまけ
今西中通の素描に、連作「ティールーム」というのがある。その中の1枚、1933年(昭和8)に描かれた『TEAROOM』に店名らしい「BRANKAI(ブランカイ)」という名称が見える。これが、フサのいた喫茶店の名前なのだろうか? 恐竜ブームの中、店主がマニアで1914年(大正3)に公表された、当時は世界最大の竜脚類だったタンザニアのブラキオサウルス(ブランカイ)にあやかり、大きな店に成長するよう名づけたものだろうか。
お誕生日おめでとうございます。それを言うのを機に、久しぶりでPapaさんの記事見ました。相変わらず元気で活躍していて嬉しかったです。私の方は老いぼれてきて、新聞が読み切れない毎日。
それにしても今西中通っていい絵を描きますね?
by Marigreen (2023-01-22 09:24)
Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
よく憶えてますね。昨年末、ついにCOVID-19に罹患し、匂いが薄い正月をすごしました。まあ、これで免疫は確実に獲得できたので、いままでのようにことさら几帳面に気をつける生活はなくなりましたが、嗅覚がまだ70%ほどしかもどっていないのが少しまだるっこしいです。
今西中通はフォービズムの画家ですが、しぶい色づかいで画面を構成してますね。わたしも気に入っているので、以前からここで取りあげてきました。
by ChinchikoPapa (2023-01-22 17:05)
papaさん いつも楽しみに拝見しております。今西中通の画集から、凡人なら見落とす情報を見事に拾い出し、点在する情報を線にして見せるpapaさんの力量の凄さに感服します。冒頭のアトリエの榎は不勉強で未見です、どちらの画集から引用されたのでしょうか?
by pinkich (2023-01-22 19:14)
pinkichさん、コメントをありがとうございます。
冒頭の『画室の一隅』は、東御市梅野記念絵画館・ふれあい館に収蔵されている作品で、そのカタログから引用させていただきました。
https://www.umenokinen.com/collection/
当絵画館は、画家別にていねいなカタログを作られており、サイトにもPDFファイルで公開されています。
https://www.umenokinen.com/images/collection/imanishi/chutsu_imanishi.pdf
ご参照ください。
わたしの好きな、菅野圭介の「海の絵」シリーズも収蔵されていて、いいですね。ただ、長野県の上田市の手前で、かなり遠くなのが残念です。
by ChinchikoPapa (2023-01-22 21:50)
初めまして。
2024年7月に「日本的フォーヴィスム」の画家が装丁した本を集めて展示会を計画しています。今西中通もフォーヴの絵を描いているので検索をしていたらこの「落合学」に遭遇しました。今西は同郷ですが、装丁本を探しています。なにかご存じないでしょうか?お教えください。
by かわじもとたか (2023-12-11 10:01)
かわじもとたかさん、はじめまして。コメントをありがとうございます。
今西中通が装丁を担当した書籍(単行本)は、残念ながらわかりません。表紙を担当した雑誌ですと1940年に新潮社が発行していた「旅」9月号(誌面の挿画もあるかもしれません)、挿画やカットを担当していたのは1940~41年に軍人援護会が発行していた「軍人援護」に、ほぼ毎号掲載しているようです。
by ChinchikoPapa (2023-12-11 11:44)
ありがとうございました。その後も探していますがなかなか装画本は画集以外で見つかりません。やはり38歳ですか、昭和22年6月10日没では編集者の目に届かなかったかもしれません。高知の地方出版物をこまめに探すとみつかるかなあ?と思っていますが。時々読ましていただいていますが検索は大変でしょうと感心しています。よい2024年でありますように。
by かわじもとたか (2023-12-25 13:35)
かわじもとたか さん、コメントをありがとうございます。
今西中通の死後、彼の作品を装丁に用いた本や雑誌はいろいろあるようですが、生きている間に手がけた装丁作品は、なかなか見つからないですね。ちょっと、今後とも彼のネームの装丁に注意しておきます。
かわじさんも、よいお年をお迎えください。わざわざありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2023-12-25 14:57)