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紀ノ川沿岸と浅草の地名相似。 [気になるエトセトラ]

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 世界各地には、ある地方の地名と別の地方の地名がそっくりな、あるいはよく似ている「地名相似」Click!という現象がみられる。たとえば、英国のジャージー島に由来するのが米国のニュージャージ州だし、英国のヨーク市にちなんだ名称がニューヨーク市だ。近代における日本の例をあげると、本州から南に位置する地方や地域、町などの名称が、北海道に点在するのにも似ている。これらは、おもに入植や移住、開拓といった人々の「民団」移動から生まれた近代の現象だ。
 ところが、古代からつづいているとみられる地名相似は、単なる入植や移住、開拓といった人々の“移動”だけでなく、大規模なものはなんらかの政治的な変動や侵略的な動乱と、それにともなう避難や亡命Click!といった史実が疑われる。古代における地名相似で、もっとも著名なものは、九州北部(福岡~熊本)と大和(奈良周辺)の地名相似と、日向地方(宮崎)と熊野地方(和歌山)との地名相似がある。
 これらの地名相似は、北九州に上陸してきた勢力(おそらく古代ヤマト勢力)が、なんらかの理由から日向(ひむか)の地へと移動し(阿蘇の大噴火による経済基盤の壊滅被害が疑われている)、やがて記紀に描かれた神話的故事Click!のように瀬戸内海を軍船で東進して、浪速(なみはや)地方(現在の大阪湾あたりの旧・湿地帯)に上陸したが、そこで先住の「原日本」のクニグニに迎撃され大敗したため、大きく迂回して熊野地方(和歌山)へと再上陸し、最終的には奈良盆地へと侵入してナラ(古朝鮮語でも現代朝鮮語でも「国」「国家」の意)を打ち立てた……というような侵略の経路を想像することができる。
 上記の想定(仮説)だと、日向地方から熊野へと上陸した勢力は、熊野の地が日向と同様に過渡的な侵略地(居留地)であり入植地だと規定して、日向地方で用いていた地名と同様のものを周辺の土地や山河に付加し、やがて奈良盆地へと侵入し古代ヤマトを名乗るようになってから、改めて故地である北九州に残してきた由緒・由来のある地名を、再び周辺の土地や山河にふり分けているということになる。記紀の故事によれば、日向から浪速へと向かった軍勢(「神武」とされている侵入勢力)は、瀬戸内海を東進する直前に、わざわざ迂回して九州北部へと立ち寄っているのも、彼らが最初に居住していた故地へのこだわり(思い入れ)がどこかに感じられる。
 記紀に描かれた、やたらにリアルな侵略ルートの記述は、なんらかの史的事実をより古い時代の故事に見せかけようと、千子二運(あるいはもっと上代まで)さかのぼらせた、大昔の出来事として記述されているように見える。今日の科学的な考古学や歴史学の視点から見れば、明らかに「偽史」「神話」の部分や、北九州生まれとされる「応仁」=「神武」のダブルイメージなのでは?……といった、「神話」上の創作・捏造・改変などを差し引いて解釈したとしても、なんらかの史的事実や経緯を神話に託して記録したものではないか?……と解釈するのが、現代の「文献史学」の方向性を位置づけているようだ。
 事実、熊野地域(和歌山)では、従来はひそかに語り継がれてきた、「神武」を迎撃したとみられる「日本」側の女王ナグサトベやミナカタ(南方)氏などの伝承が、1945年(昭和20)の敗戦以降に次々と明らかにされてきている。もっとも、それらの伝承は紀元前の出来事(縄文時代)とされたままであり、「神武」の記紀年代に合わせて“都合”よく神話レベルで語られているのが現状のようだが、「文献史学」だけでなく自然科学を含めた学術的な視座による将来的な発見・発掘で、大きな展開や成果がありそうな気配がしている。
中尾達郎「色町俗謡抄」1987.jpg 今井栄「隅田川散歩」1964.jpg
浅草三社権現(浅草神社).JPG
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 さて、同じ紀国(木国)と南関東でよく似た地名が、たとえば都内に散在している。古代からの地名相似とみられ、紀国(和歌山)の紀ノ川沿いの古地名と、隅田川沿いを中心に江戸東京地方の古地名がよく似ているのは、あまり知られていない事実だろう。紀ノ川沿いには、隅田(隅田村を流れる紀ノ川は「隅田川」と呼ばれていた)や真土山(まつちやま)、庵崎(芋生)、安楽川(荒川とも)、千寿(せんじゅ)、上野、神田、愛宕山などの地名が点在している。一方、江戸東京にも浅草地域を中心に、現代にいたるまで隅田(墨田)、隅田川、真土山(江戸期以降は待乳山Click!)、庵崎(芋生:近代に消滅)、荒川、千住、上野、神田、愛宕山などなど、紀ノ川沿いと隅田川沿いで一致する地名が少なくないのだ。
 35年ほど前に、紀ノ川沿いの地名と隅田川Click!沿いに展開する地名の相似について、折口信夫Click!の「古代における民団の移動」に触れつつ記した、地元の地域本が存在している。1987年(昭和62)に三弥井書店から出版された、中尾達郎『色町俗謡抄』から引用しよう。
  
 こうして見ると、江戸の隅田川の流域の待乳山、庵崎、隅田村は、それぞれ紀伊の隅田川沿いの真土山(待乳山)、庵崎(芋生)、隅田村の地形に似ているために名付けられた名称と考えられる。更に、紀伊の安楽川(荒川とも表記する)があり、北上して紀ノ川に注ぐが、これは荒川郷を流れる流域の部分名のようである。これも江戸の荒川と隅田川との関係に似ている。また、浅草の三社権現と紀伊の日前神宮とは、それぞれ隅田川、紀ノ川の川口に近い流域にある。因みにわたしは三社権現と日前神宮とは関係が深いと考えている。(註釈略) 更に『紀伊名所図会』によると、この日前神宮に関連して千寿河原の名を挙げているが、これも江戸の千住と対応していると看做すことができる。
  
 古代の浅草は、江戸湾の突きあたりの奥にある天然の良港だったらしく、早期から浅草湊Click!が拓かれ、関東地方の物流拠点として機能していた。房総半島で切りだされた房州石Click!が、南関東に展開する数多くの大小古墳の、玄室や羨道の石材Click!として用いられているが、同じ江戸湾の三浦半島にある六浦湊Click!(現・金沢八景あたり)とともに、当時は地方からのさまざまな物資を陸揚げする物流の一大拠点だったのだろう。
 その浅草湊の周辺に展開する地名が、紀ノ川沿いの地名と相似しているのがとても興味深い。先のヤマトの紀国への侵略にともない、女王ナグサトベの国が滅亡するとともに、紀ノ川沿いに先住していた「日本」人たちが、ヤマトの圧力に耐えかねたか戦いに敗れるかして、関東のクニグニへ亡命または避難してきているのではないか?……と想定するのは、それほど困難なことではないだろう。
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下谷浅草の歴史散歩1997.jpg 古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和1999.jpg
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 このような視点で見ると、関東から中部地方に展開する諏訪社Click!の祭神で、従来は出雲のオオクニヌシがらみとされてきた勇猛なタケミナカタ(建御名方)と、紀国の熊野地方で「神武」を迎撃した女王ナグサトベに仕えた南方(みなかた)氏とのかかわりが必然的に気になる。タケミナカタは、頑強に侵略者のヤマトへ抵抗をつづけて奉られた「猛(タケル)南方」、あるいは「武南方」ではないかという想定が成り立つのだ。
 ちょっと余談になるが、江戸期になると紀国は「紀伊国」と母音の“黙字”である「伊」を補って書かれることが多いが、本来は紀ノ国(木ノ国)であって紀伊は「き」と発音される地名であり、「きい」とは読まない。黙字はスルーし、発音しないのが江戸期の“お約束”のはずだった。出雲の地域名である斐川(氷川)が、「斐伊川」と書かれていても本来は「ひいかわ」と読まず、母音黙字を無視して「ひかわ」と読むのと同様だ。
 紀ノ川沿いと江戸東京の地名相似は、以前にも出雲の事例で書いたけれど、出雲にしか産出しない碧玉製の勾玉Click!が関東各地の古墳から出土したり、関東南部に氷川明神(斐川明神)Click!の社(やしろ)が数多く展開したりと、明らかに出雲を故地とする人々(ヤマトへの「国譲り」を許容できなかった少なからぬ集団)が、おそらく海路で関東のクニグニへとやってきている痕跡を感じるのと同様に、ヤマトの侵略へ容易に同調できない紀国の人々が、黒潮にのって関東南部へと亡命あるいは避難してきた証跡を感じるのだ。
 彼らは、江戸湾のもっとも奥地にあたる浅草地域へと上陸して居留地としたか、あるいは既存のクニグニから土地を分けてもらって新たな入植地としたものか、のちに浅草湊を開拓した川筋から海へとルートを拡げる、物流や貿易を得意とした人々だったかもしれない。ちょうど、タタラ製鉄Click!に関する専門知識やスキルが豊富だったとみられる出雲の人々が、砂鉄から目白(鋼)Click!を製錬するために南関東の河川をさかのぼり、バッケ(崖地)Click!や段丘に沿ってカンナ(神奈)流しClick!を行いながら、各地に氷川(斐川)あるいは鋳成神(近世に「稲荷」と習合されたものも多い)のメルクマールをしるしていったのと同様に、紀国の特殊技能や専門の職能・知見を身につけた人々は、関東のクニグニ(南武蔵勢力圏や北武蔵勢力圏)では特殊な技能に優れた人々として優遇されたかもしれない。だからこそ、故地の地名やメルクマールとなる神を奉る社(やしろ)について、周辺の似たような地形に付与することを、あえて許されていたのかもしれないのだ。
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上野東照宮唐門.JPG
上野東照宮.JPG
 浅草や真土山(待乳山)は、わたしもたまに出かけて散歩をするが、三社権現Click!浅草寺Click!ばかりでなく、古くからの地名をたどりながら周辺の地形を観察するのも楽しいかもしれない。もちろん、江戸幕府によって大規模な土木工事が行われ、河川の改修や埋め立てが実施される中世以前の、浅草湊が江戸湾の奥入り江に面する貿易港だった時代の復元地図を片手に、奥東京湾の名残り池Click!などを避けながら古代散策してみるのも面白いだろう。

◆写真上:現在はかなり南へ移動したが、古代には浅草あたりが河口だった隅田川。
◆写真中上上左は、1987年(昭和62)出版の中尾達郎『色町俗謡抄』(三弥井書店)。上右は、親父が愛読した1964年(昭和39)出版の今井栄『隅田川散歩』(非売品)。は、三社権現社(明治以降は「浅草神社」)。は、金龍山浅草寺(浅草観音)。
◆写真中下は、鳥居龍蔵Click!の調査時からあまり変わらず前方後円墳の形状をよく残した待乳山(真土山)聖天。は、台東区立下町風俗資料館が出版した『下谷・浅草の歴史散歩』(1997年/)と、同資料館出版の明治から現代まだの古老による証言を詳細に収集・記録した『古老がつづる下谷・浅草の明治、大正、昭和<総集編I>』(1999年/)。は、紀ノ川沿いの隅田地区を流れる隅田川(紀ノ川の一部)。
◆写真下は、『港区史』(2020年)に掲載された「東京低地地形分類図」。は、紀国と同地名の上野東照宮の金色殿から撮影した唐門と寛永寺五重塔。は、同東照宮の灯籠群。

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