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昭和初期の山手線めぐりと忘れ物。 [気になる下落合]

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 駅の構内でほぼ絶滅した設備に、小型で罫線入りの黒板やボードにメッセージを残す「伝言板」がある。駅で待ち合わせをした人同士が、都合が悪くなり約束の時間に落ちあえなくなったり、急用ができて先に出発しなければならなくなったときなどに、ひとこと書き残して相手に伝えることを目的とした、駅ならではの伝言ボードだった。
 おそらく携帯電話が普及し、いつでもどこでも音声やSMSで連絡がとれるようになってから、駅の伝言板は人知れず次々に撤去されていったのだろう。たまに、レトロな趣向から伝言板が残されている駅や、なにかイベントなどの特別な趣旨から設置している駅もあるようだが、もはや都心の駅で伝言板を見かけることはほとんどなくなった。
 また、伝言板の横あるいは近くには、事務所にとどけられている「本日の忘れ物」リストを掲示して、落としぬしを探す駅も少なくなかったのを憶えている。1929年(昭和4)の「近代生活」6月号に書かれた小説風エッセイに、落合地域かその周辺域に住んでいた新居格Click!の『現代の三頁』がある。その中に、山手線や中央線のターミナルである新宿駅に設置されている構内掲示板に書きとめられた、忘れ物の一覧が記録されている。
 昭和初期の忘れ物でいちばん多かったのが、今日と変わらずやはり洋傘(こうもりがさ)だったようだ。以下、同エッセイより1929年(昭和4)のとある春の1日に掲示されていた、新宿駅の忘れ物ボードのリストを見てみよう。
忘れ物(1929).jpg
 当時は、風呂敷が買い物袋や手軽なバッグがわりに使われており、中身のあるなしにかかわらず忘れ物が目立っている。書物や眼鏡などは「うっかり忘れた」で理解できるが、物指(ものさし)の忘れ物とはどういうことだろう。電車や駅へ、物指を持参する用事とはなんなのだろうか? 昭和初期、新宿駅を起点とした周辺域は新興住宅地が多かったので、大工や指物師、設計士の乗降客もたくさんいたから、それに比例して物指の遺失物が多かった……とでもいうのだろうか。
 煙草入は、普及しはじめたシガレットケースのほか、当時はまだ愛用者がたくさんいた根付(ねつけ)の下がるキセル入れも含まれているのだろう。駅のホームや構内でタバコを吸っても、当時はなんとも思われない時代だった。
 では、現在のJR東日本(首都圏)に多い忘れ物をリストアップしてみよう。
忘れ物(現在).jpg
 相変わらず傘の忘れ物が多いが、昭和初期の風呂敷やボール箱、紙包みなどにかわり各種バッグや買い物袋、封筒などが目立っている。また、電車に乗るとほとんどの人がのぞいている、スマートフォンの忘れ物が多いのが不思議だ。ポケットやバッグに入れたつもりが、そのまま座席へすべり落ちてしまうのだろうか。昭和初期のシガレットや刻みのキセルにかわり、電子タバコの遺失物が多いのは現代ならではの特徴だろう。
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木村荘八「新宿駅」1935.JPG
 さて、ちょうど同じころ、1929年(昭和4)に発行された「近代生活」8月号には、山手線を中心に首都圏を走る電車の風情をスケッチした、5人の作家によるオムニバス・エッセイ『省線リレー風景』が掲載されている。中央線を担当した林房雄Click!の「新宿-神田」、山手線を担当した龍膽寺雄Click!の「上野から新宿へ」、同じく山手線の久野豊彦Click!による「新宿より品川まで」、新宿駅のホームから中央線の下りに乗る浅原六朗の「深夜の乗客その他」、そして東京駅から京浜線(現・京浜東北線+根岸線)に乗って新築の横浜駅方面へ向かう川端康成Click!の「桜木町-東京駅」の5編だ。
 林房雄Click!の「新宿-神田」には、新宿駅の伝言板のメッセージが記録されている。1989年(平成元)に平凡社から出版された、『モダン東京案内』から引用してみよう。
  
 新宿――乗る前に掲示板をみること。/『Y子さん、三時迄待ったが帰ります。K』/『六べえ、先に行ってる。やってこい。安夫』/『武蔵野館の二階でまつ。みり子』/『金がないので引き返す。下宿に来い。A』/『H様、一、二等待合室にいます。すみ子』/そこで僕は一二等待合室をのぞいてみる。郊外散歩のいろんな携帯品を、ハンド・バッグや、風呂敷に詰めた若い娘達が、ソファの上に目白押しに並んでいる。
  
 当時の新宿駅が、郊外散歩の起点になっていた様子がうかがえる。娘たちは、それぞれお弁当や水筒などを持参して、山手線の外側か中央線沿線でハイキングでもするのだろう。当時の郊外の風景は、1932年(昭和7)に日本写真会によって企画され、翌年にかけて撮影された『武蔵野風物写真集』Click!(靖文社/1943年)や、織田一磨Click!によるさまざまな「武蔵野風景」シリーズClick!の画面で観察することができる。
 下落合に近接した山手線の目白駅や高田馬場駅を担当しているのは、またしても当時は第三文化村Click!目白会館文化アパートClick!に自宅があった龍膽寺雄Click!だ。龍膽寺雄は、『省線リレー風景』を執筆するとき、上野駅からまちがえて山手線の赤羽行きClick!に乗ってしまい、あわてて王子駅から田端駅へ引き返そうと車内でソワソワしている。ところが、乗りまちがえたのは彼だけではなかった。
忘れ物承り所(東京駅).jpg
忘れ物傘.jpg
 同書の龍膽寺雄「上野から新宿へ」から、引用してみよう。
  
 (前略) 隣りに並んでかけて居た十八九の、肩の華奢な下町風の娘さんが、不安な眼をアチコチと窓の外へ動かして、/『あの』/と、ためらいがちに、白粉の仄白い顔を僕に向けた。/『目白へ参るのはこれでよろしいんでございましょうか?』/冗、冗談じゃない! 目白はおれの行くとこじゃないか。何とまた気がきかない、間違えた奴が間違えた奴に訊くなんて。――/何ともかともてれ臭くって、眼鏡をいじりながら、それでもしかつめらしく教えたものです。/『や、それじゃ王子で降りて引ッ返したまえ。田端で山手へ乗換えるんです。(後略)』
  
 娘は王子で降りて乗り換えたが、龍膽寺雄は自分もまちがえて乗ったのを知られるのが恥ずかしく、このままだと娘といっしょに目白駅で下車することになりそうなので、あえて終点の赤羽駅まで乗ったあと田端駅まで引き返している。
 ようやく同駅から山手線内回りに乗ると、巣鴨駅から「水兵服」(セーラー服のこと)の女学生たちが乗りこんできた。近くにある、自彊術Click!で有名な文華高等女学校(のち十文字高等女学校)の生徒たちだろうか。彼女たちを観察するうちに、電車は池袋駅をすぎて龍膽寺雄がいつも利用している目白駅へと近づく。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 目白。――川村女学院や自由学院(ママ:自由学園)の女生徒たちが時刻どきで、プラットフォームから溢れている。線路はここから高架線。新宿まで乗り越してやれ。/高田馬場を過ぎると戸山が原。陸軍化学研究所(ママ:陸軍科学研究所)では煙幕の実験。白漠々たる濃煙が丘の背へ尾を曳く。片側は射的場(ママ:射撃場)。コンクリートのトンネルがかまぼこ型に並んで、忽ち巨大な堤の蔭へ消える。(カッコ内引用者註)
  
 龍膽寺雄は、各駅から乗りこんでくる若い女子たちばかりを観察している。
 自由学園Click!陸軍科学研究所Click!もそうだが、龍膽寺雄のエッセイは施設名の“ウラ取り”(ファクトチェック)が甘いようだ。また、戸山ヶ原Click!の煙幕演習は陸軍科学研究所が実施していたのではなく(開発中の兵器実験は衆目が集まるような場所では行わない)、おそらく塹壕戦演習Click!などが頻繁に行われていた、同研究所の北側に拡がる山手線西側の戸山ヶ原一帯Click!で行われていた、どこかの部隊または陸軍士官学校の煙幕軍事演習だろう。車窓からは、竣工Click!して2年めの大久保射撃場Click!が、すぐに防弾土塁(三角山)Click!の陰に隠れてしまう様子が描写されているが、新大久保駅をすぎればほどなく新宿駅だ。
目白駅初代橋上駅.jpg
目白駅1929.jpg
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 龍膽寺雄の「上野から新宿へ」を引き継いだのは、久野豊彦のエッセイ「新宿より品川まで」だが、久野は新宿駅の構内で「ワセダの浴衣」を着た「女のファン」たちを見かけている。この日、どこかで東京六大学野球Click!の試合でも行われていたのだろうか。

◆写真上:金久保沢の谷戸を掘削して敷設された、夕暮れの山手線・目白駅。
◆写真中上は、いまではすっかり見かけなくなった駅に設置された伝言板。は、1935年(昭和10)に木村荘八Click!が描いた『新宿駅』の構内風景。
◆写真中下は、東京駅の忘れ物承り所。は、忘れ物でもっとも多い傘。
◆写真下は、1922年(大正11)に地上駅から橋上駅Click!化された目白駅舎。は、龍膽寺雄が利用していた1929年(昭和4)の同駅舎。は、目白駅と目白橋の現状。

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コメント 4

サンフランシスコ人

「都心の駅で伝言板を見かけることはほとんどなくなった....」

田舎の駅では、伝言板を見かけるのでしょうか?
by サンフランシスコ人 (2023-02-04 03:42) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
確認したわけではありませんが、地方の駅も都会とほぼ同時期に消滅しているのでしょうね。昭和時代の街並みなどを観光客誘致の柱にしている特別な街や、ときにイベントなどの開催期間に“復活”することはあるようですが。
by ChinchikoPapa (2023-02-04 11:09) 

U3

拙ブログは諸事情により一時的に復活しましたが、
当初の目的を果たしましたので、予定通り『戦略的撤退』を致します。
最新記事を見て頂ければ事情はすぐに分かります。
本当に申し訳なく思っております。
by U3 (2023-02-05 21:39) 

ChinchikoPapa

U3さん、コメントをありがとうございます。
詳細は存じませんが、このところブログを中止されたり辞められる方が多いのが残念です。もっとも、3年にわたるCOVID-19禍で、わたしも先だて書く気力が萎えましたので、人のことはいえませんが。
by ChinchikoPapa (2023-02-05 22:33) 

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