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佐伯祐三が描いた陸軍科学研究所長の家。 [気になる下落合]

黒崎延次郎邸跡.jpg
 落合地域には、日本史に登場Click!するような軍人Click!たちが数多く在住していたが、言論弾圧のうえに無謀な戦争をはじめ、1945年(昭和20)に「亡国」状況を招来した大日本帝国の軍隊は大キライなので、これまであまり取りあげていない。
 今回は、日本史に登場しない軍人たち、いや1931年(昭和6)の日中戦争がはじまってから敗戦までは、表舞台に華々しく登場してはまずい組織や研究機関に勤務していた、下落合の軍人たちを取りあげてみたい。もっとも、わたしごときが入手できる情報は、国立公文書館に保存された文書や地元の資料、すなわちいまや誰にでも公開されているものばかりで、1930年代の後半から本格化した軍機や極秘の秘匿扱いとなる兵器研究Click!など、陸軍中野学校Click!ヤマClick!などが関与したテーマClick!については、それらの専門書や証言が多数出版されているので別途お読みいただきたい。
 下落合の南1.3kmほどのところ、戸塚町上戸塚(現・高田馬場4丁目)の南側に、山手線の内側から外側にかけ東西に長くつづく陸軍用地の戸山ヶ原Click!があった。山手線の外側(西側)、明治期から陸軍射撃場の“着弾地”と呼ばれた、戸山ヶ原の百人町に面した南側に、陸軍技術本部Click!および陸軍科学研究所Click!が設置されていた。そこに勤務する所員の軍人たちは、通勤に便利なためその周辺域の百人町や西大久保、柏木(現・北新宿)、戸塚(現・高田馬場)、中野、そして落合地域などに住んでいた事例が多い。
 彼らは、専門分野をもった技術士官や技術将校がほとんどなので、通常の軍人たちのように部隊異動が頻繁ではないため、研究所の周辺に自宅を建設しているケースも少なくない。いまだ日中戦争がはじまらない1931年(昭和6)の春、下落合には陸軍科学研究所Click!の幹部がふたり住んでいた。ひとりは、陸軍科学研究所の所長で陸軍技術本部の部長だった黒崎延次郎(中将)、もうひとりは同研究所第3部の部長だった久村種樹(少将)だ。
 1931年(昭和6)の当時、陸軍科学研究所は本部および第1部~第3部に分かれており、本部は研究所の基幹系業務、第1部は物理的事項研究、第2部は火薬・爆薬研究、第3部は化学兵器・化学防護研究を行っていた。第2部は、1933年(昭和8)に陸軍造兵廠への組織移管となって廃部となり、第1部は、その後1941年(昭和16)に陸軍技術本部第7研究所に改編されている。また第3部は、1933年(昭和8)に第2部の移管・廃部と同時に第2部に変更されている。さらに、1939年(昭和14)には戸山ヶ原の施設から分離独立し、秘密兵器・謀略兵器の研究を中心とする陸軍科学研究所登戸出張所Click!が開設され、1941年(昭和16)には陸軍技術本部第9研究所に改編された。
 さて、陸軍科学研究所の所長だった黒崎延次郎は、下落合1449番地に住んでいた。八島さんの前通りClick!に面し、道を隔てた東隣りには第三文化村Click!の下落合667番地の吉田博・ふじをアトリエClick!(旧・大塚邸)が、斜向かいには下落合666番地の納三治邸Click!が、黒崎邸の南には下落合1443番地の木星社Click!および福田久道邸Click!が建っていた。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」を参照すると、確かに佐伯祐三アトリエClick!の南西80m余の同地番には「黒崎」のネームが採取されている。
 黒崎延次郎邸は、佐伯祐三Click!が描く「下落合風景」シリーズClick!の、連作「八島さんの前通り」のどこかに描かれているのではないかと思い、画面を1作ずつチェックしてみると、はたして1927年(昭和2)6月に開催された、1930年協会第2回展Click!への出品用に同年5月ごろの制作とみられる、八島さんの前通りを北から南へ向いて描いた同作Click!に、それらしい大きなレンガ色の屋根にクリーム外壁の大きな屋敷(西洋館)を確認することができる。ちょうど同年の初夏に、竣工間近あるいは竣工したばかりの納三治邸の斜向かい、吉田博・ふじをアトリエ(当時は大塚邸)の道をはさんだ西隣りにあたる敷地だ。
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 黒崎延次郎が同研究所の所長だった時期は、1924年(大正13)12月から1931年(昭和6)4月ごろまでのおよそ7年間であり、その後、短期的に陸軍技術本部長に就任したようだが、同年8月には退役して予備役に編入されている。陸軍を退役したあとの紹介文になるが、同研究所の所長だった黒崎延次郎について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「人物事業編」から、その一部を引用してみよう。
  
 正四位勲二等功五級/陸軍中将/黒崎延次郎  下落合一,四四九
 栃木県人黒崎邦三郎氏の二男にして明治十年一月を以て出世(ママ:出生)、同三十年陸軍士官学校を卒業し同三十一年陸軍砲兵少尉に任し昭和二年陸軍中将に累進す 此の間東京帝国大学工科電気科を卒業し大阪砲兵工廠技術課長 陸軍技術本部総務部長 大阪砲兵工廠々員弾丸製造所長 同器材製造所長 陸軍技術本部第一部長 陸軍科学研究所長 同技術本部長に歴補せられ、耿々たる丹心を以て帝国陸軍の為めに貢献すること三十有余年 昭和六年八月予備役被仰付、斯くて徐ろに心身の修養を事とし意気益々健である。(カッコ内引用者註)
  
 黒崎延次郎は、陸軍士官学校Click!を出たあと東京帝大の工科大学電気科を改めて卒業すると、一貫して陸軍の技術畑を歩いてきたことがわかる。その経歴から類推すると、おもに銃砲兵器・弾丸を扱う技術開発がメインだったのではないだろうか。
 わたしが、下落合にあった黒崎延治郎の住所を認識したのは、実は『落合町誌』からではない。国立公文書館で見つけた、陸軍科学研究所に在職する全所員を紹介した「職員表」からだった。この全所員名簿とでもいうべき文書は、1931年(昭和6)4月1日に調査・作成されたもので、特に軍機や極秘の印はなく一般にも公開されていたものだろう。
 陸軍科学研究所には技術士官や技術将校ばかりでなく、研究テーマや研究内容の必要に応じて臨時の大学教授や助教授などの「嘱託」所員や、民間企業からの専門技術をもった技師の「御用掛」とされる所員も勤務していた。したがって、同職員表は陸軍内ばかりでなく民間人の彼らにまで配られたとみられる。ところが、この「陸軍科学研究所職員表」は、翌1932年(昭和7)8月8日を最後に作成されなくなる。
 1930年代の後半から、陸軍科学研究所や陸軍技術本部の組織状況、あるいは所員の増員(補充)・変更・異動など人事情報の文書には、軍機の印がベタベタと押されるようになる。つまり、どこに敵国や仮想敵国のスパイの目があるかわからないので、研究所に勤務している技術士官・将校の名前はもちろん、嘱託や御用掛になっている民間人の名前さえ秘匿されるようになった。換言すれば、外部に知られてはまずい極秘の研究や最新兵器の技術開発を、同研究所が積極的に進めるようになった時期と符合している。
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 黒崎延治郎が同研究所の所長時代、第3部の部長をつとめていた久村種樹は、黒崎所長が退役ののち跡を継いで同研究所の所長に就任している。上記の1932年(昭和7)8月8日に作成された最後の職員表は、久村種樹所長時代の全所員名簿だった。久村種樹が住んでいた自宅の住所は、下落合2080番地15号となっている。ごく近くには下落合2080番地の金山平三アトリエClick!があり、蘭搭坂(二ノ坂)Click!上に建っていた大日本獅子吼会Click!のすぐ北側にあたる区画だ。周囲は画家たちの住まいだらけで、一原五常Click!永地秀太Click!新海覚雄Click!などのアトリエが建ち並んでいた。
 1938年(昭和13)に作成された「火保図」の蘭搭坂(二ノ坂)Click!上を参照すると、同地番の敷地には「久松」という大きな屋敷が採取されている。おそらく、「久松」は「久村」の誤採取だろう。またしても、表札の文字(達筆だったのだろうか)を読みまちがえた、「火保図」作成で雇われた調査員による誤読とみられる。
 「火保図」は、家屋の仕様や個々の住民名が採取されていて、街の様子を知りたい調べものなどには貴重かつ便利だが、あちこちに表札の誤読による採取ミスが散見されるので、別の資料などでの“ウラ取り”が不可欠な、要注意の住宅図だ。ちなみに、同図では永地秀太邸(アトリエ)も「水地」と誤採取しているのがわかる。
 久村種樹について、『落合町誌』に掲載された紹介文の一部を引用してみよう。
  
 正五位勲三等功五級/陸軍少将/久村種樹  下落合二,〇八〇
 滋賀県士族久村静彌氏の長男として明治十五年四月十六日同県蒲生郡西大路村に於て出生、夙に陸軍に志し陸軍中央幼年学校を経て同三十五年十二月陸軍士官学校を卒業、同三十六年六月陸軍砲兵少尉に任ぜられ爾来頻りに累進して昭和四年十二月陸軍少将に陞る、星霜実に三十年蹇々匪躬の節を放し距然として部内の重望を負へり、其の間東京帝国大学工科大学火薬学科を卒業し、大阪砲兵工廠員 大阪高等工業学校講師 内務省警保局事務取扱 陸軍兵器本廠検査官 東京帝国大学講師等に歴補し昭和三年八月陸軍科学研究所第三部長に補せられ陸軍技術会議員、資源審議会嘱託を兼ね、同七年八月(ママ:同六年八月の誤記とみられる)陸軍化学(ママ:科学)研究所長に親補さる、(カッコ内引用者註)
  
 久村種樹は、火薬が専門分野だったようだが、陸軍科学研究所では第2部ではなく第3部の化学兵器・化学防護研究の部長をしていた。本人にとっては畑ちがいの仕事だが、第2部の火薬・爆薬研究と連携が必要な兵器の開発でもしていたのかもしれない。
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 このあと、1930年代後半から1940年代になると、もし陸軍科学研究所の所長宅などをスケッチしている画家がいれば、そしてその画家が特高Click!調査資料Click!に掲載されるような人物であればすぐに警察へ引っぱられ、あるいは「町誌」などの編纂で陸軍科学研究所の所員宅を不用意に訪れたりすれば、即座に門前払いのあげく警察に通報されかねない閉塞した時代を迎えることになる。軍事に関連する情報はなんでも秘匿し、軍事機密として国民にはいっさい知らせない社会状況は、なにも80年ほど前の昔話ではないだろう。

◆写真上:下落合1449番地の通り沿いにあった、陸軍科学研究所長の黒崎延次郎邸跡(正面アパート)の現状。左手は吉田博アトリエ跡で、背後は納三治邸跡。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる黒崎延次郎邸。は、2葉とも納三治邸が竣工する1927年(昭和2)5月ごろに制作された佐伯祐三『下落合風景』(部分)で、南を向いてパースをきかせた道路の奥に黒崎邸とみられる大きな屋敷が描かれている。は、1932年(昭和7)撮影の百人町側に面した陸軍科学研究所の正門。
◆写真中下は、1941年(昭和16)撮影の空中写真にみる陸軍科学研究所と陸軍技術本部。上空から東を向いて斜めフカンで撮影されており、同時期には山手線の西側に拡がる戸山ヶ原の大半を同研究所が占めていた。は、1936年(昭和11)に撮影された陸軍科学研究所の記念写真で、女性の「御用掛」(おそらく本部詰め職員)が8名ほど写っている。は、同研究所の所長をつとめた黒崎延次郎()と久村種樹()。
◆写真下は、下落合2080番地にあった久村種樹邸跡の現状。ちょうど戦後に開業する、帝銀事件Click!で注目された三菱銀行中井支店Click!の真ん前にあたる。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる久村種樹邸(「久松」と誤採取)。は、1931年(昭和6)4月と1932年(昭和7)8月に作成された陸軍科学研究所職員表(所員名簿)。

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コメント 4

pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。最近は美術館などなかなか行けないですが、東京ステーションギャラリーで開催されている佐伯祐三展は行きたいですね。40年間大阪の美術館の準備室が持っていたものですね。papaさんはもうご覧になられましたか?
by pinkich (2023-03-13 22:14) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
はい、もう出かけました。かなりの混雑で、ビックリしました。会場のプレートや図録などに、「下落合風景」シリーズについてのかなり具体的な解説が書かれるようになっていて、展示場にはどこかで見た描画ポイントの地図までが展示されていました。w
by ChinchikoPapa (2023-03-13 22:46) 

pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。佐伯祐三展に行って参りました。素晴らしい作品ばかりでよかったー。papaさんのブログでお馴染みの落合風景の現物を見ることができ、図録ではわからない微妙な色合いを堪能できました。貴重な経験でした。あらためて年表など見ると東京美術学校を卒業して亡くなるまで5年しかないことに驚かされます。芸術家として完全燃焼した5年ではなかったかと思います。美術館は、大変混雑していて、意外と若い人たちが多く、驚きました。いのは画廊界隈では若者が皆無ですからね。papaさん?の下落合の描画MAPもしっかり展示されていましたね!
by pinkich (2023-03-17 22:07) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
そう、けっこう若い人と女性が多かったですね。ミュージアムショップも、レジに並ぶような混雑ぶりでした。『下落合風景』は展示の入れ替えがあるのか、図録に掲載されている作品とされていない作品がありました。入れ替えたころに、もう一度出かけたくなります。多くの作品は、2005年の練馬美術館と2008年の横浜・そごう美術館以来でしたが、観るたびに新しい発見がありますね。
ということで、次回はその「下落合風景」の1作について取りあげる予定です。どうやら、また未知の作品をもう1点、見つけてしまったようなのです。
by ChinchikoPapa (2023-03-17 22:18) 

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