下落合の三輪邸で開かれた天ぷら会。 [気になる下落合]
神田川Click!にはアユClick!が泳ぎ、夏休みに下落合と高田、戸塚(現・高田馬場2丁目)の境界あたりの神田川で、子どもたちの遊泳イベントが毎年開催される現状を考えれば、東京湾にクジラが泳いで船舶と衝突しそうになったり、大川(隅田川)でイルカが遊んでいたり、日本橋川にサケが遡上しているなどと聞いても、東京湾に注ぐ河川の水質が40年前と比べてケタちがいに清浄化されたため、それほど驚くことはなかった。だが、台場沖でノリの養殖が再開されたというニュースを聞いたときには、さすがにビックリした。
いまだ海洋政策研究所などが実施する、試験的な養殖事業なのだそうだが、台場や品川あたりでノリが採れること自体、わたしの世代にとっては驚異的な出来事なのだ。祖父母や親の世代には、いまだ江戸期からつづく品川沖でのノリの養殖が行われており、品川の旧・宿場町にはたくさんの海苔屋・海苔問屋が開店していた。日本橋の創業300年をゆうに超える老舗の海苔屋「山本山」や、茶漬けの老舗「永谷園」も、親が若いころまでは江戸前のノリを使っていたのだろう。
江戸初期には、葛西沖で採れた天然もののノリが、もっとも高価で貴重だったという話はよく聞かされた。それを、浅草和紙の製法で紙のように伸ばして乾燥させ、食用に江戸の街のさまざまな料理に使いはじめたのが、いわゆる「浅草海苔」と海苔料理のはじまりだ。しばらくすると、品川沖(現・台場沖を含む)にノリの一大養殖場ができ、江戸の街へ安価になった浅草海苔を大量に供給しはじめている。品川沖で行われていた大規模なノリの養殖場は、世界初となる海産物の養殖プロジェクトだといわれている。
したがって、ノリ自体が江戸前で採れたものではなく、九州の有明産だろうが長崎産だろうがどこの生産地だろうが、浅草和紙のように伸ばして天日に干した江戸生まれの紙のような海苔製品は、すべて「浅草海苔」ということになる。ひょっとすると、それを模倣したらしい「韓国海苔」も、浅草海苔のバリエーションなのかもしれない。
わたしが生れるころからだろうか、高度経済成長にともない河川の汚濁がひどくなり、東京湾も急激に汚染されていった。また、沿岸の埋め立てにより漁民たちの漁業権が次々と奪われ(カネで買われ)、江戸前の魚介類を口にすることは少なくなっていった。20世紀末ぐらいまでは、江戸前の魚介類Click!といえばシャコやアナゴ、アサリぐらいが関の山だった。だから、「東京湾はいまや太平洋から回遊する魚介類の宝庫だ」などといわれても、にわかにはピンとこなかったのだが、どうやらノリの養殖ができるぐらいだから、少なくとも昭和初期の海ぐらいまでには、水質の清浄化が進んでいるのかもしれない。
ノリの養殖に次いで、もうひとつ驚いたのは、東京湾に注ぐ川の河口付近でシラウオ(白魚)Click!が獲れるようになったことだ。ほとんど芝居Click!や浮世絵の中でしか知らない白魚だが、実際に捕獲された多くの個体を見ると、大川河口や東京湾で白魚漁が再開され、江戸東京の風物詩で浅草海苔を載せた「白魚飯(茶漬け)」Click!が食べられるのも、これほど急激な環境変化であればあながち夢の中の話ではないかもしれない。大川端でお嬢吉三の「月も朧に白魚の~篝もかすむ春の空~」というセリフが、ちょうどいまが漁期なので幻影ではなく、リアルに感じられる情景になるのではないだろうか。
大川や江戸前で獲れたての白魚を、活きがいいうちに天ぷらClick!にして食べるのは、もはやかなわぬはかない夢だととっくのとうにあきらめ、他所の地域で獲れた白魚を天ぷらにして口にしていたけれど、どうやら形勢が大きく逆転したようだ。工業廃水や生活排水が駆逐されたため、本来は棲息していた数多くの魚が太平洋(の黒潮・親潮)から続々と湾内にもどりはじめ、漁をするとなにが獲れてもおかしくないのが現状らしい。
天ぷらで思いだすのは、下落合350番地の大きな屋敷に住んでいた東日本橋のミツワ石鹸Click!2代目・三輪善兵衛Click!だ。揚げる油は、江戸東京由来のゴマ油Click!しか受けつけなかった天ぷら通だが、大森沖(現在の大田区沖)で育ったエビ(いわゆる才巻き)の揚げものには目がなかったようで、天ぷらについて語りだすとしばらくは止まらなくなったようだ。衣(ころも)へ入れる卵の黄身の数から、天ぷら鍋のかたち、揚げる油の火加減、つゆの作り方、添える大根おろしまで、とにかくたいへんにうるさい。わたしも、江戸東京の“食いもん”についてはひどく意地きたないので、書きはじめると止まらない。
そんな三輪善兵衛だが、妙なことにタケノコの天ぷらを揚げている。1957年(昭和32年)に龍星閣から出版された、子母澤寛『味覚極楽』Click!(新評社版)から引用してみよう。ちなみに、当時の採れたてのタケノコは、江戸期から有名な目黒産Click!だったかもしれない。
▼
中でも竹の子のやわらかいところの天ぷらは、うまい上品な味で、清浦(奎吾)子爵などは、「こんなうまい天ぷらはない」とおっしゃっておられた。大河内正敏子爵はたいへん天ぷらがお好きで、私のところで天ぷら会をやった時、えびを三十八おあがりになってみんなにひやかされた。よくこの方の通人は、えびばかりを食べて、それが舌になじんでくると、その間にぽつりと野菜を食べられる。そしてまた、えびへ行く。野菜はあれで実際いい味をもっていることが、天ぷらではよくわかる。(中略) つゆは、まず最初少し薄味であまいくらいにこしらえ、それを、も一度煮詰める。この煮詰めるのが大切で、はじめからちょうどいい味にこしらえては、醤油の味がそのままどこかに残っていていけないものである。おろしは、練馬大根。辛いのやにがいのは、天ぷらにはむかない。
▲
三輪邸では、しばしば「天ぷら会」が開かれていたようで、登場している大河内正敏や清浦奎吾は、下落合で舌つづみを打っていたのだろう。そこで使われていたのは、目白文化村Click!の北側でいまも営業をつづけている、わたしも好きな江戸期から受け継がれた製法の、小野田製油所Click!のゴマ油★だったかもしれない。
★その後の調査で、ミツワ石鹸もゴマ油を製造していたことが判明している。
わたしも、練馬ダイコン(落合ダイコンClick!ならもっといい)が欲しいのだけれど、現在の練馬ダイコンは地産地消で、なかなかこちらの青物屋やスーパーでは手に入らない。しかたがないので、同じ関東ローム由来(埼玉県が多い)の“練馬ダイコン風”ダイコンを、東都生協で注文しては購入している。
これは、いつかも書いたかもしれないが、関東地方のロームClick!(富士山や箱根連山の火山灰土壌)から湧きでる甘めな水で生活していると、別の地方の水が舌の両側を刺激して苦く感じることがある。子母澤寛も書いているように、口に入るものや水に非常にうるさい食通には、ダイコン(他の野菜もそうかもしれない)にも同じことがいえるのだろうか。「水が合わない」という表現があるけれど、もともとは実際の“水の味”や、それをもとに育つ食べ物の味がちがうことから生まれた言葉なのかもしれない。
子母澤寛の『味覚極楽』にはもうひとり、天ぷらヲタクのインタビューが載っている。呉服町出身の“日本橋っ子”、新劇の俳優だった伊井蓉峰だ。1923年(大正12)に関東大震災Click!が起きてから、復興が大きく遅れた地域の食いもん屋Click!は、このままでは飢え死んでしまうと、こぞって関西地域へ店を移した。深川生まれのおでんが、“関東煮”として西日本に伝わったのもこの時期なのだろう。その中には、天ぷらの店も数多くあった。
伊井蓉峰がいきつけの、上野松坂屋の近くに開店していた「天新」という店も、神戸へ移転して大震災からの営業継続をはかったようだ。伊井蓉峰は、旅行中に神戸へ立ち寄ったので、久しぶりに「天新」の天ぷらを楽しみにしていた。さっそく店に入り、「何年ぶりかでお目にかかったんでべらぼうにうめえうめえ」と食べていると、主人が急に不機嫌になり、妙なことに口もきいてくれなくなった。そのときの様子を、同書より引用してみよう。
▼
妙な奴だと思いながらその日は帰ったが、翌日また出かけていくと、おかみが私のそばへ来て、「先生きのうは本当においしかったのですか」というのだ。「いや、なにしろ久しぶりだったのでうまかったが、改めてそんなことをきかれると、実は食べた後の舌もちが少しよくなかった」というと、おかみは突然大きな声を出して、「あなた、ほーら御覧なさい、先生はちゃんとわかっていらっしたんですよ」とおやじにいった。おやじも「そうか」とかなんとかいって笑い出したものだ。「先生、天新ももうおしまいですよ。実はここの天ぷらはうまくねえ、あれをうめえなんて食う人には、一生懸命に揚げてやっても張合いがねえんだ。あっしは毎日揚げながらしゃくにさわって仕方がねえんですよ。大阪や神戸の人間にはわからねえのが当り前だが、東京の人に一つこれはうまくねえどうしたッとこういって腹を立ててもらいたくって待っていたんだ」という。
▲
このあと、伊井蓉峰は具材や油の品質、手早い品まわり(魚介類の流通)がないために購入した冷蔵庫など、主人のグチを延々と聞かされるハメになったようだ。
主人がこぼす「大阪や神戸の人間」にも、天ぷらの味がわかる食通は少なからずいたと思うのだが、本書に登場するような有名な食通でなくても、確かに内海と外洋で獲れる魚の食感や風味のちがいは、わたしにもかろうじてわかるし、ゴマ油も天ぷらに最適な製品がなかなか見つからないとこぼすのも理解できるけれど、せっかく営業がうまくいっているのだから、気短かに店じまいをすることはないだろうに。ある程度の資金をため、大震災からの復興が進んだ東京へもどってくればいいだけの話だが、それでは沽券が許さなかったのだろうか。もしもどれなかったにしても、営業をつづけていれば西の天ぷらの名店として、こちらにまで評判がとどいていたかもしれないのに。
「江戸前」という用語は、大正期に水産庁が東京湾で獲れる魚介類のことだと規定したようだが、本来は「江戸前」Click!=(城)下町Click!のことを指すのだと三田村鳶魚Click!は書いている。それが、大江戸(おえど)で生産された物品や文化・風俗・習慣などの総称となり、より範囲をせばめ魚介類に限定したのが大正期の規定だった。水産庁の規定にならうとすれば、あと何年ぐらい生きていれば、江戸前づくしの天ぷらが食えるようになるだろうか。
◆写真上:たまにむしょうに食べたくなる、小さめなシラウオの天ぷら。
◆写真中上:上は、夏休みになると神田川で遊ぶ子どもたちの姿が目立つ。子どもたちが網で獲っているのは、小魚やトンボのヤゴなどの水生生物。中は、再開されたと聞いて驚いた台場沖のノリの養殖。下は、1877年(明治10)に三代広重が描いた『大日本物産図絵/武蔵国浅草海苔製図』で、浅草海苔の製造プロセスがよくわかる。
◆写真中下:上は、安藤広重Click!が1864年(元治元)制作の『絵本江戸土産/佃白魚網夜景』Click!。中左は、日本橋「山本山」が売る浅草海苔。中右は、日本橋蛎殻町にある創業103年を超える老舗「桃屋」の海苔佃煮Click!。江戸むらさきとは江戸東京のしたじ=濃口醤油(江戸紫)Click!のことだが、それで海苔を甘じょっぱく煮たもの。下は、江戸期の浅草海苔が貴重だった時期には蕎麦にふりかけるだけで料金が倍になった。
◆写真下:上は、生でも食べられそうな採れたての竹の子が東京ではなかなか手に入らないため、あまり食べた記憶がない竹の子の天ぷら。中は、佃島から眺めた雨もよいの大川(隅田川)。下は、いまのところ東京でたやすく手に入るシラウオは茨城県産が多い。
「夏休みになると神田川で遊ぶ子どもたちの姿が目立つ....」
南こうせつの歌に、そんな情景はないですね....
by サンフランシスコ人 (2023-02-24 07:45)
シラウオの天ぷら、美味しいでやすね!
やはり、これは塩でいただきたい素材でやすね!
by ぼんぼちぼちぼち (2023-02-24 10:56)
サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
この歌が流行った1970年代半ばは、神田川の汚染がピークだったころですね。半世紀かかって、金魚が飼える水質にもどったようです。
by ChinchikoPapa (2023-02-24 11:04)
ぼんぼちぼちぼちさん、コメントをありがとうございます。
おっしゃるとおり、塩にレモンがさっぱりしていて美味しいですね。獲れたてのシラウオでしたら、わさび醤油で刺身もうまいですよ。
by ChinchikoPapa (2023-02-24 11:35)