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「目白会」と「五月会」で検挙された華族たち。 [気になるエトセトラ]

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 学習院を卒業した華族の中には、マルクス主義に共感してシンパになる若者たちがいた。自らの出身である、華族という特権階級(少し前の流行語でいえば「上級国民」)を否定し、人民はみな平等であるという資本主義革命における政治思想(デモクラシー)の入口に立った彼らは、すぐにも資本主義社会が抱える本質的な矛盾に気づき、当時はそれを乗り越えられる唯一の思想ととらえられていた共産主義に傾倒していった。
 学習院高等科を出たあと、東京帝大に進んだ華族の息子たちは、一般学生が多く出入りする新人会Click!帝大セツルメントClick!に属することなく、1930年(昭和5)ごろに「目白会」というサークルを結成している。ちょうど、夫の小林多喜二Click!を虐殺された伊藤ふじ子Click!が打撃からの立ち直りをかけて、喪服姿のまま下落合からプロレタリア美術研究所Click!や帝大セツルメントClick!に通っていたころだ。
 1931年(昭和6)には、すでに特高Click!は「目白会」の会員名簿を入手しており、そこには85名にものぼる学習院出身者が掲載されていた。なぜ、特高がこれほど早く「目白会」の動向をつかみ名簿を手に入れられたのかといえば、当時の共産党指導部に特高の毛利基Click!と通じた「スパイM」こと松村昇=飯塚盈延がいたからだ。
 翌1932年(昭和7)より、特高は地下にもぐった共産党員だけでなく、その支援をするシンパも積極的に検挙しはじめているが、「目白会」では特に共産党へのカンパや、地下活動をする党員へのアジト提供などが取り締まりの対象となり、「目白会」名簿をもとに容疑の選別化が行われている。名簿には、〇印とチェック印が入れられており、〇印は犯罪(治安維持法違反)の「嫌疑十分」、チェック印は「要注意」に分類されていた。
 「目白会」の様子を、1991年(平成3)にリブロポートから出版された浅見雅男『公爵家の娘―岩倉靖子とある時代―』から、その一部を引用してみよう。
  
 「犯罪ノ嫌疑十分(注・もちろん治安維持法違反の嫌疑)」とされたのは十八人で、その名前はつぎのとおりである(ちなみに「要注意」は七名)。/横田雄俊、八条隆孟(以上法学部卒業)、小谷善高、益満行雄、粟沢一男、管豁太、信夫満二郎(以上法学部在学中)、隅元淳、副島種義、森俊守、豊沢通明、井染寿夫、山口定男、田口一男、山田駿一(以上経済学部在学中)、小倉公宗、森昌也、永島永一郎(以上文学部在学中)/関係者の話や当時の資料などから判断すると、これらの中でもとくに熱心に活動していたのは、横田、八条、森(俊)、小谷、管、森(昌)らだったようだ。このうちの何人かは共産党に入党していた。
  
 特高による摘発は1933年(昭和8)1月から行われるが、実際に検挙された「目白会」のメンバーの中には、上掲の名前には含まれていない松平定光(文学部在学中)や、学習院から京都帝大経済学部へ進学した中溝三郎もいた。
 「目白会」の集会は、東京帝大内ではなく目白の学習院構内で開かれ、特高の動向などには特に注意を払わなかったという。このあたりが、“お坊ちゃん”でノーテンキな華族の息子たちらしいが、八条隆孟らが中心となっておもに読書会が開かれていたようだ。当初は岩波文庫の伏字だらけのマルクスなどを読みながら、サークルのメンバーたちで議論をする程度だったので、参加者たちは特に治安維持法の違法行為とは気づかなかったらしいが、そのうち共感が生れたのか共産党への資金カンパにも応じるようになり、「無産者新聞」などの資料配布へ積極的に協力するようになっていった。この中には、下落合の学習院昭和寮Click!に住む学生がいたかもしれず、寮内での活動も想定できそうだ。
 学習院を中心に生まれた、華族の息子たちによる「目白会」のシンパ網のことを、彼らは自ら「ザーリア」と名づけている。だが、資金のカンパといっても小づかい銭程度の少額にすぎず、メンバー同士の結束も強固なものではなかったため、特高に検挙され脅されると次々に「手記」を書いては、「目白会」の内情をベラベラ供述してしまっている。ただし、指導的な役割をはたした八条隆孟と森俊守はすぐに「自白」せず、「改悛」していないと判断されたため起訴されることになった。
 他のメンバーたちは、ほぼ1~2ヶ月のうちに保釈されているが、八条と森は市ヶ谷刑務所に移され、翌1934年(昭和9)早々に法廷に立つことになった。ただし、両名ともすでに「転向」を表明していたため、八条隆孟は1審で懲役3年の実刑判決(控訴せず服役)、森俊守は1審で懲役2年の実刑判決だったが控訴し、2審で懲役2年執行猶予3年の判決を受けている。
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 さて、「目白会」が学習院で読書会を開きシンパを増やしつづけていたころ、同じ目白の日本女子大学校Click!でも「五月会」と称するサークルが結成されていた。1932年(昭和7)5月に創立されたので「五月会」と名づけられたが、その中心にいたのは上村春子であり、のちに「目白会」メンバーだった横田雄俊と結婚して横田春子となる女性だ。その従妹には、「堂上華族」と呼ばれた岩倉具視の曾孫にあたる岩倉靖子がいた。
 岩倉靖子は、もともと女子学習院Click!へ通学していたが、子どもを喪って寂しがっていた叔父の古河虎之助のもとで一時的に暮らすうち、女子学習院では近代女性としての教育を受けられないので、叔父から日本女子大への転校を勧められたといわれる。また、彼女自身もキリスト教への興味が湧き、教会へ通ううちに女子学習院Click!(封建的な超高級花嫁養成学校)の教育内容に疑問をいだいたともいわれている。
 1927年(昭和2)9月、14歳の岩倉靖子は女子学習院の中期8年を修了して退校すると、そのまま日本女子大付属高等女学校3年へ編入している。当時、「堂上華族」と呼ばれた岩倉公爵家の娘が、女子学習院から日本女子大へ転校することなどありえないことだったので、女子学習院の教師から文句をいわれたと岩倉雅子は証言している。また、母親からの影響もあったようだ。愛人と莫大な借金問題で爵位を追われ出奔した、浪費家の父親・岩倉具張に代わって娘を育てあげた妻の岩倉桜子は、靖子を主体的な自我をもった女性に育てたいと思ったのかもしれない。
 岩倉靖子が、付属高等女学校から大学校へと進むころ、3歳年上だった従姉の上村春子からの影響で、共産主義に興味をもったのが「五月会」に加わるきっかけだった。のちに特高に書かされた「手記」で、彼女はこう書いている。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 靖子はこう書いている。/「五月会は党の指導下に創立されました。従つてその目的は上流中流階級の青年の集りを作り、親しむ機会を作って其の個性を観察し、素質のよい人間を選んで働きかけ、日常会話の中に社会問題を持ち込んでアヂリ獲得する事を目的とするのです。そして五月会内の組織を拡大し、資金、家屋の提供をする事も目的とします」/七年三月の段階で、このように明確な目標を立てて動く仲間に入っていたのだから、靖子はそのかなり前から共産党シンパになっていた可能性が高い。さきほど靖子が昭和六年後半から七年初めにはシンパ網に連なっていたのでは、と推測した理由はここにある。
  
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 特高に書かされている「手記」なので、どこまで供述を「受け入れ」られるよう「いいなり」に書いたのかは不明だが、岩倉靖子は「改悛」の情をしめさず「反省」も「転向」もしなかったので起訴され、市ヶ谷刑務所に送られている。
 この「手記」を見ると、「五月会」と「目白会」は明らかに地下で通じており、のちに結婚することになる「目白会」の横田雄俊と「五月会」の上村春子は、両会でシンパの組織化という目的を共有していたことがわかる。「五月会」は、日本女子大のキャンパスで学生たちのオルグをつづけるが、やがて横田雄俊が名古屋の裁判所へ転任することになり、すでに結婚していた横田(上村)春子も夫とともに名古屋へ去ってしまった。
 残された岩倉靖子は、「五月会」の活動をつづけようとしたが、上村春子に比べるとあまり社交的な性格ではなかったために、新たなシンパ獲得はむずかしかったようだ。それでも、彼女が検挙されるまでの間にピクニック3回、運動会、映画鑑賞会3回、演劇会、スキー会2回などを「五月会」イベントとして実施している。彼女の手記は、こうつづけている。
  
 「会員の一人々々の性質をよく知つて、素質のよい者に働きかけるのですが、総括して自己の地位生活に満足し、贅沢な事に慣れてゐる人達なので、階級問題、社会問題に話題を持ち掛ける事も不可能な位でした」「五月会を振り返つて見ると、五月会の合法的発展さへ困難なのに、その中の非合法的発展は一層困難でした。費用倒れになつて、むしろ労力の浪費に終つた様に思ひます。(後略)
  
 特高に検挙されたあとも抵抗し、起訴されて市ヶ谷刑務所に送られた岩倉靖子を「転向」させたのは、従姉の横田(上村)春子の病死と、1933年(昭和8)10月ごろに知らされた横田雄俊の「転向」だといわれている。それまで、「五月会」の詳細な活動内容や関係した人物たちの供述を、いっさい拒んできた岩倉靖子だが、精神的なよりどころだった従姉の死と横田の「転向」で決定的な打撃を受けたのだろう。また、同年10月ごろより獄中で「旧約聖書」を読むことが多くなった。
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 岩倉靖子は1933年(昭和8)12月11日、特高に検挙されてから8ヶ月半ぶりにようやく保釈された。その10日後、12月21日に渋谷にあった岩倉邸の寝室で、両脚をしばり右頸動脈を切断して自刃した。来年にひかえた裁判のことで、岩倉家にこれ以上の迷惑をかけられないと、思いつめたあげくの自裁だったといわれている。まだ、20歳の若さだった。

◆写真上:学習院大学のキャンパスに残る、1913年(大正2)に建設された寮の入口。
◆写真中上は、同じく学習院東別館(寮)。は、1927年(昭和2)建設の学習院理科特別教場。は、学習院の逮捕者が続々と報じられる1933年(昭和8)11月20日の東京朝日新聞。左下には起訴された八条隆孟や森俊守、岩倉靖子らの記事が見える。
◆写真中下は、1877年(明治10)建設の女子学習院(現・学習院女子大学)の正門。は、1906(明治39)年建設の日本女子大学成瀬記念講堂とその内部。
◆写真下は、岩倉靖子の検挙を伝える1933年(昭和8)4月20日の国民新聞。は、大正末に行われた日本女子大の第16回運動会の記念絵はがき。は、保釈から10日後に発行された岩倉靖子の自刃を伝える1933年(昭和8)12月22日の東京朝日新聞。

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サンフランシスコ人

「マルクス主義に共感してシンパになる若者たちが...」

サンフランシスコでは、マルクス主義の国から命からがら逃げて来た人達が大勢住んでいるので、マルクス主義の人気はありません...


by サンフランシスコ人 (2023-03-14 06:24) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
こちらでも人気はありませんが、修正理論ではなく矛盾だらけの資本主義経済(国独資含む)をどうするかで、社会科学の学問上唯一の「対案」を提示できたのは彼だけですので、経済学とその周辺を取り巻く社会科学の学問では、まだまだ根強く研究が盛んです。
by ChinchikoPapa (2023-03-14 10:09) 

kiyo

日本が、貧乏で、階級社会も残っていて、数少ない富が上流階級だけに分配されることの矛盾を、清廉な若人が無視出来なくて、シンパになっていったのでしょうね。
とはいえ、上流階級子女のお遊戯な感は否めないです。
この時代の労働階級には、そんな言葉遊びに乗じる時間も余裕も無かったでしょう。

全てが解消されるのが、敗戦して、一旦階級社会が崩壊して、資本主義の権化の米国から、民主主義を押しつけられて、発展してからの資本主義の譲歩からなのは、歴史の綾なのでしょうかね。

結果として、共産主義、社会主義は、労働組合勢力にしかならなかったのが、万人に受け入れられる主義主張ではなかったのでしょうね。

by kiyo (2023-03-14 11:03) 

ChinchikoPapa

kiyoさん、コメントをありがとうございます。
特高に検挙されたあと、起訴されるまで抵抗をつづけたのはこの記事の華族3名だけで、あとは検挙されたとたんにペラペラと活動内容を供述してしまってますので、「サークル活動」感覚だったのでしょうね。
現代の多くの資本主義国は、19世紀的な視点から見れば重要な社会インフラ事業や金融資本などを国営にするなど、すでに「社会主義」化していますけれど、修正資本主義でも貧富の格差を修正できず、ひどくなる課題が解消できないことから、さらに北欧型の「社会主義」化をめざすのか、あるいはポスト修正資本主義の新たな仕組みづくりを、唯一「対案」を提示しえたマルクスあたりから構想するのか、現状ではいまだ混沌として見えないですね。
DXが加速して飛躍的に進捗する今世紀あたりに、マルクスに匹敵するような人物が出現して、新たな経済や社会の仕組みづくりを構想しそうな気はしていますが……。
by ChinchikoPapa (2023-03-14 12:28) 

kiyo

一晩考えたのですが、そもそものマルクスの考えていた共産主義って、もっともっと、全てのヒトが食うに困らず、富や私物に囚われない、物欲の無い聖人ばかりになった状態を前提にしている気がします。
そんな原始共産状態になると、富の欲望に囚われない個人主義状態かなぁと。
もう、あと、1000年か、2000年して、達観した人ばかりになれば、可能かも知れないですが、現在の人類には、無理だなあと思います。

そして、当時の階級上位のヒト達は、一般人の苦労を知らずですが、
何不自由なく、富に恵まれて、私物に頓着せずになって、
恵まれない層を救おうとするお節介なイベントを求めて、共産主義のシンパになっていったのかなと?思いました。
by kiyo (2023-03-16 09:13) 

ChinchikoPapa

kiyoさん、重ねてコメントをありがとうございます。
政治思想的には、どこかキリスト教圏的な「性善」の臭いがして理想像が先行していますが、いまだ彼の名前が学問・研究上(特に社会科学と人文科学)で消えていかないのは、経済や社会の仕組みづくりの面において、彼の考えた(正確には資本主義経済学の「分析」に基づく「批判」と多少の「対案」ですが)枠組みの中のどこかに、資本主義の世界的に膨張する矛盾を止揚するヒントがあるのではないかと、経済学者たち(に限らずですが)が研究し、考えつづけているからではないでしょうか。
マルクスが生きていた当時は、産業革命が急激に進捗していた政治的統制がほとんどなしの産業資本主義フェーズで、その後の国独資フェーズは知らないわけですが、ケインズ以降の近代・現代経済学を超えてまだ生きつづける研究者としてのマルクスは、確かに優れた経済学者であり政治学者であり、社会学者だったと思います。「わたしはマルクス主義者ではない!」という彼自身の言葉に、広範な分野にわたる稀有な学問の探究者・研究者としての矜持を感じますね。
もっとも、この記事の趣旨は華族たちの「甘さ」ではなく、現在の中国やミャンマー、ロシアなどでつづく思想弾圧や言論弾圧と。戦前日本のある階級における「事件」とを対置させるところにあるのですが……。
by ChinchikoPapa (2023-03-18 21:28) 

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