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家を外国に貸す人、家を外国に接収される人。 [気になる下落合]

箕作俊夫邸跡.jpg
 下落合330番地の男爵だった箕作俊夫Click!邸は、その南に拡がる広い敷地も所有していた。現在の落合中学校のグラウンド西側一帯だ。この敷地に、大正末になると中華民国公使館官舎Click!が建設されているのは、少し前に記事にしたばかりだ。
 その記事の中で、同公使館官舎は当初、大きな箕作邸をそっくりそのまま借りうけて官舎にしていた時期があったのではないかと書いていた。なぜなら、箕作俊夫は1923年(大正12)1月8日に下落合で死去しており、そのあと一家がどこか別の地域へ転居しているとすれば、家屋敷や敷地が丸ごと空いていたからだ。この予測は、国立公文書館に残された中華民国特命全権公使による、外務次官あての文書で裏づけられた。
 また、箕作俊夫は1915年(大正4)ごろまで、北豊島郡巣鴨村宮中北2230番地(現・東池袋2丁目)に住んでおり、下落合330番地へ転居してきてから10年とたたずに死去していることが、1915年(大正4)に人事興信所から出版された『人事興信録』(第4版)から判明した。箕作俊夫について、『人事興信録』(1915年)から引用してみよう。
  
 箕作俊夫  従五位、男爵/東京府華族
 當家は先々代從二位勳一等箕作麟祥より家名を揚く麟祥は舊津山藩士にして夙に法律學を修め後佛國に留學し明治元年歸朝外務省飜譯官となり轉して大學中博士となり尋て判事に任せらる後大博士に進み爾來文科大學教授元老院議官貴族院議員行政裁判所長官等に歷任し同三十年華族に列し男爵を授けらる/君は先々代麟祥の四男にして男爵菊池大麓文學博士箕作元八は其の叔父なり明治二十二年三月二十八日を以て生れ同三十二年亡兄祥三の後を享け家督を相續し襲爵仰付らる/姉さた(明二、六生)は理學博士石川千代松に叔母直(同五、五生)は故理學博士坪井正五郞に嫁せり
  
 東京郊外を転居しているのは、おそらく体調を崩しており安静を必要としたからだろう。だが、その静養の甲斐もなく、箕作俊夫はわずか34歳になる誕生日を目前に下落合で死去している。大磯Click!で新島襄が死去したあと、新島八重Click!が所有していた大磯町神明前906番地外の敷地を譲り受け別荘を建てたのも、箕作俊夫が潮風に吹かれて安静にすごすためのものだったのだろう。また、もうひとつのテーマとして、落合中学校グラウンドの南西端に残されているふたつの門柱は、公使館官舎の正門にも使われただろうが、それ以前に当初から箕作俊夫邸のもの(裏門?)だった可能性もありそうだ。
 箕作俊夫が死去してから約1年後、中華民国特命全権公使の汪栄宝から外務省の次官あてに、箕作男爵邸への電話架設申請書が作成され、1924年(大正13)2月4日に起草された申請書は2日後の2月6日にに提出されている。中国語の同申請書は和訳され、さっそく同年2月12日に外務次官から逓信次官あてに通達された。そして、同年2月15日にはすでに電話架設の手続きに入っているという報告を、外務次官から汪栄宝特命全権公使へ返信している。
 同年2月12日の、外務次官から逓信次官への申請書を引用してみよう。
  
 在京支那公使住宅ニ電話架設ノ件/在本邦支那公使住宅(府下目白下落合村箕作男爵邸)ニ対シ電話架設方同国公使汪栄宝氏ヨリ依頼越ノ次第有之候条 右可然御取計相成度此段申進候也/話第八二号/大正十三年二月十二日
  
箕作俊夫邸1918.jpg
電話架設申請書1924.jpg
電話架設申請書1924_2.jpg
 「府下目白下落合村」の箕作男爵邸などと書いているが、これは公使からの申請書をそのまま修正せずに写したもので、正確には府下豊多摩郡落合町下落合が正しい。公使の汪栄宝が、関東大震災Click!から5ヶ月後に同申請書を起草していることにも留意したい。それまでの公使館官舎は、東京の市街地にあったものの大震災で大きな被害を受け、そのために改めて安全な東京郊外に公使館官舎を建てる必要性を感じたものかもしれない。
 箕作邸には、電話が引けていなかったようだが、外務省から逓信省への稟議スピードからすると、大震災の影響を考慮しても数週間から1ヶ月程度で電話が引けたのではないだろうか。東隣りの相馬孟胤邸Click!には、すでに電話が引かれていたので、箕作邸まで電信柱を建てケーブルを延長するだけで済んだはずだ。このあと、大正末から昭和初期にかけ、のちの空中写真にみる大規模な公使館官舎が建設されたものだろう。
 上記の事例は、外国の公使館に家屋敷や敷地を貸与した箕作邸の様子だが、逆に家屋敷を外国に接収されてしまったケースを、下落合ではあちこちで耳にする。もちろん、1945年(昭和20)8月15日の敗戦により、米軍を中心とした連合軍に家屋敷はおろか家具調度類まで、すべて「居ぬき」で無理やり取りあげられた事例だ。米軍による住宅接収が決まると、そこに人が住んでいた場合はただちに出ていかなければならなかった。
 下落合には、空襲による延焼をまぬがれた屋敷があちこちに残っていたが、特に大きめなめぼしい西洋館は、さっそく米軍に軒並み接収されている。戦後のどさくさの中であり、家賃も満足に支払われなかったケースが多いようだ。
 ただし、接収した家屋や家具調度の記録(動産目録)は、総務省外国財産課によって綿密に行われたようで、のちに接収家屋に住んでいる外国人(米軍属が多かった)に対し、吉田茂Click!内閣総理大臣の返還命令書が出される際には、家具調度はおろか「ゴミ箱」から「フライパン」まで細かく記された命令書となっている。したがって、たとえば外国人の住民が家電を壊してしまった場合などは、賠償金が支払われるケースもあったのかもしれない。
命令書1.jpg
動産目録.jpg
 下落合1丁目415番地に住んでいた武田敏信という人物は、野尻湖畔にあった別荘を米軍関係者に接収されている。また、下落合415番地(ちょうど学習院昭和寮Click!の斜向かい一帯)の屋敷群もほとんどが焼け残っていたので、自宅も接収されているのかもしれない。長野県上水内郡信濃尻村(大字)野尻(字)神山494番地の別荘には、1946年(昭和21)の米軍接収後からR.P.リチャードソンという人物が住んでいた。
 国立公文書館には、1950年(昭和25)8月15日までに、武田家へ返還するよう吉田茂首相名による命令書の記録が残されている。同命令書より、全文を引用してみよう。
  
 命令書
 東京都新宿区淀橋下落合一丁目四百十五番地 武田敏信/貴殿所有にかかる左の連合国財産は、昭和二十一年勅令第二百九十四号第二条第一項の規定により、昭和二十五年八月十五日までにロバート・ピー・リチャードソン(長野県上水内郡信濃尻村大字野尻字神山四百九十四番地の三)にこれを返還することを命ずる。/昭和二十五年〇月〇日 内閣総理大臣 吉田茂/種類/数量/一 建物(家屋番号百二十一番) 一棟総坪三十一坪七合/二 動産(別紙目録参照) 百二十一点/所在地/長野県上水内郡信濃尻村大字野尻字神山四百九十四番地の三
  
 命令書の日付が「〇月〇日」空欄になっているが、後続資料によれば1950年(昭和25)8月5日に命令書の執行・通達が行われているので、R.P.リチャードソンは10日以内に武田家へ返還しなければならなかっただろう。
 この命令書で面白いのは、返還すべき野尻湖畔の別荘にあった細かな「動産目録」までが添付されている点だ。テーブルやイス、ベッド、デスク、長イスなどの家具類はもちろん、作りつけの洗面台や靴箱、網戸、箪笥、風呂桶、洋服かけ、スダレ、絨毯などの調度品、テニスラケットやボートオールなどのスポーツ用品、洗濯板やタライ、洗面器、アイロン台、まな板、アイスクリーム製造機、ストーブ、フライパン、ほうき、ゴミ箱、バケツなどの日用品にいたるまで、ことごとく列挙されていることだ。
 武田家では、おそらく軍属と見られるR.P.リチャードソンからは賃貸料が1銭ももらえず、頭にきて憶えている限りの別荘内にあった「動産目録」を作成し、「接収前のそのままの状態で返してほしいんだけどね」と、当局へ提出したのではないだろうか。
命令書(英文).jpg
下落合415番地1947.jpg
下落合415界隈現状.jpg
 はたして、1950年(昭和25)8月15日までに武田家へ、別荘が「そのままの状態」で返還されたかどうかは後続資料が見あたらないので不明だ。一方、当主を亡くした箕作家は、その後も中華民国あるいは日本政府からの賃貸料で、家計を支えられたのかもしれない。

◆写真上:下落合330番地一帯に建っていた、箕作俊夫邸跡の現状(道路左手)。
◆写真中上は、1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図にみる箕作俊夫邸。は、中華民国特命全権公使・汪栄宝から外務省あてに出された電話架設の申請書(原文)。は、それを受けた外務省が逓信省にまわした日本文の稟議書。
◆写真中下は、野尻湖畔の別荘に住む米軍属とみられる人物に対して出された返還命令の所有者への報告書。は、命令書に貼付された別紙の細かな「動産目録」。
◆写真下は、英文版の返還命令書。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる焼け残った下落合1丁目415番地(現・下落合2丁目)界隈。は、現在の同界隈の一画。

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pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。山田五郎さんのYouTube動画でpapaさんのブログが紹介されたことをなぜだか我が事のように喜んでいます。紹介されたことで、papaさんのブログを初めて訪問する方も増えるのではとおもます。
by pinkich (2023-04-12 19:45) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
わたしとしては、ちょっと恥ずかしいのですが、きょうのアクセスはすごくて、おそらく1万人を突破するのではないかと思います。改めて、山田教授の影響力の大きさに驚きますね。
近々、長い間ペンディングにしていた「かしの木のある風景」の描画ポイントに、挑戦してみたいと思います。
by ChinchikoPapa (2023-04-12 23:06) 

pinkich

papaさん ありがとうございます。この記事のように誰も気に留めないような門柱を素材に、門柱にまつわる歴史を深掘りするところが、本ブログの真骨頂かと思います。ちなみに昔の公文書は、公文書館で調べられているのですか?
by pinkich (2023-04-16 14:57) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
昔の資料は、国立公文書館と国会図書館、都立中央図書館が中心です。戦争関連になりますと、アジア歴史資料センターがよく公文書を保存・公開していますね。また、東京のローカルでより詳細な史料類は、国会図書館よりも有栖川公園の東京都中央図書館のほうが、面白い資料の見つかることが多いようです。たとえば、ことらでもよく引用している1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」は、国会図書館にはありませんが中央図書館には収蔵されていました。
by ChinchikoPapa (2023-04-16 20:51) 

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