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近衛師団の演習適地だった明治の落合地域。 [気になる下落合]

陸軍演習1910(M43).jpg
 かなり以前になるが、落合村下落合391番地に土地を所有し、柵で囲って材木置き場に使用していた笹間博という人が、明治末に陸軍省の演習に猛抗議していた事件Click!を記事にしたことがある。おそらく、戸山ヶ原Click!近衛騎兵連隊Click!とみられる兵士たちが、落合遊園地Click!(のち林泉園Click!)で大休止をとり、軍馬に給水して弁当を食べていた際、馬が敷地の囲い柵を約18mにわたって引き倒してしまったにもかかわらず、兵士たちはそのまま放置して逃げだしたバックレ事件だった。
 陸軍省では、このような抗議をしばしば受けていたため、落合地域を演習地にしていそうな近衛師団(特に騎兵連隊)と第一師団に、かなり強い調子で執拗に確認・照会している。部隊内の規律の乱れを気にしてのこともあるだろうが、陸軍省では落合地域ばかりでなく、演習地として使用している東京市の西北郊外の各村々から、頻繁に「器物破損」や「田畑損壊」などの抗議書がとどいていたからだ。
 陸軍省では、繰り返される抗議にウンザリしていたのだろう、「演習ニ際シ地方人民ニ迷惑ヲ蒙ラシメサル様 注意スヘキ件ニ関シテハ従来屡々御訓示相成居候処」、つまり「何度注意すりゃわかるんだよ!」と、ややキレ気味に照会状をまわしているのを見ても、演習のたびに各村々からなんらかの抗議がとどいていた様子がうかがえる。
 陸軍が、東京市の西北近郊を演習地にしていたのは、明治のかなり早い時期からだった。それは、尾張徳川家Click!下屋敷跡Click!だった戸山ヶ原Click!に、射撃場Click!を含む練兵場が設置されたという要因もあるのだろうが、東京の西北郊外は起伏に富んだ武蔵野の丘陵地がつづき、人馬の演習には地形的にも適地だと判断されたのだろう。
 落合村のみに限っていえば、国立公文書館に保存されている陸軍文書の中で、もっとも早い演習は1882年(明治15)7月14日に行われた近衛師団のものだ。このときは落合村ではなく、いまだ江戸期からつづく下落合村として記載されている。保存された文書は、かなり達筆すぎて解読がむずかしいが、おおよそ次のような内容だった。
  
 明十四日午前第九時〇〇〇騎兵中隊ニ付下 堀之内村 和泉村辺ニ於テ隠密偵察勤務兼火入演習施行 同日は歩兵第二連隊第一大隊 巣鴨村 下落合村 王子村 新井村地方へ 同軍之空包使用〇〇届出〇〇〇〇相成度此段及御通牒候也(〇は不明字)
  
 同日の演習は、現在の杉並区にあたる堀之内や和泉周辺で、敵に見つからないようひそかに敵情を探索する「隠密偵察」=斥候演習が行われ、そのあと草木が繁った演習場で「火入れ」が実施されている。「火入れ」とは野焼きのことで、ある一定範囲の演習場を確保するために、1年に一度行われる陸軍の定例行事だ。現在では、陸上自衛隊の北富士演習場での「火入れ」が知られている。
 このとき、下落合村を含む周辺の村々では、近衛師団歩兵第二連隊による「空包(空砲)」を用いた軍事演習が行われている。田畑で草取りをしている農民たちのかたわらで、原っぱを匍匐前進しながら空砲を撃つ兵士たちを見て、「うるせえな!」と思っていたかもしれない。あるいは、ときどき戸山ヶ原の射撃場Click!から飛んでくる流れ弾Click!に比べれば、「まだ安全でマシだな」とでも感じていただろうか。
近衛師団演習188207.jpg 近衛騎兵連隊正門.jpg
陸軍秋の大演習1899(M32).jpg
演習18870131.jpg
 次に記録されているのは、1887年(明治20)2月3日~4日に行われた近衛師団歩兵第二連隊第一大隊による大規模な軍事演習だ。陸軍の近衛師団文書より、引用してみよう。
  
 近衛歩兵第二連隊修業兵来月三日府下南豊嶋郡代々木村近傍 同第一大隊ハ中隊各個ニテ来ル四日 左記之地方ニ於テ各々空包発光演習施行致候間此段申進候也 逐而修業兵ハ当日雨天ナレハ野砲当日等雨天之節ハ取止メ 第一大隊ハ即日雨天之時ハ是又取止メ候間此段申添候也 (中略) 北豊嶋郡雑司ヶ谷近傍 第一中隊/南豊嶋郡上下落合村近傍 第二中隊/南豊嶋郡〇〇学校近傍 第三中隊/南豊嶋郡青山募地近傍 第四中隊(〇は不明字)
  
 このときは、上落合村と下落合村の両村が、近衛師団第二連隊の第一大隊第二中隊の演習予定地に指定されている。やはり空包(空砲)を用いた戦闘訓練であり、両村の村民はかなりの騒音に悩まされただろう。なお、「修業兵」とは徴兵されたあと4年間の兵役終了を間近にひかえた兵士たちのことで、代々木村の近くでは退役が予定されている兵士たちの、「卒業演習」とでもいうべき訓練が行われている。
 ただし、当時の陸軍演習は、かなり「ゆるい」環境で実施されていたようで、雨が降った場合は日を改めて実施する延期ではなく、しかたがないから即座に中止という、小中学校の「運動会」のような実施計画だった。「戦場なら雨の日だってあるだろ!」というような、のちの昭和期の戦時体制下における緊迫した雰囲気はほとんど感じられず、どこか牧歌的でノンビリした様子が明治期の陸軍文書からは伝わってくる。
 この文書は、1887年(明治20)1月31日に近衛師団参謀長から、同師団総務局次長あてに提出された演習の計画書だが、その後、演習の報告書が見あたらないので、ひょっとすると2月3日~4日はほんとうに雨天で中止だったのかもしれない。
特別大演習1908(M41).jpg
防弾土塁.JPG
演習19110213.jpg
 次に落合村が登場するのは、1911年(明治44)2月15日~18日の4日間にわたって行われた演習だ。この演習を最後に、落合地域とその周辺で行われた、大規模な演習に関する文書は発見できないが、戸山ヶ原Click!にある近衛騎兵連隊Click!による小規模な演習は、随時引きつづき周辺で行われていたのだろう。
 ただし、大正期に入ると東京市の西北近郊における住宅街の形成が急ピッチで進み、同時に演習に対する住民たちのクレームや抗議が比例して急増したため、陸軍はより遠い郊外へと演習地を移動せざるをえなくなる。では、かなり具体的な計画書である、1911年(明治44)2月13日の陸軍文書から引用してみよう。
  
 近衛師団連合演習ニ関スル通牒/陸軍省副官 竹嶋音次郎/別紙想定並ニ左記ノ計画ニ依リ当師団連合演習ヲ施行相成候条此段及通牒候也/左記/一、演習施行日 二月十五日ヨリ同十八日建四日間/二、演習統監 近衛歩兵第一旅団長陸軍少将 林太一郎/三、第一日(二月十五日)ノ集合地及集合時刻/1.南軍ハ午前十時迄ニ下落合(高田西方)西北方約二千米二条実線路ノ三又点(二万分一地図-下落合-下赤塚道ト千川用水ニ沿フタル道路ノ交又点)附近ニ集合/2.北軍ハ右時刻(午前十時)迄ニ田無町東方約一里青梅街道ト千田用水トノ交又点附近ニ集合/四、予定演習地/1.第一日(二月十五日)中新井村(下落合西北方)ト田中村トノ中間ニテ遭過戦/2.第二日(二月十六日)扇町屋附近ニテ北軍ハ防禦南軍ハ之ヲ攻撃ス(以下略)
  
 かなり具体的な遭遇戦の計画書だが、「南軍」が集合した下落合の西北2,000mの「二条実線路ノ三又点」とは、いったいどこのことだろうか。
 「二条実線路」は鉄道のことではなく、2本の実線で記載された1/20,000地形図上の道路のことで、それが三叉路を形成している地点ということになる。下落合から2km北西というと、ちょうど現在の西武池袋線・江古田駅の手前あたりに相当する。
 「下赤塚道」とは、板橋の下赤塚村から南東の練馬方面へと下る道路で、現在の栄町本通りのことだ。また、「千川用水ニ沿フタル道路」は目白文化村Click!周辺の住民たちには買い物でお馴染みの練馬街道Click!(長崎バス通りClick!)のことだ。南軍は、清戸道Click!(目白通り)を椎名町Click!(江戸期に長崎村と下落合村に形成された街道町Click!)あたりまでくると、現在のトキワ荘マンガミュージアムのある南長崎通りを北西へ進み、すでに創業していた籾山牧場Click!を左手に見ながら、小竹富士Click!(現・江古田富士=茅原浅間古墳)が北に見える、千川上水沿いの練馬街道と下赤塚道の三叉路に集合したのだろう。
 この三叉路は、上板橋村と下板橋村、そして中荒井(中新井)村にはさまれた村境を形成する古い街道筋だった。現在は、江古田駅のすぐ南側にある「江古田駅南口」交差点のことで、戦後は道路が五叉路に改造されてクルマの往来が激しい。現住所でいえば、南軍の大部隊は練馬区旭丘1丁目界隈へ集合したことになる。
三叉路集合地点1921.jpg
三叉路集合地点.jpg
三叉路現状.jpg
 さて、大正後期になると、このような陸軍の演習は宅地化が進む落合地域では行われなくなるが、それに代わって問題化したのが、戸山ヶ原の大久保射撃場Click!からの流弾被害だった。同射撃場の周辺では、住宅に流弾が飛びこんでの死亡例や、特に外で遊ぶ子どもの死亡事故が発生しており、周辺の自治体が結束して抗議をつづけていたが、陸軍はなんら改善策を提示しなかった。そのため、怒った周辺の自治体が帝国議会を巻きこみ、ついに「近衛騎兵連隊と射撃場は出ていけ」運動を展開したのは、すでに記事Click!にしたとおりだ。

◆写真上:1910年(明治43)に、三重県千種村で実施された陸軍演習。
◆写真中上上左は、1982年(明治15)7月に近衛騎兵連隊と近衛歩兵第二連隊により下落合村とその周辺域で実施された演習文書。上右は、戸山ヶ原にあった近衛騎兵連隊の正門。は、1899年(明治32)の秋に実施された大演習の様子。は、1887年(明治20)2月に実施された近衛歩兵第二連隊第二中隊による落合地域での演習文書。
◆写真中下は、1908年(明治41)に実施された陸軍特別大演習の記念絵はがき。は、現在も戸山ヶ原に残る防弾土塁(三角山)Click!の一部。は、1911年(明治44)2に実施された近衛師団による南軍と北軍に分かれての大規模な会戦演習文書。
◆写真下は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみる同演習における南軍集合地点までの道程。は、1880年(明治13)作成の1/20,000地形図にみる南軍が集合した三叉路附近の様子。は、三叉路があった「江古田駅南口」交差点の現状。(GoogleEarthより)

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サンフランシスコ人

「軍馬に給水して弁当を食べていた際...」

兵士たちは、無料で弁当を貰えたのでしょうか?


by サンフランシスコ人 (2023-04-13 05:11) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
昼食の弁当は、師団あるいは連隊の「酒保」(食堂兼喫茶室兼酒場)で注文して、当日の午前中に持って出たのでしょうね。演習の場合は、もちろん公費扱いで無料だったと思います。
by ChinchikoPapa (2023-04-13 10:11) 

サンフランシスコ人

「食堂兼喫茶室兼酒場....」

ハンバーガーは出たのでしょうか?
by サンフランシスコ人 (2023-04-14 00:41) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
明治末ですから、さすがにハンバーガーはなかったでしょうね。w おそらく、“おむすび”弁当ではなかったかと思います。馬たちが暴れて柵を壊した下落合での例は、小隊単位の小規模な演習だったのでしょうが、大規模な演習だと師団や連隊の賄い所総動員で、大量の弁当を作っていたのではないかと思います。
by ChinchikoPapa (2023-04-14 10:01) 

アヨアン・イゴカー

>流弾被害だった。同射撃場の周辺では、住宅に流弾が飛びこんでの死亡
訓練中に飛んでくる流れ弾、迷惑と言うより危険すぎます。
我が家がある川崎北部では、数十年前、今の様に開発される前には、ハンターが猟銃を持って遊びにくることがありました。その際に、屋根の上にパラパラ散弾
の玉が降ってきたことがあります。
by アヨアン・イゴカー (2023-04-14 16:34) 

ChinchikoPapa

アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
貫通力が強く、殺傷力が高い小銃の弾丸は危険きわまりないですが、猟銃の散弾で使われる鉛弾も、地面などに落ちると土壌を汚染しますのでイヤですね。知らずに野菜などを育てると、雨などで鉛が溶け出して有害野菜になってしまいます。水源地近くで鳥猟などされると、水源地汚染の原因になりかねないですね。
by ChinchikoPapa (2023-04-14 20:00) 

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