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佐伯祐三『かしの木のある家』と格闘する。 [気になる下落合]

かしの木のある家1926.jpg
 佐伯祐三Click!をはじめ、落合地域の画家が描いた風景画Click!については、その描画ポイントを特定するために多彩な方法を用いてきた。そのベースになったのは、1974年(昭和49)から歩きつづけて、わたしが実際に目にした風景=実景だった。
 1980年代のバブル経済以前、落合地域には山手大空襲Click!から焼け残った、大正期から昭和初期に建てられた住宅建築があちこちに現存していた。それに加え、各地を歩きまわった地形的な風情の視覚的な把握、あるいは土地の起伏による肉体的な感触、すなわち土地勘のようなものも非常に役立ったと感じている。そのほか、当時の写真類や各時代の地図類、明治期から昭和期にかけての膨大な史料類、そして時代ごとの作品に描かれた風景作品も、画家たちがイーゼルを立てた地点の特定にはかなり有効だった。中には、画家が描いた風景から、別の画家が描いた画面の場所までを類推することができた事例もある。
 上記の例は、あくまでも演繹的(下向法的)な手法、すなわち「この風景は、この地形や風情は、どこかで見たことがある、実際に歩いたことがある」という土地勘から出発し、裏づけのために想定場所の写真や古地図、史料類などで深掘りしていくと、「やっぱり、まちがいなくあそこの光景だった」と特定できたケースが多い。また、その場所の当時の風景が明らかになったことで、それに近接する別の画家が描いた風景に思いあたることもあった。たとえば、実景を見たこともなくあまりに変わり果てているので、「わかるはずがない」と考えていた佐伯祐三の『戸山ヶ原風景』Click!も、その後、多種多様な史料や他の絵画作品から、ようやく描画ポイントClick!を推定することができた。
 以上のような方法は、昔に見た実景あるいは風情、地形などによる場所の推定(=仮説)を起点に、多彩な写真・地図・史料類による裏づけする(=証明)という道筋をたどっていることになる。ところが、このような手法がぜんぜん通用しない作品、描かれた風景の場所が思いあたらず、まったく想定できない風景画面というのがある。現在では、宅地開発が進捗しすぎて、そもそもの地形からして大きく改造されているような場所、あるいは本来は宅地だったところに幹線道路が貫通し、敷地全体が消滅してしまっているような場所では、わたしの既視感や土地勘はまったく働かない。
 また、特異な例としては、たとえば西落合1丁目208番地(現・西落合3丁目)にアトリエをかまえていた、大内田茂士Click!『落合の街角』Click!(1986年)のようなケースもある。どこかで見たことのあるような風景だが、現実にはわたしの既視感や土地勘に憶えがなく、地勢的にも思いあたる場所を想定することができないという事例だ。同作は、落合地域のさまざまな街角をあらかじめスケッチし、それを画室でコラージュさせた風景作品だったことが、のちにご子孫の方からの証言で明らかになっている。
 しかし、まちがいなく実景であるにもかかわらず、描画場所を想定できないという作品例もたまにある。佐伯祐三の「下落合風景シリーズ」Click!の1作で、おそらく「制作メモ」Click!から『かしの木のある家』Click!ではないかとみられる画面がそれだ。(冒頭写真) さすがに目標物がほとんどなく、また道路も描かれていないので、いままでどこの風景を描いたものか皆目見当がつかなかった。このようなケースは、めんどうだが帰納的(上向法的)な方法で少しずつ絞って考えざるをえない。つまり、可能性のない風景や場所を、ひとつひとつ除外・排除して場所を徐々に限定していく消去法だ。
 『かしの木のある家』について意識し考えはじめてから、すでに16年の歳月が流れているが、この間、落合地域のさまざまな風景とその変貌が各時代を通じて蓄積・記憶されており、16年前とは比較にならないほど「見えやすい、考えやすい」ようになっている。したがって、保留しつづけた『かしの木のある家』も以前とは異なり、消去法を用いてたどれば描画場所を特定できるのではないか?……と考え、久しぶりに同作が描かれた前後の地図類や写真、史料類と格闘してみる気になった。
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宇田川邸1926地形図.jpg
宇田川邸1926明細図.jpg
 改めて、画面を仔細に観察してみよう。まず、光線は明らかに左手前あるいは左手の上空から射しており、画面の左手が南側または南に近い方角だと想定することができる。地形は、右手から左手にかけてやや傾斜している緩斜面だ。描かれている家々は、明治期から見られる典型的な日本家屋で、東京郊外によく建てられていた古くからの農家(あるいは地主)の屋敷のような意匠をしている。カシの木(ドングリ)は、武蔵野原生林に多く自生しているめずらしくない樹木だが、それを庭先に残しているのは、やはり古くから落合地域で暮らす旧家の屋敷をうかがわせる。下落合では、カシの大木を神木Click!にしていた大倉山(権兵衛山)Click!の、十返邸Click!の事例が思い浮かぶ。
 描かれた電柱(電力線・電燈線Click!)は、その背の高さが半分ほどしか見えていないので、やはり手前がやや低めな土地であるのがわかる。カシの木も、幹の下の部分が隠れているように思える。電柱やカシの木の見え方からすると、これら3棟の家々が実は1階部分が隠れた2階建てで、2階部のみが見えている可能性を否定できない。家々の背後には電柱が並んでおり、また並木らしい木々の連なりも見えるので、おそらく右手から左手へと緩慢に下る道路が通っているとみられる。また、左手の手前にある電柱2本は、描かれた3棟の住宅あるいはその手前にある空き地、すなわちもともとは農地だったとみられる造成された宅地へ、電燈線を引きこむために建てられたものなのだろう。
 手前の空き地には雑草が生い繁り、造成されたばかりの敷地には見えない。画面の右側から、3棟の家々に向けて伸びる黒い影のような描写がある。背の低い生垣のような繁みか、丈のある草むらがつづくような表現は、この敷地の境界(縁石が置かれた端)だろうか。その向こう側には新たに拓かれた宅地道路が通っていそうだが、3棟の家々が建つ敷地を道路が突きぬけているようには見えず、手前で行き止まりのように描かれている。
 以上のような推測を前提に、さまざまな地図や写真、史料類を参照しながら、この風景に当てはまらない場所を次々に消去していくと、最後に残るのがまたしても第二文化村Click!の西外れだ。描かれている3棟の家々は、同一敷地内に建つ落合地域でも旧家(大農家)のひとつ、下落合1674番地の宇田川邸だろう。親子兄弟の別に、独立した家庭を営むために広い敷地へ3棟の住宅を建設しているとみられる。当時の地番でいえば、下落合1663番地から同1674番地(現・中落合4丁目)の一帯を眺めた風景だろう。
 先述したように、緩斜面の下部(下落合1663番地の端)から宇田川邸を見上げるように描いているので、電柱の高さが半分ほどしか見えておらず、したがってもう少し高い斜面上の位置まで移動すれば、宇田川邸の3棟も下部の1階部分や、カシの木も含めて敷地を囲む腰高の屋根つき土塀が見えてくるのではないだろうか。
宇田川邸1936.jpg
かしの木のある家1936.jpg
かしの木のある家現状.jpg
 さて、宇田川邸の背後には緩傾斜の坂道が、右から左へゆるゆると蛇行しながら下っており、佐伯祐三はその道で2点の作品、すなわち富永醫院Click!『看板のある道』Click!とカーブする坂道の『道』Click!をタブローに仕上げている。すなわち、佐伯は『看板のある道』で三間道路に面した宇田川邸の表側、門と腰高の土塀も描いていることになる。画面手前の空き地は、箱根土地Click!がすでに販売済みの敷地だが、1926年(大正15)の時点で住宅が未建設の北島邸建設予定地(奥)、磯林邸建設予定地(手前)、そして生垣のような低木が描かれている小野田邸敷地(手前右下)ということになりそうだ。
 もちろん、描かれた3棟の宇田川邸は第二文化村に接する外側(北側)にあり、箱根土地へ周辺の農地を売った地主のひとりだ。手前の空き地に右から左へ途中まで描かれた、道路が通っているような生垣沿いの影は、現在でも旧・宇田川邸敷地の手前で行き止まりになっている、第二文化村の最西端に通う三間道路の終端だろう。また、『かしの木のある家』の描画ポイントの左手、原っぱを西南西へ70mほど歩いたところに、佐伯の描く『原』Click!の描画ポイントが位置している。ただし、第二文化村と原っぱとの間には、緩傾斜を修正して宅地を水平に保つため、大谷石による150cmほどの擁壁が築かれている。画面でいうと、左手の枠外ということになる。
 「制作メモ」を参照すると、このあたりの風景を描いた佐伯祐三の足取りが見えてくる。まず、1926年(大正15)9月18日に『原』(20号)を描き、翌9月19日にも再び『原』(15号)を重ねて描き、つづいて同日にごく近くの『道』(20号)を仕上げている。この『原』×2点のうち、現存しているカラーで観られる『原』の画面は、9月18日の作品(20号)のほうだろうか。そして、しばらく間をおき9月24日に佐伯は再び第二文化村の外れを訪れ、『かしの木のある家』(15号)を描いている。さらに、佐伯は2ヶ月後、秋も深まった11月以降の雲が多めな晴れた日に、宇田川邸の門前に通う三間道路、すなわち『道』の180度背後の風景、『看板のある道』(8号)を制作している。
 第二文化村の北辺に通う、北東から南西へと緩慢に下りながら西落合へと抜ける三間道路、現在の「旭通り」が佐伯にはことのほかお気に入りだったようで、いまだ発見されていない「下落合風景」にも、同通り沿いを描いた作品がありそうだ。
原1926.jpg
道1926.jpg
看板のある道1926.jpg
 描かれている宇田川家は、残念ながら1932年(昭和7)出版の『落合町誌』(落合町誌刊行会)では紹介されていない。また、1936年(昭和11)の空中写真では、屋敷林が繁りすぎてハッキリとした家々のかたちを視認することができない。1941年(昭和15)の空中写真では、同年より第二文化村の西隣り、佐伯が『原』を描いたまさにその場所で、勝巳商店地所部Click!による昭和期の「目白文化村」(第五文化村?)Click!が開発・販売されるので、宇田川邸は両文化村にはさまれるような敷地になってしまった。さらに、1945年(昭和20)の空襲直前に撮影された空中写真では、まったく異なる住宅が建ち並んでいるようなので、昭和初期のどこかで自邸を建て替えるか、それ以前にいずれかへ転居しているのかもしれない。

◆写真上:1926年(大正15)9月24日に描かれたとみられる、佐伯祐三の『下落合風景』の1作『かしの木のある家』と想定できる作品。同作は個人蔵なのか、あるいは戦災などで失われたものか、カラーの画面をかつて一度も観たことがない。
◆写真中上は、草原に生えるカシ(いわゆるドングリ)の木。は、1926年(大正15)作成の1/10,000修正地形図(1921年作成/1925年修正)にみる下落合1674番地の宇田川邸×3棟敷地。修正図なので、いまだ第二文化村は描かれていない。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる宇田川邸。同邸の南に接した第二文化村敷地に、住宅が未建設(北島邸/磯林邸建設用地)なのがわかる。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる宇田川邸。屋敷林が繁り、建物の屋根を規定できない。は、宇田川邸と周辺における佐伯祐三「下落合風景」の描画ポイント。は、第二文化村の西端に通う三間道路の現状。突きあたりは行き止まりで、宅地を道路と水平にし車庫を設置するために、当初の高い盛り土はすべて撤去されている。現在では住宅が建っているため、佐伯の描画ポイントには立てない。
◆写真下は、1926年(大正15)9月18~19日制作の佐伯祐三『原』。は、同年9月19日制作の同『道』。は、同年の晩秋ごろ制作の同『看板のある道』。
おまけ1
 第二文化村の西端には、北東から南西に下る緩斜面の宅地を水平に修正するため、箱根土地が当初(1923年)築いた大谷石による150cmほどの擁壁が現存している。1940年(昭和15)に勝巳商店の地所部が開発した昭和期の「目白文化村」から、東側の第二文化村に建つ家々(2階部分)を眺めたところ。現在でも、当時の緩斜面の様子が顕著に残っている。
第二文化村西端の擁壁1.jpg
第二文化村西端の擁壁2.JPG
おまけ2
 山田五郎様(「山田教授」)による「オトナの教養講座」の講義で、拙サイトの佐伯祐三や「下落合風景」などについてご紹介いただいだ。励みになって、とてもうれしい。(↓Click!)
山田五郎氏ネット講義.jpg

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pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。佐伯祐三の落合風景の描画ポイントは全て解明されていたわけではなかったのですね。それにしても、16年間もかけて解明していくというのは、執念を感じます。可能性がないポイントを消し込んでいく、演繹法的な絞り込みは、落合地域をよく知るpapaさんしかできない思考法かと思います。
by pinkich (2023-04-16 15:04) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
下記ページの「下落合風景」一覧でいいますと、展覧会場の遠景写真が残るのみでハッキリしない「43」「48」の風景場所がわかりません。どこかに、より詳細な画面があればわかるかもしれませんね。
また、大阪の山發コレクションでモノクロ画像しかのこっていない(おそらく空襲で焼失)、「19」もひっかかっています。『目白風景』というタイトルから、当初は素直に省線・目白駅周辺を想定したのですが、山本發次郎は東京の土地勘がまったくなく、単に近くの省線駅名をなぞっているだけのような気がしますね。例の『目白の風景』のように、下落合のとんでもない場所を「目白」と呼んでいる可能性が残ります。
http://www.jsc-com.net/blog/saeki2/point.htm
その他、『堂(絵馬堂)』もペンディングになっています。いまのところ、『洗濯物のある風景』の背後にあった上高田の桜ヶ池不動堂ではないかという想定と、東京美術学校の学生たちがよく写生していたモチーフで、ちょうど1926年(大正16)ごろに解体されることになって、美校生たちが名残を惜しみながらこぞって写生に出かけている南泉寺の不動堂という想定の、2つの可能性が浮上しています。ただし、双方とも当時の「堂」の写真をいまだ確認できていません。
by ChinchikoPapa (2023-04-16 21:15) 

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