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「不良華族事件」と首相官邸のトンネル工事。 [気になるエトセトラ]

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 少し前に、学習院で結成された「目白会」と日本女子大学校の「五月会」が特高Click!に摘発された「赤化華族事件」Click!について書いたけれど、それとシンクロするようにもうひとつ、ゴシップをまき散らすような華族を摘発した「不良華族事件」というのがあった。赤坂区溜池にあったダンスホール「フロリダ(FLORIDA)」の、舞踏教師(ダンスインストラクター)夫妻の検挙に端を発した華族の醜聞事件だった。
 JAZZが好きな方は、赤坂(溜池)のダンスホール「フロリダ」Click!というネームに、ピンとくるお馴染みの方も多いのではないだろうか。「フロリダ」で演奏された音楽は、単にダンスのBGMとして流れるいわゆるスウィングJAZZだけでなく、本格的なインプロヴィゼーションをともなうビ・バップへとつづく、日本におけるモダンJAZZの先祖的ライブハウスとして有名だ。そこでは、菊池滋弥(p)&フロリダオールスターズをはじめ南里文雄(tp)、山田耕筰Click!(cond)、森山久(tp/森山良子Click!の父親)らが活躍していた。JAZZ批評家として有名な瀬川昌久は、「溜池にあったフロリダは、名門中の名門として、格調の高さ、集まるダンスのパトロン(愛好家)の趣味、出演バンドの演奏内容、すべてにおいて群を抜いていた」と、当時の「フロリダ」について書いている。
 あるいは、田中絹代と岡譲二が主演の小津安二郎Click!『非常線の女』(1933年)の舞台としても、戦前はよく知られていただろうか。同映画のリハーサルや、ダンサーたちのオーディションは同店のフロアで行われており、またちょうど「不良華族事件」が起きた1933年(昭和8)に公開されているので、ことさら話題になった映画でもあった。
 「事件」の端緒は、1933年(昭和8)11月に同店の舞踏教師・小島幸吉が検挙されたことにはじまる。11月15日付けの東京朝日新聞には、「女性群を翻弄して悪魔は踊る」とか「検挙で暴露された情痴地獄」「徹底した色魔」「醜聞なる『愛欲ダンス』」などと、なにやら江戸川乱歩Click!の世界のような活字が嬉々として踊った。この記事を書いた記者のほうが、よほど「情痴大好き色魔」のような気もするが、この「事件」が出入りしていた華族へ飛び火するのに時間はかからなかった。
 その様子を、1991年(平成3)にリブロポートから出版された浅見雅男『公爵家の娘―岩倉靖子とある時代―』から、東京朝日新聞の記事とともに引用してみよう。
  
 「(舞踏教師の検挙で)一群の有閑マダムの醜状が白日下にさらけだされたが、その一人である某伯爵夫人の如きはその著名なる社会的存在を誇り顔にダンスホールにいり浸り、同夫人が多数の婦人達を不良教師等に取りもつた事実も明らかになつた。そこで警視庁不良少年係は同夫人を取調べるべく、十五日夕刻、刑事をその住居にさし向けたが、不在であつたので、十六日午前中に召喚し、情状如何によつては断然身柄を拘束して取調べることになるかもしれぬ形勢である」/さらに十八日付の同紙夕刊には、「踊る伯爵夫人 遂に召喚さる」として、十七日午後に、その女性が警視庁に連れていかれた旨の記事がある。
  
 「踊る伯爵夫人」とは吉井勇Click!の妻・吉井徳子のことで、彼女はダンスホールでの行状はもちろん、日常生活の様子まで率先して刑事に供述したようだ。吉井勇は妻の検挙を知り、「夜ふかく歌も思はず恥多きわが世の秋を思ひけるかも」と詠んだ。
 吉井徳子は、歌人の夫とは性格的に反りがまったく合わなかったようで、吉井勇とはとうに別居しており事実上の離婚状態だった。その供述の中には、作家や画家、出版社の編集者たちとの麻雀や花札などの賭博行為も含まれていたため、作家の里見弴Click!久米正雄Click!夫妻、画家の小穴隆一Click!、文藝春秋の編集者兼作家のちに文藝春秋新社の社長になる佐々木茂索Click!夫妻など、15名が立てつづけに検挙されている。
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 だが、ダンスホールで華族夫人が浮名を流したにしては、あまりに大げさな「事件」化であり報道だと感じるのは、わたしだけではないだろう。それまでも、華族のゴシップはごまんと囁かれていたのであり、華族夫人の“火遊び”どころでなく、殺人に絡むような醜聞さえあったはずだ。ましてや、賭博場を開いていたのならともかく、作家や画家たちの私的な賭け麻雀や花札は、彼らに限らずどこでも行われていた微罪であり、改めて「事件」として大げさに摘発し、大々的に報道されるほどの行為ではない。
 警視庁が、わざわざ大げさに「事件」化した理由としては、1931年(昭和6)の満州事変に端を発した日中戦争の時代背景による、“綱紀粛正”や“規律矯正”を挙げる例が多いようだが、あまりの大さわぎぶりに不可解さや不自然さを感じた人は、当時も多かったにちがいない。下落合のすぐ北側、高田町上屋敷3621番地Click!(現・西池袋2丁目)に住んだ宮崎白蓮Click!も、「事件」に不自然さを嗅ぎとったひとりだった。
 吉井徳子は柳原家の姻戚なので、東京朝日新聞の取材を受けた宮崎白蓮はこう答えている。1933年(昭和8)11月18日付けの同紙を、『公爵家の娘』より孫引きしてみよう。
  
 「今度のダンス・ホール事件は一年以前の古傷だらうと思ひます。ダンス・ホールそのものは、いはば満座の中ですから、いはゆる風紀を乱すやうなことは出来るものではありません。そこで知り合つた方とお茶を一緒に飲みに行くといふやうなこともありませうが、それは私行上の事で大逆事件のやうな犯罪が起れば別ですが、警視庁としては少しやり過ぎではないかと思ひます」
  
 当時は、「私行上」の「古傷」だらけだった宮崎白蓮Click!のコメントなので、それほど説得力があったとは思えないが、彼女が不可解に感じたように「やりすぎ」「騒ぎすぎ」「なんか変だ」と思った人々は確実にいただろう。そう、この「不良華族事件」が摘発され、ダンスホール「フロリダ」に捜査の手が入り、しばらく営業を停止せざるをえなくなったのは、首相官邸で犬養毅Click!が暗殺された1932年(昭和7)5月15日の、いわゆる五一五事件からちょうど1年半後のことだったのだ。
 五一五事件のあと、しばらくしてから首相官邸の庭先では、ひそかに工事がスタートしていたはずだ。その工事とは、もしも首相官邸に武装した勢力が乱入してきても、丘上にある官邸の庭にあった築山の近くから溜池のバッケ(崖地)Click!下へと抜け、山王・赤坂方面へと逃れられる極秘のトンネル掘削工事だった。そして、バッケ下の出口にあたる場所が、ちょうどダンスホール「フロリダ」の真裏にあたる地点だったのだ。
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 麻布の歩兵第一連隊Click!の兵士たちが官邸の庭まで殺到したため、この避難トンネルを利用できなかった岡田啓介Click!の証言を聞いてみよう。もちろん、五一五事件から4年後の1936年(昭和11)2月26日に起きた二二六事件Click!での証言だ。1977年(昭和52)に毎日新聞社から出版された、岡田貞寛・編『岡田啓介回顧録』から少し引用してみよう。
  
 あのころ、すでに首相官邸には庭の裏手から崖下へ抜ける道が出来ていた。五・一五事件で犬養毅首相が殺されたあと、なにかの際に役に立つだろうというので、つくったものらしい。崖っぷちのずっと手前から土をくり抜いて、段々の道になっており、そこを降りて行くと土のかぶさった門がある。土がかぶさった門と思ったのは実は小さいトンネルだったんだが……そこを通ってフロリダとかいうダンスホールの裏に出る。山王方面へ抜ける近道になっていたわけだ。話によると、永田町の官邸には秘密の通路があるとのうわさも世間にはあったそうだが、たぶんこの道のことだろう。/義弟の松尾伝蔵は、とっさの間に、わたしをその抜け道へ連れだそうと考えたらしい。時刻は午前五時ごろだったか。つまり昭和十一年の二月二十六日の朝だ。非常ベルが邸内になりひびいて、その音でわたしは目をさましたんだと思うが、間髪を入れずに、松尾がわたしの寝室にとびこんできた。
  
 なぜ、「不良華族事件」を社会へ大々的に喧伝し、ダンスホール「フロリダ」を警察官が取り囲み一時的に閉鎖する必要があったのかが、岡田啓介の証言により透けて見えてくるようだ。すなわち、「不良華族事件」が起きた1933年(昭和8)の秋、首相官邸の避難トンネル掘削工事は最終フェーズを迎えており、溜池の崖下=「フロリダ」裏へトンネルを貫通させる竣工直前だったのだろう。だが、衆目のある中で崖地に穴を開けるわけにはいかず、いろいろな方策が練られ考えられたはずだ。
 特にバッケ(崖地)の目の前にあるダンスホール「フロリダ」は、デイチケットで昼間から人が集まりやすい目障りな存在であり、工事期間中はなんとしてでも閉鎖に追いこみ、人ばらいをしたい店舗だった。そこで、首相官邸側は内務省に相談し、一時的に「フロリダ」を封鎖できる「事件」を立件できないかとどうか打診したのかもしれない。そこで、警視庁は1年ほど前から「フロリダ」に出入りしている吉井徳子に目をつけた……という経緯ではなかったか。彼女にしてみれば、多かれ少なかれ華族も含めた有閑夫人がやっている“火遊び”なのに、なぜわたしだけが?……と感じていたかもしれない。
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 全長100mほどといわれる首相官邸の避難トンネルは、戦後もそのまま残っており、60年安保の際にはデモ隊に取り囲まれた首相官邸から、官邸内に残された人々を脱出させようとしたが、デモ隊は崖下の溜池側も取り囲んでいたため断念したという証言も残っている。ただし、このトンネルは防空壕とともに戦時中に掘られたとする証言もあるが、その証言のおかしさや不自然さについては、また書く機会があれば、別の物語……。

◆写真上:昭和初期に撮影された、赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」の広いフロア。
◆写真中上:3葉とも、昭和初期に写真家・濱谷浩が撮影した「フロリダ」のスナップ。
◆写真中下は、1932年(昭和7)に「フロリダ」店内で行われた小津安二郎『非常線の女』のダンサーたちによるカメラテスト。中上は、今和次郎Click!考現学Click!資料から「フロリダ」で発行されていたピンクのデイチケット(左)と紺青のナイトチケット(右)。中下は、「不良華族事件」を伝える1933年(昭和8)11月18日の東京朝日新聞。は、柳原家の叔母と姪の関係になる宮崎白蓮(左)と吉井徳子(右)。
◆写真下は、1929年(昭和4)に下元連(大蔵省)の設計で竣工したライト風の旧・首相官邸(現・首相公邸)。中上は、首相官邸の溜池側=「フロリダ」側に落ちこむバッケ(崖地)。中下は、首相官邸に隣接し徳川家の産土神でもある山王権現(日枝権現)社のバッケ坂階段。は、国立公文書館に保存されている1934年(昭和9)の警視庁資料。「不良華族事件」の翌年には、「フロリダ」にダンサー(女性)が89人もいたことがわかる。

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サンフランシスコ人

「田中絹代と岡譲二が主演の小津安二郎Click!『非常線の女』(1933年)の舞台としても、戦前はよく知られていただろうか....」

『非常線の女』(1933年).....

http://cinemadailyus.com/events/ozu-120-complete-retrospective-of-yasujiro-ozus-extant-work-june-9-29-at-film-forum/

OZU 120, Complete Retrospective of Yasujirō Ozu’s Extant Work June 9-29 at Film Forum

By Nobuhiro Hosoki
May 15, 2023

来月、ニューヨークの小津映画祭で上映...
by サンフランシスコ人 (2023-05-16 01:52) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
『非常線の女』は、残念ながら面白くないですね。サイレントのせいもあるのでしょうが、会社からの制作意向が強く反映してか、監督本人が撮りたいテーマと乖離しているような気がします。
by ChinchikoPapa (2023-05-16 12:04) 

サンフランシスコ人

『非常線の女』....6/17 ボストンで上映...

http://harvardfilmarchive.org/calendar/dragnet-girl-2023-06

米国人のサイレントのファンには、高評価の作品みたいです....
by サンフランシスコ人 (2023-05-19 02:51) 

サンフランシスコ人

『非常線の女』....11/4 インディアナ大学ブルーミントン校 (シカゴとシンシナティ間に位置する)で上映...

http://cinema.indiana.edu/upcoming-films/screening/fall-2023-saturday-november-4-700pm

DRAGNET GIRL/HIJÔSEN NO ONNA
Still image from Dragnet Girl/Hijôsen no onna.

Date and time:
Sat, Nov 4, 7 pm; $10


by サンフランシスコ人 (2023-09-29 07:21) 

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