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相馬家は中村彝にカリーを贈っただろうか? [気になる下落合]

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 この地方のお化けClick!幽霊Click!の記事と、料理の話Click!を書きはじめると次々にテーマが浮かんできて、いくら書いてもキリがない。そろそろこのへんで終いにしようと思いつつ、根が意地きたないものだからグズグズ書きつづけることになる。
 わたしが子どものころ、近所の住宅地に「オリエンタルカレー」と大きな車体に横書きされた、バスともトラックともつかないクルマがまわってきたことがある。うしろのイベント台(?)には、ユニフォーム姿のお兄さんやお姉さんが乗っていて、名古屋の即席カレーメーカーの試供品や色とりどりの風船を配っていたような気がする。TVでもCMが流れていて、俳優の南利明が「ハヤシもあるでよ~」といっていたのを憶えている。
 このメーカーの製品は、一時期はCM効果などもあって売れたのかもしれないが、中学生になるころにはあまり見かけなくなっていた。親父は、死ぬまで「ライスカレー」といっていたが、わが家でもカレーライスはよく夕食に出た。母親も、作るのにあまり手間がかからず、煮こむ火加減さえ気をつけていれば、あとは放っといてもできる便利な料理だったろう。ちなみに、どこのカレールーを使っていたのかまでは憶えていない。
 親父は学生時代、諏訪町(現・高田馬場1丁目)の賄いつき下宿Click!で、頻繁に出された夕食が「ライスカレー」だったらしく、わが家のカレーの日はあまりいい顔をしなかった。食糧難で具材がほとんど入らず、下宿ではうどん粉の匂いがプンプンしたままの「ルーだけカレー」Click!が多かったせいだが、具がほとんど入ってなかったのは「アルバイトで遅く帰ったからかもしんねえなぁ」と、のちに思いあたっていたようだ。つまり、下宿人たちの“早いもん勝ち”で、具材はあらかた食べつくされてしまったというわけだ。
 わたしも、“早いもん勝ち”ではないにもかかわらず、肉や野菜がほとんどない「ルーだけカレー」を、大学の学食のランチ(確か100円だったが途中で値上がりして150円)でさんざん食べた。学生会館の地下にあった学食だったが、「おばさんと馴染みになると、具を多めに入れてくれる」などというウワサがあったけれど、ウソかホントか、わたしはおばさんと「馴染み」にはならなかったので、いつまでも「ルーだけカレー」だった。まあ、100円玉1個ほどなのだから、いたしかたないのだが。
 わたしが初めてカレーを食べたのは、いつどこでだったのか憶えてないが、おそらくデパートの食堂Click!あたりではないだろうか。親父は、学生時代にも来たことがあったのだろう、新宿中村屋Click!にも連れていってくれたが、ここの「インドカリー」は子どものわたしには辛すぎた。もちろん、いまの中村屋が出しているインドカリーとは別もので、カリーの色からしてまったくちがっていた。赤みがかった濃い茶色のルーで、子どものわたしは1口食べては水を飲んでいたようだ。
 誰からいただいたものか、うちには新宿中村屋Click!の大きなカリー缶詰めが、台所(だいどこ)の縁の下Click!にいくつかあった時期がある。銀色に光る大きな缶は、ちょっと見、大きなパイナップル缶詰めのようでそそられるのだが、中身があの口がまがるほど辛いカリーだと思うと「食べたい」とは思わなかった。これらのカリー缶詰は、いつの間にか縁の下から消えていたので、きっと誰かにあげるか親たちが食べるかしたのだろう。
 いつだったか、新宿中村屋Click!を戦後に訪れてインドカリーを注文した鈴木良三Click!が、「味がぜんぜんちがう」とガッカリしていた記事Click!をご紹介したけれど、おそらく鈴木良三が口にしたカリーが、わたしが子どものころに食べて、その辛さに閉口したカリーの味ではなかったかと思う。そして、いま新宿中村屋で食べるカリーもまた、子どものころとは「味がぜんぜんちがう」。時代の流行りや味覚のニーズに合わせ、新宿中村屋はそのときどきで味を変えているのだろう。
 ここは、中村彝Click!が恋いこがれた相馬俊子Click!の連れ合い、インド独立運動の活動家ラス・ビハリ・ボースClick!の証言を聞いてみよう。ちなみに、子母澤寛Click!のインタビューに答えるボースは、「カリー」ではなく一貫してカレーといっているようだし、カレーライスではなく「ライスカレー」といっていたことになっている。1977年(昭和52)の『味覚極楽』(新評社版)から引用してみよう。
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 どうもひと口にカレーといってもなかなか面倒なもので、まず第一に大切なのがバタ、これが思うようなものがなくては充分にできない。私もいろいろやってみて、どうもでき合いのバタでは満足できないのでこの頃は舅父(新宿中村屋相馬氏)に、府下千川へ牧場をこしらえて貰って、ここからとる牛乳で自分の思うようなバタをこしらえて、カレーに使っているのです。/物の本当の味は、実にちょっとした所から出てくるのです。
  
 インド人がカレーを作るのを見たことがあるが、確かにバターや生クリーム(ヨーグルト?)などの乳製品を驚くほど大量に使っている。まるで米国の料理番組のように、「溶かしバター」をビールのジョッキ1杯分ぐらい(信じられない)、それほど大きくはない鍋に注ぎこむような具合で、バターのかたまりを丸ごとボンボンと鍋に投げ入れ、なんだか見ているだけでお腹がいっぱいになり、「ごちそうさま」をいいたくなる。
 子母澤寛もまた、ボースが作ったライスカレーをご馳走になり、日本のカレーにはない不思議な魅力があったので、のちに新宿中村屋を訪ねて注文したが、やはり「味がぜんぜんちがう」と感じている。その後、ボース本人にも「ちっともうまくない」とこぼしているところをみると、どうやら中村屋の「カリー」は時代とともに七変化するようだ。
 ちなみに、ボースは日本で自由に行動ができるようになったあと、東京じゅうのカレーを食べ歩いてまわったようだが、ほぼすべて落第で「帝国ホテルでこしらえるのが、少し食べられるくらいのものでしょう」と評している。
 ボースは、動物の骨の重要性を強調している。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 ライスカレーには、仏教(ママ:Hindu教/印度教)の関係で牛肉は使わない。上流の家では、羊、小羊(ママ:仔羊)、鶏など。魚肉も使うが、下流の人はたいてい野菜だけのをこしらえる。日本ではこの野菜カレーをじょうずにつくるとぴったりと嗜好に合ってうまいものができると思います。肉にしても魚にしても、骨ごと使わなくては本当のうま味は出ません。あの骨から出る味というものは、どんな調味料を使っても真似のできないいいものです。(カッコ内引用者註)
  
 カースト制度が厳格なインドでは、どうやら「下流の人」が食べる野菜カレーが、日本ではことさらじょうずに仕上がるようだ。それだけ、新鮮で多彩な東京の近郊野菜が手に入りやすい環境ということだろうか。あるいは、羊や鶏のいい肉が日本では入手しにくいため、本来のライスカレーをうまく作れないということだろうか。
 いずれにせよ、肉や魚の骨、つまり髄液のコラーゲンなどのタンパク質が、カレーのうま味を引きだすといっているようだ。そのほか、同書ではボース・カレーのレシピを細かく紹介しているが、キリがないのでこのへんでやめる。
 ところで、中村彝は新宿中村屋のカリーを食べただろうか? カリーは一時的に体温を上げるが、発汗作用で結果的には体温を下げる効果がある。熱冷ましには適しているようだが、結核患者の食欲では無理かもしれない。相馬愛蔵は、カルピスをはじめ多彩なモノを下落合にとどけていたようだが、その中に店で開発したばかりのカリーは、はたして含まれていただろうか。それとも牛乳+ご飯Click!が好きそうな彝は、辛いものが苦手だったろうか。実際に味わっていたのなら、彝はどこかに書き残していそうなものだが……。
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 最近、あちこちにカレー店を見かけるが、その多くがインド人ではなくネパール人が調理している店だ。じゃあ、作っているのは「ネパールカレー」(こんな料理があればの話だが)なのかと思いきや、確かにインドカレー店なのだ。この地域にも、下落合駅近くの上落合で10年ほど前から営業している店があり、スタッフは全員ネパール人のようだ。
 日本ではカレーの人気が高いから、それを知った目ざといネパール人が来日して、あちこちに「インドカレー」の店をオープンしたのだろう。じゃあ、本場インドの味じゃないじゃん……と思っていたら、先日、そうでもないことを初めて知った。
 ネパール人たちは、よくインドへ出稼ぎにいくそうで、その勤務先というのが街のレストランなどの飲食店が多いのだとか。そこで調理される、「インドカレー」(本国ではこんな名称はないだろう)のレシピをマスターして持ち帰り、カレー好きが多い日本で店をもつのが夢なのだとか。つまり、プロの「インドカレー」調理技術を身につけたネパール人たちが、日本へやってきて店を開くケースが多いのだそうだ。
 では、ネパール人が作るカレーと、インド人が作るカレーとでは、どこかどのように風味がちがうのだろうか。それほどちょくちょく外でカレーを食べないが、1940年(昭和15)に来日したジャヤ・ムールティが創業した麹町はAJANTA(アジャンタ)と、下落合のネパール人が営むカレー店とを比較してみた。もちろん、前者はいまでもインド人のコックが調理している。もっとも、昔から東京のインド料理店で有名なAJANTAにしてみれば、ポッと出のネパール人が営む下世話なインドカレー店と比較されるのは、いくらなんでもちょっと……と思われるかもしれないが、ここは日本なのでご容赦を。
 AJANTAのカレーは、ひとことでいえば上品で洗練されている。甘味のあとで辛いことは辛いが、辛さの先に丸みがあってトゲトゲしさは感じられない。日本人の好みに合うよう研究に研究を重ねたものか、日本人の嗜好や舌を知りつくしているせいなのか、あるいはこれが本国でいう「上流」が食しているという贅沢なカレーの味なのだろうか。一方、下落合のネパール人が作るカレーは刺激的だ。インドは酷暑だろうから、これぐらいの刺激があって汗をかきかき体温を下げないと、とても生活できない……というような味だ。
 インドに、「中流」という階層があるのかどうかは知らないが、酷暑の中で働く市民たちが街中で日常的に食べるカレーは、後者のような気がする。まさに、本国でも出稼ぎのネパール人が作ったカレーをインド人が食べているケースもありそうだ。こちらは「中流」以下の、庶民的でざっかけない一般的な味といったところ。特に、日本人の好みや舌を研究したわけでもなく、インドの街中の味をそのまま別の街で放りだしたような風味なのだろう。
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 どちらが好みかと問われると返答に困るが、気分しだいではどちらも食べたくなるようだ。仕事で疲れたときは、「上流」カレーよりも辛みのとがった、疲れが吹っ飛んでしまうような刺激的なカレーが気分的にスッキリするだろう。東京に住むインド人とネパール人のみなさん、こんなところでいかがだろうか? ところで、新宿中村屋の七変化「インドカリー」は、また味が変わってるかもしれないので、機会があったら立ち寄ってみたい。

◆写真上:最近はサフラン飯でなく、ナンの添えられたカレーを食べる機会が多い。
◆写真中上は、住宅街にまわってきたオリエンタルカレーの宣伝車。は、新宿中村屋の相馬愛蔵()と娘の相馬俊子()。は、新宿中村屋のレストラン。
◆写真中下は、昔と味がまったくちがう新宿中村屋の「インドカリー」。は、新宿中村屋にカレーを伝授したラス・ビハリ・ボース()と、麹町にAJANTAを創業したジャヤ・ムールティ()。は、下落合駅の近くにある上落合のSpice6の店内。
◆写真下は、ざっかけない庶民的なSpice6のインドカレー。は、麹町に古くからあるインド料理の専門店AJANTAの店前。は、AJANTAで提供されるインドカレー。

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コメント 2

pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。今回は、インドカレーの通好みの記事で、今すぐインドカレーが食べたくなるような衝動にかられるようなものでした。中村彝は、恋敵が考案した中村屋のカレーは食べなかったのかもしれませんね。ご紹介されていた下落合のインドカレー店にもいつか行ってみたいです。
by pinkich (2023-05-29 21:04) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
印象に残っているインド料理(インド人料理長)の店としては、上記の古い麹町「アジャンタ」のほかに、三鷹駅北口の「シタール」というのがあります。こちらは新しい店のようですが、味が記憶に残りました。下落合近辺の店は、ネパール人によるカレー店が多いようですね。
by ChinchikoPapa (2023-05-30 10:09) 

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