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目白文化村絵はがきと国立絵はがきとの相違。 [気になる下落合]

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 目白文化村Click!SP(販促)絵はがきClick!と、国立(くにたち)Click!で開発した学園都市のそれとを比較すると、コピー面でのちがいが顕著で面白い。目白文化村のコピーは、当初、非常に概念的かつ抽象的な表現が多い。箱根土地Click!が、東京郊外で手がける初めての大規模な住宅地建設だったせいか、SP戦略も手さぐりだった様子が透けて見える。
 たとえば、第一文化村の分譲後、第二文化村を開発している最中に印刷されたとみられる絵はがきでは、冒頭で田園都市や郊外住宅地の必要性を説いてまわった、米国のP.W.ウィルソンの言葉からはじまっている。当時、ウィルソンの知名度がどれほど高かったのかは不明だが、英国「レッチワース」のE.ハワードなどとともに、住宅雑誌や主婦向けの雑誌Click!などでは、よく取りあげられていたのかもしれない。
  
 ウイルソンは「住居の改善は人生を至幸至福のもたらしむる」と断言致して居ります、目白文化村は健康と趣味生活を基調として計画致しましたが今や瀟洒な郊外都市として立派な東京の地名となつて仕舞ひました。/高台地のこの村は武蔵野の恵まれた風致――欅や楱の自然林、富士の眺め――をそのまゝに道路や下水を完備し水道や電熱設備倶楽部テニスコート相撲柔道場等の設備が整つて居ります。文化村は住宅地として市内以上の設備が整つて居ります。/倦み疲れた心身に常に新鮮な生気を与へ子女の健やかなる発育を遂げる為めに目白文化村の生活は真に有意義のものであります、今回第二期の新拡張を合して文化村は三万五千坪に達しました。(後略)
  
 絵はがきの表面には、「省線目白駅より府道を約十丁、駅より文化村迄乗合自動車の便があります、市内電車予定線停留所より約二丁」と書かれている。
 コピーの表現からすると、東京郊外に開発された分譲地のザックリとした紹介だけで、確かに交通の便や設備なども書かれてはいるが、文章全体からは「健康と趣味生活を基調」「武蔵野の恵まれた風致」「富士の眺め」「心身に常に新鮮な生気」などなど、抽象的で主観的なイメージが強く感じられる。もっとも、最寄りの駅が山手線・目白駅だったので、いろいろアピールをしなくても売れると見こんでいたものだろうか。
 だが、目白文化村とほぼ同時期の1922年(大正11)、東京土地住宅Click!によって開発がスタートした同じ下落合の近衛町Click!は、目白駅Click!から徒歩5分前後ですぐにたどり着けるが、目白文化村は駅からやや遠い。ちなみに、絵はがきには駅から「十丁」(約1.09km)と書かれているが、これは不動産屋ならではの距離感でw、府道(目白通り)を歩いてもいちばん近い第三文化村で1.4km、第一文化村の北東端にあたる箱根土地本社までは1.7km、第二文化村は2km前後とそれ以上の距離があった。確かに「乗合自動車の便」はあったが、東京市電が目白通りを走ることはついぞなかった。
 箱根土地の宣伝広報部は、絵はがきによるSPの“引きあい”が悪いとみたのか、急いで第2弾の絵はがきを刷って配布している。そのコピーは、かなり具体的な表現だ。
  
 (前略) 位置 山手線目白駅ヨリ府道ヲ西ヘ約十丁目白駅ヨリ文化村迄乗合自動車アリ市内電車予定線停留所ヨリ南ヘ約二丁/環境 山ノ手ノ高台、西ニ富士ヲ眺メ展望開豁 学校ハ新築落合小学校約二丁、目白中学学習院成蹊学園等十四五丁内外、周囲ニ百五十戸ノ府営住宅アリ日用品ノ購入至便/ 設備 水道、瓦斯、電熱装置下水、道路(幹線三間枝線二間)倶楽部、テニスコート、相撲柔道ノ道場/価格 壱坪五拾円ヨリ六拾五円マデ、五拾坪ヨリ数百坪ニ分譲ス
  
 この第2弾の絵はがきによって見込顧客に選ばれた人々は、ようやく目白文化村での生活環境を具体的にイメージできたのではないかと思われる。
目白文化村絵はがき(表).jpg
目白文化村絵はがき(裏).jpg
神谷邸絵はがき(裏).jpg
箱根土地所在地(下落合).jpg 箱根土地所在地(国立).jpg
 箱根土地は、このあと郊外住宅地の開発を東大泉(大泉学園)Click!、国分寺、小平、谷保(国立)へと拡げていくが、特に力を入れたのが東京商科大学の移転が決定した国立の分譲地開発だった。目白文化村で蓄積したSP手法の経験やノウハウを活かし、“絵はがき戦術”Click!が国立でも文化村以上の規模や頻度で展開されている。
 目白文化村の“売り”は、東京近郊のモダンな文化住宅街だったが、国立の場合は「学園都市」という強力なアピールポイントが上乗せされている。また、文化村は江戸期からつづく既存の道路(農道や街道)を縫うようにして開発されたのに対し、国立は一面のアカマツ林を開拓して、当初より整然とした道路計画が立てられたのも重要なセールスポイントだったろう。絵はがきも、「学園都市」を前面に提唱し、設備や交通の便についても非常に具体的だ。東京市街地から遠く離れた郊外のせいか、交通環境については特に気を配ったようで、絵はがきには常に新宿駅からの時刻表が掲載されている。
 国立の分譲地販売がスタートした当時、中央線の電車は国分寺までしか開通しておらず、さらに西の国立駅へと向かうには国分寺からバスに乗るか、そもそも新宿駅から中央本線の汽車に乗って国立駅で降りるしかなかった。大正末の当時、国立駅に停車する中央本線の汽車は1日に13本しかなく、1本乗り遅れると1時間以上は待たなければならなかった。そこで、中央線の電車を国分寺で降り、駅前からバスで国立まで向かうことになるが、箱根土地はバスが非常に混雑するので新宿駅から汽車に乗ることを推奨している。国分寺駅と国立駅間が電化されるのは、1929年(昭和4)3月以降のことだ。
 国立の分譲販売で、早期に制作されたとみられる絵はがきのコピーを引用してみよう。
  
 国立の玄関口とも云ふべき駅も出来 道路、下水も完成し東京商科大学(建築予算五百万円)も大講堂の建築に着手しました。東京高等音楽学院や小学校は既に開校して居ます。/音楽堂、水禽舎、動物舎、児童遊戯場等も出来ました。/さてこれから図の様な各商店や住宅が続々出来るばかりです。かくて本社は開拓者たるの使命を著々果しつゝあります。土地は国家と雖も一個の力のみで発展は出来ませぬ。従つて一人で利益を壟断すべきではありません。本社はこの絶対有望の国立の土地を廉価に費出し皆さんの自然的協力を俟つて共存共栄の主旨を実現致し度いと思ひます。/国立は東京駅迄約一時間 定期券を買へば一日何回乗つても僅かに拾六銭です。(以下、新宿駅からの汽車の時刻表/略)
  
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国立絵はがき1(表).jpg
時刻表.jpg
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 目白文化村のSP絵はがきとのちがいは明らかで、文化村が箱根土地の一方的な思い入れや主観で表現されていたコピーに比べ、国立のコピーは「開拓者たる使命」のもと「皆さんの自然的協力」をもって、国立の街を発展させていこうという、いわばディベロッパーと住民との協業による事業をうかがわせるような文面になっている。
 くだいていえば、今日の“街おこし”のように「みんなで一緒に盛りあげていこうぜ」といった、開発者と住民とのインタラクティブな関係を匂わせている。これは、目白文化村ではついぞ見られなかった箱根土地の姿勢だ。箱根土地は、1925年(大正14)12月に本社を下落合から国立へ移転しているので、同絵はがきは1926年(大正15)ごろに制作されたものと思われる。つづいて、少しあとに刷られたとみられる絵はがきのコピーを引用してみよう。
  
 商科大学の専門部と商業教員養成所が愈々来る四月より国立の新校舎で開校と本日発表されました。/国立は教育の聖都郊外安住の地です、そこには一人で数万坪を擁して豪奢を誇る大邸宅もない代りに、見るも悲惨な貧民窟もありません。道路、下水、水道等の施設はもとより音楽堂、鳥獣の飼育場、児童遊戯場等があつて百万坪の国立全体が美しい松林の大公園をなして政府から禁猟区域として指定された位です。やがて数万の在住者が健康と幸福に恵まれた生活を楽しみ彼のモーアのユートピヤが地上に実現するのも近きにあります。/東京商科大学は目下盛に工事中で東京高等音楽学院、国立小学校は已に開校しました。/此の町は日に月に芸術的な立派なものに創造されてゆきます。/国立は東京駅まで約一時間 定期券を買へば一日何回乗つても僅かに拾六銭です。(以下、新宿駅からの汽車の時刻表/略)
  
 ちなみに、絵はがきごとに毎回書かれる「定期券を買へば」のクロージングだが、1日に13便しかない汽車に何回も乗ることなどありえないだろう。
 箱根土地が自身で開発しているにもかかわらず、「此の町は日に月に芸術的な立派なものに創造されてゆきます」と、あたかも他人ごとのように第三者的な視点で書いているのは、先述した国立開発は住民の「皆さんの自然的協力」があってこそという、協業的なスタイルを打ちだしたいがためなのだろう。ディベロッパーとしての箱根土地は、あたかもインフラ整備のみで、舞台の“黒子”に徹しているかような印象を与える表現だ。
 国立絵はがきのコピーに登場している“売り”のサービス施設、「音楽堂、水禽舎、動物舎、児童遊戯場等」のほとんどは、開発が終了してしばらくすると解体され追加の宅地や異なる施設にされているのは、目白文化村の「文化村倶楽部」Click!「柔道場・相撲場(第一文化村テニスコート)」Click!、各種モデルハウスなどとまったく同じだ。これらは、あくまでも顧客にアピールし購買欲を喚起するための娯楽施設(販促材)などであって、用が済めばサッサと解体し宅地化するか、別の施設や用途に転用されている。
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国立分譲地案内(表).jpg
国立分譲地案内(裏).jpg
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 国立の絵はがきは、配布されるごとにコピーがより具体的になり、一連の開発ルポを読むような感覚にとらわれる。「ここまでできました」「こんなものまで建ちました」というコピーは、そのまま見込顧客の「皆さんの自然的協力」(つまり分譲地購入)を求めるニュアンスとなっている。ターゲットは、明らかに下落合の目白文化村と同じく、勤め人で中流の上層をねらっていると思われるが、単に「分譲販売中」という文化村のそっけない呼びかけ調のSPに比べると、「共存共栄の主旨を実現」するため一緒に協力しあいませんか?……と呼びかけ、顧客の想いへ一歩踏みこんだアプローチとなっている点が大きなちがいだろう。

◆写真上:国立に建てられた商店で、洋風の外観だが店先には桶が見える。
◆写真中上は、もっとも多く刷られた目白文化村のSP絵はがき。中上は、その裏面コピー。中下は、神谷邸Click!を写したSP絵はがきの裏面コピー。は、下落合における箱根土地本社の所在地(左)と国立移転後の同本社所在地(右)。
◆写真中下は、国立の分譲地に竣工した文化住宅。中上は、早期に配布された国立分譲SP絵はがき。中下は、一連の国立SP絵はがきに印刷された汽車の時刻表。は、開校直前の東京商科大学商学専門部を写したSP絵はがき。
◆写真下は、東京商科大学の大講堂完成予想図を印刷したSP絵はがき。中上は、「国立分譲地案内」のチラシ。中下は、同チラシの裏面。は、1928年(昭和3)の「東京商科大学予科敷地ノ交換ニ関スル件」の同大学が作成したマル秘資料。同資料によれば、箱根土地が東京商科大学のある国立から国分寺を経由し、同大学予科のある小平までの鉄道敷設計画を提案していたのがわかる。もちろん、そのような鉄道は当時もいまも存在せず、開発を促進するためのその場限りで終わったプレゼンテーションだろう。
おまけ
 国立の販促用絵はがきは豊富で、大量に制作されている。上は1926年(大正15)印刷の人着絵はがきで、下は同じころ制作の国立駅舎から見た水禽舎と箱根土地本社(右)。
箱根土地絵葉書1926.jpg
箱根土地絵葉書国立駅前.jpg

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サンフランシスコ人

「1日に13本しかなく、1本乗り遅れると1時間以上は待たなければならなかった....」

http://s3.amazonaws.com/schedules.septa.org/current/WIL.pdf

ウィルミントン市からフィラデルフィア市までの通勤・通学電車に比べると本数が多い...


by サンフランシスコ人 (2023-06-09 00:52) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
いまの時刻表(平日)でいいますと、中央線の複々線化で、長野までいく中央本線(中長距離電車)は1日に40本、高尾か八王子までの中央線快速が1日に280本、中央線の普通電車は1日に246本です。休日ですと、中央本線がもっと増えますね。
by ChinchikoPapa (2023-06-09 12:31) 

kiyokiyo

ChinchikoPapaさん
おはようございます。
今年も梅雨に入りましたね。
毎回、興味深い記事をありがとうございます。
実は、当分の間ブログの記事アップをお休みしようと思います。
仕事が忙しくなってしまいました^^
復帰いたしましたら、またよろしくお願いしますm(__)m
by kiyokiyo (2023-06-11 06:04) 

ChinchikoPapa

kiyokiyoさん、わざわざコメントをありがとうございます。
なぜか週末になると、うっとうしい日々がつづき憂鬱な日々ですね。「きょうは何の日かな?」と楽しみにしながら拝読していましたので、たいへん残念です。お仕事が一段落しましたら、またぜひ執筆を再開ください。楽しみにしています。

by ChinchikoPapa (2023-06-11 09:57) 

ぼんぼちぼちぼち

貴ブログで国立の話しが出てくるとは、びっくりでやす。
そう、国立は、箱根土地が開発したんでやすよね。
こうして計画的に作られた街だったのと、文教地区になったのとで、長年住んだ者としては、あまり住み良くなく、面白味に欠ける街でやした。
あくまで、個人的な主観でやすが。
by ぼんぼちぼちぼち (2023-06-11 14:03) 

ChinchikoPapa

ぼんぼちぼちぼちさん、コメントをありがとうございます。
国立は、あくまでも外側から見ているだけで“住み心地”は知らないのですが、江戸期(以前)や明治期にできた道がそのままで、初めて訪れた方は絶対に迷いそうな(道を憶えるのがたいへんな)下落合や上落合に比べ、整然とした街並みは逆に住みやすそうに感じていました。やっぱり根本的なところで、人(の感性)と街との相性というようなものがあるのかもしれませんね。
by ChinchikoPapa (2023-06-11 23:51) 

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