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『高田村誌』(1919年)の編者たちは怪談好き。 [気になるエトセトラ]

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 1919年(大正8)に出版された『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)には、妖怪譚や幽霊話がいくつか掲載されている。高田村の行政に関連した情報は、わずか45ページに凝縮し、あとは名所・旧跡や記念物、伝承・説話、そして村内の多彩な事業について記述しているところをみると、編者たちには文化や歴史好きが多かったとみられる。
 代表的な幽霊話は、物語の前提としてなにがあったのかは不明だが、諸国をわたり歩くようになった、うら若くて可憐な巡礼姉妹のエピソードだ。日本女子大学校の学生寮Click!が建っている丘(金山稲荷Click!のあった丘)の東側に通う、いまもつづくダラダラ坂が怪談の舞台だ。同村誌に収録された伝承のひとつ、「巡礼妹の墓」より少し長いが引用してみよう。
  
 時代は既に変りて、今こそは日本女子教育の淵叢、学術知識の権威である私立日本女子大学の輪奐たる大建築を並べて、殷賑小石川の街衢となつてゐるが、昔は昔、笹薮続く閑寂の里であつた、空低うして雲暗き五月雨頃の夕まぐれ、見るも可憐な姉妹の巡礼、今の女子大学寄宿舎わきのだらだら坂を巡礼唄の声もほろほろに哀を罩めて通りかけたか(ママ:が)、ふとしたことで二人は死んでしまつた、姉には墓をた(ママ)てたが、どうしたものか妹には立てなかつた、哀れは更に深く暗い幕を垂れた、それからは、だらだら坂を通る人々に、がたがたと身の毛もよだつ音をたてたり、哀願の声を振りたてたりして啜泣いた、里人はこの哀れ深き妹巡礼のためにも墓を立てた、それからは、泣き声も消えたれば、哀れの姿も消え失たと。
  
 巡礼の姉妹が、なぜ「ふとしたことで」死んだのかは語られていないが、巡礼がめずらしくない伝承の様子からすると江地時代から伝わる怪談のようだ。
 このような口承伝承の場合、姉妹が死んだとされる原因、たとえば栄養失調で行き倒れたとか、たまたま地域で流行っていた疫病や、追いはぎの襲撃、バッケ(崖地)Click!からの滑落……等々、なんらかの死因が伝わるのがこの手の話の常だが、それが飛ばされ欠落しているのが、そしてふたり同時に死亡しているのが不可解だ。
 巡礼姉妹は、先ゆきを悲観して近くの溜池にでも身を投げ自殺でもしたか、あるいは護身用の短刀で自害でもしたのだろうか。あるいは、死因を伝承してはマズイことでも小石川村内、あるいは雑司ヶ谷村(のち高田村へ併合)で起きたのだろうか。
 現在でも、このダラダラ坂は片側(西側)が金山Click!のバッケ(崖地)がつづき、坂の上から見ると家々が建つのは坂の左手(東側)だけで、夜間などは仄暗い闇の空間がつづいている。この坂道のどこかに、おそらく江戸期からつづく巡礼姉妹の墓があったとみられるが、もはや一面の住宅街に埋もれて当時の面影はどこにも存在しない。
 つづいて、雑司ヶ谷鬼子母神Click!にあったことになっている、お化けツバキの伝承だ。この怪談は、それほど古くはないようで、『高田村誌』が編纂された当時も、リアルタイムで当該のツバキは存在していたようだ。同村誌より、「伝説化椿の話」から引用しよう。ただし、文中では「鬼子母神境内」とされているが、正確には「法明寺境内」の誤りだ。
  
 鬼子母神境内仁王門を潜つて安国様題目堂に突当る、題目堂のわき、楠木正成公息女の墓に、一株の椿ががある、灌木性としての椿としては可なりの歳経りたるものである、里人之を化椿といふ、今は昔夜更けて茲を通る時は其形様々に変りて通行人に呼び声をかけしと言ふ、時には枯木寒厳の老和尚とも変り、妙齢窈窕たる美人にも化して見えしとか。
  
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 既述のように、「楠木正成息女の墓」があるのは、法明寺Click!の境内(墓地)であり雑司ヶ谷鬼子母神Click!の境内ではないのだが、鬼子母神も法明寺の伽藍の一部なので、より読者へわかりやすく伝えるために、有名で“通り”がいい名称を付加したものだろう。夜の法明寺墓地へ、ちょっと散歩がてら出かけたくなる怪談ではないか。
 「幽霊の正体見たり……」の類の典型話だが、この怪談を年寄りから聞いて“肝だめし”に出かけた周辺の若者たちも多かったのではないか。わたしも、夜に法明寺墓地の脇を通る機会があれば、「枯木寒厳の老和尚」なら即座に無視して通過するが、「妙齢窈窕たる美人」ならちょっと立ち寄ってもみたくなる。ただし、ここに書かれている法妙寺境内の風景は戦災で焼失しているので、かなり趣きが異なっているのだろう。名前を借りたとみられる雑司ヶ谷鬼子母神のほうは、戦災をまぬがれて昔日の姿を残している。
 さて、もちろん場ちがいな関東に楠木正成の事蹟が存在するわけがなく、明治以降に誰かが皇国史観Click!にもとづき適当な「姫塚」(女性墓)に、南朝の「忠臣」である「楠木正成」伝説をくっつけて創作したものだろうと考えていた。前世紀の末、豊島区郷土資料館が調査したところによると、この墓は江戸期の1838年(天保9)に「中沢」という人物が建立したものであることが判明している。建立の時期が幕末に近いため、「中沢」という人物が国学に傾倒していた可能性があり、雑司ヶ谷に伝わる既存の伝説や説話に「楠木正成」を接合したのではなかろうか。
 次の怪談は、動物がらみの祟り譚だ。目白界隈は、昔からタヌキClick!がらみの怪談が多く、拙サイトでは目白台の大岡屋敷での怪談もご紹介している。今回は、清戸道(せいどどう)Click!に面していた田安家(おそらく下屋敷or抱え屋敷?)での怪談だ。目白に田安屋敷があったのは、いったいいつごろのことだろうか。少なくとも江戸後期ではないと思われるので、ずいぶん古くから伝わる怪談なのかもしれない。あるいは、この怪談も屋敷名をまちがえた伝承だろうか。同村誌より、「田安邸狸征伐の伝説」から引用してみよう。
  
 徳川御三家、田安様のお邸は現今の交番から高田銀行の向ふに渡つて広々と取られてあつた、其屋敷中に狐狸が多数に棲んで居つた、すると同家では年々三度の練兵があるので鉄砲の声ききては狐狸の驚き荒ぶ事一方ならず、この事殿様の御目に止り、誰か討取るものなきかと下令あり、誰か誰かと評定の末、大砲方の西原某といふ男に一番槍にて右足をつかれ、狐狸はどんどんと生捕られた、此事より西原某は殿より御加俸あり大方の面目を施した。/其後西原の妻は病に罹つたか恁うしたのか狸の真似をしながら狂死の如くになつて辞世した、それかあらぬか生れし女児も半身不随の不具者と成つたので西原氏は今更に応報が恐ろしく遂に行衛不明となつた。
  
 文中に登場する「交番」は、高田大通りClick!(目白通り)をはさみ鬼子母神の表参道入口前にあった交番Click!だとみられ、「高田銀行」は大通りをはさんで東側の斜向かいにあった新倉徳三郎Click!が頭取をつとめていた高田農商銀行Click!のことだ。
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 「化け猫」Click!ならぬ「化け狸」の復讐譚だが、当事者が「行衛不明」になってあとからの検証のしようがない、現代にありがちな怪談の類に似ている。知りあいの、そのまた知りあいの友だちの弟が経験したらしい怪談で、「その弟が現在では行方不明なんだって」……などという落ちで、最初から“ウラ取り”がまったくできず検証を拒否するような構成になっている、ありがちな江戸期の都市伝説だろうか。
 冒頭でご紹介した「巡礼妹の墓」や次の「伝説化椿の話」は、なにか印象的な物語が紡がれ伝承されてきたような、その基盤となるなんらかの故事や事実・実話が、確かに存在していたようなリアリズムの手ざわりを感じる。けれどもタヌキの祟り譚は、なにかよくないことや都合の悪いことが起きるとすべて狐狸のせいにして、無理やり納得(課題や混乱を収拾)していた時代の、野放図な説話の焼きなおしにすぎないように感じる。
 確かに、江戸前期あたりに目白・雑司ヶ谷地域に広い屋敷があれば、タヌキは喜んで縁の下などを恰好の棲みかとしていただろうし(下落合にはいまでも棲んでいるが)、屋敷の残飯をねらって厨房へ忍びこみ、保存してあった食料などを掻っさらっていったかも知れず、その被害をなくすために「殿様」は家臣に退治するよう命じたかもしれない。だが、「西原某」の不幸とタヌキとは、まったく関係のない出来事だろう。
 「大岡様のお屋敷狸の悪戯」でも書いたが、なにか釈明の困難な出来事や、人々が動揺し混乱するような出来事、あえて誰かが重い責任を問われかねないような事件がもちあがり、それが家名や藩名を傷つけるような事態に立ちいたった場合、すべてを“丸く収める”ために狐狸のせいにしたり、「池袋の女」Click!が原因だとしているような感触をおぼえる。それを怪談に仕立てさえすれば、とりあえず誰かが強い責めや恥辱をうける心配もなくウヤムヤとなり、世間への体面や釈明もなんとかなる……というような時代だったのだろう。
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 同村誌には「南蔵院」も紹介されているが、有名な『怪談乳房榎』Click!は収録されていない。編者は落語や講談、芝居の演目としてフィクションだと判断したらしい。だが、1929年(昭和4)に三才社から発行された江副廣忠Click!『高田の今昔』Click!では、同寺に類似のエピソードが伝承されてきている事実を突きとめている。この怪談も、まったくの根も葉もないフィクションではなく、痴情のもつれによる殺人事件という史実を知った怪談作者(圓朝)が、それをベースに枝葉をつけ足して怪談に仕立てなおしているとみられる。

◆写真上:雑司ヶ谷鬼子母神の北、威光稲荷Click!の近くにある円形にカーブする路地。
◆写真中上は、1919年(大正8)ごろに撮影された日本女子大学校の「櫻楓館」。は、金山稲荷のあった丘。は、その丘の東側に通うダラダラ坂。
◆写真中下:法明寺の境内にある山門()と本堂(画面右手/)、そして墓地()。
◆写真下は、「田安屋敷」があったとされる目白台から南の眺望。中左は、1919年(大正8)に出版された『高田村誌』(高田村誌編纂所)。中右は、同村誌に掲載された戦災で焼ける前の南蔵院境内。南蔵院本堂は、1847年(弘化4)に大江戸を襲った台風で倒壊しているとみられ、その際に『怪談乳房榎』の由来となった狩野朱信の「雄龍、牝龍」が失われている。は、清戸道の読みに「せいどどう」のルビをふっている同村誌の記述。

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