下落合を描いた画家たち・曾宮一念。(7) [気になる下落合]
1920年(大正9)ごろに制作された、曾宮一念Click!の『下落合風景』が大川美術館に収蔵されている。(冒頭写真) この画面を観たのはかなり前だが、これまで描画位置がまったくわからなかった。だが、昔日の下落合と周辺の風情が各時代ごとに薄っすらと想定できるようになったいま、少しこだわって同画面を観察してみよう。
初めてこの画面を観たとき、これは下落合を描いた風景ではないのではないか?……と考えたほどだ。どこかでタイトルの取りちがえが起きたか、あるいは後世に誤って付加された画題ではないかと想定したからだ。それには、曾宮一念Click!が画道具を携帯し20号ほどの描きかけキャンバスを手にした、似たような場所にたたずむ写真が残されていたせいでもある。下落合の画室を離れ、どこかへ旅行した際にでも撮影されたらしいその写真には、『下落合風景』と近似した風景がとらえられている。
けれども、長期間ペンディングにしていた曾宮の『下落合風景』を、改めて仔細に見なおしてみると、1920年(大正9)ごろで唯一、想定できる場所があることに気がついた。では、描かれた画面のモチーフをひとつひとつ観察してみよう。
一見、どこかの宅地造成地に拓かれた二間道路、あるいは切り通しのように見えている凹地で、路面には雨が降って泥寧になるのを防ぐためか、石畳とまではいかないが敷石が乱雑に敷きつめられているのが見える。左右に見える小崖のようなむき出しの土手は、地下から上がってくる湿気を防止するため、高めに土盛りされた宅地造成地だろうか。右手の小崖の上には、境界杭(標定杭)Click!のような白い棒杭が並んで2本描かれている。凹地は直線状ではなく、左手にややカーブを描きながら前方へ消えている。
強めの陽射しは、左手やや後方から射しこんでおり、風景を見つめる画家の左側から背後にかけてが南側だろう。右手の遠景には、森林あるいは丘陵と思われるグリーンベルトが、おそらく陽射しの向きから東西方向に連なっている。その緑地帯の南端、ないしは南斜面(山麓)らしい一帯には、集落とみられる多めな家並みが描かれている。かなりの軒数が見てとれるので、付近を耕作する茅葺き農家の集落だろうか。
以上のような観察を重ねてみるが、1920年(大正9)の現在、下落合の新興住宅地にしては、なにかしっくりこないで大きな違和感をおぼえる。どこかで大きな勘ちがい見立てちがいをしており、曾宮一念Click!が「おい、べらぼうな見当ちがいだぜ!」といっているような声が聞こえてきそうだ。当時は、いまだ近衛町Click!も目白文化村Click!も、あるいはアビラ村(芸術村)Click!も存在しない時代で、下落合には華族の屋敷や別荘Click!、画家のアトリエなどが森に隠れるようにポツンポツンと建てられているような状況だった。目白通り沿いの一部を除き、モダンな住宅が連なる街並みなど影もかたちも存在しない時代だ。そんな田園風景が拡がる下落合なので、一度はあきらめかけた。
では、まったく別の角度や視点から、曾宮一念Click!の『下落合風景』を眺めてみよう。まず、手前から奥に向かってつづく二間道路のような凹地だが、道路にしてはまったく手入れがゆきとどいていない。人が歩けるような道筋はつけられているが、雑草が生い繁るにまかせるような状態であり、もしこれが新興住宅地であれば、現地見学の顧客に与える印象がよくないのは自明のことだろう。それに、道路が直線状に拓かれているのではなく、左手へ妙にカーブしているのも新興住宅地らしくない風情に感じる。
また、宅地造成地にしては左右の小崖に、縁石も築垣も見られない。当時なら、大谷石による住宅敷地の縁石や石垣が築かれてもおかしくない時代だ。右手の小崖に設置された棒杭は、境界杭(標定杭)にしては2本近接して並んでいるのが不自然に感じる。なぜ、境界杭の間を空けて2本建てる必要があるのだろうか。左右の小崖の上は、樹木が少なく地面が拡がっているように見え、造成を終えた新興住宅地のようにも見えるが、農耕地が拡がる地面のようにも思える。右手に見えている集落は、一帯の田畑を耕す農家なのではないか……。
このように考えてくると、画面に描かれたモチーフがまったく別のものに見えてくるのだ。二間道路のように見える、凹地の底に敷かれた石は宅地の簡易舗装などではなく、水ができるだけ地下に浸透しないように敷かれた用水路の底石ではないか。右手の崖に設置されている2本の白い棒杭は、田圃に張る水を調節する小型の水門柱ではないだろうか。したがって、小崖の上には、一面に水田が拡がっているのではないか。白い棒杭が水門柱とすれば、わずかな水漏れがあるせいか、その下に描かれた草むらの色がやや鮮やかに変色しているのもうなずける。また、稲穂の背丈が伸びたとき、水門のある位置が容易に確認できるよう、アカマツの樹を目印に残しているのではないか。
画架がイーゼルを立てているのは、宅地造成地の二間道路などではなく、下落合でも大きな用水路の底地であり、この時期には田畑に水がいきわたって、上流の水門が閉鎖され人が歩けるようになった状態の地点ではないだろうか。
以上のように、画面の見方をまったく別の異なる解釈に変えると、1920年(大正9)現在の下落合で心あたりのある描画位置が、たった1ヶ所だが浮上してくる。すなわち、①かなりの軒数がまとまった集落が確認できる、②一帯に拡がる広めな水田地帯、③かなり大きめで河川に近いような幹線状の用水路、④上流に水門が設置され通水に融通がきくような用水路の大規模な土木工事……。これらの条件に合致するのは、当時の番地でいうなら下落合(字)南耕地928~1017番地あたりの風景となるだろう。
すなわち、右手に見える森林の連なりは下落合の目白崖線であり、その下に見えている茅葺き屋根が多そうな集落は、いまだ一般住宅ではなく農家がほとんどの下落合(字)本村にある家並みということになる。もちろん、当時は西武線Click!など存在していない。では、なぜこの用水路に水が通っていないのか、なぜ⑤に書いたように上流へ水門を設置する必要があったのか、それは下流にある旧・神田上水Click!(1966年より神田川Click!)の田島橋付近で稼働していた、水車小屋と密接に関係しているのだろう。
この大きな水路は、明治末から大正期にかけて拓かれたもので、明治期の古い地図には採取されていない。水車小屋の上流である、妙正寺川と旧・神田上水が落ち合う地点のやや下流にあった一枚岩(ひとまたぎ)Click!より、東へ170mほどの下落合955番地あたりから、水車小屋の下流である850番地あたりへと、ほぼ東西に抜ける大型の用水路だった。つまり、この用水路は神田川の分水流の役割りをはたしていたのだ。
すなわち、この用水路の通水時には水車小屋の水勢が弱まってしまうため、田圃に水がいきわたった時点では水門を閉じて、旧・神田上水にある水車の水勢を確保しなければならなかったのだ。画面右手の小崖上は、目白崖線から噴出する自然の湧水で田圃の水はなんとかまかなえたのだろうが、画面左手の旧・神田上水へとつづくエリアの水田(南耕地の南部)には、この用水路の水がないと不足がちだったとみられる。また、水車小屋が専門の製粉事業者による経営でない限り、付近を耕す下落合の農民たちと水車小屋の利害は一致Click!していただろう。さらに、大雨が降った際に旧・神田上水の氾濫を未然に防止し、周辺に拡がる田圃を洪水から守るための分水路の役割りもはたしていたとみられる。
また、大正も後期に入り下落合東部の旧・神田上水沿いが工業用地として整理が進むと、この用水路が水色(水路)ではなく茶色(道路)に描かれた地図(落合町市街図/1925年)も登場している。それだけ田圃が減り、通水期間が短くなったのかもしれないが、昭和期に入り蛇行を繰り返す旧・神田上水の整流化工事計画Click!が具体化すると、この用水路付近が直線化される川筋に想定されたため、再び通水するのが常態化していったようだ。なぜなら、田島橋付近にあった水車小屋が、昭和初期にはこの用水路沿いに移転しているのを、1929年(昭和4)作成の「落合町全図」で確認できるからだ。
1923年(大正12)の関東大震災Click!を契機として、東京市街地で暮らしていた住民たちは、より安全な地盤とみられる東京郊外へと大挙して転居しはじめた。同様に、市街地で被害を受けた川沿いの工場も、いまだ水質が汚染されていない、さらに上流の敷地へと移転しはじめている。下落合では耕地整理が急速に進み、あちこちの丘上や斜面にはモダンな住宅街が建ち並び、川沿いには当時の落合町による環境保全の行政指針Click!によって、排煙による空気汚濁をともなわない大小の工場が誘致されつつあった。そのような状況の中で、この用水路の役割りは徐々に終わりを告げていったはずだ。そして、新たな旧・神田上水の計画流路に組みこまれ、川幅が拡げられて川底も深く掘削されるとともに、曾宮一念Click!が写生した『下落合風景』の風情は跡形もなく消え失せてしまった。
1920年(大正9)の晩春、少し前にドロボーに入られた下落合544番地Click!の借家から、画道具を抱えて外出した曾宮一念Click!は、おそらく彼を下落合へ呼んでくれた中村彝Click!のアトリエに立ち寄っているだろう。そこから七曲坂Click!の道筋へでると、そのまま南へ向けて道なりに歩いていった。下落合氷川社Click!の境内西側、アカマツの樹々が並ぶ松影道Click!を抜け、一面に広がる田圃の畦道を160mほど歩いていくと、いまだイネの背丈が低い水面に陽光がキラキラと映えるなか、現在の落合橋あたりに架かる小さな土橋が見えてきた。土橋から下を見ると、用水路には水がなく雑草が生い繁って乾燥している。
曾宮一念Click!は、土橋のたもとから用水路に下りると、少し上流に向けて歩いていった。用水路の先(上流)は左手にカーブをしていて見通せないが、右側の土手に田圃の水を抜く小さな水門があり、わずかに水漏れして草が湿っている手前に立つと、目白崖線の南斜面には北風を避けるように建てられた集落の家並みが見えている。
曾宮一念は、その集落が鎌倉時代からつづく下落合の本村Click!だというのを、おそらくいまだ知らなかったのかもしれないが、足をとめて汗をぬぐうとタバコに火を点けた。そして、おもむろに野外用のイーゼルを組み立てると、タバコをくわえたままキャンバスを固定しにかかった……。そんな情景が浮かんできそうな、大正中期の『下落合風景』なのだ。
◆写真上:1920年(大正9)ごろ制作された曾宮一念『下落合風景』。
◆写真中上:上・中上・中下は、画面のポイントとなる部分の拡大。下は、旅先で同じような凹地形の場所を写生をする曾宮一念(AI着色)。
◆写真中下:上・中上は、現代の水田でも見かける小型水門だが鉄製かコンクリート製が多い。中下は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図にみる描画ポイント。下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる描画ポイント周辺。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる描画ポイント周辺と旧・神田上水の新流路。中上は、描画ポイント付近から北西の方角を眺めた風景の現状。中下は、描画ポイント近くに架かる落合橋。下は、戦後に撮影された写生中の曾宮一念。
★おまけ
曾宮一念が同時期に描いた『風景』(1920年)も、相変わらず以前から気になっている。画面の左手が西にちがいなく、どこかで一度目にしている風景のように感じるのだが……。
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